第015話 呼びました
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 七月二十六日 二十時十五分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 中央町 四丁目。
> 第一声 ──「呼びました」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「呼びました」
尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。当直の三階へはまだ知らせていない。知らせる前に訊く順番が決まっている。
声が若い。高校生くらいになる。そして、こちらへ向けて言っていない。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今何処におられるか教えてください」
「呼びました。もう呼びました」
「聞こえています。今いる場所を教えてください」
「中央町の、いざわです。商店街の裏の、居酒屋の」
尾花は書いた。中央町四丁目、居酒屋いざわ、木造二階。三語で足りる。
背後に別の声が入っている。大人の男の声で、何か言っている。言葉までは取れない。取れないが、止めている声になる。
「お名前を教えてください」
「井澤です。井澤咲希。十六です」
「咲希さん。何が燃えているか教えてください」
「厨房です。揚げ物の鍋のところ」
「今、その厨房にいるかどうか教えてください」
「いません。二階にいます」
尾花はそこで欄を一つ飛ばした。あとで埋める欄になる。
「二階に何人いるか教えてください」
「私だけです。お父さんは下にいます」
「お父さんは何をしているか、見えていたら教えてください」
「消火器です。持ってました」
尾花は用紙の下の欄に、背後の音を書いた。男の声、換気扇、油。三語だけになる。
油の音は電話越しに拾える。水の音と違って、切れ目が細かい。三年、この音は間違えない。
油の火は、水を掛けると広がる。掛けてはいけないことを、通報者が知っているとは限らない。知らない人へ電話でそれを教える時間は、たいてい足りない。
「咲希さん。二階に窓があるかどうか教えてください」
「あります。道の側に一つ」
「その窓を開けて、そこにいてください。下へは降りないでください」
「お父さんが」
「お父さんには、私たちが行きます。あなたは窓のところにいてください」
背後の声が大きくなった。今度は言葉が取れる。
「切れ。切っていいから」
男の声になる。尾花は書く手を止めなかった。
「咲希さん。切らないでいてください。切ると、こちらから場所が分からなくなります」
「はい」
「呼んだのは正しい判断です。そのまま持っていてください」
尾花はそれ以上言わなかった。用紙の欄は決まっている。決まっている欄の外を、この人は書かない。
通話は切れなかった。
二十時十五分の三階は、まだ暑い。
七月の終わりで、日が落ちても三十度を切らない。窓を開けている。開けた窓から入るのは、昼の間に道路が溜め込んだ熱になる。
三階の冷房は、二台のうち一台がまだ直っていない。部品が来ていない。来週と言われて、その来週が過ぎた。
速水が扇風機を三台持ち込んでいた。壁の側に二台、卓の上に一台。卓の上の一台が、久遠寺の書いた紙を吹き飛ばした。
「止めろ」
「止めます」
「二台でいい」
「三台の方が涼しいです」
「紙が飛ぶ」
速水は卓の上の一台を床へ下ろした。下ろした先で、今度は誰かの靴紐が揺れた。
当直の五人は、この夜は落ち着いていた。
八回続けて勝っている。誰も数えていない。数えていないが、体のどこかが数えている。装備の点検が、前より少しだけ早く終わるようになった。
早く終わるのは、順番を覚えたからになる。覚えると、確かめる回数が減る。減った回数のぶんだけ、卓に座っている時間が長くなった。
座っている時間に、誰も何もしていない。前は索を余分に巻いたり、地図をもう一度見たりしていた。この夜は、五人とも扇風機の方を向いている。
寺尾剛が湯を沸かしていた。夏でも沸かす。人数分より一つ多く出す。
「班長。今日は何が来ますかね」
「分からん。分かったら苦労はしない」
二文で言って、それきりになった。この人は当てない。当てる人ではない。
灰谷蒼汰は索を三巻き用意していた。夏の索は硬い。硬い索は結び目が滑る。
