第019話 見えないんです
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 八月十四日 十八時五十二分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 湾岸 四丁目。
> 第一声 ──「見えないんです」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「見えないんです」
尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。書く前に訊く順番が決まっている。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今何処におられるか教えてください」
「湾岸の四丁目です。埠頭の駐車場だと思います」
「お名前と、車の中か外かを教えてください」
「宇野です。車の中です。運転席にいます」
尾花は書いた。湾岸四丁目、埠頭駐車場、通報者は車内。三語で足りる。足りない日は、たいてい書く手が止まる。この日はまだ止まっていない。
「宇野さん。エンジンを止めて、非常点滅灯を点けてください」
「点けました」
「点けたまま、車から降りないでください。降りると追突されます」
「降りません」
用紙の右の欄に、点滅灯と書いた。書いてから、通報者の呼吸の間隔を数えた。数えるのは癖になる。
「見えないというのは、何が見えないか教えてください」
「前が白いんです。窓の外が全部白くて、車の先が見えません」
「白いのは、煙か霧か分かりますか」
「分かりません。匂いはしません」
匂いがしないなら煙ではない。尾花は欄を一つ飛ばした。あとで埋める欄になる。飛ばした欄の数を、この人は毎日勘定している。
「宇野さん。窓を少し開けて、外の音を聞いて教えてください」
「開けます」
通話の向こうで、窓の下りる音がした。それが止まった。止まってから、何も入ってこなかった。
「宇野さん」
「はい」
「何が聞こえるか教えてください」
「……何も、聞こえないです」
尾花は用紙の下の欄に書いた。背後の音、無し。この欄に無しと書いたのは三年で二度目になる。
埠頭には常に音がある。防波堤の鐘、荷役の合図、乗用車の走る音。夏の夕方なら、それに人の声が乗る。その全部が、この通話には入っていない。
「宇野さん。通話をこのまま繋いだままにしてください。切らないでください」
「切りません」
尾花は左手で当直へ回した。回してから、右手の受話器を持ち替えた。持ち替えても、耳から離さない。
*
十八時五十二分の三階は、窓を全部開けてあった。
昼の熱が壁に残っていて、風を入れないと下がらない。開けた窓から、海の側が見えている。その海の側が、白かった。夕方の光が当たっているのに、当たった先が明るくならない。
「今日、湾岸は霧だそうです」
佐波悠が階段を上がってきた。工具箱を提げたままになる。汗が顎から落ちて、床に丸い跡を作った。
整備場から上がってきた理由は、ウイングの件になる。前の出場で、五号機は羽の根に熱を持った。回すためではなく、送るために四十秒回した。想定に入っていない使い方になる。
「宮ヶ瀬さん。ウイング、どうですか」
「直っていません。羽の根は換えました。ただ、換えた部品の当たりが出ていません」
宮ヶ瀬佳代は逆から言う癖がある。出来ていることを先に言わない。
「出せますか」
「出せます。応急です。全開は掛けられません。あと二日ください」
二日という言い方を、この人は滅多にしない。滅多にしないことを言う日は、たいてい何かが起きる。今日がその日かどうかは、まだ誰も知らない。
二日という言い方の後ろで、灰谷蒼汰が屋上から降りてきた。干していた索を抱えている。
「湿気で四本、伸びました。二本は使えません」
結び目を一つ作って、一度だけ引いた。引いてから解いた。毎回やる。誰も何とも言わない。七尾ひかりは資器材を並べ替えていた。夏の並びから、秋の並びへ替える途中になる。
「班長、湯はもういいですか」
