第10話 聞き飽きた言い訳「断れなくて」
自宅の前でセシリア嬢と会っていたあの夜から一ヶ月ほどは、まるで夢のように穏やかで幸せな日々が続いた。
ある休日には、リンドン伯爵家の温室に咲く花々が素晴らしいからと、レオンに誘われて伯爵家を訪れた。そこで伯爵夫妻や兄たちと昼食を共にしたりもした。
レオンは言葉通り、目に見えて変わった。騎士団の非番の日は必ず家でミレーユの帰りを待ち、買い出しにも嬉々として同行した。
勤務時間の都合でどうしてもすれ違う日もあったが、レオンは毎朝「今日も世界で一番ミレーユを愛してる」と抱きしめ、夜はミレーユが寝るまで愛おしそうに髪を撫でてくれた。
(こうして本当に穏やかな毎日が続くのかもしれない。私たちの将来を考えてもいいのかな……)
ミレーユの胸にあった不安も、彼の甘い献身によって少しずつ癒やされつつあった。そう、信じたかった。
だが、そのささやかな安らぎは、あまりにも呆気なく打ち砕かれる。
秋風が街を吹き抜ける夕暮れ時。
ミレーユは診療所からの帰り道、王都の賑やかな大通りを歩いていた。夕食の買い出しを終え、いつものように家路につこうとしていた、まさにその時だった。
高級サロンが立ち並ぶ通りの一角で、美しい金髪をなびかせた背の高い男が、華やかな貴族令嬢と並んで歩いているのが見えた。
見間違えるはずもない。第一騎士団の制服を着たレオンだった。
令嬢はレオンの腕にそっと手を添え、真剣な面持ちで何かを話している。レオンはいつもの騎士らしい笑みを浮かべ、彼女から手渡された小さな封筒を上着の内ポケットへと滑り込ませていた。
(あ……)
買い物かごを握りしめる指先が、白く強張る。
二人はそのまま、貴族の経営するらしい高級サロンの奥へと消えていった。
(……ああ、やっぱり。レオンには、私には言えない事情があるのね)
あの封筒、そして時折漂う薔薇の香り。レオンが自分には決して明かさない『秘密』と『交友関係』。
彼がどれほど自分に「愛している」と言ってくれても、彼が背負う世界と、平民である自分との間には、決して埋められない分厚い壁が存在していた。
◇
その日の夜。レオンが帰宅したのは、日付が変わる直前だった。
玄関のドアが開く音がして、静かな足音がリビングへと近づいてくる。ソファにぽつんと座っていたミレーユを見て、レオンは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐにいつもの甘い笑顔を作って近寄ってきた。
「ミレーユ! 起きててくれたんだ。ごめんね、今日は騎士団の書類仕事が長引いちゃって……」
そう言ってミレーユを抱きしめようと腕を伸ばすレオン。
その瞬間、彼の服からふわりとあの大人っぽい香水の匂いが漂った。そして彼の上着の内ポケットは、先ほどの封筒が入っているせいか、僅かに膨らんでいた。
ミレーユは、そっとレオンの手を押し返した。
「……レオン。嘘をつかなくてもいいのよ。大通りで、見かけたわ」
レオンの笑顔が、一瞬で凍りついた。彼は咄嗟に上着の内ポケットを押さえた。
「え……あ……ミレーユ、これは……!」
「ご令嬢から封筒を受け取っていたでしょう? ……いいの。問い詰めたいわけじゃないの」
ミレーユの声には、怒りも、激しい感情の波もなかった。ただ、低くて静かな、透き通った声だった。
「ち、違うんだミレーユ! あれは……断れなくて! 騎士団の仕事関係で、どうしても受け取らなきゃいけない物があっただけで……っ! 僕が好きなのは、愛しているのはミレーユだけなんだよ!」
焦ったレオンは狼狽し、ミレーユの前に膝をついてスカートの裾にしがみついてきた。その瞳には焦りの色が浮かんでいる。
「本当なんだ! 信じてよミレーユ! あんな子なんて一切興味はないんだ! 僕を嫌いにならないで……お願いだから、捨てないでぇ……っ!」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしてすがりついてくるレオン。
その姿に嘘がないことは分かっていた。彼は本当に、ミレーユを失う恐怖に怯えて泣いているのだ。
激しい怒りは湧いてこなかった。ただ、胸いっぱいの切なさと、諦めが満ちていく。
レオンは私を愛してくれている。けれど、きっと彼は、私に言えない重い秘密や仕事があるのだろう。彼は、高貴な令嬢たちと渡り合わなければならない世界に生きている。
私が彼の隣に居続けることで、彼は私に心配をかけまいと嘘をつき、必死に二つの世界を取り繕おうとして苦しんでいるのだ。
私と一緒にいることが、彼の足を引っ張り、彼の本当の未来を縛りつけている——。
「……レオン」
ミレーユは、膝元で泣きじゃくるレオンの金髪にそっと手を置いた。
「もう、無理をしなくていいのよ」
「え……?」
涙で濡れた顔を上げたレオンが、すがるような目で見つめてくる。
「私に隠し事をして、無理に笑わなくていいの。……私、あなたの恋人をやめるわ」
レオンの表情が固まった。言葉の意味を理解できず、口を半開きのまま固まっている。
「……え? なに、を……?」
「もういいの、レオン。あなたの邪魔をしたくないの」
ミレーユは静かに手を放すと立ち上がり、一度も振り返ることなく自分の荷物が置いてある部屋へと歩き出した。
「待って! ミレーユ! 嫌だ、どこに行く気なのさ! お願いだから僕を置いていかないで! ミレーユってば!」
背後でレオンの悲鳴のような叫び声と、必死に追いかけてくる足音が響いたが、ミレーユの決意が揺らぐことは、もう二度となかった。
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