エピローグ
十二月。神楽坂の翁庵は、相変わらず温かい蕎麦の匂いがしていた。
店を覗くと、カウンターの隅で、駒は、天ぷらや卵焼き、かまぼこまで山盛りに乗った「特選かつそば」を、誰にも邪魔されずに食べていた。それも、一人で、心の底から満足そうな顔をしている。
加藤清司の事件は、結局「迷宮入り」のまま、世間からは忘れられてゆくのだろう。横浜の人身売買組織の一斉摘発というニュースの方が大きく扱われ、軽井沢の事件への関心は、いつの間にか薄れていった。
起訴されなかった以上、私は法律的には「無実」だ。けれど、一度「あの子」として顔と名前が広まってしまった以上、お嬢様としての私の人生は、もう、元には戻らない。学校に戻っても、ところどころで、ひそひそ話は続いている。
別に、いい。
むしろ、清々している。
「たのもう!」
翁庵の引き戸を、思いきり開けて入ったら、駒が思いきりそばを吹きそうになっていた。
「お前、なんでここに……」
「求人広告、見たので」
「は? 出してねえよ、そんなもん」
「出ていました。年齢不詳、やる気のある人」
「だから、アルバイトは募集してないって」
「アルバイトじゃなくて、就職です」
「学校はどうするんだ」
「もう、辞めてきました」
あの事件で、私は、自分が今までどれだけ狭い世界で生きていたかを知った。お嬢様学校の中だけが世界の全部だと思っていたけど、その外側には、もっとずっと広くて、ずっと複雑で、ずっと理不尽な世界がある。
江梨子さんと弥生さんのこと。福富町で「商品」として見られたこと。駒の、めちゃくちゃで、でもどこか芯のある「ルール」のこと。
その全部を、もっと知りたい。知った上で、自分にできることをやりたい。
「だから、雇って」
「年齢、未成年だろ」
私は、鞄から一枚の書類を取り出して、駒の前にすっと置いた。母のサインが入った、承諾書と同意書だった。
「お母さんが、書いてくれた。『もう菜乃葉のことは諦めました。探偵さんのところなら』、だって」
駒は、書類に目を通すと、深いため息をついた。
「俺、人手は欲しいんだけどな……」
「でしょ?」
「お前、めちゃくちゃ面倒くさそうなんだよな……」
「雇うって言うまで、ここ帰らないから」
駒は、しばらく天井を見上げていた。それから、残っていたかつそばを、一気に飲み込む。
「……テスト期間、三ヶ月。それで使えなかったら、即クビ」
「やった!」
私は、思わず立ち上がって、両手を上げた。店の他のお客さんが、ちらっとこちらを見る。
神楽坂探偵事務所の新しい助手は、こうして、ひとりの「元お嬢様」に決まった。
まだ、私の前途は、まったく見えていない。
お嬢様という肩書きが約束していたはずの未来を、私は全部、失った。
でも、駒──探偵さんの目には、私の知らない世界が映っている。
私も、見たい。
まだ知らない世界を。そして、そこから、新しい道を見つけるんだ。




