第011話 においがします
> 【第七支部 覚知記録】
> 覚知 ── 六月十六日 六時四十分。
> 入電 ── 携帯電話。発信地 ── 緑ヶ丘 五丁目。
> 第一声 ──「においがします」
> 出場 ── 第七支部 全隊。
「においがします」
尾花律子は用紙を引き寄せた。時刻を分まで書く。秒は書かない。当直の三階へはまだ知らせていない。知らせる前に訊く順番が決まっている。
「はい、鳴瀬市消防指令センターです。今何処にいますか」
「緑ヶ丘の団地です。五丁目の、二号棟の外にいます」
「外ですね」
「外です。廊下で気が付いて、階段で降りました」
「お名前は」
「山際です。山際トヨ。七十です」
尾花は書いた。緑ヶ丘五丁目、二号棟、通報者は屋外。三語で足りる。
「どんなにおいですか」
「ガスです。あの、玉ねぎが腐ったような」
「どのあたりが一番強かったですか」
「二階の廊下です。奥の方です」
尾花はそこで欄を一つ飛ばした。あとで埋める欄になる。
「山際さん。火は使っていませんか」
「使っていません。ちょうど、湯を沸かそうとして止めました」
「よかったです。そのまま使わないでください」
「はい」
「換気扇と、電気のスイッチには触らないでください。押すのも切るのもいけません」
「触りません」
「窓は開けましたか」
「廊下の窓を開けました。降りる時に」
「それで大丈夫です。もう建物へ戻らないでください」
背後で戸を叩く音が入った。何度も続いている。
「山際さん。今、誰か叩いていますか」
「私が叩いてきました。二階の三軒と、三階の二軒です」
「出てこられましたか」
「四軒は出ました。一軒は出ません」
「その一軒はどのお宅ですか」
「二階の奥から二番目。宮下さんです。夜の仕事の人で、今の時間は寝ています」
尾花は用紙の下の欄に、背後の音を書いた。戸を叩く音、風、鳥。三語だけになる。
叩いて回った人の一件は、大抵早い。気付いてから電話までの間に、その人がもう半分やっている。半分やってしまう人は、途中で戻る。戻った先で倒れる人がいる。尾花はそこだけ止めさせる。
「山際さん。もう叩かないでください。外で待ってください」
「宮下さんが」
「私たちが行きます。あなたが戻ると、助ける人が二人になります」
「分かりました」
通話は切れなかった。切らないでくださいとは言っていない。この人が切らなかった。
六時四十分の三階は明るい。六月の半ばで、日の出は四時半になる。窓の外はとうに白い。梅雨の合間で、この日は晴れていた。
当直の五人は朝を食べているところだった。武藤徳三の豆腐が六時に届いている。届いた平箱の中に、十二あった。
寺尾剛が五つに分けた。分けきれない分を、自分の皿へ寄せる。寄せてから、湯を人数分より一つ多く出した。
火群迅は三口で食べ終わった。箸を置く。置いてから、湯呑みへ手を伸ばす。
「レッドさん」
七尾ひかりが言った。
「七つ数えてから飲んでください」
「熱いのか」
「熱いです。でもそれより、三口は速いです」
迅は数えなかった。数えずに飲んで、口の中を火傷した。
ひかりは何も言わずに、水の入った湯呑みを横へ置いた。置いてから、手帳に何か書き足す。書いたのは短い一行で、こちらからは見えない。三年、この人は同じ頁に足していく。頁が変わらないので、何本目の線かは本人にしか分からない。
灰谷蒼汰は索を三巻き用意していた。晴れた日でも三巻き持つようになっている。前の週に一本失ってから、そうしていた。
逢坂澪は二階から降りてこない。この人は席にいる。
*
久遠寺修司が地図の前に立った。
「ガス漏れです」
尾花が言った。声の調子は普段のままになる。
「二号棟の二階。一軒、出てきていません」
久遠寺は壁の紙を見た。六月の数字が並んでいる。
未着 累計 ── 零。
> 候補、三点ございます。第一、緑ヶ丘五丁目 二番。第二、同 三番。第三、緑ヶ丘六丁目 一番。
「一です」
