第001話 もしもし
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 四月九日 十四時七分。
> 入電 ── 一般加入電話。発信地 ── 旧市街 三丁目。
> 第一声 ──「もしもし」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
味噌汁の湯気が、天井の低いところで止まっている。三階の食堂は換気が悪い。四月に入って窓を開けるようになったが、風はまだ入ってこない。屋上の訓練塔から縄の擦れる音が落ちてきて、それも途中で止んだ。
卓は六人分ある。七つ目の椅子だけが壁際に寄せてあった。壊れているわけではない。数が合わないだけになる。
寺尾剛が鍋の前に立っていた。椀に注ぐ順番は決まっている。七尾ひかり、灰谷蒼汰、火群迅。それから自分の椀に注ぐ。逢坂澪の分には蓋をして、卓の端へ寄せた。指令室から降りてこないからだった。四十五で、この支部で一番年上になる。
「冷めますよ」
ひかりが言った。もう食べ終わっている。この人はいつも最初に終わる。二十九で、救急救命士から来た。
「冷めた方が飲みやすい」
「毎回それを言います」
寺尾は答えなかった。自分の椀に注ぐころには、湯気はもう出ていない。
蒼汰は卓の端でロープを結んでいた。結ぶ。一度引く。結び目を親指で押す。それから解いて、また結んだ。三度目になる。山岳救助から来て、まだ二十四だった。
「まだか」
寺尾が言った。
「あと一回」
蒼汰はもう一度結び直した。四度目の結び目も、同じ強さで引かれた。
ひかりは食べ終わった椀を流しへ運んで、席へ戻ってから手帳を出した。表紙は擦れている。最後の頁を開いて、すぐに閉じた。書き足してはいない。閉じてから輪ゴムを掛けた。
迅は立ったまま食っていた。椅子に座らない日の方が多い。左手に椀、右手に箸。目は窓の外へ向いている。旧市街の方だった。二十七で、消防の特別高度救助隊にいた。ここへ来て三年になる。
澪はまだ降りてこない。三年、この人は遅刻をしたことが無い。それでも昼に降りてくる日は少なかった。理由を訊いた者はいない。
階段の下から声が上がってきた。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです」
尾花律子の声だった。二階の受信席は階段のすぐ横にある。この人は姿より先に声が来る。四十四で、三年、そうだった。それから電話の切れる音がして、また同じ声が続いた。同じ抑揚で、同じ速さになる。
速水が容器を冷蔵庫へ入れた。棚の下の段は空いている。武藤の分はいつもそこへ置く。誰が決めたわけでもない。三年、そうなっている。
一階の出場口の壁に、名乗りの口上が貼ってある。七行ある。字が入っているのは五行だけだった。誰もそのことを言わない。
その隣に紙が一枚ある。今月の数字が並んでいた。一番下の行だけ大きい字で書いてある。
未着 累計 ── 零。
十二ある支部のうち、これを表に出しているのは第七だけになる。本部からは何度か紙が来ていた。久遠寺修司はそれを机の抽斗にしまって、掲示を下ろさなかった。理由を訊いた人間はいる。答えは返ってこなかった。
武藤徳三が階段を上がってきた。旧市街の豆腐屋で、六十八になる。手にした容器を台に置いた。
「余った分だ。一丁、二丁、それからもう一丁」
速水が受け取った。二十二の通信員で、この支部で一番若い。数え方について訊いたことが一度ある。訊いてはいけなかったらしいと、あとで知った。武藤は毎朝、同じ時刻に店を開ける。届けに来るのも同じ時刻になる。三年、一度も外れていない。
迅は椀を持ったまま廊下へ出て、自動販売機の前に立った。金を入れる。押したのは一番下の段だった。しゃがまないと届かない場所にある。
「上の方が取りやすいですよ」
速水が言った。迅は缶を取って、答えずに戻った。缶は冷えている。半分だけ飲んで、残りを卓に置いた。
久遠寺が食堂へ入ってきた。第七支部長で、五十六になる。手に紙が一枚あった。
「火群」
「はい」
「これは報告書じゃない」
三行しかない書類だった。赤が七箇所に入っている。突き返す前に、久遠寺はもう直していた。迅はそれを受け取って、卓の上で書き足した。四行になった。
十四時七分。
卓の端末が低い音を一度だけ立てた。
> 覚知。第七支部、全隊。旧市街 三丁目。
抑揚の無い声だった。第七支部の応答系が出す声で、六人はアンサーと呼んでいる。正式な名で呼び直させようとした時期があったらしい。三度で終わったと聞いている。
*
迅が椀を置いた。置いた場所が卓の縁で、寺尾が黙って中へ寄せた。
二階へ上がる。迅は階段を二段ずつ飛ばした。
