第二話 消えた社員の足取り
二〇二六年一月六日~九日。
正月明けて、事務所に出勤した日を思い出す。心を弾ませてドアを開けると、駒がモップを差し出してきた。
「はい、これ」
「何ですか」
「モップだ。知らんのか」
「知っています。これをどうするのかと聞いています」
「神楽坂ビルの地下一階から四階の廊下掃除ね」
「……また、掃除ですか」
「他に何ができるんだ」
駒は取り付く島もなく事務所の奥に消えた。
午前はビル全体の廊下清掃、午後は共用窓と事務所の窓拭き、合間に近所の高級菓子店で来客用の菓子を買い出しに行く——それがわたしの仕事の全てだった。
一月九日。
毎日のようにビルの掃除を続けていると、同じビルの社員やバーのお姉さんとも顔見知りになってきた。床掃除をはじめた頃は、道を行き交う人が溢れていたのに、お昼が近づく頃には、犬の散歩をする老婆などのゆったりした時間に変わってゆく。この時間を見計らってビル前のゴミ拾いを行っていると、地下一階の“バーくるみ”のママがお昼前に出勤してきた。
「菜乃葉ちゃん、いつもご苦労様」
「ママさん、おはようございます」
「そうだ。更衣室の鍵を預かったままでした」
「そのまま持っていていいわよ。ロッカーは貴方が使っていいのよ。それより事務所の制服を作って貰いなさい。そんな綺麗なおべべを着ていると、夏場は汗だくになって通勤ができなくなるわ」
「はぁ、そうなのですか」
ママはウインクをして、階段を上がっていった。
バーの更衣室にはロッカーやシャワー室、洗濯機まであり、潜入捜査中は着替えや化粧のためによく利用した。
でも、潜入捜査はもう終わり、駒は十分な証拠が揃ったと言っていた。
「飯にするか。付いて来い」
「はい、今日はどこにしますか?」
「何か希望はあるか」
「いいえ、好き嫌いはありません」
「なら、今日は坂の上のイタリアンにするか」
駒は事務所の扉に鍵を閉めると、食事中のプレートを掛けた。
潜入中は、小さな部屋で温かいだけの日替わり弁当ばかりだったが、所長の駒は食事にこだわりがあり、美味しい店ならどこでも連れて行ってくれる。空いて待ち時間がない店に限るみたいだ。
以前の調査のときもいろいろな店に連れて行ってくれたが、比較的蕎麦店が多い気がする。
午後の窓拭きは少し辛い。
四階建てのビルディングは、窓をモップで洗って、スクイジー(水切りのゴムワイパー)で一気に水を切り、最後に雑巾で乾拭きをする。
水を使うからか、寒さが倍増する。
共同部分と探偵事務所の窓のみなので午後三時くらいに終わり、その頃になると、窓の外に女子高校の制服がチラホラと見えてくるのだ。
高校を辞めたことを後悔はしていないけど、やっぱり寂しいかな。
今日は学生の姿が多い気がする……そうか、今日は金曜日か。
わたしも友達と出掛けるのは、金曜日の放課後か、土曜日の昼からが多かった。そんな事を思っていると、学生の中に喜連川甯子のセーラー服を見つけた。
事務所に入ってきた甯子に茶菓子を出しながら、わたしも休憩を入れ、一緒にデザートを頂く。
こうして、高級菓子が毎日食べられるのが、この事務所のいい所だ。
甯子は三日と空けずに事務所に顔を出す常連様であり、少し前のわたしみたいで可笑しい。そんな甯子にわたしは「探偵らしいことがしたい」と愚痴をこぼした。
すると、奥から顔を出した駒が言った。
「そんなに探偵っぽい仕事がしたいなら、福岡に着いてくるか」
「行きます。いつですか」
「明後日だ。九条玲於奈が推薦した工場長とのアポが取れた」
「そういう話なら私も付いてゆきます」
甯子がすかさず割り込んだ。
「まぁ、構わんが、特に捜査が進展すると思うなよ」
「覚悟の上です」
「飛行機の席は俺が予約するが、費用は自分持ちだ」
「構いません」
わたしは自分のときにそんなことを言われなかったので首を捻った。
「所長、わたしのときは、そんな事を言いませんでしたね」
「調査費に百五十万円を貰っただろう。その内の五十万円は接待費だ。余っても返さんが、足らないといって追加で請求することもない」
「そうなのですか」
「こいつから調査費の五十万円しか貰ってないからな。だから、自腹だ」
「カードでよろしくて?」
「あぁ、後で請求する」
甯子は金額も聞かずに承諾した。
いやいやいや、わたしには無理。
中型バイクの講習費用の二十七万円を貯めるのにも三年間も掛かった。本物のお嬢様というのは、お金のことをこういう顔で言えるものなのかな、とわたしは少し感心した。
十一日、成人の前日、わたしたちは飛行機で南へ飛んだ。
福岡空港からタクシーで三十分あまり。助手席に座った駒が後部座席のわたしと甯子に資料を回してきた。
株式会社やまえハイテクス——筑紫野市にある防衛・航空宇宙関連の産業製品を製造する企業だ。設立八年目の第三工場では、新幹線や民間高級機向けの特殊塗料を手がけている。
甯子が横から盗み読みし、眉をひそめた。
「中国の下請けに任せれば、防衛機密が漏れるのは当然じゃない」
「御影化成の営業二課の課長曰く、受注価格が安すぎて仕方なかったと言っている」
駒が淡々と答えた。
何でもミサイルの予算が少ない。四つ菱重工の受注価格が安すぎて、自社工場で生産すると赤字になる計算だった。そこで、以前使っていた中国の工場に発注した——それが事の始まりだった。
「駒さん、御影化成に潜入する説明で、営業不振から営業二課の課長が値切ったとか言っていませんでした」
「あぁ、言ったぞ」
「でも、ここには見積もりが安かったと書かれています。食い違いませんか」
「どこが食い違っている。営業二課の営業が不振なのも事実。最初から請け負ってきた見積もりは安かったのも事実だ。見積もりが安かったという事実は後から判ったことだが、課長が値切ったという推測が間違ったと思っていない」
「推測、推測、推測ですか」
「仮説を立て、事実というピースを合わせてゆく。間違っていないぞ」
ちょっと騙された気分だが反論できない。
窓の外に工場の煙突が見えてきた。
見学可能な第一工場の横にある事務棟、その一室で第三工場長と向き合った。
工場長は、『いいづか雛のまつり』の後援会の一人で、大学時代の九条玲於奈と知り合い、それ以来の付き合いだという。
いいづか雛のまつり?
