プロローグ 霞が関館の春
三月の終わり、霞が関館の庭園では、まだ少し肌寒い風の中で早咲きの桜が揺れていた。
帝国ホテルの春の園遊会を真似たような催しだと、誰かが言っていた。会場には、テレビや雑誌でしか見たことのない顔がいくつも並び、シャンパングラスを片手に、それぞれの「家」の話をしている。
私──花山院菜乃葉は、本来ならこの場所に立っているはずのない人間だった。
「花山院」という名前だけ聞けば、誰もが「ああ、あの華族の」と思うだろう。けれど、それは曾爺様の話だ。曾爺様は大正の頃、「飲む・打つ・買う」のすべてに手を出して家の財産を食い潰し、最後には勘当された。祖父の代になってようやく勘当は解かれたが、本家への出入りが禁止されている。
花山院家を名乗るのを許されたが、父は大手電力会社、母は百貨店勤務の、ごく普通の家庭だった。
もう旧華族なんてないが、ないようであるのが旧華族だ。
本家から、子供は華族学校へ入学するよう命じられ、私も華族高等学校に通っている。
だが、私は庶民だ。
生粋のお坊ちゃま、お嬢ちゃんたちとは、正直、話が合わない。海外旅行が「シンガポールのコンドミニアム」だったり、「誕生日に肖像画を描いてもらいました」とか、生きている世界が違う。
でも、一般生徒は「菜乃葉様も冬休みはカリフォルニアですか、それともフランスですか」と、華族の仲間として聞いてくる。
私は「おほほほ、ご想像にお任せします」と、ただ愛想笑いを浮かべるしかない。私の話を聞いてくれる友達と呼べる相手は、片手で数えられる程度だ。
学校は当然のようにアルバイト禁止だ。けれど、夏休み前からこっそり始めた動画投稿で、地味にお金を貯めていた。それを元手に中型バイクの免許を取り、「免許を取ったらバイクを買ってあげる」という両親との約束を、今日のこの園遊会への出席と引き換えに勝ち取った。
私はこういった催しは可能な限り避けてきた。
だって、どう対応したらいいのかわからない。授業で習っているけど、授業のように上手くゆかないからだ。
いま目の前に並んでいる料理は、私が一生かけても自分のお金では選ばないようなものばかりだった。
フォアグラのテリーヌに、炙りの効いた鴨肉。一口サイズの握り寿司の隣には、宝石みたいに小さなフルーツタルトが並んでいる。
値段は考えたくないな。
霞が関館御用達のケータリングだという。どれも見るからに「高そう」で、味すらよくわからないまま、私はシャンパングラスの代わりに渡されたジンジャーエールを手に、壁際に近い場所で時間が過ぎるのを待っていた。
声を掛けられても困るだけですから……言っていることが難しく、相手の言葉の半分も意味がわからない。だから、ただ笑う。愛想笑い。これが今日の私の仕事だった。
そのとき、後ろから誰かがぶつかってきた。
「あ──」
体勢を崩した拍子に、手にしていたグラスの中身が跳ねた。ジンジャーエールが、すぐ前にいた女性のドレスの裾に、小さな染みを作る。
「す、すみません……!」
顔から血の気が引いた。こんな場所で、誰かの──おそらく相当値の張る──ドレスを汚してしまった。
ドレスの主は、二十代後半くらいの女性だった。一瞬、表情が固まったのが見えた。けれど、すぐに隣にいた紳士が、穏やかな声で割って入った。
「大丈夫ですよ。このくらい、すぐに乾きます」
その紳士は、加藤清司と名乗った。
すぐに私の両親が飛んできて、何度も頭を下げた。父と加藤の間で名刺が交換される。
「建築コンサルタントのお仕事を」
「はい、今日はとある紹介者へのアドバイスを兼ねて招かれました」
「娘がそちらのお嬢様にはご迷惑をかけました」
「いいえ、ボーッとしていた姪の江梨子も悪いのです。お気になさらないでください」
男は、五十手前といった年格好で、いかにも「人当たりのいい大人」という雰囲気を纏っていた。建築コンサルタントらしい。
ドレスの女性──江梨子さんも、硬い笑みのまま「気にしないでください」と言ってくれた。彼女の隣には、もっと若い、大学生くらいの女性もいた。妹の弥生も紹介された。二人とも、今日は「花を添えるため」に連れて来られたのだと、加藤は笑いながら言った。
私はその間、ただ申し訳なさで小さくなっているだけだった。
ようやくその場が収まったとき、ふと、最初にぶつかってきた相手のことを思い出した。
振り返ると、すぐそばに、見覚えのない男が立っていた。年齢は二十代後半くらい。仕立てのいい背広をオールバックで決め、髭もきれいに剃られている──けれど、顔立ちそのものは、どこにでもいそうな、特徴のない平均的な日本人という感じだった。
「悪い悪い、こっちもよそ見してたんだ」
軽く片手を挙げた。
その男が招待客ではなく、無断で入り込んだ探偵だったと知るのは、もっと後のことだった。
「ああいう偉い連中ほど、探偵のお世話になるもんなんだよ」
男は、加藤たちの背中を見ながら、誰に言うでもなくそう呟いたが、私はそのときまったく気にも留めなかったのだ。
探偵。神楽坂のどこかにある事務所の所長で、長沢駒という名前らしい。そんなことも、私は半年後になるまで知らなかった。
ただ、あの夜のことを思い出すと、いまでも少しだけ、背中がひやりとする。
あの庭園で交わした名刺一枚が、私の──そして、加藤清司という男の人生の、終わりの始まりだったのだから。