「乾いて二ミリ細くなりました」
「細いと切れるのか」
「切れません。滑るだけです」
蒼汰は結んで、一度引いた。引いてから、結び目を親指で押した。
七尾ひかりは袋の中を並べ直していた。上から、手袋、鋏、当て布、それから吸うための管になる。並べる順を三年変えていない。
この夜は、当て布を二枚多く入れた。二枚多い理由は言わない。夏は皮膚が薄くなる、と本人が思っている。
火群迅は窓の前に立っていた。右腕を上げる。上がりきる。上げきったところで止めて、それから下ろした。
前腕の内側の火傷の跡が、この暑さで少し痒い。掻かない。三年、掻いたことが無い。
逢坂澪は二階から降りてこない。この人は席にいる。
付箋が十四枚、地図に貼ってある。十四枚のうち九枚が外側で、三枚が庁舎の区画の縁にあった。
*
久遠寺修司が地図の前に立った。
「火です」
尾花が言った。声の調子は普段のままになる。
「中央町四丁目。居酒屋の厨房。二階に十六歳が一人、一階に父親が一人います」
久遠寺は壁の紙を見た。七月の数字が並んでいる。
未着 累計 ── 零。
> 候補、三点ございます。第一、中央町四丁目 二番。第二、同 三番。第三、中央町五丁目 七番。
「二です」
澪は候補を最後まで聞かずに答えた。
「中央町四丁目三番。居酒屋いざわ。木造二階建て。一階が店で、二階が住居。裏通りに面していて、道の幅は三メートル」
「隣は」
「両側とも棟続きです。左が乾物屋、右が空き店舗」
「空き店舗の中は」
「二年空いています。何があるかは記録がありません」
「上は」
「三階建てはありません。この一角は全部二階までです」
「屋根は」
「繋がっています。抜けると横へ走ります」
「車は」
「入れます。ただし一台だけです。二台目は表通りに置くことになります」
「水は」
「消火栓が、通りの角に一つ。二十メートルです」
久遠寺は指を地図に置いた。中央町の裏通りは、旧市街ほど詰まっていない。詰まっていないが、棟続きになっている。
棟続きは、壁を共有している。共有している壁は、片方が焼けると反対側の内装から燃える。表からは見えない。見えないまま、隣の店の中で火が回る。
この一角には十一軒ある。十一軒が一枚の壁で繋がっていて、そのうち四軒が飲食店になる。
「厨房の油は」
「揚げ物の鍋です。水を掛けると広がります」
澪は付箋を一枚めくった。
「座標、出た」
「第七支部 ── 出場!」
地下三層の扉が上がった。
「三層、開放!」
宮ヶ瀬佳代が盤の前に立っていた。この日は寝たと言っている。何時間かは言わない。
「一号から五号、出場!」
言ってから、無線を切らずに続けた。
「レッド。油の火に水を掛けるな。ファイヤーの薬剤は二百リットルしか積んでない」
「足りるか」
「厨房一つなら足りる。二軒目に移ったら足りない」
迅はアクセルを踏んだ。踏んでから、返事をしなかった。サイレンファイヤーの真空引きが鳴りきる前に、車体は出ている。
中央町までは四分掛かる。夏の夜の商店街は人が出ていた。出ている人の間を、サイレンレスキューが先に入って割る。
「回線、五本使います」
澪の声が耳に入った。
「市民が使えるのは三本。今、掛かっているのは一本です。中央町四丁目からの一本になります」
その一本が、井澤咲希の通話になる。尾花はまだ切っていない。
裏通りに入ると、匂いが先に来た。
油の焦げる匂いになる。火の匂いより先に立つ。夏の夜の商店街には、もともと油の匂いがある。だからこの匂いは、近くまで来ないと分からない。
いざわの入口は開いていた。開いた口から白いものが出ている。低い。床を這って外へ流れていた。
二階の窓が開いている。窓の枠に、女の子が肘を掛けて下を見ていた。
窓の下の壁が、もう熱を持っている。厨房の真上になる。木の壁は、内側から乾いていく。乾いてから燃えるまでに、いくらか時間がある。その時間は測れない。
迅はファイヤーを停めた。停めた場所から入口まで、十五メートルあった。
「行くぞ。先に着く」
走った。走って、入口の前で止まる。中に男がいた。五十を過ぎている。消火器を両手で持って、厨房の入口に立っていた。
消火器は空になっている。ピンが抜けて、レバーが下がったままだった。
店の消火器は、入口の脇に一本しか置いていない。法で決まっている数になる。決まっている数だけあって、それを一本使い切ってある。
男は使い方を間違えていない。ピンを抜いて、ホースを持って、根元へ向けている。向けた先の油が、それでも消えなかった。
