第四話 紅茶専科、甘い罠
一月十五日、木曜日。
わたしは、御影化成株式会社の玄関が見える通りに立って、瀬戸口浩二が出てくるのを待っていた。
清掃員としての潜入捜査は、とうに終わっている。十二月二十九日の年末大掃除を最後に、あのジャケットもモップも、すべて事務所に置いてきた。今日のわたしの手には、何もない。
事の始まりは、二日前のことだった。
「瀬戸口浩二をもう一度誘い出せれば、甯子の依頼が前に進む」
事務所のソファに寝そべったまま、駒がそう切り出した。
「所長がやるんじゃなくて?」
「俺じゃ無理だ。あいつが口説きたいのは、お前だろう」
「わたしがやらなきゃ、駄目ですか」
「無理にとは言わん。やるもやらないも、お前が決めろ」
駒はいつもそうだった。命令はしない。ただ、選択肢を目の前に置くだけで、あとは知らんふりをする。
断る理由は、いくらでもあった。だけど、毎日のように事務所へ通っては、進まない捜査に苛立ち、時折、悔しそうに唇を噛む喜連川甯子の姿を、わたしはずっと隣で見てきた。
「……甯子に頼まれたら、断れないじゃないですか」
わたしがそう言うと、駒は「だろうな」とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。
結局、そういうことになった。
もう二度と会うことはないと思っていた男だった。
耳の奥に押し込んだ小さなイヤホンから、長沢駒の声が流れてくる。
「瀬戸口が営業課の部屋を出た」
潜入捜査をしていた頃、わたしに清掃の手ほどきをしてくれたあのおばちゃんは、本物の清掃員であると同時に、プロの情報屋でもあったらしい。ずっと瀬戸口たちが逃亡しないよう見張り続けていたのだと、後になって知った。
清掃員という仕事は、配置の死角を埋めるための、ただの数合わせだった。わたしである必要は、はじめから、なかった。
少しだけ、傷ついたのを覚えている。
テレビドラマの探偵と違って、本物の探偵の仕事は地味なものが多い――それは、この一か月で嫌というほど思い知った。
だけど。
わたしをナンパしてきたあの男が、九条玲於奈を貶めた張本人だとしたら、話は別だった。これだけは、わたしにしかできない仕事だった。
玄関から出てきた瀬戸口浩二に、わたしは声をかけた。
「こんにちは」
浩二がわたしを見て、目を丸くした。
無理もない。今日のわたしは、地下バーのママに薄く化粧を直してもらい、甯子が「これくらいオシャレをしないと」と選んでくれた赤いワンピースに袖を通していた。上に羽織ったコートはいつも通りの地味なグレーだったが、裾からのぞく赤だけが、いつもの自分と違うことを教えてくれた。
いつもの自分なら、絶対に選ばない色だった。
「いやぁ、見違えた。とても可愛い、思った通りだ」
「ありがとうございます」
「見違えたよ、本当に、とても可愛い」
「はぁ、はい」
浩二が舌でペロリと唇を舐める仕草に、背筋がぞわりと粟立った。嫌悪感が、そのまま声に出そうになるのをこらえた。
「その、わたし、少々、その、困っていまして。でも、相談する人もいなくて……急なことなんですが、相談に乗って頂けますか」
「私に?」
「他に、相談できる方がいないんです。駄目でしょうか」
駒に叩き込まれた通りに喋った。
まず、絶対に嘘をつかない。人を騙すタイプの人間は、必ず相手も嘘をついていると疑う。嘘には敏感なのだ。肝心なところだけをぼかす。(甯子に頼まれて)困っている。(瀬戸口浩二が証言してくれないと)解決しない。頼れるのはあなただけ。(無関係な人に)相談しても意味がない――そんな会話のシミュレーションを、何度も何度も練習させられた。
もう終わりにしたい。その一心で、わたしの誘いに乗ってくださいと祈りながら言葉を継いだ。
「お願いします。助けてください。駄目ですか」
「わかった。話を聞こう」
「わたし、行ってみたい喫茶店があるんです。そこでいいでしょうか」
