第一話 新年、霞会館のお嬢様たち
振袖なんて、一生に一度、成人式で着るくらいだと思っていた。
二〇二六年一月五日。|霞が関コモンゲート西館の駐車場から、父に連れられて霞テラスへ出た。平日の昼前、普段なら何千人ものサラリーマンやビジネスパーソンがコーヒーを片手に行き交うその場所は、元旦からの連休で完全に時を止めたように静まり返っていた。
大都市の真ん中にぽっかりと出現した、巨大な空白――わたしは思わず立ち止まって霞が関ビルディングを見上げた。遺跡のように超高層ビルが墓標として立ち並び、振袖のわたしを見下ろしている気がして、胸の奥がわずかにすくんだ。
地下の駐車場から地下ルートを通ることもできたが、はじめて来るわたしのために、父は地上ルートを選んでくれた。霞が関ビルディングに入ると、自分たちの足音だけが響く静寂に包まれた。たくさんのエレベーターが並ぶフロアを抜け、一度一階へ降り、そこから三十四階直通へ乗り換えた。
扉が開くと、大理石の床から一転、足元は深い深紅の絨毯に変わった。
霞会館——ここが、今日の舞台だ。
駒からの命令は明快だった。五人の要人と面識を持て、名前と顔を覚えてもらえ——それだけである。リストを渡されたとき、わたしは気軽に「了解です」と答えた。しかし、一人目の名前を見た瞬間に青くなった。
一人目が、梓宮様だ。
大勢の人が幾つかの輪を作って立ち話をしている。旧皇族、名門華族、財閥、そして今をときめく企業家——その輪の中でひときわ気品のある御方がいた。非常に優雅でエレガントな叔母さまのような方だ。
いきなりそこへ行くのか。わたしの心臓は縮み上がった。
すると、背後に涼やかな声がした。
「あら、菜乃葉様じゃありませんこと」
振り向くと、私と同じ振袖に身を包んだ喜連川甯子が立っていた。七日ぶりの再会だった。甯子がわたしの両親に丁寧に挨拶をし、自分の両親を紹介する。喜連川家のご両親が、柔らかく頭を下げた。
「この五人なら、すべて面識がございますわ」
わたしがリストを見せると、甯子は静かに言った。
「本当に? 助けて」
「仕方ありませんわね。付いていらっしゃい」
甯子が先頭に立って会場を歩き始めた。
その立ち居振る舞いは見事だった。輪のそばへ静かに近づき、華麗なアイコンタクトでゆっくりと前に進む。背筋を伸ばし、しかし確実に相手の視線の入る位置へ。すると不思議なことに、輪のなかの誰かがさりげなく場所を譲ってくれる。こういうのを、生まれ持った作法というのだろうか。
甯子に促され、わたしも一歩前へ出た。
梓宮様は非常に気品のある御方だった。
甯子が背筋をまっすぐ伸ばしたまま腰から深々と折り、最敬礼を行った。
「(梓宮)殿下におかれましては、新春を健やかにお迎えのこととお慶び申し上げます。本日、お目通りの機会を賜り、身に余る光栄に存じます」
「まあ、喜連川さんのところのお嬢さんね。大きくなおなりになって。今日はよくおいでくださいました」
次はわたしの番だった。
……嘘でしょ!? あんな完璧なスピーチ、聞いてないんだけど。
甯子の父が「こちらは花山院家のお嬢様です」と紹介した。
わたしの心臓は壊れたメトロノームのように激しく打ち鳴らされた。
「あ、あの……!」
声が裏返った。
「花山院菜乃葉です。本日はお招きいただき……でなくて、いや、お目通り……いた、いただきまして、本当にあざっ、ありがとうございますっ」
完全にやってしまった。
その瞬間、周囲のいくつかの視線がわたしに集まったのがわかった。小さなざわめきが起きかけた——その時、梓宮様がそっと目配りをされた。たったそれだけで、ざわめきはすうっと静まった。まるで、湖面に落ちた石の波紋を誰かが手で押さえたような、静けさだった。
「畏まらなくていいのですよ。お振袖が、とてもよくお似合いよ。菜乃葉様ね、覚えておきます。皆様も優しくして差し上げてくださいな。わたくしからのお願いです」
本物の気品というものを、そのとき初めて知った気がした。
「次は、あちらの殿方ですね」
「えっと……徳川家仁様ね。第十九代徳川宗家当主の甥で次期当主様ね」
「第十九代ってことは、二十代様⁉」
「ええそうね。確か、スタンフォード大学に通われていたと記憶します。帰っていらっしゃっていたのね」
「スタンフォード大学……」
「最近のAIを研究されているらしいわ」
「徳川家がAIって……」
「別に珍しくありませんわ。この主催、華族の理事長様は『これからの華族の資産運用はAIと通信インフラだ』と言われてますもの」
「そうですか」
梓宮様という山を越えたので大丈夫と思ったけど、住む世界が違い過ぎる。徳川って書いてあったから、将軍様と同じ名前だ、くらいしか思っていなかった。その末裔ですか、歴史は繋がっているんだ。
あたふたしながら残りの三人を乗り切った。
甯子が隣でそっと助言を送り、わたしは深呼吸して笑顔を作って頭を下げる。それを繰り返しただけのような気がする。
「最後は、あの方ね」
「怖そう」
「実際に怖い方よ」
「脅さないでよ」
五人目に挨拶した河野通直(横須賀地方総監・海将)は、最初の四人とは少し違う、目が鋭く、話しているだけで緊張する御方だった。
午後三時、|La Maison Jouvaud虎ノ門店。
駒と合流するためにやって来ると、なぜか駒は屋外テラス席にいた。一月の寒空の下、コーヒーを飲んでいる。
「……なぜ外に」