指令室は市内の地図で埋まっている。壁の右端に回線の表示が八本並んでいて、今は全部が空いていた。逢坂澪は自分の席にいる。左手で右耳を塞いでいた。三十一で、消防の指令センターから来ている。分析に入ると口をきかない。
「一件だけです」
尾花が言った。手は受話器に置いたままになっている。
「切れました。もしもし、その後が無い」
澪は答えない。塞いだ手も下りなかった。
「煙は」
久遠寺が訊いた。
「上がっています」
尾花が答えた。
「丘の上から見えると、通行人から一件。ただ、その人はすぐ切りました」
「三丁目で一件か」
久遠寺は地図の前へ寄った。旧市街三丁目は木造が詰まっている。路地の幅は一間半しかない。あの区画で火が出れば、普通は十件を超える。十件が一件になるのは、見えていないか、見えていて誰も呼ばないかのどちらかになる。
速水が地図を出した。四丁目だった。
「三丁目です」
尾花に言われて、速水は黙って差し替えた。
澪の卓に候補が三つ並んだ。
> 候補、三点ございます。第一、三丁目七番。第二、三丁目十二番。第三、四丁目一番。
「三点ですか」
「三点でございます。それ以上は、わかりません」
澪は候補を見なかった。見たのは通報の記録の方だった。
「音を、そのまま出して」
初めて口を開いた。もしもしの一声だけが指令室に流れる。三秒に足りない。声の後ろで何かが鳴っていた。ごく低い音になる。
澪は波形を十倍に引き伸ばした。低い唸りが尾のように残っている。二秒に一度、そこだけ強くなった。速水が身を乗り出したが、何も言わなかった。
「これは何の音だ」
蒼汰が言った。
「水」
澪が答えた。
「豆腐屋の水槽が回っている。夜通し回して、昼に一度止める。止める前の音になる」
澪が手を下ろした。下ろした瞬間に、四人が動き出す。
「三丁目七番。武藤さんの店の向かい」
「座標、出た」
久遠寺は地図から目を離さなかった。全隊で出れば、回線が五本埋まる。市内に残るのは三つになる。四月の昼で、水難も熱中症もまだ出ない時期だった。それでも埋まる本数は変わらない。
「全隊」
久遠寺が言った。迷った時間は二秒に足りない。
*
「第七支部 ── 出場!」
久遠寺の声が階段まで届いた。一階の出場口にポールが二本ある。迅が先に落ちた。
地下三層で整備班の声が上がる。
「三層、開放!」
宮ヶ瀬佳代が壁の盤を叩いた。三十八で、整備班長になる。スロープの扉が上へ巻き上がっていく。
「一号から五号、出場!」
サイレンファイヤーの真空引きが鳴った。低い。喉に似た音になる。その音が上がりきる前に迅がアクセルを踏んだ。宮ヶ瀬はそれを見ていた。三年見ていて、一度も注意していない。
五機がスロープを自力で昇る。地上へ出ると四月の光があって、反射帯がそこだけ強く返した。市場の前で車が二台、路肩へ寄る。踏切が一つ上がったままになっていた。
旧市街三丁目には車が入らない。迅はファイヤーを路地の入口で停めた。降りる。ホースだけを引いて走った。八十メートル。曲がり角が三つある。
一つ目の角で、干した布団に肩が当たった。二つ目で自転車を倒した。倒したまま行く。三つ目を曲がったところで、白いものが見えた。
「回線、五本使います」
澪の声が耳に入った。
「市民が使えるのは三本」
迅は返事をしなかった。走る速さも変えない。
二軒目の家から白いものが出ている。天井に沿って流れて、床の近くだけが残っていた。煙は下からは見えない。外にいる人間の目には、二階の窓が少し曇っている程度にしか映らない。だから通報が一件で止まる。
「二階に一名」
澪がソナーを構えて言った。撃つ前に必ず人数を言う。三年、この順序を変えていない。
「生存反応、あり。呼吸は浅い」
迅は玄関の前で止まった。手の甲をドアに一度当てる。熱を見ていた。当ててから蹴った。開いた分だけ煙が下がってくる。
中は暗い。膝で進んだ。這える装備になっている。手甲が畳の縁を拾った。階段の下で足を止めて、上を見る。段板が一枚、途中で折れていた。
台所に鍋が出ていた。火は落ちている。出火はここではない。迅は奥へ行かずに、階段へ足を掛けた。
「上、任せろ」
蒼汰が外から言った。索が窓から入って、桟に噛む。蒼汰は一度引いた。引いてから登った。窓枠の上で、もう一度引いた。
寺尾は玄関の梁の下にいた。ハンマーを一本打ち込む。打ち込んだ場所がそのまま柱になる。数を声に出していた。四、五、六。息は止めない。
「まあ待て。俺が支える」
迅が上へ行く前に、退路が一本出来た。
上の階は下より熱かった。空気が乾いていて、目に来る。バイザーが無いと開けていられない。迅はまだ変身していない。
二階に少年がいた。十七くらいで、床に伏せている。受話器を握ったままだった。線は途中で切れている。指の関節が白い。放していない。
ひかりが上がってきた。七つ数えて息を整える。長さはいつも同じになる。
