第6話 被害者?
USBメモリーの中身は、警察が集めた事件関係の資料だった。事情聴取の記録、押収品のリスト、そして――加藤清司が所持していた、複数の偽造免許証のデータ。
駒は、その資料に三日間、目を通し続けた。そして十一月二十三日、母に連絡を入れた。
「目黒区の自由が丘に来てください。江梨子さんと弥生さんも、お呼びしています」
指定されたのは、自由が丘の駅から少し離れた、地下にある中華料理店だった。半個室になった奥の席に案内され、薬膳の香りがする小さな鍋が運ばれてくる。けれど、私も母も、料理に手をつける余裕はなかった。
江梨子と弥生が、少し遅れてやってきた。二人とも、あの霞が関館で会ったときよりも、ずっと痩せて見えた。
「お忙しいところ、申し訳ありません」
駒は、いつもの無精髭のまま、丁寧に頭を下げた。それから、USBメモリーとプリントアウトした書類をテーブルに置く。
「警察の事情聴取の記録、読みました。お二人が、加藤清司さんから、何年もの間、どんな扱いを受けてきたか」
江梨子の肩が、わずかに震えた。
「両親の借金を、清司さんが肩代わりした。その『代償』として、江梨子さんは、四年間、自由を奪われていた。弥生さんも、大学に入ってから、同じ目に遭った。そして――何度も」
駒は、それ以上は言わなかった。言わなくても、テーブルの上の空気だけで、十分だった。
「だから、お二人には、清司さんを殺す理由がある。これは、事実です」
「でも……私たちには、アリバイが」
江梨子が、かすれた声で言った。
「ええ。完璧なアリバイです。江梨子さんは、事件前は新潟のホテルに早朝までおり、翌日の朝から東京で仕事をしていた。ホテルのカウンター、会社の同僚、複数人が証言してます。そして、弥生さんも、新潟で、友人たちと一緒だった」
駒は、資料の中から一枚の紙を取り出した。
「ただ、ひとつだけ、気になることがありました。『謎の女A』です」
「謎の、女……?」
「八月十一日の夜、新潟駅近くのレンタカー店で、ひとりの女性が、免許証を使って車を借りています。その免許証は――北海道在住の、ある女性のものでした」
「北海道……?」
「その人も、清司さんの組織の被害者のひとりです。組織は、被害者の身分証をコピーして、偽造免許証を作っていた。けれど、おかしいんです。その本人は、同じ日、札幌で目撃されている」
「じゃあ、新潟でその免許証を使っていたのは……」
「本人じゃない。組織が使い回していた偽造免許証の一枚を、誰かが持ち出して使った、ということです」
駒は、資料の別の紙を見せた。
「組織が清司さんに渡していた偽造免許証の枚数と、警察が押収した枚数――一枚、足りなかった。それが、新潟で使われたこの一枚です」
駒は、ゆっくりと話を続けた。
「その車は、翌朝、軽井沢のレンタカー営業所近くで乗り捨てられていた。江梨子さんが、八月十一日の夜、居酒屋で『気分が悪い』と言って中座したのが、十八時頃。そこから、新潟駅に向かい――この偽造免許証で、車を借りた」
「……」
「軽井沢に着いたのは、深夜。そこで、清司さんと会った」
江梨子は、もう何も言わなかった。代わりに、隣の弥生が、小さく口を開いた。
「姉が……新潟に戻ったのは、翌朝です。新幹線で」
「そうですね。問題は、そこです。江梨子さんは『新潟にいた』というアリバイがあり、同時に朝から『東京で仕事をしていた』というアリバイもある。両方が成立するには――一つしか、方法がない」
駒は、テーブルの上に、二枚の新幹線の時刻表を並べた。
「上越新幹線は、大宮で、上りと下りが、ほぼ同時刻にホームに並ぶことがある。八月十二日の朝、新潟行きの列車と、東京行きの列車が、大宮で数分間、同じホームに停まっていた」
「……まさか」
母が、小さく息を呑んだ。
「弥生さんが、新潟から東京行きの列車に乗って、大宮まで来る。江梨子さんは、軽井沢から新潟行きの列車に乗って、大宮まで来る。二人は、同じドアで、すれ違う。そのとき、切符だけを交換する」
「……」
「江梨子さんは弥生さんと入れ替わりは、東京行きの列車のまま、東京の会社に出社する。弥生さんは江梨子さん、いいえ、ここでは謎の女Aとして新潟へ折り返す。新潟駅で謎の女Aは消え、部屋で休んでいた弥生さんは昼前に大学に向かう。そんな推測が立ちますが、どうでしょうか」
「…………」
二人とも黙ってしまった。
「服装まで同じものを用意していれば――数分のすれ違いで、入れ替わりは成立します。江梨子さんは、日焼け対策のパーカーを着ていた。謎の女Aはコートを着ていた……とか。ホームで新幹線に乗って、すぐに降りてくる謎の女Aがホームの映像に残っているでしょうね」
長い、長い沈黙があった。
謎の女Aは、コートを着ていた。江梨子さんは、日焼け対策のパーカーを着ていた──そのどちらも、警察の調書だけに書かれていた、細かな記録だ。
犯人でないならば、江梨子と弥生が、そんなことまで知っているはずがない。
驚く筈もない。
江梨子さんが「それがどうしたの。私はずっと新幹線に新潟から東京まで乗っていました」と答えればいい。
でも、答えられない。
二人の体が、小さく震えていた。その目が、もう答えを語っていた。
そして、やがて、江梨子の目から、涙が一筋こぼれた。
それは、何かを認める言葉よりも、ずっと重く、ずっと確かな答えだった。弥生も、姉の手を握りながら、声を出さずに泣いていた。
駒は、静かに二人を見つめてから、母の方を向いた。
「さて。どうしますか」
その問いの意味を、私はすぐに理解した。
「新しい犯人が見つかれば、菜乃葉さんへの疑いは、完全に晴れます。『謎の女A』も、謎ではなくなる」
駒は、淡々と続けた。
「ただ、そうなれば――この資料に書かれていることも、全部、表に出ます」
江梨子と弥生が、何年間、何をされてきたか。そのすべてが、また、テレビとSNSのネタになる。今度は、私の代わりに、この二人が。
「噂は、悲劇の二人に移ります。菜乃葉さんは、解放されて、同情される側になる」
私は、首を振った。
「もういい」
「菜乃葉……」
「もう、いいって。お母さん」
私は、もう一度、繰り返した。
「私の名前が晴れるのと、この人たちの人生がもっと滅茶苦茶になるのが、引き換えなんて嫌よ。そんなの、いらない」
誰かの不幸の上に、自分の「正しさ」を置きたくなかった。それだけだった。
母は、しばらく、私の顔を見ていた。それから、テーブルの上のUSBメモリーと資料を、そっと駒の方に押し戻した。
「字が汚くて、よく読めませんでしたわ」
母は、それだけ言って、小さく笑った。
江梨子と弥生は、最後まで、何も言わなかった。けれど、店を出るときの二人の背中は、来たときよりも、少しだけ軽く見えた。
その日、私たちは、結局、薬膳鍋にほとんど手をつけなかった。