「中は込んでいる。秘密の話ができない」
確かにテラス席は他に誰もいなかった。寒空でケーキを美味しそうに食べる物好きは、駒しかいなかった。
「好きなものを頼め」
シトロンのタルトを口に入れると、サクサクと香ばしい薄いタルト生地、とろけるほど滑らかなレモンクリーム、そしてシュワッと儚く消えるメレンゲが、口の中で完璧なグラデーションを描いた。
寒いのに——おいしい。
甯子はショコラティエを選んだ。チョコレートの内側に閉じ込められた自家製プラリネの香ばしさに、一瞬、目が見開かれた。
「これは……」
「そうだろう」
駒が満足そうに言った。振袖を着た女子高生二人と、二十九歳の中年顔の男が三人でテラス席に座っているのは、通りすがりの人が見たら、かなり奇妙な光景だったと思う。でも、ケーキがあまりにも美味しくて、そんなことはどうでもよくなった。
「五人と、ちゃんとご挨拶しました」
わたしが報告すると、駒は短く言った。
「よくやった」
「えへへ、やればできる子でした」
「最初はめちゃくちゃだったけどね」
「それは言わないでよ」
「わたくしが居なければ途方に暮れていましたわね」
甯子がすかさず補足する。……否定できないのが悔しかった。
「そうか、なら報酬も払っておこう」
駒はポケットから薄い封筒を取り出して甯子に渡した。甯子は受け取りながら眉を上げた。
「……これは」
「九条玲於奈の調査資料だ。事件の経緯と、交友関係の名前が入っている。ただ、新しい事実はまだない」
「情報はたったこれだけですの」
「今の段階で出せるのはそれだけだ」
甯子は封筒を静かに受け取り、膝の上に置いた。名家のお嬢様というのは、こういうとき、不満をあまり顔に出さない。
駒は続けた。今日の五人との挨拶は、次に営業をかけるための顔繋ぎだという。ただし、河野通直だけは別だ。駒を嫌っているらしく、絶対に直接は会ってくれない。だから、何かあったときのために、花山院菜乃葉ルートを確保しておいた——と駒は平然と言ってのけた。
「いろいろあるんだ」
それ以上は誤魔化された。
「で、九条玲於奈に戻すぞ」
「まったく、クリスマスに見つけられない無能な探偵でしたわ」
「できるか」
「見つかりましたか」
「まだだ」
「やっぱり無能です」
甯子が毎日のように事務所にやって来て、一向に動かない駒を責め続けていた——そのことを、わたしは隣で見ていた。
確かに、御影化成が年末の大掃除を終えた十二月二十九日がわたしの最終日で、事務所も三十日から休みに入った。正月四日に事務所が開いてから、最初の仕事がこの新年会だった。十数日で行方不明者を見つけろというのは、さすがに無理だとわたしでも思う。でも、毎日通い詰めてのんびりしている駒を眺め続けてきた甯子が、責める気持ちはわかった。
ケーキを食べ終えて、ふと、わたしは甯子に聞いた。
「九条玲於奈を、とても慕っているのですね」
「当然でしょう。婚約者ですもの」
「いつも、どこかでお会いになっていらしたの」
「この新年会や、二、三度の集まり、それとクリスマスのディナーくらいですわ」
「……それだけ?」
「当然でしょう。近況を報告するくらいですわ」
わたしは少し驚いて、それから聞いた。
「本当に好きなの?」
「菜乃葉様はまるで一般生徒のような質問をしますわね」
甯子は少し溜息をついてから、話し始めた。
九条玲於奈と喜連川甯子の間に、いわゆる恋愛感情はない。互いの一族の長が決めた婚約で、近況を報告し合う関係だという。手の甲にキスはあったらしいが、「唇などという破廉恥なことは致しません」と甯子は顔を赤らめた。
「菜乃葉様、一族を存続させる為に何が必要だと思います」
「団結力?」
「そんなものは必要ありません。価値観の共有です。四百年続けてきた家を守り、未来に繋げるという価値観を共有することです」
甯子の言葉は静かで、しかし揺るぎなかった。「自由や権利を否定するつもりはありません。ただ同じ価値観を持つ人と共にいたい」——それが甯子の選択だと言った。
「わたしの家は花山院家の爪弾き者だから、よくわからないわ」
「菜乃葉様のお家は、花山院家が変わるべき道を示す道標にされているのでしょうね」
「それって……モルモットじゃない」
「仕方ありませんわ。どこへ向かうにしても、羅針盤がなければ道に迷ってしまいます」
そう言った後、甯子が何気なく付け加えた。
「でも、宮内庁御用達の神楽坂探偵事務所だから就職が許されたのでしょう」
「……えっ、本当に?」
わたしが駒に目を向けると、駒は素っ気なく言った。
「別にそんな肩書きはない。事務所を開いたとき、元女王殿下が仕事を回してくれた関係で、宮内省から調査依頼が来るだけだ」
駒が時計を見て立ち上がった。
「これから菜乃葉と帝国ホテルに行くが、喜連川さんはどうする」
「帝国ホテルに何を」
「経済三団体の新年祝賀パーティーだ。九条玲於奈の話が聞けるかもしれない」
「そういうことなら、参ります」
駒がにやりと笑った。
花山院家と喜連川家のお嬢様を連れて入れば、向こうから声をかけてくれる——そういう算段だったらしい。
結局、会場では九条玲於奈について新しい事実は何一つ出てこなかった。甯子が「何もなかった」と怒ると、駒は涼しい顔で返した。
「聞けるかもと言っただけで、わかるとは言っていない。俺は新しい名刺を二枚もゲットできて満足だ」
挑発する駒に甯子がぐっと言葉を飲み込んだ。




