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神楽坂探偵事務所はお嬢様の溜まり場です  作者: 牛一・冬星明


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第1話 正義と現実を見る

 秋のはじまり。神楽坂の路地裏、ビルの二階に「神楽坂探偵事務所」という、飾り気のないプレートが貼られたドアがある。そのドアを開けたのは、半分鼻で笑っていた私と、まだ納得していない顔の母──菜花(さいか)だった。


「百五十万円。きっちり頂きました」


 応接ソファに沈み込んだまま、所長の長沢駒は、封筒の中身を数えもせずにデスクの引き出しへ放り込んだ。


 春の園遊会で見た「オールバックの紳士」とは、まるで別人だった。無精髭、寝癖のついたボサボサ頭、よれた現代風のポロシャツ。身長は私とそう変わらない、百六十センチそこそこ。お世辞にも「探偵」という響きに似合う見た目ではない。


「もういいって、お母さん。私、別に頼んでないし」


「菜乃葉は『黒』だって書かれたのよ。お母さんはそれだけは許せない」


 母は、私が拘留されていた二十日間で何度も見せた「藁にもすがる」顔のまま、駒に向かって深々と頭を下げた。


「とにかく、沈静化、よろしくお願いします」


 駒は、欠伸(あくび)を噛み殺しながら「依頼は依頼だからね」とだけ言った。それから、思い出したように顔を上げる。


「腹減ってない? いいそば屋、知ってるんだ」


 神楽坂の坂道を少し下ったところに、明治の頃から続くという老舗の蕎麦屋──「翁庵(おきなあん)」があった。駒の「いいそば屋」というのは、どうやらここのことらしい。名物だという「かつそば」が出てくると、駒は割り箸を割りながら、興味もなさそうに言った。


「で? あんた、結局なにがあったの。新聞とSNS、どっちもどっちで信じらんないんだよ」


 母が答えようとするのを、私は手で止めた。


「私が話す。お母さん、また泣くから」


 私はかつそばを一口食べてから、話し始めた。


 すべての始まりは、夏休みだった。七月二十二日から八月九日まで、約三週間、イギリスの名門男子校──イートン・カレッジの寄宿舎に滞在して、英語研修を受けた。これは学校の推薦枠で、正直なところ「お嬢様学校あるある」みたいな行事だ。


 八月十日、ようやく自由の身になった私は、夏休みの本当の目的──両親に買ってもらったバイクで、信濃を一周する一人旅に出ることにした。免許を取ったばかりの中型バイク。整備も、試運転も、本当はもっとやるべきだったのだと、今ならわかる。


 翌十一日の朝、出発。群馬から碓氷(うすい)バイパスを抜けたあたりで、エンジンの調子が怪しくなった。国道十八号と県道四十三号の交差点から、東に三百メートルほど手前──軽井沢町の成沢という場所で、バイクは完全に止まってしまった。


 もっと何度も試し運転をするべきだった。けれど、もう遅い後悔だった。


 しかも、携帯の電源も切れていた。途方に暮れていた私の後ろで、クラクションが鳴った。


「故障? ロードサービス呼ぶなら、うちの電話借りる? すぐ近くだから」


 車から降りてきたのは、品のいい初老の男性──加藤清司だった。霞が関館で会った、あの「人当たりのいい大人」だ。


 実をいうと、あと五百五十メートルほど行けばコンビニがあった。けれど加藤は、それを教えてはくれなかった。彼の別荘は、国道から横道を十メートルほど入ったところにあったからだ。


 別荘で電話を借り、ロードサービスを呼ぶ。待っている間、加藤は冷たいジュースを出してくれた。


 正直、喉はカラカラだった。けれど──なんとなく、出されたものに手をつけるのが嫌だった。理由はうまく説明できない。「お嬢様学校あるある」で、知らない大人から出されたものは飲まない、というのが、私の中の暗黙のルールだったからかもしれない。


 その「なんとなく」が、あとになって私を救うことになる。


 ロードサービスが到着し、バッテリー端子のボルトの緩みを直すと、バイクは何事もなかったように息を吹き返した。私は加藤に何度もお礼を言って、再出発した。


「──で、そのおっさんが、翌日死んでた、と」


 駒が、そばを噴き出しそうになりながら言った。


「うん。別荘の管理人さんが、庭の手入れに来て見つけたんだって」


 電話履歴からロードサービスの記録が辿られ、そこから私のバイクのナンバープレートが浮かび上がった。八月十四日、長野県警が「任意同行」を求めてきた。そこから、私は二十日以上も拘留された。


「二十日って、長くない?」


「うん。長野県警に、警視庁から『早く釈放しろ』って圧力がかかったらしいんだけど、それで長野県警が意固地になっちゃって。逆に拘留が延びたの」


 しかも、その「圧力」の動きがSNSで「隠蔽だ」と騒がれて、マスコミが余計に煽った。テレビでは「軽井沢の謎の殺人事件」として、毎日のように報道された。花山院の名前は出なかったけど、代わりに「某有名お嬢様学校の生徒の犯行か」という見出しが、何度も画面に映った。


「拘留中はどうだった」


「メシがまずいのと、布団が薄いのが地味につらかった。あとはまあ、別に」


 駒が、ちょっと意外そうな顔をした。私は構わず続ける。


 二十日後、弁護士の交渉で拘留は解けた。けれど、検察への出頭が済むまでは、学校に通うことも禁止された。三日後、不起訴が決まり、ようやく学校に行けるようになった──はずだった。


 けれど、ちょうどそのタイミングで、テレビが新しい「ネタ」を見つけた。


 加藤清司には、女性を売り買いするバイヤーとしての裏の顔があった、というのだ。引き取られていた姪──江梨子と弥生も、その犠牲者だったこと。弥生が、流産させられていた事実まで、次々と報道された。


 するとSNSは、今度はまったく別の方向に動き出した。


『正義感の強いお嬢様が、人身売買バイヤーに正義の鉄槌を下したのでは?』


「──って、私が殺したことになってるの。さすがに笑うでしょ」


 私は、残っていたそばを、音を立てて飲み込んだ。


 九月四日から学校は始まっていたけれど、私が登校できるようになったのは、月の半ばを過ぎてからだった。それでも、九月末になっても、騒ぎは収まらない。


 母は、藁を掴む思いで、この神楽坂探偵事務所のドアを叩いた──というわけだ。


 駒は、空になった器を脇に寄せると、はじめて少し真面目な顔をした。


「あんたを犯人扱いしてるSNSのアカウント、消せって言われても、それは無理。あれは『沈静化』じゃなくて『検閲』だ。俺がやるのは、もっと単純な話」


「単純?」


「俺は本当に誰がやったのか、調べる。それだけだよ」


 家に帰った私の脳裡(のうり)に、探偵の声が響いた。


 そう、「それだけだよ」「それだけだよ」「それだけだよ」と、ご飯を食べているときも、お風呂に入っているときも、布団に入っても。あの声が、何度も聞こえる。


 駄目だ。あのヤル気のなさそうな声が、気になる。


 気が付くと、私は電車に乗っていた。帽子を深く被って顔を隠し、神楽坂駅を降りて坂道を下る。


 この日から、私の「探偵事務所通い」が始まった。

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