「もういい。今日は水にする。夏の湯は昼までだ」
寺尾剛は二文で言った。言ってから、薬缶を火から下ろした。
火群迅は非常階段の一番下にいた。座ってはいない。立ったまま、靴の紐を結び直している。結び直す回数が多い。走る前に必ず一度、走ったあとに必ず一度。
逢坂澪は受信席の後ろに立っていた。九月の当直表を作っていた手が、途中で止まっている。
止まったのは、尾花の背中を見たからになる。尾花の背中は、通話が長い時だけ前に出る。
澪は当直表を伏せた。伏せてから、自分の席へ戻った。戻る途中で、須永に一言だけ渡した。
「中継三号、湾岸方向。霧の厚み、風速、水温。減衰の幅を先に知りたい」
「出ます。霧が濃いと、五分の一ほど落ちます」
須永は塔の保守を持っている。現場には出ない。塔に登る。
「落ちた状態での通話の品質、そこだけ知りたい」
「今日は繋がります。今日は」
その一言に、澪は返事をしなかった。返事をせずに、左手を右耳へ当てた。
*
分析に入ると、澪は喋らない。
左手で右耳を塞ぐ。塞いだまま、盤面を三枚並べる。潮位、風向、水温。八月の海霧は珍しい。この湾で夏に出るのは、年に一度あるかないかになる。
条件は揃っていた。日中の水温が下がり切らないところへ、南から湿った風が入っている。出てもおかしくない。おかしいのは濃さではない。広がり方になる。霧は普通、風下へ流れる。この霧は、埠頭の第三岸壁を中心にして、円くなっていた。円くなるには、風を無視する必要がある。
「アンサー」
澪が呼んだ。声は低い。分析中に喋るのは、答えが出る少し前になる。
> ── はい。
「湾岸四丁目、第三岸壁。十八時四十分から三分ぶんの音の記録が要る」
> ── 出します。……記録に音がありません。
「無いというのは、装置が拾えなかった意味なのか、初めから鳴っていない意味なのか」
> ── わかりません。装置に異常はありません。音が無い、としか申し上げられません。
アンサーは返事の前に一度、上を向く。頭の受話器の形が、天井を向いてから戻る。
この機械は分からないと言える。便利ではない。便利ではないので、誰も頼り切らない。
澪は盤面の三枚目を消した。消してから、潮位の一枚だけを残した。残した一枚に、十八時四十分の干潮が出ている。干潮の前後は、岸壁の下の空洞が出る。空洞は音を吸う。だが吸うのは低い音だけになる。人の声は吸わない。
澪は左手を下ろした。
「座標、出た」
五人が動いた。下ろした瞬間に動く。三年で身に付いた形になる。この人の手が下りるまで、誰も一歩も出ない。
「湾岸四丁目、第三岸壁、荷役上屋の三番と四番の間、車止めの列が切れているところ、その手前の駐車場」
迅は最後まで聞いていない。「切れているところ」で走り出している。澪は最後まで言い終えた。言い終えてから、受信席の尾花へ短く回した。
「通報者は駐車場の東側、白い乗用車、非常点滅灯。動かないように伝えて」
久遠寺修司が受信席の後ろで立ち上がった。
「回線は」
「五本、空いています」
「第七支部 ── 出場!」
*
ポールは二本ある。三階から一階の出場口まで、真っ直ぐに落ちる。迅が一番に握った。握って落ちるまでに一秒掛からない。掌が焼ける。焼けるのを毎回やる。
一階で装備を背負い、階段で地下三層へ下りる。スロープは長い。長い理由は、外へ出るまでに全部を確かめられるようにするためになる。夏は途中の壁が湿る。湿った壁の先が、この日はもう白かった。
地下三層の扉が上がった。
「三層、開放!」
宮ヶ瀬佳代が盤の前に立っていた。この日は霧の予報を朝から見ている。見ていたことを、この人は言わない。
「一号から五号、出場!」
サイレンファイヤーの水槽が満載で、車体の後ろが沈んでいる。サイレンレスキューの器具箱は七つある。七つ目に蒼汰の索の予備が入っている。規定外になる。
スロープの途中で、蒼汰が索を二本、外して床へ置いた。使えない二本になる。
「四本のうち二本、置いていきます」
置いた索は、あとで戸倉が拾う。拾って干し直す。誰もその話をしない。話をしないのに、翌朝には必ず干してある。