「どこ?」
「すぐ近くの、“紅茶専科 プチテ(Petit Thé)”というお店です。行ったことがなくて」
「では、案内してあげよう」
言われた通りに言えた、と思った。
その瞬間、浩二の目が狼のそれに変わっていった。肩に手を回されて、わたしは思わず身をこわばらせた。
男の人に肩を抱かれたことなんて、一度もなかった。
顔を赤らめたわたしを見て、浩二が優越感に打ち震えているのだけは、はっきりとわかった。
紅茶専科 プチテの店内に入ると、わたしは奥の四人掛けのテーブルに腰を下ろした。
瀬戸口浩二が対面に座った、その瞬間。
あとから入ってきた駒が、浩二を押し込むようにして横に腰掛けた。
わたしの隣には、甯子がすっと座った。
「どういうことだ」
「その、所長が相談したいそうです」
「所長?」
「はじめまして。神楽坂で探偵事務所を開いております、長沢駒という者です」
「探偵だと」
「こちらは九条玲於奈様の婚約者です。行方不明になっている九条玲於奈様を探しておられます」
「俺は知らん。どこに行ったかなど知らない」
浩二の反論など聞く気もなく、駒はメモを開いて、浩二についての調査結果を読み上げ始めた。
瀬戸口浩二は、九条玲於奈の四年先輩にあたる。だが、九条玲於奈は営業課のトラブルを解決する会社を斡旋し、その手腕を評価されて、花形の営業二課――耐熱塗装チーム――に引き抜かれた。地味な仕事やトラブル案件ばかりが回ってくる営業五課に、浩二は取り残された。
元々ギャンブル好きで金遣いが荒く、その上でキャバクラ通いを重ねれば、資金はすぐに底をついた。ところが、とある賭博師と知り合ってから急に競馬で勝ち始め、金遣いはさらに荒くなった。
「どこでそんな事を調べた」
「八百長競馬は、裏社会では地味に有名な案件ですよ。それを使う賭博師と、ノミ行為をする連中の数なんて知れています。カモの情報を集めるくらい、造作もないことです」
「や、八百長だと」
「まず甘い汁を吸わせて、たっぷりと骨抜きにする。金を手に入れて派手な生活に慣れた頃を見計らって、回収に走る。取り戻そうとヤバい連中から借金をした時点で、罠は完成です。負けに負けを重ねて、一億二千万円の借金ですか」
「貴様、どこまで知っている」
「W国の産業スパイに加担しているところまで、ですよ」
浩二の顔色が変わった。震え始めているのがわかった。
「この菜乃葉はうちの社員でして、“御影化成の誰もいない部屋で、勝手に起動するパソコン”の謎を解明するために、四つ菱重工から依頼されましてね。耐熱塗装チームの部屋は閉鎖中のはずなのに、どうしてパソコンが起動するんでしょうね」
「私が知るわけがないだろう」
「不思議な話です。あの部屋に入る防犯カメラには、誰も映っていない。つまり、誰もいない部屋でパソコンが勝手に起動しているわけです。死んだ九条玲於奈様が彷徨って動かしている、なんて怪談話ですね」
「知らん」
「噂の出所は、あなたでしょう。菜乃葉を口説いているときにも、その話をしていましたよ。そのときの録音、聞かせましょうか」
「録音だと」
「彼女らの胸元に、隠しカメラを仕掛けておりましてね。あの部屋に向かう人間はすべて記録しております。もちろん、あなたが向かう姿もばっちり映っておりましたよ」
「そんな、馬鹿な……」
駒がにやりと笑った。
浩二の額に冷や汗が滲んでいたが、駒にはすでに証拠が揃っていた。浩二の証言など、本当は必要なかったのかもしれない。だとすれば、これはただ、自白させることで精神的に追い詰めているだけなのだ。
「清掃員がいない時間を狙って部屋に入っていた。誰にも目撃されていない。そうおっしゃりたいんですか」
「し、知らん」
「休憩時間、無造作に置かれた掃除道具にも隠しカメラが仕掛けられておりましてね。そこに、九条玲於奈様の鍵で扉を開けるあなたの姿が、バッチリと映っておりましたよ」
「嘘だ」
「では、お見せしましょうか」
