プロローグ 清掃員じゃありません
退学届を出したのは、十一月の末のことだった。
先生に呼び出され、応接室の革張りのソファに腰を下ろしたとき、窓の外では銀杏の葉がひらひらと舞い落ちていた。先生は眉根を寄せ、何度も「もったいない」と繰り返した。成績の問題でも、生活指導の問題でもない。要するに、わたしが自分の意志で辞めたいと言い出したことが、先生には理解できないのだった。
きっかけは、殺人の事件だった。
花山院菜乃葉——わたしは、ある殺人事件に巻き込まれ、一度は誤認逮捕された。その殺害された犯人が連続女子誘拐犯だったことで、校内では「正義の味方」として讃えられ、話題の人になってしまった。華族高等学校は、旧華族のお坊ちゃまやお嬢様が通う学校だ。噂に敏感で、人の視線に聡い。何気ない目配りが気になり、廊下を歩くだけで息が詰まるようになった。気づけば、学校に足が向かなくなっていた。
正確に言えば、向かえなくなったのだ。
事件の捜索を依頼した神楽坂探偵事務所に、わたしは所長と共に動き回った。
その経験が、探偵業に興味を持つきっかけになった。親への説得は難しかった。とりわけ父は渋い顔をした。花山院の傍系として、本家にようやく認められた我が家にとって、華族高等学校への在学はそれなりの意味を持っていたらしい。結局、「大学入学資格検定を取って大学に進むことを条件に」という約束を交わして、判子をもらった。
それが、このわたしが神楽坂探偵事務所に務めることになった、大雑把な経緯である。
通勤は、JR西谷駅まで徒歩十二分から始まる。
ガタンゴトン、ガタンゴトン。
電車が揺れるたびに、眠気が波のように押し寄せてくる。朝が早い。神楽坂の事務所に午前七時に着こうと思えば、起床は五時半になる。準備に三十分。駅まで歩いて、相鉄本線でまず横浜へ。横浜から東急東横線に乗り換えて渋谷へ。渋谷から東京メトロ副都心線で市ケ谷に着き、そこから徒歩で神楽坂まで——慣れてしまえばたいした距離ではないが、乗り換えが多い。
ガラガラの車内を、眠い目でながめる。
キリッとスーツを着こなして文庫本を読むサラリーマン。長い弓ケースを抱えて吊革に掴まる学生——きっと朝練に向かうのだろう。ぐったりと座席に沈み込んで、帰宅なのか出勤なのか判然としない作業服の男性。
この一か月で、いろいろな人を見てきた。
華族高等学校に通っていたころは、電車の中でも、その日の授業のことを考えていた。隣に座る人間のことなど、ほとんど目に入らなかった。通勤という行為がわたしに、世の中には本当にいろいろな人がいるのだと、少し遅れて教えてくれている気がした。
神楽坂探偵事務所に就職したはずなのに、なぜかわたしは毎朝、御影化成株式会社の東京本社ビルに出勤している。
もちろん、本業は探偵事務所の新人スタッフである。しかし、所長の長沢駒からの最初の命令が「御影化成に潜入して、情報を集めてこい」だった。潜入——その言葉を聞いた瞬間、わたしの胸はわくわくドキドキで満たされた。スパイ活動だ、と思った。
ところが、実際に清掃会社に登録して、現場に入ってみると、わたしに与えられた仕事はひたすらモップがけである。指定されたエリアを、毎日同じルートで、同じように磨いてまわる。背筋を伸ばし、胸元のブローチが正面を向くように姿勢を整えること——それが唯一追加された指示だった。このブローチには超小型カメラが仕込まれているらしいが、指示はそれだけである。
……わたしのわくわくドキドキを返してほしい。
クリスマスが近づく社内では、行き交う会社員の会話にプレゼントや予約の話題が混じり始めていた。無視する人、蔑むような目で見る人、気さくに話しかけてくる女子社員——清掃員のわたしに向けられる視線は様々だった。
一番困るのがナンパだった。
瀬戸口浩二という名札をつけた男が、四日ほど前から声をかけてくるようになっていた。「化粧を落とせば可愛くなれるって」などという、上から目線の口説き文句を使う、モテない系の自信家だった。断っても、翌日にはまた現れる。
「君、絶対に可愛くなれるって」
今日も来た。
「美味しいもの食べに行こう。可愛い服、プレゼントするよ。贅沢させてあげるって」
「……結構です」
「そんなこと言わずにさ——」
「嫌がる女性に迫るなんて、恥ずかしいと思わないの」
涼やかな声が、廊下に静かに響いた。