「息、返すよ」
少年の胸に手を置いた。二度目で咳が出た。煤が唇の端に付いている。
迅が背負った。少年は思っていたより軽かった。肩の上で、背中に体温が当たる。生きている側の温度になる。
階段を降りる。折れた段板を跨いで、寺尾の柱を通って、外へ出た。表の光が強い。四月の午後で、路地の上だけが白かった。
*
路地の奥で、火が形を変えた。
柱になった。二階の屋根より高い。人の形ではない。火が火のまま立っている。近付くと熱が装備の上から来た。頬に当たる空気が乾いている。
「下がれ」
迅が通りの人間に言った。言ってから、自分は前に出た。
左手首の蓋を跳ね上げる。受話器の形になる。五人が同じ動作をした。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。回線、確保。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。回線、確保。応答、確認。
反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。送話口の格子が、五人とも同じ位置で閉じた。バイザーの内側を波形が一度走って、そこで落ち着いた。
五つの手が耳の高さで止まる。掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。
背丈が違うので、五つの高さは揃わなかった。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
迅がブレスを火柱へ向けた。
「トリアージ!」
盤面が三度点滅した。
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「黒だ。潰すぞ」
サイレンギアを抜いた。柄を半回転させる。ギアが噛んで、短い音が鳴った。
「筒先!」
水が出た。火柱の根元に当てる。当たった場所だけが黒くなって、すぐまた赤へ戻る。蒸気が路地の上へ抜けていった。
火柱の根元が敷石を焼いていた。石の目に沿って黒が走る。走った先で、隣の家の羽目板が鳴った。まだ燃えてはいない。音だけが先に来ている。
「効きが薄い」
蒼汰がワイヤーを投げた。索の先が火柱の上を巻く。引いた。火柱が傾く。傾いたところへ寺尾がハンマーを打ち込んだ。柱が一本、路地の真ん中に立つ。火はそこを避けて広がろうとして、避けきれずに削れた。
ひかりがナイフで火の腕を落とした。速い。止血と切断が同じ動きになる。落とした先から新しい腕が伸びてきて、ひかりはそれも落とした。
三本目の腕が、寺尾の打った柱を掴んだ。柱が半分まで焦げて、そこで折れた。折れた先が路地の壁へ倒れ込む。壁の向こうは武藤の店の裏になる。
「グリーン、もう一本」
「打つ場所が無い」
寺尾は地面を見た。敷石が浮いている。浮いた場所には打てない。半歩ずらして、そこへ打った。二本目の柱が立つ。立ったところへ火の腕が来て、今度は折れなかった。
澪はソナーを撃っていた。音が壁越しに三軒先まで通る。火の中に人がいないことを、もう一度確かめている。
「回線、残り三本。市民の分はそのままです」
火柱が伸びた。屋根を越えて、四階分の高さになる。熱が上から降りてきた。手甲が熱を通す。迅は柄から手を離さなかった。膝の裏に汗が溜まっている。
火の先が下へ振られた。路地の入口に人が残っている。逃げ遅れた一人で、腰が落ちていた。
迅はその前へ入った。背中で受ける。装甲の背が鳴って、反射帯が一本切れた。切れた光がそこだけ消える。迅は倒れなかった。倒れずに、逃げ遅れた一人を後ろへ押した。
「レッド、位置が近い」
寺尾が言った。
「近いから届く」
迅は一歩も戻らなかった。
五人の位置が変わった。寺尾が路地の口を塞ぐ。ひかりが担架の側へ下がる。蒼汰が屋根へ登って、上から索を垂らした。澪が壁際に片膝を突いて、銃口を火柱の下三分の一に合わせる。
迅だけが前に残った。
柄をもう半回転させる。
「斧!」
筒先が畳まれて、刃が起きた。迅は前に出た。下がらない。火の中へ肩から入った。装甲の右肩が焼けて、塗装が捲れる。
サイレンアックスを抜いた。両手に一挺ずつある。振ったのは右だけだった。左は腰に提げたままにする。
「サイレンアックス ── 急救斬ッ!」
火柱の胴に入った。真っ二つにはならない。斬った跡から水が噴いて、そこだけが黒く残った。火が一度縮む。縮んだところで、迅は路地の外へ出た。
*
担架が路地の入口に着いた。少年は上を向いている。煤で顔の半分が黒い。目だけが動いていた。
「あの」
迅が振り返った。
「呼んでよかったんですか」
救急はまだ来ていない。ひかりが脈を見ている。蒼汰は索を回収していた。投げたものは必ず回収する。窓の桟に噛ませた分は、外してから畳んだ。