外へ出ると、街の空はまだ明るかった。明るいのは西だけになる。東へ向かうにつれて、正面が白くなっていく。
湾岸三丁目の交差点で、白い壁に入った。入った、と分かるのは、音が変わるからになる。エンジンの音が近くなる。跳ね返ってくる先が近い。
迅は速度を落とさなかった。落とさずに、窓を開けた。
開けた窓から入ってきたのは、湿った空気だけだった。匂いは無い。焦げも油も薬品も無い。無いということは、これが煙ではないということになる。
第三岸壁の駐車場には、車が二十二台あった。湾岸の納涼市が、この日の夕方まで出ていた。片付けの途中で霧に巻かれている。人は車の中と、上屋の軒下に分かれていた。数は分からない。三メートル先が見えない。
迅は車を降りて、白い壁の中へ入った。
「消防です。声を出してください」
声が出た。出て、三歩ぶん進んで、そこで消えた。
消えたのが分かるのは、返ってこないからになる。壁があれば返る。何も無ければ遠くまで行く。どちらでもない。迅は同じ場所でもう一度言った。同じ場所で二度言うのは、この人にしては珍しい。
「消防です」
やはり三歩で消えた。
ひかりが後ろから来た。来て、迅の腕を軽く押さえた。
「先に人数を出してもらえますか。声だと届かないので」
澪が上屋の柱に背を付けて、ソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「四十二名。上屋の下に二十九、車の中に十三。上屋の側が先」
撃った。壁越しに返ってきた線が、盤面に点で並ぶ。点は白い霧の中で、それだけが正確になる。
「二十九のうち、四人が座り込んでいます。動けない人がいます」
寺尾が上屋の柱へ回った。回って、柱の根元を掌で叩いた。叩いた音が返らないので、二度、掌の位置を変えて確かめた。
「まあ待て。俺が支える。この上屋、片方の柱が浮いている」
二文で言った。言ってから、ハンマーを一度だけ床へ立てた。立てた場所に、あとで柱が入る。
蒼汰が上屋の梁へ索を投げた。投げて、掛かった。掛かってから、一度だけ引いた。
「上、任せろ。梁の三本目まで六メートル」
その声が、迅のところまで届かなかった。
六メートル離れている。六メートルで、もう届かない。
迅はブレスの盤面を見た。回線は五本空いている。空いていても、届かないものは届かない。回線が足りているのに届かないのは、三年で初めてになる。
白い壁の中で、何かが立ち上がった。音がしないので、立ち上がったことが分からない。分かったのは、霧の濃さが一箇所だけ変わったからになる。濃くなった場所が、上から下まで一本の柱になっていた。輪郭は無い。境目も無い。
高さは上屋の屋根を越えている。越えているのに、屋根に触れていない。
迅は左手首の蓋を跳ね上げた。跳ね上げる音が、自分の耳にも届かない。五人が同じ動作をした。届かない場所で、同じ動作が揃った。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。五つの送話口が、同じ高さで止まった。
組み上がった瞬間に、音が戻った。戻ったのは五人の間だけになる。装甲の送話口が、互いを繋いでいる。
五人が同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
白い中で、口上だけが五人の耳に届いた。外へは一歩も出ていない。
迅がブレスを柱へ向けた。
「トリアージ!」
> 判定 ── 緑。要救助者、自力で脱出可能。
盤面の色が変わった。黒でも黄でもない。
「緑」
「初めて見ました。何をすればいいんですか」
蒼汰の声に、澪が答えた。
「逃がす。壊さない。中の人は自分で出られる状態。こちらがやるのは道を一本作ることだけになる」
迅は柱を見ていた。見たまま、一歩前に出た。出た足の先が、白い中へ半分入って見えなくなる。
「壊したらどうなる」
「霧が岸壁全体に散る。散ると範囲が四倍、上屋も駐車場も外。四十二名が全員、聞こえない側に入る」
迅は斧を右手に持ち替えた。持ち替えただけで、振らなかった。振らない時のこの人の腕は、いつもより低い位置で止まる。
