第8話 修羅場と、泣いて縋る可愛いあなた
夕闇が王都の街並みを藍色に染め上げていく頃、ミレーユは診療所の廊下を少し急ぎ足で歩いていた。
本来なら今夜は夜勤の予定だったが、急遽交代してもらえることになり、予定より早く帰宅できることになったのだ。
(レオンには夜勤だって言ってたから、帰ったら驚くかな)
ふふっ、と一人で微笑む。
今から帰れば、昨夜から仕込んでおいた煮込み料理を温め直し、焼きたてのパンを添えてレオンの帰りを待つことができる。最近は互いに忙しくてゆっくり話す時間もなかったけれど、今夜は穏やかな時間を過ごしたかった。
買い物かごの重みを感じながら、二人の家がある路地へと曲がる。しかし、自宅の前に差しかかったとき、ミレーユの足がぴたりと止まった。
すっかり暗くなり始めた街並みの中で、自宅である小邸の前に豪奢な馬車が停まっている。その傍らに立っていたのは、第一騎士団の騎士服に身を包んだレオンと、華やかであろうドレスを身にまとった貴族令嬢らしき姿だった。
(あ……)
街灯の柔らかい光に照らし出された二人は、まるで物語から飛び出してきた挿絵のように絵になっていた。
「レオン様、本日は突然押しかけてしまって申し訳ありませんわ。でも、お父様から預かった大切な『銀の鍵』を無事にお渡しできて安堵いたしました」
「いいえ、セシリア嬢。わざわざ届けていただき感謝いたします。お父上にもくれぐれもよろしくお伝えください」
レオンの声は、家で見せる甘えた調子とはまるで違う、高貴で、凛々しく、伯爵令息のそれだった。
令嬢——セシリアの手をそっと取り、手袋越しの指先に触れんばかりの美しい所作でエスコートするレオン。対して、令嬢は長い時間と感じられるほど彼を見上げている。
「ふふ、レオン様って本当に素敵……。また近いうちに、お茶会でお会いできるのを楽しみにしていますわね?」
「ええ、こちらこそ喜んで」
洗練された完璧な笑顔で応じるレオン。
物陰からその光景を見つめていたミレーユの胸に、冷たい刃が突き立てられたような痛みが走った。
(私には見せない……高貴な貴族としてのレオン……)
彼女が纏う薔薇の香りが、夜風に乗ってふわりとミレーユの元まで届いた気がした。
レオンの服から時々漂っていたあの香りだ。
馬車が走り去り、一人残ったレオンが邸内へ入っていく。
ミレーユは震える息を吐き出し、深く呼吸を整えてから、静かに自宅へと歩き出した。
「ただいま、レオン」
「ミレーユ!? どうして……今夜は夜勤だって……!」
リビングに入ると、レオンがハッと息を呑み、血の気が引いたような顔で立ち尽くしていた。
テーブルの上には、柔らかい蝋の塊と、先ほどセシリアから受け取っていた『銀色の鍵』が置かれている。レオンの手元には、鍵の型を取ったばかりのような痕跡が残っていた。
「仕事が早く終わったの。……外で見たけど、ご令嬢が来ていたのね」
「あっ……! 違うんだ、ミレーユ! あの子は騎士団の仕事関係の家の子で……僕、断れなくて……! わざわざ『大切な鍵』を届けてくれたから、お礼を言っていただけで……っ!」
焦ったレオンはなりふり構わずミレーユに駆け寄り、その腰にしがみつくように抱きついてきた。
「本当なんだよミレーユ。僕が愛してるのは世界でミレーユだけなんだ! あの子になんて一切興味はないんだよ。僕を嫌いにならないでね……っ!」
涙目でしがみついてくるレオンの姿は、いつもの甘えん坊な彼そのものだ。
(……どうして、そんなに怯えるの?)
ミレーユはすがりつく彼の金髪を見下ろし、胸の奥が悲しさでいっぱいになった。
レオンの「愛している」が嘘ではないことは分かる。けれど、外で見せるあの高貴な貴族の姿と、自分のような平民の前にいる姿の差。
彼には、彼の身分にふさわしい光に満ちた華やかな世界がある。私と一緒にいることで、彼はその世界から引き離されているのではないだろうか。
「……分かってるわ、レオン。仕事なんですものね」
「ミレーユ……! 信じてくれるの……!?」
パッと顔を輝かせるレオンの温もりの中で、ミレーユは寂しく微笑むことしかできなかった。
レオンが「お湯を沸かしてくるね」と席を立った後、ミレーユはテーブルの上に残された蝋の上の『鍵の型』を静かに見つめた。
(こんなもの、何に使うつもりなのかしら……)
レオンが自分に言えない『秘密の仕事』を抱えていること。そして、高貴な令嬢と並ぶ彼のあまりの眩しさ。
胸の中に芽生えた疎外感と寂しさは、もう消すことのできない大きな陰影となって、ミレーユの心に落ちていた。
「面白かった」と思っていただけましたら、
・ブックマーク
・作品ページ下部の「⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎」欄にて
ポチッとクリックしていただけますと、とても励みになります。