わたしの目の前に、四ツ葉学園のセーラー服を着た女子高生が立っていた。腰まで届く黒髪。背筋をまっすぐ伸ばした、整った立ち姿。喜連川甯子——その名をわたしは知っている。
正確には覚えている。
確かに、学校対抗戦のかけっこで負けた方だ。
一位ではなく、三位だったわたしを指差して、「花山院菜乃葉様ね。その名前、覚えました。次は勝ちます」と言って去っていった。
わたし、三位なのに……どうして。
後で知ったが、上位二名は陸上部、全国大会の常連である。
勝てる訳がないが、私は一般生徒の最上位だったらしい。
甯子が一般生徒の一位を狙っていたらしい。
あのときと同じ自信満々の甯子が言い張った。
瀬戸口は気押されたように口をもごもごさせ、そのまま足早に去っていった。
甯子は彼の背中が見えなくなるまで視線で追ってから、つと首を傾げた。
「どこかでお会いしたことが——」
わたしは黙って首を振った。人違いですと。
だが、甯子の目は諦めていなかった。
午後五時、清掃を終えてビルの玄関を出ると、甯子が仁王立ちで待ち構えていた。
「思い出しましたわ。わたくしの永遠のライバル、花山院菜乃葉様でしょう」
「人違いです」
「隠しても駄目ですわ」
「人違いです」
「では、問い合わせましょう。こちらで清掃員をなさっている方は花山院菜乃葉様でしょうか——と」
「止めて」
「では、どうしてこんな場所に」
「……事務所で話します」
神楽坂探偵事務所のドアを開けると、いつものように駒が一人でコーヒーを飲んでいた。
甯子が出されたデザートを口に運んで、目を細めた。
「まあ……これは」
「神楽坂に来るお客さんには、口の肥えた方が多くてね」
わたしが照れ隠しに言うと、駒は「だから一流を出す。それだけだ」と素っ気なく答えた。
清掃を終えて事務所に戻り、このデザートを食べることが——今のわたしの、正直、唯一の楽しみだった。働くって大変だ、としみじみ思う。
甯子は菓子をひとつ食べ終えると、居ずまいを正した。
「わたくしの婚約者である九条玲於奈がどこにいるのか、探して下さいます」
駒が長い沈黙の後、口を開いた。
「うちは百五十万円からしか依頼を受けない。……が、同じような案件がある。学割ってことで、五十万円にしてやる。払えるか」
「このゴールドカードで宜しくて」
「まぁ、いいだろう。毎度」
カードを受け取った駒は、九条玲於奈のプロフィールを静かに読み上げた。
二十八歳。関西大学工学部卒。専門は防錆・耐熱コーティング。御影化成株式会社に入社後、特殊塗料部門を経て、四つ菱重工の特殊チームに出向。護衛艦外装コーティングの研究データを管理する立場にあった。
五月。旧営業課の前上司に呼び出され、罵倒された。
ミサイル先端塗装の情報が中国に漏れた。発注した下請けに問題があった——その責任を、九条玲於奈が一身に押しつけられたのだ。根も葉もない言いがかりだった。しかし、社内には少なからず信じる者があり、妬みも重なって、SNSに無記名の記事が流れた。九条玲於奈が犯人であるかのような内容だった。
「よくご存じですね」
「同じ案件だといっただろう。九条玲於奈のパソコンの件で、四つ菱重工から依頼を受けている」
「九条玲於奈様のパソコン?」
「ああ。護衛艦塗装のデータが何者かに不正に持ち出された。九条玲於奈の個室PCが、本人不在の時に三度起動された形跡がある。だが、防犯カメラにはその侵入者が映っていない」
「カメラが故障したのですの?」
「カメラは正常だった」
駒は淡々と続けた。
「幽霊を捕まえろ、という依頼だ」
「幽霊?」
「九条玲於奈が化けて出てきたのかもな」
「そんな方ではございません」
甯子の声が、わずかに固くなった。
九条玲於奈は社内での噂に精神的に追い詰められ、不安定な日々を送った。お盆休みに香港へ渡ったきり、行方がわからなくなっている。日本人らしき人物が拉致された、あるいは死体は発見されていない——駒は低い声でそう告げた。
「勝手に殺さないで下さいます」
「殺しちゃいない。あくまで可能性として言っているだけだ」
「で、今はどこに」
「知るか。これから探すんだよ」
「いつわかりますの」
「三か月は待ってくれ」
「クリスマスに間に合いませんわ。無能ですわね」
その日から、喜連川甯子は学校が終わるたびに、神楽坂探偵事務所へ来るようになった。