駒がスマートフォンを取り出し、映像を見せた。
わたし自身も、清掃員という役目が囮だったことに、今さらながら気づかされていた。ずるい。
それでも浩二は、最後の抵抗を試みた。
「こんなものは証拠にならん」
「問題ありません。四つ菱重工の調査室から依頼を受け、御影化成の社長も承認済みの仕事です。証拠として、立派に成立します。今ごろ、防犯カメラに細工をした防犯課の職員も、黒ずくめのおじさんたちに捕まっているころでしょうね」
「私は被害者だ。脅されただけだ」
「四つ菱重工も、表沙汰にはしたくないんですよ。正直に話せば、損害賠償の訴訟は控えてくれるそうです。ですが黙り通すなら、正式に追い詰めるとのことでした。そうなれば、数十億円規模の賠償責任になるでしょうね。スパイ罪で名前が出れば、ご家族やお知り合いにもご迷惑がかかるのは、間違いないでしょう」
「やめてくれ、頼む」
「あなたが持っている情報次第では、取引ができます。どうしますか」
「……何でも話す」
浩二が落ちた。
駒が聞きたいことをサクサクと聞き終えると、黒ずくめのサングラスの男たちが現れ、浩二を連行して車に乗せていった。
紅茶とケーキが運ばれてきたのは、それからすぐのことだった。
紅茶専科 プチテの紅茶は、湯気の立ち上る瞬間から違った。ふわりと立ち上る香りは華やかなのに、少しも押しつけがましくない。口に含むと渋みはほとんどなく、まろやかな甘みだけがすっと舌に広がって消えていく。添えられたケーキは、薄く焼き上げたスポンジに季節の果実をたっぷりと重ねたショートケーキで、生クリームは軽く、いくらでも食べられそうなほど滑らかだった。
甯子はカップに口をつけて、ほう、と小さく息をついた。
「これは……悪くありませんわね」
「悪くないどころか、一級品だ」
駒が言った。
わたしはケーキを頬張りながら、さっきまでの緊張が嘘のように溶けていくのを感じていた。浩二を連れ去った黒ずくめの男たちのことを思うと、この甘さがどこか不釣り合いにも思えたけれど、事件はまだ終わっていない。
甯子がフォークを置いて、苦情を言うように口を開いた。
「浩二が九条玲於奈様を妬んで、噂を流して貶めていたのはわかりました。でも、玲於奈様の居場所は、結局わからないままですわ」
「この紅茶と一緒さ。甘い匂いに誘われて、虫が寄ってくる」
「何をおっしゃっていますの」
「そもそも、御影化成は日本でも屈指の一流塗装メーカーだ。耐久性、耐湿性、防カビ性、遮蔽性に優れているが、戦闘機やミサイルに求められる耐熱性という点では、実績に劣っている。この意味がわかるか」
「わかりません」
「御影化成は陸自・海上自衛隊との取引実績はあるが、航空自衛隊との実績がない。仕様用途が微妙に違うからだ」
「そうなんですの」
「もちろん、言い訳も用意されている。空自とは違い、艦載機仕様の塗装が必要だから、とな。つまり、空自と海自の勢力圏争いのあおりを受けて、得意分野から外れた御影化成に、新式の耐熱塗装の製造依頼が回ってきた。そして、脇の甘い、それでいて対外的には納得しやすいメンバーでチームが組まれた」
「脇が甘いって、どういうことですの」
「甯子さん、怒らんでくれ。甘いと評価したのは偉いさんであって、俺じゃない。入社一年目でサブリーダーだぞ。知識不足、経験不足を露呈しそうじゃないか」
「確かに……入社一年目で重要なポストが回ってくるのは、おかしいですわ」
「だが、九条という名前は使い勝手がいい。リーダーの名刺代わりと考えれば、あり得なくもない。実に、美味しそうな香りがする紅茶になってきたな」
駒が角砂糖を、一つ、また一つと紅茶に落としながら言った。
「甘い匂いに誘われて、有象無象の虫が寄ってきそうな気がしないか」
駒は紅茶を一口飲むと、「甘ぁ」と声を上げて、それきり紅茶を飲むのをやめてしまった。
駒の言った「虫」とは、いったい何のことだろう。