澪は候補を最後まで聞かずに答えた。
「緑ヶ丘五丁目二番。市営の集合住宅。二号棟は四階建てで、各階に六戸。廊下は外廊下です」
「ガスは」
「都市ガスです。二号棟だけ、先月から配管の更新工事に入っています」
「工事は」
「二階の三戸まで終わっています。奥から二番目の隣が空室で、そこが最後の一戸です」
久遠寺の指が地図の上で止まった。緑ヶ丘は坂の上にある。坂の上で、風は谷側へ抜けていく。
「風は」
「南から。毎秒一メートル。弱いです」
「弱いのは困る」
「困ります。溜まります」
澪は付箋を一枚めくった。
「座標、出た」
「第七支部 ── 出場!」
地下三層の扉が上がった。
「三層、開放!」
宮ヶ瀬佳代が盤の前に立っていた。この日は四時間寝たと言っている。誰も確かめていない。
「一号から五号、出場!」
言ってから、無線を切らずに続けた。
「レッド。今日は斧を抜くな」
「抜くなとは」
「金物を打つと火花が出る。火花の出ない斧は、まだ作れなかった」
迅は返事をしなかった。返事の代わりに、アクセルを踏んだ。サイレンファイヤーの真空引きが鳴りきる前に、車体は出ている。
緑ヶ丘までは五分掛かる。朝の坂道は空いていた。空いている坂を、五機が縦に並んで上がる。
「回線、五本使います」
澪の声が耳に入った。
「市民が使えるのは三本。今、掛かっているのは一本です」
その一本が、山際トヨの通話になる。尾花はまだ切っていない。
二号棟の下に着くと、住人が十四人立っていた。全員が寝間着か、その上に何か羽織っただけの格好になる。朝の六時台で、外に出る支度をしていない人ばかりだった。
山際トヨが前に出てきた。七十で、背が低い。手に携帯電話を持ったまま二号棟を指した。
「奥から二番目です」
「分かりました」
「叩いても出ないんです」
迅はファイヤーを停めた。停めた場所から階段の下まで、二十メートルあった。
「行くぞ。先に着く」
走った。走って、階段の下で一度止まる。止まってから、上を見た。
外廊下の奥に、白いものは見えない。ガスは目に見えない。見えないものが溜まっているかどうかは、匂いでしか分からなかった。
迅は面の中で息を吸った。吸って、止めた。
「ブルー。中の人数を」
「二階に一名。奥から二番目の部屋。動いていません。寝ています」
「起きてないのか」
「起きていません。呼吸はあります」
迅は階段を上がった。上がりながら、腰の斧に手を掛けない。掛けずに上がる。
二階の廊下は、奥へ行くほど匂いが強かった。奥から二番目の戸の前で、一番強くなる。
その隣が空室になる。工事の途中で、戸に紙が貼ってあった。紙には工事の日付が書いてある。日付は昨日で、終わったとは書いていない。
「グリーン」
「来た」
「戸を開ける。壊さずに」
寺尾はハンマーを使わなかった。使わずに、蝶番の側へ回る。回ってから、掌で二度、戸を押した。
「まあ待て。ここは鍵より先に、下が浮いてる」
寺尾は戸の下へ指を入れた。入れて、持ち上げる。持ち上げてから横へ引いた。戸は音を立てずに外れた。
外れた戸を、寺尾は廊下の壁へ立て掛けた。倒れないように角度を決めて置く。置く角度を決めるのに、二秒掛けた。
立て掛けた戸は、あとで元へ戻せる。壊した戸は戻せない。空室の戸を壊すと、この棟の工事がもう一週間延びる。延びた一週間は、二十戸の人が待つことになる。寺尾はそれを言わない。言わずに角度だけ決めた。
中に男がいた。宮下という名前は、あとで分かる。三十代で、布団の上でうつ伏せに寝ている。動いていない。
ひかりが入った。走らずに歩く。歩いてから、膝を突いた。
「宮下さん」
返事は無い。ひかりは肩を叩いた。強く叩く。
「宮下さん。聞こえますか」
男が呻いた。呻いてから、目を開けた。
「息、返すよ」
ひかりは息を七つ数えた。数えてから、男を仰向けにする。仰向けにしてから、脇を持って引きずり出した。抱えない。引きずる。ガスの溜まっているところで人を抱え上げると、こちらの息が続かない。
