第1話 正義と現実を見る
九月末。ようやく秋の気配が神楽坂にも降りてきた頃――神楽坂の路地裏、ビルの二階に「神楽坂探偵事務所」という、飾り気のないプレートが貼られたドアがある。そのドアを開けたのは、もう諦めてしまった私と、まだ納得していない顔の母──菜花だった。
探偵事務所の机の上に、ダンッと札束を母が取り出した。
あの探偵の長沢駒はすっと手を出して、隣に置いた小さな金庫にしまった。
「百五十万円。きっちり頂きました」
駒は茶封筒の中身を数えない。応接ソファに掛け直すと、ゆっくりと顔を上げた。
春の園遊会で見た「オールバックの紳士」とは、まるで別人だった。無精髭、寝癖のついたボサボサ頭、よれた現代風のポロシャツ。身長は私とそう変わらない、百六十センチそこそこ。お世辞にも「探偵」という響きに似合う見た目ではない。
どこかの小説か映画の主人公を真似ているのだろうか。
「もういいって、お母さん。私、別に頼んでないし」
「菜乃葉は『黒』だって書かれたのよ。お母さんはそれだけは許せない」
母は、私が拘留されていた二十日間で何度も見せた「藁にもすがる」顔のまま、駒に向かって深々と頭を下げた。
「とにかく、沈静化、よろしくお願いします」
駒は、欠伸を噛み殺しながら「依頼は依頼だからね」とだけ言った。それから、思い出したように顔を上げる。
「腹減ってない? いいそば屋、知ってるんだ」
神楽坂の坂道を少し下ったところに、明治の頃から続くという老舗の蕎麦屋──「翁庵」があった。駒の「いいそば屋」というのは、どうやらここのことらしい。名物だという「かつそば」が出てくると、駒は割り箸を割りながら、興味もなさそうに言った。
「で? あんた、結局なにがあったの。新聞とSNS、どっちもどっちで信じられないんだよ」
母が答えようとするのを、私は手で止めた。
「私が話す。お母さん、また泣くから」
私はかつそばを一口食べてから、話し始めた。
すべての始まりは、夏休みだった。七月二十二日から八月九日まで、約三週間、イギリスの名門男子校──イートン・カレッジの寄宿舎に滞在して、英語研修を受けた。これは学校の推薦枠で、正直なところ「お嬢様学校あるある」みたいな行事だ。
八月十日、ようやく自由の身になった私は、夏休みの本当の目的──両親に買ってもらったバイクで、信濃を一周する一人旅に出ることにした。免許を取ったばかりの中型バイク。整備も、試運転も、本当はもっとやるべきだったのだと、今ならわかる。
翌十一日の朝、出発。群馬から碓氷バイパスを抜けたあたりで、エンジンの調子が怪しくなった。国道十八号と県道四十三号の交差点から、東に三百メートルほど手前──軽井沢町の成沢という場所で、バイクは完全に止まってしまった。
もっと何度も試し運転をするべきだった。けれど、もう遅い。後悔だった。
しかも、携帯の電源も切れていた。
「よくある後悔だな」
「わかっているわよ。わざわざ言わないで」
「悪い、続きを」
「話しますよ」
途方に暮れていた私の後ろで、クラクションが鳴った。
男が「故障? ロードサービス呼ぶなら、うちの電話借りる? すぐ近くだから」と声を掛けてきた。
車から降りてきたのは、品のいい初老の男性──加藤清司だった。
霞が関館で会った、あの「人当たりのいい大人」だ。
故障が直ったあとに走り出すと、あと五百五十メートルほど行けばコンビニがあったけどね。
けれど加藤は、それを教えてはくれなかった。後になって考えると怪しいと思えてしまう。
でも、そのときは、国道から横道を十メートルほど入ったところに彼の別荘があったから疑わなかった。
「もしかして、結構危なかった」
「そうかも」
「なるほど」
別荘で電話を借り、ロードサービスを呼んだ。待っている間、加藤は冷たいジュースを出してくれた。
正直、喉はカラカラだった。けれど──なんとなく、出されたものに手をつけるのが嫌だった。理由はうまく説明できない。「お嬢様学校あるある」で、知らない大人から出されたものは飲まない、というのが、私の中の暗黙のルールだったからかもしれない。