「外へ」
「うちの店だ」
「出てください」
男は動かなかった。動かないので、迅は腕を掴んだ。掴んで、後ろへ回した。回してから、自分が前に出る。
厨房は狭い。三畳ほどしかない。奥のフライヤーの上で、火が天井まで届いていた。
迅は水を出さなかった。ギアの柄を半回転させる。ギアが噛んだ。夏の噛み方で、音が短い。
「筒先!」
出したのは水ではない。ファイヤーの積んでいる薬剤になる。泡が油の面を覆う。覆った先から、火が消えていく。
消える速さは遅い。油は表から消えて、下がまだ熱い。
迅は泡を切らなかった。切ると、下の熱が上がってくる。出したまま、鍋の縁を回すように当て続けた。
厨房の床に、切った野菜の入った鉢が置いてある。仕込みの途中だった。夜の営業は、これからだった。
「二階だ」
迅は厨房を出て、階段を探した。階段は店の奥にある。奥は白いもので埋まっていた。
澪の声が入った。
「レッド。階段は使えません。煙が階段室に溜まっています。外の窓から行ってください」
「行く」
迅は外へ出た。
二階の窓は、道から三メートル半ある。梯子は積んでいない。四メートルの高さは、この支部では梯子を使わない高さになる。
「イエロー」
「索、掛けました。二本です」
蒼汰が電柱から窓の枠へ索を渡していた。渡した索を、迅が掴む。
上がった。上がりきったところで、窓枠に手を掛けた。
窓枠の上に、割れた硝子が残っていた。
二階の窓は古い。木の枠に、硝子が四枚入っている。下の一枚が、熱で割れていた。割れた縁が、枠の内側に立ったまま残っている。
迅は掴んだ。掴んでから、そこが硝子だと分かった。
分かってからも、手を離さなかった。離すと落ちる。落ちると、もう一度上がる時間が要る。
そのまま体を上げて、窓の中へ入った。
入ってから、右の前腕を見た。作業着の袖が切れている。袖の内側が濡れていた。
「けがしてる」
井澤咲希が言った。十六歳になる。携帯電話をまだ握っていた。
「大丈夫だ」
「血が出てます」
「出てる。あとで診る」
迅は咲希の腕を取った。取ってから、窓の方へ向ける。
「先に降りる」
「お父さんは」
「外にいる。もう出てる」
咲希は窓の枠に足を掛けた。掛けてから、下を見た。下にひかりが立っている。
「息、返すよ」
ひかりが言った。咲希は降りた。降りきるまでに、十二秒掛かった。
迅が最後に降りた。降りた先で、ひかりが待っていた。
「腕を見せてください」
「あとでいい」
「今、見せてください。袖を切ります」
ひかりは鋏を出した。袖を肘まで切って、そこから開く。
前腕の内側に、線が一本入っていた。長さは掌ほど。深い。脂肪の層まで届いている。骨は見えない。
ひかりは当て布を三枚重ねて、上から押さえた。押さえたまま、七つ数える。
「押さえていてください。私が巻きます」
「動ける」
「動けます。歩く度に開くので、押さえていてください」
巻いた。巻いてから、上から二本目の帯を回す。
濡れたのは、迅の袖の内側と、ひかりの手袋の親指の付け根になる。それだけになる。
ひかりは巻き終わってから、帯の端を二度折り返した。折り返すと、引っ掛けても解けない。狭いところへ入る人の腕には、必ずこの折り方をする。
「動かして、痛みが増えたら言ってください」
「増えない」
「増えたら言ってください。増えるのは、開いた時だけです」
ひかりは手帳を出さなかった。この場では出さない。あとで出す。
*
厨房の火が、また立ったのは、その後になる。
泡の下で消えていたはずの油が、表面を破って上がってきた。上がった火は、天井へは行かない。横へ流れた。
流れた先が、棟続きの壁になる。
壁の中から、黄色いものが出てきた。人の形は取らない。厚くて、重くて、表面がゆっくり波打っている。油の形になる。
塊は、床を這った。這った先が、店の外の裏通りになる。
道の両側に人が出ていた。夏の夜で、店を閉めかけた人が七人ほどいる。
迅は前に出た。左手首の蓋を跳ね上げる。五人が同じ動作をした。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。五つの送話口が、同じ高さで止まった。
五人が同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
油の匂いの中で、五つ分の声が上がった。上がった先の空は、まだ完全に暗くなっていない。
迅がブレスを塊へ向けた。