廊下へ出したところで、男が喋った。
「何だよ」
「ガスです」
「俺の部屋か」
「隣です。空室です」
男は起き上がろうとして、失敗した。ひかりが支えて、階段の方へ向けた。
「歩けますか」
「歩ける」
「じゃあ歩いてください。手すりは掴んでいいです」
蒼汰が空室の側の窓を開けた。開ける時、電気のスイッチには触らない。窓の桟だけを持って、外側へ押した。
押した先の空気が動いた。動いた空気の匂いが、廊下へ流れる。
「開けました。三枚とも」
「元栓は」
「見えません。台所の下です」
寺尾が入った。入って、床に膝を突いてから、腕を伸ばして手探りで探した。金物に金物を当てない。当てると火花が出る。
探し当てた元栓を、寺尾は指で回した。回しきってから、掌で二度確かめた。
「止めた」
「漏れは」
「止まった。溜まった分は残ってる」
*
残った分が、床から立ち上がったのは、その後になる。
目に見えないものが、そこで見えるようになった。空気の歪みが集まって、空室の真ん中で柱の形になる。人の形は取らない。透き通っていて、向こう側の壁が歪んで見えた。
柱は動いた。動いた先が、廊下になる。廊下から外へ出ようとしている。
「外へ出すな」
迅が言った。言ってから、廊下の真ん中に立った。
柱が来た。迅は斧を抜かない。抜かずに、両腕を上げて受けた。
押された。二歩下がる。下がってから、そこで止まった。
「レッド、退いてください」
「退かない」
「斧が使えません」
「使わない」
迅は前に出た。出た分だけ、柱が廊下の奥へ戻る。
五人が同じ動作をした。左手首の蓋を跳ね上げる。
「急報 ── 出場!」
> サイレン ── 起動。〈火群 迅〉。応答、確認。
> サイレン ── 起動。〈逢坂 澪〉〈灰谷 蒼汰〉〈寺尾 剛〉〈七尾 ひかり〉。応答、確認。
反射帯の光が足元から頭まで走った。装甲が下から順に組み上がる。五つの送話口が、同じ高さで止まった。
五人が同時に右手を上げた。耳の高さで止めて、掌を外へ向ける。受話器を取る形になる。
> 水を持ってく、火の現場 ─── サイレンレッド!
> 声を持ってく、知の現場 ─── サイレンブルー!
> 綱を持ってく、高の現場 ─── サイレンイエロー!
> 梁を持ってく、圧の現場 ─── サイレングリーン!
> 息を持ってく、生の現場 ─── サイレンピンク!
>
> 特別災害対策機構、第七支部 ──
> 呼ばれたら、鳴らして、行く!
> 急報戦隊、サイレンジャー!
外廊下に沿って、端まで届いた。届いた先の戸は、どれも閉まっている。
迅がブレスを柱へ向けた。
「トリアージ!」
> 判定 ── 黒。要救助者、内部に確認できません。
「黒だ。ただし打てない」
サイレンギアは抜かなかった。抜かずに、柄の頭で床を押す。ギアが噛む音は鳴らない。この回は一度も鳴らなかった。
「イエロー、囲え」
「囲います」
蒼汰が索を投げた。噛ませたのは柱ではない。廊下の柱と手すりに噛ませて、廊下の幅を狭めた。狭めた先へ、透き通った柱を追い込む。
柱は薄いところへ行こうとする。薄いところは外になる。外へ出ると広がって、消える。
「消えるならいいんじゃないのか」
「よくありません」
澪の声が入った。
「薄まって消えるのは、この一本だけです。薄まった分は、坂の下へ降ります。降りた先に十四人います」
迅は下を見た。二号棟の下に、住人が固まって立っている。山際トヨが電話を持ったまま、まだこちらを見上げていた。
「集めるぞ」
「集めますか」
「散らさない。集めて、一度で落とす」
寺尾が柱を打ち込んだ。打つ場所は空室の中で、木の床になる。木に木を当てる。火花は出ない。
柱を三本、三角に打った。三角の内側へ、蒼汰が索を回す。
「入りました」
「グリーン、上は」
「天井は薄い。抜けるぞ」
「抜けさせない」
