第9話「愛してるんだ!」歪んだ価値観
ミレーユの脳裏に、これまでの記憶が押し寄せてきた。
半年前、レオンの服から見知らぬ甘い香水の匂いが漂い始めた時のこと。
三ヶ月前、王都の大通りで見た、豪奢な貴族の馬車から降り立つ令嬢の手を、完璧な所作と凛々しい微笑みでエスコートしていたレオンの姿。
そして昨夜、自邸の前に停まった馬車と、ドレスを纏った貴族令嬢の手を取り、洗練された騎士として応対していた彼の姿。
レオンは私を愛してくれている。それは嘘ではない。家で見せるあの無邪気で甘えん坊な素顔、私を『世界で一番大好きだ』と抱きしめてくれる温もりは本物だ。
けれど——外に出れば、彼は『リンドン伯爵家の三男』であり、『第一騎士団の若き小隊長』なのだ。
高貴で、美しく、誰にでも隙のない親切と気品を見せる彼。その完璧な姿を見るたび、自分のような平民の医師の助手が彼の隣にいることへの息苦しさと、遠い疎外感が胸を締め付けていた。
◇
翌朝。キッチンのテーブルを挟んで、ミレーユとレオンは向き合っていた。昨夜は互いにほとんど眠れぬまま朝を迎えていた。
「レオン……少し、お話ししましょ」
ミレーユの落ち着いた、けれどどこか感情のこもらない声に、レオンの手元がぴくりと跳ねた。昨夜、セシリアから受け取った『銀の鍵』と、型を取った蝋の塊は、すでにレオンのポケットの中に仕舞われている。
「……ミレーユ? どうしたの、そんな怖い顔して」
「私ね、考えていたの。……レオンがどれだけ私を大切にしてくれているか、分かってるわ」
「うん。当たり前じゃないか。僕が愛してるのは世界でミレーユだけだよ」
「でもね、レオン」
ミレーユは静かに自分の手を重ね合わせた。指先に力が入る。
「昨夜のご令嬢……セシリア様とおっしゃったかしら。とても凛とした立ち姿と振る舞いで、あなたの隣に立つ姿が……あまりにもお似合いだったわ」
その言葉を聞いた瞬間、レオンの顔から一気に血の気が引いた。
「な……なにを言ってるのさ、ミレーユ!? あんな子、僕には何の関係もないよ! 仕事上の付き合いで、ただ鍵を受け取っただけで……っ!」
「分かっているわ。仕事なのは分かっているの。でも、レオン。あなたが外で見せる高貴な貴族としての姿、騎士としての振る舞い……それこそが、本来のあなたの生きる世界でしょう?」
「違う! 違うよミレーユ!」
レオンは椅子を倒して立ち上がると、テーブルを迂回してミレーユのもとへ駆け寄り、その場に崩れ落ちるように膝をついた。
ミレーユの膝に顔を押し当て、スカートの裾をぎゅっと握りしめる。
「僕の居場所は、ミレーユの隣だけなんだ! あんな貴族の世界なんて、僕にはどうでもいい! 僕が欲しいのは、ミレーユと過ごす時間だけなんだよ……っ!」
「レオン……」
「頼むから、そんな冷たい目で見ないで……僕を嫌いにならないで……っ!」
必死にすがりつき、涙をポロポロとこぼしながら愛を乞うレオン。
(……どうして、そんなに泣くの?)
ミレーユはすがりつく彼の柔らかな金髪にそっと手を添えた。
彼が自分を失うことを何より恐れているのは伝わってくる。けれど、彼が気にも留めていない『身分差』という残酷な現実を、私はどうしても意識してしまう。
私の平民という立場は彼の足枷となり、貴族社会での出世や立場を狭めているのではないか……。彼には、彼にふさわしい貴族の世界があるのに——。
「……泣かないで、レオン。私もレオンが大好きよ」
「本当……? 本当だね、ミレーユ……っ!?」
「ええ。だから、もう泣かないで」
パッと顔を輝かせ、飛びつくようにミレーユの首元に抱きついてくるレオン。
その高い体温とシトラスの香りに包まれながら、ミレーユは静かに目を閉じた。
(……でもね、レオン。もし本当に、あなたが私といることで傷つく日が来たら……私は静かに、あなたの前から消えるわ)
胸の奥で、決してレオンには言えない『静かな決意』が芽生え始めていた。
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