「九条家にゆかりのある方が、昔このお祭りに関わっていたそうよ…………」
止まらない説明に駒がこほんと咳払いをして、そこで九条玲於奈の婚約者だと説明を加えた。
工場長は少しびっくりしていたが、納得した様子で話し始めた。
「四つ菱重工の戦闘機塗装の仕事を依頼してきたのは、九条玲於奈様が御影化成にご入社されてまもなくのことでした。その後も継続的にお仕事をいただいておりましたが、三年前に御影化成の営業二課から新しいミサイル先端塗装の仕事が参りまして……受注価格が安く、一度はお断りしたのですが」
「断れば今の受注も、他に回すと言われた、と」
「その通りです。困り果てた私は、九条玲於奈様にご相談しました。それがあの下請けでした」
「九条さんが中国の下請けを勧めた?」
「はい。何度も視察なさった実績のある工場で、信用できると保証してくださいましたので。まさかこのようなことに……」
工場長の声が小さくなった。
「四つ菱重工の査察官は何と言っているのでしょうか」
「それほど心配することはありません」
駒は何度も「大丈夫です」と繰り返して、工場長と別れた。
外へ出ると、甯子がわたしの袖を引いた。
「……九条玲於奈様が、ご自分で勧めたのですね」
「そういうことになる」
「信じられません。玲於奈様がそんな無謀なことを指示なさるなんて」
「中国に発注する企業は多いよ」
「でも、食品や衣類と違います。防衛機密が関係することに、中国の下請けを勧めるなんてあり得ないのです」
詳しくないわたしは何も言えなかった。
事情聴取を終えると、待たせていたタクシーに乗り込んだ。
「次はどこですか」
「せっかく福岡に来たから"町屋ハコザキのチーズケーキ"だろう」
わたしの頭に「???」が浮かんだ。
「何か意味があるんですか」
「地方に来たら、名物を食べないと勿体ない」
「もう事情聴取は終わりですか」
「今日は終わりだな。食べないなら別に構わんぞ。俺だけが食うから」
「食べます」
筥崎宮のほど近く、下町の風情が残るエリアに、レトロな古民家造りの店があった。町屋ハコザキ——木造の建屋に坪庭、畳の部屋。昭和の面影を残す空間だった。
出てきた特製チーズケーキは絶品だった。ベースとなるチーズケーキそのものは上品でクリーミーな甘さで、口の中でとろけるように消える。上には「わさびあられ」が散らされており、甘みとほのかな塩気、それにピリッとしたアクセントが絶妙な驚きを生んでいた。
「……美味しい」
甯子が、珍しく素直に言った。
とっても美味しかった。
でも、こんなことでいいのかな?
駒は黙って二個目を注文した。
店を出てJR箱崎駅へ歩く途中で、わたしは人の流れに気づいた。男性が白い長衣をまとい、女性がロングドレスにヘッドスカーフ——イスラムの服装の人々が、いつもより多く行き交っている。
「そんなに珍しいか」
「少し多い気がして」
「ここは福岡マスジドが近いからな」
「周りの方の目が厳しい気がします。住民と揉めているのですか」
「さぁな、知らん。ただ、外部の者が煽っている部分がある」
甯子が静かに言った。
「土葬の場所が足りなくて、近所と揉めているらしいわ」
「限られた土地を取り合えば、いつかどこかでぶつかる。どちらが悪いのでもない」
駒はそれだけ言うと、また歩き出した。
博多駅に着くと、駒は迷わず|STATION BOOTHに吸い込まれた。周りがざわついているため、電話がしにくいからだという。
しばらくしてブースから出てきた駒は、短く言った。
「大阪に行く」
「えっ」
「みずほ六〇八号のグリーン車を取った。一八時二二分発、新大阪着二〇時五〇分」
甯子とわたしは顔を見合わせた。
駒はそのまま「おみやげ街道博多」に立ち寄り、東筑軒の「かしわめし」、「元祖博多めんたい重のお弁当」、「豊後牛博多明太弁当」を小脇に抱えてホームへ急いだ。
「電車の中で食べるのですか」
「駅弁は車内で食うものだ。お嬢様はそんなことも知らんのか」
駒が涼しい顔で言う。
「喫茶店に入るほど時間もない。さっさと乗れ」
みずほが滑り込んでくる。
甯子がわたしに耳打ちした。
「大阪で、何を調べるのかしら」
「さあ」
わたしも知らなかった。駒はいつも、次の一手をギリギリまで明かさない。
グリーン車の座席に落ち着いて、駅弁の蓋を開けながら、わたしはぼんやりと考えた。九条玲於奈の影が、わずかに濃くなった気がした。