その「なんとなく」が、あとになって私を救うことになった。
「警戒して正解だったかもしれないな」
「やっぱり、そう思う」
「睡眠薬は定番だね」
「そっか、やっぱり飲まなくて正解だったのね」
ロードサービスが到着し、バッテリー端子のボルトの緩みを直すと、バイクは何事もなかったように息を吹き返した。私は加藤に何度もお礼を言って、再出発した。
「──で、そのおっさんが、翌日死んでた、と」
駒が、蕎麦を噴き出しそうになりながら言った。
「うん。別荘の管理人さんが、庭の手入れに来て見つけたんだって」
電話履歴からロードサービスの記録が辿られ、そこから私のバイクのナンバープレートが浮かび上がった。八月十四日、長野県警が「任意同行」を求めてきた。そこから、私は二十日以上も勾留された。
「二十日って、長くない?」
「うん。長野県警に、警視庁から『早く釈放しろ』って圧力がかかったらしいんだけど、それで長野県警が意固地になっちゃって。逆に勾留が延びたの」
しかも、その「圧力」の動きがSNSで「隠蔽だ」と騒がれて、マスコミが余計に煽った。テレビでは「軽井沢の謎の殺人事件」として、毎日のように報道された。花山院の名前は出なかったけど、代わりに「某有名お嬢様学校の生徒の犯行か」という見出しが、何度も画面に映った。
「勾留中はどうだった」
「メシがまずいのと、布団が薄いのが地味につらかった。あとはまあ、別に」
駒が、ちょっと意外そうな顔をした。私は構わず続ける。
二十日後、弁護士の交渉で勾留は解けた。けれど、検察への出頭が済むまでは、学校に通うことも禁止された。三日後、不起訴が決まり、ようやく学校に行けるようになった──はずだった。
けれど、ちょうどそのタイミングで、テレビが新しい「ネタ」を見つけた。
加藤清司には、女性を売り買いするバイヤーとしての裏の顔があった、というのだ。引き取られていた姪──江梨子と弥生も、その犠牲者だったこと。弥生が、流産させられていた事実まで、次々と報道された。
するとSNSは、今度はまったく別の方向に動き出した。
『正義感の強いお嬢様が、人身売買バイヤーを制裁したのでは?』
「──って、私が殺したことになってるの。さすがに笑うでしょ」
私は、残っていたそばを、音を立てて飲み込んだ。
九月四日から学校は始まっていたけれど、私が登校できるようになったのは、月の半ばをかなり過ぎてからだった。それでも、九月末になっても、騒ぎは収まらない。
友達から送られてくるメールを見ても、私が現代の必殺仕置き人だという噂が広まっており、テレビの取材っぽい人もちらほらいて、とても学校に行ける気がしなかった。
その取材者が生徒に聞いてくる『必殺仕置き人』って、昔の悪い奴をやっつけるダークヒーローらしい。
知らないよ。
いつまで経っても鎮まらない噂に母は、藁を掴む思いで、この神楽坂探偵事務所のドアを叩いた──というわけだ。
駒は、空になった器を脇に寄せると、はじめて少し真面目な顔をした。
「あんたを犯人扱いしてるSNSのアカウント、消せって言われても、それは無理。あれは『沈静化』じゃなくて『検閲』だ。俺がやるのは、もっと単純な話」
「単純?」
「俺は本当に誰がやったのか、調べる。それだけ」
家に帰った私の脳裡に、探偵の声が響いた。
そう、「それだけ」「それだけ」「それだけ」と、ご飯を食べているときも、お風呂に入っているときも、布団に入っても。あの声が、何度も聞こえる。
あの人だけは、私を疑うより先に真犯人を探すと言った。
真犯人、誰だろう?
私には関係ない。もう忘れようとしか考えて来なかった。
真犯人か。
あのヤル気のなさそうな声が、気になる。
気が付くと、私は電車に乗っていた。帽子を深く被って顔を隠し、神楽坂駅を降りて坂道を下る。
この日から、私の「探偵事務所通い」が始まった。