「トリアージ!」
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「黒だ」
迅は斧に持ち替えた。柄を半回転させる。ギアが噛む。
「斧!」
打ち下ろした。当たった。塊が割れる。割れた面から、中の油が出てきた。
出た油が、そのまま形を作り直す。割れる前より薄くなって、面積が広がった。
「広がりました」
澪がソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「この裏通りに七名。全員、道の東側です。西側は空です。回線、残り三本」
撃った。音が塊の中を通る。通って、途中で減った。
「中は全部同じです。芯がありません。薄いところも濃いところもありません」
「割ると増えるのか」
「増えます。切った分だけ面が増えます」
寺尾がハンマーを地面に置いた。置いてから、塊の縁を見ている。
「まあ待て。こいつは形を持ってない。形を持ってないものを斬っても、量は減らん」
「減らさずにどうする」
「入れ物を作る。油は入れ物の形になる」
寺尾は柱を打った。打った先は、裏通りの西側になる。人のいない側になる。
一本、二本、三本。三本を三角に打って、その内側へ塊を追い込む形にした。
塊は追い込まれなかった。柱の間を、薄くなって抜けた。
「抜けます」
「もう一本」
「打つ」
四本目を打った。四本目は、抜けた先に打った。塊はそこも抜けた。
抜ける度に薄くなる。薄くなる度に、面が広がる。
広がった先が、道の東側へ届きかけた。
迅はそこへ入った。
入って、両腕を広げて、正面から受けた。
油は熱い。装甲越しに熱が来る。前腕の帯を巻いたところが、その熱で締まった。
迅は下がらなかった。下がらずに、そこで押した。
澪の声が入った。
「レッド。押しても止まりません」
「止める」
「止まりません。量が減っていないので」
迅は答えなかった。
答えずに、両腕で押し続けた。押している間に、寺尾が背後で五本目を打った。
「グリーン。西へ寄せられるか」
「寄せる。ただし、寄せた先で厚くなる」
「厚くなればいい」
寺尾は五本目と六本目を、道の東側に打った。人のいる側になる。柱と柱の間隔を、人一人が通れないほど詰めて打った。
通れないので、人は動かない。動かない人の前に、柱が並んだ。
塊は東へ行けなくなった。行けないので、西へ戻る。戻った先に、寺尾の三角がある。
三角の中で、塊が厚くなった。
「厚くなりました。中心が出来ています」
「どこだ」
「三角の真ん中。地面から一メートル。そこだけ動いていません」
蒼汰が索を投げた。三本まとめて投げて、三角の三本の柱に噛ませる。噛ませてから、上から引いた。
三本の索が、塊の上を横切って締まった。
「締めました。三本で持ちます。ただし油なので、五分で滑ります」
「五分要らない」
迅は前に出た。両腕を下ろして、斧を構え直した。
構えたところで、店の方から声がした。
「まだやるのか」
井澤誠一の声になる。五十一歳。店の前に立って、こちらを見ていた。
誰も答えなかった。
*
中央町四丁目の裏通りが、そこで割れた。
塊が地面へ沈んで、沈んだ先から上がってきた。上がった先で二十倍になる。
道の両側の屋根より高い。屋根の上まで届いて、そこから商店街のアーケードの方を向いた。
「上げろ」
迅が言った。言ってから、東側の七人の位置を確かめた。七人は寺尾の柱の後ろにいる。動いていない。
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。五機がスロープを昇る。
「三番からだ」
「分かってる」
「油の上では踏ん張れない。アウトリガーが滑る」
「滑らせない」
迅は返事をしてから、号令を出した。
「五機、連結!」
サイレンクレーンが前へ出た。アウトリガーを張る。一本、二本、三本。四本目が、半拍遅れて張られた。
その半拍で、メディックとウイングが脚に入る。レスキューが右腕になった。クレーンが畳んだアウトリガーを、そのまま左の拳にする。開かない。左の掌は、この日も閉じたままになった。
ファイヤーが上から降りて、胴と頭が乗った。
「特災合体 ── サイレンオー!」
道の東側で、七人が首を反らせた。
七人のうち一人が、右手を耳の高さに上げた。乾物屋の主人になる。春に鍵を開けた人と同じになる。
井澤咲希は上げなかった。上げずに、父親の背中を見ていた。