「分かった」
主語を言わない。理由も付けない。この人の返事はいつも短い。
柱が動いた。動いたことは、上屋の軒先の幟が倒れたことで分かった。倒れた幟の棒が、車の屋根を叩いた。叩いた音が、聞こえない。
寺尾がハンマーを打った。上屋の三番柱の根元へ、鉄の柱を一本入れる。
打った音は寺尾の耳にも届かない。届かないまま、手応えだけで二本目を入れた。掌に返る震えの数で、入った深さを測っている。
「入った。浮きは止まった」
二文で言って、そのまま三本目へ回った。
蒼汰が梁の上を走った。走って、索を掛け直した。掛けたら必ず回収する。回収の一動作を省かない。省かないので、この人だけ人より一つ動作が多い。
「梁の四本目、外れかけてます。三十センチ落ちてます」
ひかりが座り込んだ四人のところへ入った。ナイフは使っていない。この日はまだ一度も抜いていない。抜かない日の方が、この人には多い。
「息、返すよ」
七つ数えた。数える長さを変えない。三年、一度も変えていない。四人のうち二人が立った。残り二人は肩を貸して出した。
柱が上屋の屋根へ寄ってきた。寄ってきた分だけ、屋根の下の音が減っていく。減るのが分かるのは、二十九人の靴音が消えていくからになる。
迅は柱の中へ入った。
止める者はいなかった。止める声が届かないからになる。中は白い。白いだけで、熱くも冷たくもない。触っている感覚が無い。手袋の甲に水滴が乗って、乗ったまま落ちない。
迅は斧を持ち替えた。刃ではなく、背を握った。握って、岸壁の繋船柱を叩いた。鉄と鉄が当たった。
音が出た。
その音は、霧を通った。通った先で、二十九人が一斉に顔を上げた。
迅はもう一度叩いた。三度目も叩いた。同じ間隔で叩き続けた。人の声は通らない。鉄を叩く音は通る。
寺尾が最初に気付いて、ハンマーの柄で上屋の鉄骨を叩き返した。蒼汰が梁の上から、金具を二つ打ち合わせた。ひかりが担架の枠を叩いた。澪がソナーの筒を岸壁へ当てて、低い音を送り込んだ。四箇所から音が出た。四箇所とも、人が立っている場所になる。
「音のする方へ歩いてください」
ひかりが言った。言った声は届かない。届かないので、叩き続けた。
届いたのは、音の方だった。
最初に動いたのは、駐車場の東側にいた白い車になる。運転席の窓が開いて、腕が出た。その腕が、警笛を鳴らした。
一度目は短い。二度目は長い。三度目でまた短くなった。尾花との通話は、まだ切れていない。宇野は受話器を耳から離していない。離さないまま、片手で鳴らしている。
二台目が鳴る。三台目が鳴る。二十二台のうち、十九台まで増えた。残り三台は無人になる。
上屋の下の二十九人が、その音の方へ歩き出した。歩き出した先で、迅の叩く鉄の音と重なった。
白い中に、音の道が二本出来た。
久遠寺は受信席の後ろで、盤面の点が動くのを見ていた。
「何を鳴らしている」
尾花が答えた。答えながら、受話器を耳から離していない。
「宇野さんです。ほかの方も真似しておられます。誰も教えていません」
答えてから、尾花は数え直した。四十二名のうち、上屋を出たのが二十九。
澪の点は、そのとおりに動いていた。動いた先が全部、音の鳴る側へ寄っている。
*
柱が岸壁の先端へ退がった。退がってから、海の上で伸びた。伸びた先が、上屋の三倍を越えた。越えた先の輪郭は、やはり白い中に溶けている。
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。
「ウイングは応急です。全開は掛けられません」
迅は答えない。答えずに走った。
五機が駐車場の外側へ回った。サイレンクレーンのアウトリガーが岸壁の縁で止まる。サイレンメディックの後扉が開いたままになる。閉めていない。閉める時間を惜しんだ。
サイレンウイングは低い。低いまま、羽を四分の三しか開いていない。
「五機、連結!」
五機が音を立てて組み上がった。胴と頭が緋。右腕が黄。左腕が緑。右脚が桃。背と左脚が青。青だけが、いつもより低い位置から入った。
「特災合体 ── サイレンオー!」
