第三話 大阪、ええ町、連れてって
あまり眠れなかった。
コートヤード・バイ・マリオット新大阪ステーションのエグゼクティブルーム、最高層階。昨夜は午後八時半過ぎにホテルに着いて、部屋に押し込まれ、「迎えに来るまで出てくるな」とだけ言われた。
凄く贅沢な部屋だった。
ただ、ベッドに入っても眠気が来なかった。
九条玲於奈のこと、昨日の工場長のこと、中国の下請けに素材配合を渡したという事実の重さ。考えれば考えるほど目が覚めてしまった。
やがて、真っ暗な夜空がほんのりと明るくなり始めた。起き上がって窓の外を見ると、生駒山の稜線から朝日が顔を出し始めていた。濃い青が、オレンジへ、明るい黄色へと変わっていく。眼下には新大阪駅のホームと線路が広がっていた。
今日は成人の日。三連休の最終日だった。
う~ん、喜連川甯子が寝返りを打った。
隣のベッドでゆったりと眠り続けていた。
旅慣れしているな~。
どこでも眠れるのが羨ましい。わたしはカーテン越しに夜明けをながめながら、ひとり朝を迎えた。
三階のレストランで朝食を摂っていると、駒がタブレットを開いて甯子に渡した。
「九条玲於奈が通っていた研究ゼミの教授の名は藤袴秋名。専門は防錆・耐熱コーティング。主に、橋梁や船舶などインフラにおける『金属を錆から守る塗装』の研究をしていた」
「そのゼミで九条玲於奈様は学ばれていたのですね」
「ゼミの研究は『データと塗料によるCO2排出削減のシミュレーション』だ。学生に手伝わせるのは、主にデータ収集の基礎的な部分になる」
甯子は朝食もそこそこに、関西大学のホームページを読み始めた。
私も覗き込んだが、さっぱりわからない。でも、甯子は少しわかるようで、何度か頷いていた。
時計を見た駒が、コーヒーカップを置いた。
「そろそろ行こうか」
一階のロビーへ降りると、車寄せの前に一台の車が止まっていた。運転席から大きく手を振る人物がいる。
「駒ちゃーん!」
大きな声だった。
「きゃあ、何、そんな可愛い子がいるって聞いてないわよ。わぁぁ、こんな可愛い子がいるなら、虎縞ファッションで決めてきたらよかったわ」
「そんなの見たら引くわ」
「そんなことあらへん」
突然始まった漫才に、わたしと甯子の目が点になった。
「私、浪速喜美恵。大阪のおばちゃんやってます」
「はぁ?」
「きゃあ~、かわいいぃぃぃ。こちらの子は、ブルーレーベル・クレストブリッジのコートって、センスがいいわね」
「ありがとうございます」
「かっぁた~い。もっとフレンドリーに行きましょう」
どう返事をすればいいのか、わたしにはまるでわからなかった。
ブルーレーベル・クレストブリッジは、甯子の通うお嬢様学校でも人気のブランドだと聞いたことがある。伊達に誉められているわけではないらしい。
浪速喜美恵さんが案内したのは、関西大学からほど近い浪速ペイントの尼崎事業所だった。
「ここが浪速ペイントや。うちの親戚の工場じゃないで」
「そんなことはどうでもいい」
「駒ちゃん、ここは重要な突っ込みところや、軽く流さんといて」
工場の入口から白衣とヘルメット姿で出てきた教授は、それだけで周囲と明らかに違う雰囲気を放っていた。工場の技術指導を兼ねているらしい。
少し待たされて、工場事務所の一室に通された。
「大切な時間を割いていただき、ありがとうございます」
「いやいや、四ツ葉重工の開発課の方を紹介していただけるならば、いくらでも時間を割きますとも」
藤袴秋名教授は、白髪の老人だった。声は穏やかだが、目は鋭い。
「軍事規制はいまだにキツく、よい話が進むとよいですが」
「そこは腕の見せ所です。最近はその縛りも少し緩くなる傾向にあります。人脈を作っておくに限る」
わたしが首を捻ると、教授が穏やかに説明してくれた。
関西大学の研究支援を通じて行われる研究は、軍事への転用が禁じられており、海外企業からの支援も禁止されている。日本の政府や国内企業のみが資金源となる——そういう仕組みだった。
あっ、そうか。
中国の下請けに依頼すると、秘密が他国の軍隊に漏れた。昨日の会社は、それが原因で困っていた。
説明し終わると、教授の口調が変わった。
「禁止だけしておきながら、日本の基礎研究費に予算を割こうとせず、天下りばかりを増やしておる」
「研究資金が来ないのですか」
「すぐに資金が回収できそうな研究に投資して、金にならない基礎研究を置き去りにしておる。資金の回収を考えるのは企業の論理だ。十年、二十年先を見据えた基礎研究こそ、政府が出すべきなのだ。まったく上はわかっておらん」
そこから教授の愚痴が延々と続いた。
iPS細胞の研究費でさえ、成果が出ないと予算を削ろうとする。基礎研究が簡単に進むなら、世界中の研究者が苦労しないのだ——と、愚痴がいつまでも続いた。
わたしは相槌を打ちながら、内心、少し疲れてきた。
言いたいことをひとしきりぶちまけ、気分がよくなった教授が、ようやくこちらの本題を聞いてきた。
「で、今日はどういうご用件で」