ひかりが階段の側から戻ってきた。戻ってから、廊下の窓を全部閉めた。開けたばかりの窓になる。
「閉めるのか」
「閉めます。外へ出す道を無くします」
閉めた廊下の中で、透き通った柱が濃くなった。濃くなると、輪郭がはっきりする。はっきりした分だけ、当たる場所が分かるようになった。
「ブルー」
「撃てます」
澪がソナーを構えた。撃つ前に必ず人数を言う。
「この棟に人はいません。下に十五名。回線、残り三本」
撃った。音が透き通った柱の中を通る。通って、真ん中で止まった。
「芯があります。濃いところが一点だけ」
「点か」
「点です。床から一メートル二十」
迅は下がらなかった。下がらずに、その高さへ手を伸ばす。伸ばした手で、柱の真ん中を押さえた。
押さえた場所が動かなくなる。
「ブルー。今だ」
澪は狙いを変えなかった。撃つ位置を変えずに、そのまま出力を上げる。
「サイレンソナー ── 急救斬ッ!」
音が一点へ集まった。集まった点が、内側から鳴った。
透き通った柱は、真ん中から外へ割れた。割れて、薄くなって、そのまま空室の中で消えた。消えた場所に何も落ちない。匂いだけが、少し残った。
迅は手を離した。離した手の指先が、冷たくなっている。
蒼汰は索を全部回収した。三本とも戻ってきた。
「一本も減ってません」
「二度目だな」
「二度目です」
*
二号棟の壁が膨らんだのは、その後になる。
膨らんだ壁が破れて、透き通ったものが外へ出た。出た先で二十倍になる。透き通っているので、坂の下の景色がその中で歪んで見えた。
「上げろ」
迅が言った。言ってから、住人の位置を確かめた。十五人が坂の上へ動いている。ひかりが誘導していた。風は南から吹いている。上が風上になる。
地下三層で宮ヶ瀬が盤を叩いた。五機がスロープを昇る。
「三番からだ」
「分かってる」
「六度目だ。まだ言うぞ」
迅は返事をしなかった。返事の代わりに、号令を出した。
「五機、連結!」
サイレンクレーンが前へ出た。アウトリガーを張る。一本、二本、三本。四本目が、半拍遅れて張られた。
その半拍で、メディックとウイングが脚に入る。レスキューが右腕になった。クレーンが畳んだアウトリガーを、そのまま左の拳にする。開かない。左の掌は、この日も閉じたままになった。
ファイヤーが上から降りて、胴と頭が乗った。
「特災合体 ── サイレンオー!」
坂の上に集まった十五人が、一斉に首を反らせた。
山際トヨは携帯電話をまだ持っている。持ったまま、口を開けて上を見た。宮下は寝間着のまま、手すりに掴まっている。掴まった手が震えているのは、ガスのせいなのか、上を見たせいなのか、本人にも分からない。
サイレンオーが立った。全高四十メートル。装甲は被せていない。消防車がそのまま立っている。
透き通ったものは、二号棟の上で広がろうとしていた。広がると薄くなる。薄くなると坂の下へ降りる。
「広げさせるな」
サイレンオーの右腕が上がった。掌が開いて、上から押さえる。押さえた先が横へ逃げた。
左腕が上がった。開かない拳を、逃げた側へ置く。壁になる。
二つの腕の間で、透き通ったものが濃くなった。濃くなった分だけ、形がはっきりする。
胸の放水口が開いた。
出たのは水の刃ではない。霧になった。細かい水が、上から下へ落ちていく。
霧は、濃くなった透き通ったものの上に降りた。降りた水が重さになる。重さのついたものは、上へ広がれない。
下へ落ちた。
落ちた先は、工事のために掘ってある側溝の跡になる。深さが一メートルある。掘ったまま埋め戻していない。工期が来月までになっている。
溝の中で、透き通ったものは動けなくなった。動けないまま、上から霧を浴び続ける。
霧が止まった。
「胸だ」
迅が両腕を引いた。引いた腕を、胸の高さで止める。胸の放水口が、霧から刃へ切り替わった。
「サイレンオー ── 全消斬ッ!」
水が刃の形で出た。斬るのではない。溝の中で動けなくなったものを、上から底まで一度に押し切る形になる。
