第4話 人身売買組織に殴り込みなんてしない
「邪竜会、っていうのが、横浜を仕切っている組織らしい」
事務所に戻った駒は、赤坂会から渡された資料を、デスクの上に広げた。そこには、人身売買に関わっているとされる組織の名前と、いくつかの店の名前が書かれていた。
「これ、警察に渡せばいいんじゃないですか?」
「マスコミに詳しい記者なら、これくらいの情報、自分で辿り着く」
「じゃあ、なんで報道されないんですか」
「上の方に、変な人脈があるんだろうな。誰かにとって都合が悪いことは、報道されない。よくある話だ」
駒は資料を折って懐にしまうと、「行くぞ」と言って立ち上がった。今日の行き先は、横浜中華街。
善隣門の近くにある、創業七十年を超えるという老舗の中華料理店。店の奥の個室に案内されると、駒は「ママ、いる?」と、店員に声をかけた。
出てきたのは、小柄で、けれどしゃんと背筋の伸びた、八十代くらいの女性だった。
「駒くん。久しぶりだね」
ママは、慣れた様子で北京ダックと小籠包を注文すると、駒の隣に座った。皮はパリッとして、中の肉汁は驚くほど熱い。私が小籠包を頬張っている間、二人は静かに話し始めた。
「福富町のことだろ、聞きたいのは」
「さすが、ママ」
「昭和の頃はね、ここも、夜になると物騒だったもんよ。本物のマフィアが、うじゃうじゃしてた。殺しだって、珍しくなかった」
ママは、お茶を一口飲んで続けた。
「あの時代を生き抜いた人間は、身綺麗になっても、昔の伝手ってのは切れないもんさ」
ママは、紙ナプキンに、小さく何かを書いて駒に渡した。駒は、それを一瞥すると、ポケットにしまった。
「この街、こんなに静かなのに、マフィアがいるんですか……」
私が小声で言うと、駒は静かに答えた。
「静かなものさ」
それだけだった。
車で向かったのは、福富町という歓楽街だった。多国籍のネオンが入り混じる、昭和の雰囲気を残した小さな飲み屋街。ママから聞いた情報をもとに、駒はいくつかの店をまわり、合い言葉らしき言葉を交わしていく。
「――そう。それで合ってる」
ママの情報は、正しかったらしい。何人かの売人らしき男たちと、駒は静かに言葉を交わしていく。お金や、何かの「条件」についての話だった。私には、半分も意味がわからなかった。
そのうちの一人が、ふと、私の方を見た。
「兄さん、その連れ……」
男の目が、品定めするように、私の顔から足先までをなぞった。背筋に、ぞわっとしたものが走る。
「こいつ、いい値で売れるよ。欲しいって人、いっぱいいるからさ」
胃の底が、すっと冷たくなった。
駒は、表情も変えずに、指を一本立てた。
「百万。買った」
「いや、一億だ」
男たちが、ちょっと笑った。冗談として処理されたのが、空気でわかった。けれど――私は、笑えなかった。
「私は、商品じゃない」
声が、自分でも驚くくらい低く出た。
次の瞬間、私は前に出ていた。男の腕を取り、体重をかけて、足を払う。柔道の経験はないけれど、母に「女の子は最低限これくらい」と習わされた護身術が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
男は、あっけなく地面に転がった。
「て、てめえ……!」
近くにいた数人が、こちらに気づいて駆け寄ってくる。
「逃げるぞ」
駒が、私の手を引いて走り出した。私たちは、ネオンの間を駆け抜け、駐車場に停めた車に飛び込む。
車が走り出してから、駒は呆れたように言った。
「お前、めちゃくちゃだな」
「駒さんが、変な値段つけるからでしょ」
「冗談だよ、冗談。あれくらい言わないと、向こうも本気にしない」
「……次、捕まったらどうするんですか」
「捕まったら、知らねえぞ」
駒は、あっさりとそう言って、アクセルを踏み込んだ。
横浜の夕焼けが、後ろに遠ざかっていく。
私は、まだ少し速い心臓の音を聞きながら、さっきの男の言葉を思い出していた。「商品」として見られる、ということの意味を、私は今日、初めて本当に理解した気がした。
江梨子や弥生も――もしかしたら、こんな目で見られていたのかもしれない。
そう思うと、最初に感じた怒りが、少しだけ違う種類のものに変わっていくのを感じた。