少年は受話器をまだ持っていた。ひかりがそれを取ろうとして、途中で止めた。
迅は担架の横に片膝を突いた。手の甲を少年の額に当てる。熱を見る手つきになる。
「熱はない」
それから言った。
「よく呼んだ」
少年が何か言おうとして、咳をした。咳が収まってから、もう一度口を開く。
「ありがとうございました」
迅は答えなかった。立ち上がって、路地の奥へ走って戻る。少年が首を回して、その背中を追った。追いきる前に、迅は角を曲がっていた。
通りに人が出ていた。九軒分の人が路地の両側に立っている。火は二軒目から出た。九軒とも電話をかけていない。
「煙は見えていましたか」
澪が訊いた。一人が頷いた。
「たいしたことないと思って」
澪はそれ以上訊かなかった。手帳にも書かなかった。訊けば答えは出る。出た答えを、この人はまだ使う先を持っていない。
斬られた火柱が、下から膨れた。
二階の屋根が持ち上がる。瓦が落ちた。武藤とうふ店の暖簾の前まで転がって、そこで割れた。膨れたものは十五メートルを超えて、それから二十を超えた。
「五機」
迅が言った。
「上げろ」
地下二層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。五機がスロープを昇る。この日、五つはまだ噛み合わなかった。
ファイヤーが路地の外から放水した。届く。届くだけで消えない。クレーンがアウトリガーを張った。三本まで同時に出て、四本目だけ半拍遅れる。張り終えてから、アームを火柱の腹へ当てた。レスキューが右腕で瓦礫を掴んで、路地の口から外した。ウイングは上から見ている。メディックはもう走り出していた。少年を乗せて現場から離れる。その分、地上が一人減った。
通りの向かいで老人が見上げていた。首がいっぱいまで反っている。孫らしい子どもが袖を引いていた。老人は動かなかった。子どもが指を差して、何か言った。声は届かない。
子どもの指はクレーンの左腕へ向いていた。左の掌だけが握られている。開かない。市民の位置からは、それが握り拳に見えた。
商店街の放送が一度切れて、また入った。中身は聞き取れなかった。
路地の外に人が溜まっていた。誰も走っていない。見上げたまま動かない。二十メートルの火の柱と、それに水を掛けている五つの車体。市民の目に入っているのは、車体の下半分だけになる。屋根と屋根の間から、腕と、腕の先の水しか見えない。
「水、足りません」
蒼汰が言った。
「タンクの残りは」
「四千。全部出しても足りない」
迅はファイヤーの砲塔を回した。規定より十度多く回る。回りきったところで放った。五機分の水が、火柱の根元へ一度に落ちた。
火が形を失った。柱が崩れて、路地の敷石の上に広がって、それから消えた。消えたあとに、二軒目の家が残っている。骨組みだけになっていた。
瓦の割れた音が、遅れて路地の奥から返ってきた。
誰かが拍手をしかけて、途中で手を下ろした。焼け残った骨組みが見えているからになる。
*
地下二層は油の匂いがする。
五機は伏せた姿勢で並んでいる。ファイヤーの前輪の泥除けに、路地の壁の跡が付いていた。塗装がそこだけ薄い。
サイレンレスキューの器具箱の蓋が一枚、歪んでいた。七つ目の蓋になる。梅木あかねが面を下ろして溶接に入った。上げるのが速い。宮ヶ瀬に毎回注意される。
「まだ終わってない」
「一秒だけ上げました」
一秒ではなかった。
佐波悠が工具を落とした。十九で、見習いになる。拾って、そのまま黙っていた。落とした本数を数えている人間が、この階に一人いる。
宮ヶ瀬は路地の写真を見ていた。幅を測っている。
「路地に入れる幅の車は、まだ作れない」
誰にともなく言って、写真を伏せた。
戸倉健はファイヤーの脚に掌を当てていた。五十二で、元は自動車の整備工になる。温度と震えを見ている。何も言わずに、次の機体へ移った。
クレーンの前で手を止めた。アウトリガーの四本目に触れる。半拍遅れて張る脚になる。三年、そのままにしてあった。直せる。直していない。戸倉は掌を離して、また次へ行った。
三階では、寺尾が鍋を洗っていた。六つの椀のうち、二つが手つかずで残っている。一つは澪の分になる。もう一つは迅の分だった。寺尾はどちらも流さずに、蓋をして棚へ上げた。
二階の受信席で、電話が鳴った。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 十四時十三分。所要 ── 六分二十四秒。
> 保留 ── 一件。最長 ── 二十八秒。
> 未着 累計 ── 零。
> 焼損 ── 旧市街三丁目 一棟。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