井澤誠一は上を見なかった。店の中を見ていた。
サイレンオーが立った。全高四十メートル。装甲は被せていない。消防車がそのまま立っている。
足元が滑った。油の上に立っている。アウトリガーの跡が、四つとも横へずれた。
「滑ります」
「膝を突く」
サイレンオーが片膝を突いた。突いた膝が、道のアスファルトを割る。割った先の土に、膝が入って止まった。
滑らなくなった。
塊はその隙に、アーケードの方へ流れかけた。
左腕が伸びた。開かない拳を、流れる先の地面へ叩きつける。叩いた場所で道が割れて、割れ目に油が落ちた。
落ちた分だけ、上の量が減る。
右腕が上がった。掌が開いて、残った塊の上を掴む。掴んで、引き上げた。
引き上げられた油は、薄い膜になって伸びた。伸びきると、形を保てなくなる。
「胸だ」
迅が右腕を引いた。引いた腕を、胸の高さで止める。胸の放水口が全開になった。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
水が刃の形で出た。斬るのではない。伸びきった膜を、上から下へ一度に押し切る形になる。
膜は真ん中で裂けた。裂けた先から、下の割れ目へ落ちていく。
落ちきったところで、道の上に何も無くなった。残ったのは、割れたアスファルトと、油の染みだけになる。
染みは消えない。消えないものが、道に残った。
*
二十時四十分になる。
所要は五分十秒だった。
居酒屋いざわは、一階の厨房が全焼している。二階は焼けていない。煙が上がったので、壁も畳も匂いが付いた。
棟続きの左右は無事になる。乾物屋も、空き店舗も焼けていない。
消防の車が二台来ていた。市の消防になる。中を見て、記録を取っている。
井澤誠一が店の前に座っていた。座って、開いた入口を見ている。
井澤咲希がその横に立っていた。まだ携帯電話を持っている。切ったのは十分前になる。
迅が近くを通った。通っただけになる。声は掛けていない。
井澤誠一が顔を上げた。
「あんたらが来なかったら、どうなってた」
「隣が焼けてた」
「うちは」
「うちも焼けてた」
迅はそう答えた。短く答えた。理由は付けなかった。
井澤誠一は頷いた。頷いてから、娘の方を見た。
「呼ばなければよかった」
そう言った。
咲希は何も言わなかった。父親の方を見ずに、道の染みを見ていた。
「保険は、火が出たとこまでだ。厨房の設備は下りる。休んだ分は下りない」
「はい」
「三か月だ。早くて三か月」
井澤誠一は立ち上がった。立ち上がってから、もう一度言った。
「呼ばなければよかった」
二度目は、娘に向けて言っていない。誰に向けても言っていない。
迅は動かなかった。動かずに、そこに立っていた。
この人は、いつもなら先に着いて、先に受けて、次の現場へ向かう。向かう先が無い夜になる。
何か言おうとして、口を開けた。開けて、閉じた。
開けた口から出そうになったのは、多分「間に合いました」だった。八回続けて言ってきた言葉の、片割れになる。
寺尾が横に来た。来てから、迅の肩に手を置く。
「言うな。今日は言う日じゃない。言えば、この人が明日から一人で立てなくなる」
迅は頷かなかった。頷かずに、そこから離れた。
ひかりが咲希の前に膝を突いた。
「手を見せてもらえますか」
「けがしてません」
「握っていた手を見せてください」
咲希は手を出した。携帯電話を握っていた側になる。指の関節が白くなっていた。三十分近く同じ形で握っていた手になる。
ひかりは一本ずつ、ゆっくり伸ばした。伸ばしてから、七つ数える間そのままにした。
「痛みますか」
「痛くないです」
「明日、握れなくなったら病院へ行ってください」
咲希は頷いた。頷いてから、初めて口を開いた。
「呼んだの、間違いでしたか」
ひかりは答えなかった。
答えずに、咲希の手を離した。離してから、立ち上がる。
「私は、間違いかどうかを決める人ではありません。それは、お父さんと決めてください」
それだけ言って、車の方へ歩いた。
咲希はその背中を見ていた。
乾物屋の主人が、そこへ来た。春に商店街の事務所の鍵を開けた人と同じになる。手に何も持っていない。
主人は井澤誠一の隣に立った。立って、開いた入口を一緒に見た。
「三か月か」
「三か月だ」
「うちは二階が空いてる」
「要らん」
「要る時に言え」
それだけ言って、主人は自分の店へ戻っていく。
井澤誠一は返事をしなかった。返事をせずに、店の中へ入る。