「こちらは、行方不明になっている九条玲於奈君の婚約者です」
「喜連川甯子と申します」
「九条玲於奈君か……よく覚えていますよ。真面目な、いい子でした。実に丁寧にどんな面倒な研究にも取り組んでくれた」
「九条玲於奈様の交友関係を、覚えていますか」
「そうだね。一番仲がよかったのは、岬涛だったな。確か研究員だったかな」
その名前を聞いた瞬間、教授の傍らにいた補助員が静かに口を開いた。
岬涛が所属する基礎研究チームは研究が行き詰まっており、芳しい成果も出ず、今年の夏から長期休暇を申請して、まだ帰国していない——と言った。
「そうか。岬涛に聞けばわかると思ったのだが」
「教授、岬涛とは、どんな方ですか」
「九条玲於奈君の同級生だ。確か、卒業後も月に一度ほど東京に出向いて、交流を続けていたような」
補助員がさりげなく補った。九条玲於奈の実家が京都にあるため、帰省した月は東京に行っていない——教授の「毎月」はやや記憶が盛られているが、それくらい頻繁だったのは確かだという。
さらに補助員が、身も蓋もないことを言い添えた。
「御影化成から支援金をいただこうと画策しておりましたようで」
「あははは、どこの部署も研究費が足りないからな」
そして補助員は、もう一つの事実を静かに告げた。
長期休暇の申請の前——九条玲於奈が京都の実家に帰省していた時期——に、岬涛が有給休暇を申請していたと、補助員が覚えていた。
しばらく、駒の質問が続き、教授と補助員との返答が続き、駒の目が、わずかに鋭くなった気がした。
事情聴取が終わると、静かだった喜美恵さんが元気よく言った。
「やっぱり甲子園名物『甲子園カレー』やな」
「アホか、大阪やない。神戸やろ」
「神戸やない、関西や」
「素直に大阪名物を案内しろ」
「駒ちゃん、今日はノリが悪いで」
喜美恵さんが「なんばグランド花月」の隣の「たこ焼き」、駒が「千房」千日前本店のお好み焼き——で、押し問答になった。
結局わたしは、二軒をはしごすることになった。
たこ焼きはふわとろで美味しかった。が、お好み焼きは生地がもちもちして具材もたっぷりで、どちらかといえばお腹が満たされる。
「どっちが美味かった」
喜美恵さんに聞かれ、わたしは答えた。
「たこ焼きも美味しかったですが、おやつかな……お好みは美味しかったです」
「いい子チャンかいな」
「もっとはっきり言ってやれ。たこ焼きは昼飯にならんとな」
「そんなことあらへん」
「どうして私ばかりに聞くのかな。甯子様にも聞けばいいのに」
「いやぁ、気品のあるお嬢様には聞きづらくてな」
わたしには気品が欠けると言われているらしかった。ちょっとだけ傷ついた。
なんばグランド花月から徒歩四分、法善寺横丁のすぐ近くに「|サロン・ド・テ アルション《さろん・ど・て あるしょん》法善寺本店」があった。
二階へ上がると、英国風サロンのような贅沢な空間が広がっていた。
看板商品と紹介された「モンブラン」を口に入れると、栗の濃厚な香りが広がった。中に入っている無糖の軽い生クリームと、土台のサクサクした自家製焼きメレンゲの食感のコントラストが絶妙だった。甯子は「デセールセット」を選び、温かいソースを目の前でかけて仕上げるアイスクリームのデザートに、しばらく言葉がなかった。
美味しいものを食べた後で、駒が静かに口を開いた。
「これで九条玲於奈のプロファイリングのピースはすべて埋まった」
「どこに行ったのか、わかりました?」
「それはこれからだ。だが、どんな事件に巻き込まれたかの見当は付いた」
「事件ですか」
「迂闊には話せないが、中々厄介な話だ。研究データが盗まれかかっていた。犯人の見当はついていたが、どこに消えたかはまったくわからなかった」
「かった——過去形ですね」
「手がかりは掴めた。喜美恵ちゃん、岬涛のことを調べておいてくれる」
「高く付くわよ」
「承知している」
「岬涛が関係していると」
「それをこれから調べる。厄介な方は別口だ。四ツ葉重工の依頼も大詰めだから、そちらが終われば、どこへ行ったか探してやる」
「わかりました」
甯子は静かに頷いた。珍しいことだと思った。
「という訳で、菜乃葉の出番だ」
「えっ、私ですか」
「お前が頑張れば、要件が早く終わるかもしれない。嫌なら黒いおじさんがやってくれる」
「はぁ?」
「ただ、黒いおじさんにとって、九条玲於奈の話は別件だから、こちらへ結果を報告してくれるのは、随分と遅れることになる」
「やります」
「甯子⁉」
「菜乃葉様、お願い。協力して」
わたしはモンブランのクリームをくわえたままで甯子の顔を見た。
「お前が上手く立ち回ってくれれば、簡単にけりがつく」
はい、はい、わかりました。
最初から断る気はないけど、勝手に決まってゆくのは嫌だな。
喜美恵さんのバンが新大阪駅を目指して走り出した。
車窓に大阪の街の景色が通り過ぎていく。
毎回のことだが、駒の移動は忙しない気がする。
岬涛——その名前が、わたしの頭の隅に引っかかったまま離れなかった。