サイレンオーが立った。
立った先は、霧の中になる。だから全景を見た者はいない。
駐車場から見上げた人には、脚が二本見えた。膝から上は白かった。
上屋の軒下から見上げた人には、左手だけが見えた。
その左手は、開いていない。握ったままになる。
宮ヶ瀬は三年、この左手を直していない。理由を言ったことも無い。
サイレンオーは、柱へ向かって歩かなかった。立った場所で、サイレンを鳴らした。鳴らした音が、霧の中を横に走った。
走った先で、まだ上屋の下にいた三人が顔を上げる。三人とも、そのまま歩き出した。
柱が退がった。押されて退がったのではない。音が満ちた場所に、いられなくなる。海の上へ、円い霧ごと出ていった。
出ていく間、サイレンオーは一歩も追わない。右腕は上がらなかった。放水砲は畳んだままになる。
「追わないんですか」
蒼汰の声が回線に入った。
迅は前を見ていた。見たまま、鳴らし続けた。
「今は違う」
湾の外まで出ると、霧は横へ薄くなった。薄くなった先の空が、まだ西だけ赤い。
駐車場の四十二名が、全員、上屋の外に立っていた。
立った人たちは、海の方を見ていなかった。
音の鳴っている方を見ていた。
*
二十時十一分に、霧が抜けた。
抜けたあとの岸壁には、鉄の柱が三本残っていた。寺尾が入れた三本になる。
港湾課はこれを抜かない。抜くと上屋が傾く。傾くので、そのまま残る。
戸倉が、置いていった索二本を拾って車へ積んだ。積んでから、伸びた分を手で測った。
「四本のうち二本と言っていましたが、三本目も伸びています。干し直します」
佐波がウイングの羽の根を見ていた。四分の三までしか開いていない羽を、手で押して戻す。
「宮ヶ瀬さん。当たりは出ましたか」
「出ていません。今日の飛び方では出ません。低く飛ぶと、荷重が根に来ないので」
宮ヶ瀬は工具を置いた。置いてから、一言だけ足した。
「霧の中で見える標識灯を、まだ作れていません」
毎回、作れなかったものを一つ言う。三年、欠かしたことが無い。
澪は受信席の裏で、尾花の用紙を借りていた。
背後の音の欄に、無し、と書かれている。その下に、警笛、と後から書き足してある。
書き足したのは尾花になる。澪はその欄を見てから、須永のところへ寄った。
「中継三号、五分の一落ちて、それでも一度も切れていない。三年で初めて」
「落ちましたよ。落ちても繋がる範囲でした」
「中継三号の保守、去年より二回多い。効いているのはそこ」
須永は工具箱の蓋を閉めた。
「本人に言ってください」
「言いません」
澪はそれだけ言って、席へ戻った。
迅は駐車場に残っていた。
残って、繋船柱を見ていた。叩いた場所の塗装が、二箇所剥げている。
剥げた場所に手を当てて、まだ熱いのを確かめた。斧の背で叩くと、鉄が熱を持つ。持った熱が引くまでに、だいたい十分ほど掛かる。
自分の右の掌が切れているのに、この人は気付いていない。気付かないまま、砂を払った。
宇野が車から降りてきた。降りて、迅の前で立ち止まった。
「あの、ありがとうございました」
迅は頷いた。
「鳴らしたのは、あなたですか」
「はい。何も考えないで」
宇野は右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向けた。
誰も教えていない。
夕方の埠頭で、四十二人のうちの一人が、その形を作った。
迅は同じ形を返さなかった。返す代わりに、車の窓を指した。
「点滅灯、消してから帰ってください」
二階の受信席で、電話が鳴った。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十九時十四分。所要 ── 五十七分。
> 保留 ── 一件。最長 ── 四十一秒。
> 未着 累計 ── 零。
> 損壊 ── 湾岸四丁目 第三岸壁 荷役上屋 幟柱 四本。
> 救助 ── 四十二名。搬送 ── 二名。熱中症の疑い。
> 対象 ── 湾外へ逸失。追跡、不能。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