咲希は入らなかった。道に立ったまま、携帯電話を両手で持っている。
画面は消えている。通話は十分前に切れていた。それでも持ち方が変わっていない。
両手で、胸の高さに持っている。耳の高さではない。少し低い。
道の向こうで、消防の隊員が記録を取っていた。取り終わって、車へ戻っていく。戻る途中で咲希の横を通って、通り過ぎた。誰も、この子に何も言わない。
寺尾はファイヤーの後ろで装備を降ろしていた。降ろしながら、迅の方を見ない。
この夜、寺尾は何も言わなかった。
言わなかったので、返す言葉も無かった。
*
地下二層は油の匂いがする。この夜は、外から持って帰った油の匂いも混ざっていた。
戸倉健がクレーンのアウトリガーの底を見ていた。四本とも、先端の板に油が付いている。
「班長」
「何だ」
「これ、洗っても落ちない」
「落ちないなら削れ」
「削ると薄くなる」
「薄くなるのは分かってる。それでも油の上に立つ方が危ない」
宮ヶ瀬佳代はそう答えた。答えてから、図面を見ずに続けた。
「油の上で滑らない足は、まだ作れない」
戸倉は削らなかった。削らずに、四本とも布で拭いた。拭いても落ちない場所だけが残った。
梅木あかねがファイヤーの胴の側面を見ていた。膝を突いた時に擦った跡が、下半分に入っている。
「班長。埋めますか」
「埋めろ」
「膝も見ますか」
「膝は見なくていい。あれは今日の傷じゃない」
梅木は面を上げた。上げるのが速い。上げた顔に油が付いていて、拭かずに次へ行った。
佐波悠が、洗い場でファイヤーのホースを洗っていた。薬剤を出したあとのホースは、水で流さないと固まる。
流しても、匂いは落ちない。落ちない匂いのついたホースを、佐波は棚の一番下へ戻した。一番下は次に使う順番になる。
宮ヶ瀬は図面を広げた。中央町の裏通りの図になる。市の建築課から借りてきたものになる。
「棟続きの飲食店は、市内に四百二十ある」
誰にともなく言って、図面を巻いた。
「四百二十軒の厨房を、先に見て回る人手は無い」
三階では、ひかりが手帳を開いていた。真ん中の頁になる。
線を一本足した。足してから、指で数える。数え終わってから閉じて、輪ゴムを掛けた。
この日の線は、ほかの線より少し長い。長さの理由は、本人しか知らない。
手帳を袋へ戻してから、ひかりは当て布の残りを数えた。三枚使って、二枚残っている。夏は二枚多く持つと決めたばかりで、その二枚が今日で消えた。
補充の紙を書いて、地下二層の箱へ入れる。箱に入れると翌朝までに揃う。三年、一度も遅れたことが無い。
迅は三階の窓の前に立っていた。右腕は動かさない。帯が巻いてある。
上げようとして、途中で止めた。止めたのは痛みのせいではない。ひかりに止められているからになる。
二階の受信席で、尾花律子が用紙を綴じていた。
この日の用紙には、飛ばした欄が一つ残っている。あとで埋める欄になる。埋めるのは、出場記録が上がってからになった。
尾花はそこへ、休業の一行を書き入れた。書き入れてから、綴じた。
自分が電話口で言った一言は、どの欄にも入らない。入る欄が無い。
三年、この人は用紙の外へ何も書かない。この夜も書かなかった。
綴じたものを棚へ入れて、新しい一枚を引き寄せる。まだ何も書いていない紙になる。
尾花はその一枚を、卓の真ん中へ置いた。置いてから、受話器の位置を確かめた。三年、置く場所が一ミリも変わっていない。
二階では、澪が付箋を書いていた。十五枚目になる。七月二十六日、中央町。
通報 一件。書いてから、地図に貼った。
貼る手が、そこで止まった。
澪は付箋の下に、もう一行書く欄が無いことを見ている。日付と、場所と、件数しか書けない。
書けない一行があった。
澪はそれを書かない。書かずに、地図へ貼った。貼った位置は、庁舎の区画のすぐ外側になる。
十五枚のうち、四枚が庁舎の縁に集まった。
二階の受信席で、電話が鳴った。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 二十時二十分。所要 ── 五分十秒。
> 保留 ── 一件。最長 ── 四十八秒。
> 未着 累計 ── 零。
> 焼損 ── 中央町四丁目 飲食店一。一階厨房 全焼。
> 傷病 ── 隊員一名。裂傷。処置済み。
> 休業 ── 同 一件。再開の見込み、記載なし。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