押し切られた場所から、透き通ったものが割れた。割れた先は坂の下ではない。溝の中で、そのまま下へ潰れていく。
十分の一になり、百分の一になり、それから消えた。
溝の底に、水が溜まった。溜まった水の面が揺れている。揺れているのは霧がまだ落ちているからで、落ちきると面が止まった。止まった面に、四十メートルのものの脚が映った。
消えたあとに残ったのは、濡れた溝と、匂いだけになる。匂いも、風が南から来て、坂の上へ抜けていった。
坂の上の十五人が、風の来る方を向いた。
*
七時になる。
所要は五分二十秒だった。二号棟の壁が一箇所破れて、空室の窓が三枚とも割れている。ほかの十九戸は無事になる。
ガスの会社の車が二台来た。青い作業着の人が四人降りて、二号棟の下で元栓の記録を見ている。四人のうち一人が空室の番号を読み上げて、もう一人が紙に書いた。読み上げる声は低い。住人に聞かせない声の高さになる。
山際トヨが迅の前に立った。立ってから、頭を下げた。
「ありがとうございました」
「はい」
「叩いて回ったの、よくなかったですか」
「よかったです。ただ、次は外からにしてください」
「外からですか」
「外から呼んでください。あなたが中にいると、こっちが二人ぶん探します」
山際は頷いた。頷いてから、宮下の方を見た。
宮下は少し離れたところに立っていた。寝間着の上に上着を着ている。着たのは山際が貸したものになる。
その男は、こちらへ歩いてきた。歩いてきて、山際の前で止まった。
「叩いてたの、あんたか」
「私です」
「聞こえてた」
「聞こえてましたか」
「聞こえてた。起きなかった」
それだけ言って、宮下は頭を下げた。下げた先は迅ではない。山際になる。
山際は何も言わなかった。言わずに、貸した上着の襟を直した。
寺尾はファイヤーの後ろで装備を降ろしていた。降ろしながら、迅の方を見ない。見ずに言った。
「今日も間に合ったな」
「間に合った」
迅はそう答えた。答えてから、口の中を舌で触った。朝に火傷したところが、まだ痛い。
*
地下二層は油の匂いがする。
梅木あかねがギアの柄を並べていた。五本ある。五本とも、この日は一度も噛んでいない。
「班長。使ってません」
「使わせなかった」
「油を落としますか」
「落とせ。使わなかった日ほど落とす」
宮ヶ瀬佳代は図面を見ずに答えた。梅木は面を上げて、五本とも布で拭いた。上げるのが速い。
佐波悠が工具を並べていた。この日は落とさなかった。並べ終わってから、一本だけ持ち上げて、頭の部分を布で包んだ。
「先輩」
「何だ」
「これ、包んでおいていいですか」
「なんで」
「金物に当たると火花が出るので」
梅木は手を止めた。止めてから、自分の並べた五本のうち二本を、同じように包んだ。
「明日は要らんぞ」
「要らない日の方が多いです」
「そうだな」
宮ヶ瀬は図面を広げていた。市営住宅の配管の図になる。市の住宅課から借りてきたものになる。
「更新の途中で止まっている棟は、市内に二十九ある」
誰にともなく言って、図面を巻いた。
「二十九棟を同時に嗅ぐ鼻は、まだ作れない」
二階では、澪が付箋を書いていた。十一枚目になる。六月十六日、緑ヶ丘。
通報 一件。書いてから、地図に貼った。貼った位置は坂の上になる。十枚目までが低いところに集まっていて、十一枚目だけが高い。
澪は十一枚を上から見た。見てから、指を一本置く。置いた指は、九枚目と十枚目の間になる。庁舎の区画の縁になる。
置いたまま、暫く動かさなかった。
二階の受信席で、電話が鳴った。
> 【第七支部 出場記録】
> 臨場 ── 六時四十六分。所要 ── 五分二十秒。
> 保留 ── 一件。最長 ── 十一秒。
> 未着 累計 ── 零。
> 損壊 ── 緑ヶ丘五丁目 集合住宅 空室一戸。外壁一箇所。
> 傷病 ── 一名。搬送なし。
> 本件、処理 ── 完了。
> ── 入電。




