第6話 診療所の異変
数日後の昼下がり。診療所の倉庫で、ミレーユは戸惑ったように眉をひそめた。棚に並べられた木箱が、いくつも空になっていたのだ。本来そこにあるはずの白い包帯が、どこにも見当たらない。
「おかしいわね……」
「どうしたんですか、ミレーユさん?」
奥から、診療所の下働きの少女アンナが心配そうに覗き込んできた。
「包帯が届いていないのよ。昨日、納品されるはずだったでしょう?」
ミレーユは手元の帳簿をめくり、何度も注文の控えを確認した。発注漏れはない。代金の手配も、いつも通りだ。それなのに、今日になっても懇意にしている商会から包帯が届く気配はまったくなかった。
「私が商会まで行って、配達されているか確認してきますね!」
「お願いできる? ごめんね、アンナ」
「はい!」
アンナは元気よく返事をすると、身につけていたエプロンを外し、急いで診療所を飛び出していった。
しかし、小一時間ほどして戻ってきた彼女の表情は、先ほどまでの明るさが嘘のように曇っていた。まるで何かに怯えているような、困惑と不安が入り混じった顔をしている。
「ミレーユさん……なんだか、すごく変なんです」
「変って、どういうこと?」
ミレーユは手を止め、アンナに向き合った。
「商会の人、すごく気まずそうにしていて……『詳しくは言えないけれど、しばらく納品を遅らせるように上の者から指示があった』って」
「納品を遅らせる? どうしてそんなことを……誰に言われたの?」
「それが……『相手の名前は絶対に言えない、言ったらうちの商会が潰される』って、怯えていて……」
嫌な予感がして、ミレーユの背筋がぞくりとした。
頭の片隅に、あの日の出来事がよぎる。豪奢なドレスを身に纏い、侮蔑の目を自分に向けていたミランダ・ヨーク伯爵令嬢の顔。
(……まさか、ね)
ミレーユはすぐに頭を振って、その恐ろしい想像を打ち消そうとした。
伯爵家の令嬢が、自分のような平民を困らせるためだけに、わざわざ商会に圧力をかけるなんて考えられない。いくら何でも考えすぎだ。ただの行き違いか、商会側の都合に違いない。そう自分に言い聞かせた。
しかし、不吉な予感は悪い方へと的中していく。
その数日後には、傷口の消毒に必要な薬品の納品が突然キャンセルされた。理由を尋ねても、業者は申し訳なさそうに頭を下げるばかりで、明確な理由を口にしない。
さらにその翌日には、役所に提出したはずの診療許可証の更新書類が「紛失した」として、衛生局から調査が入る騒ぎにまで発展した。
「最近、本当にどうなっちゃったのかしら……奇妙な事が重なりすぎているわ」
診察が終わった夕刻、診療所の同僚がぐったりとした様子で受付の椅子に深々と腰掛けた。
ミレーユは何も答えることができなかった。
偶然にしては、あまりにも都合が良すぎ、狙いが絞られすぎている。診療所の業務を直接麻痺させるような問題ばかりが、立て続けに起きていた。患者たちに大きな被害が出る前にどうにかしなければと、ミレーユの心は焦りと不安で塗りつぶされそうになっていた。
◇
「……ミレーユ?」
その日の夜。小邸へ帰宅したミレーユの顔を見るなり、出迎えたレオンが心配そうに首を傾げた。
騎士団の制服を脱ぎ、部屋着に着替えたレオンは、昼間の凛々しい雰囲気とは打って変わって柔らかい空気をまとっている。しかし、その瞳は、ミレーユの僅かな変化も見逃さなかった。
「何かあったの?」
「え? ううん、何でもないわ」
ミレーユは無理に微笑みを作ろうとしたが、レオンはすばやく歩み寄ると、彼女の両肩に優しく手を置き、じっと顔を覗き込んできた。
「嘘だね。今日のミレーユは、すごく元気がない」
「そんなことないわよ。ちょっと今日、患者さんが多くて疲れただけ」
「そんなことあるよ!」
レオンは即答した。少し眉を寄せて、子供のように、けれど決して譲らない強い目つきでミレーユを見つめる。
「ミレーユ、僕に隠し事はできないよ」
その真剣な表情に、ミレーユは思わずふっと緊張をほぐし、小さく笑ってしまった。
「本当に? どうしてそんなことが分かるの?」
「分かるもん。だって、僕、世界で一番ミレーユのことを見ているから」
まっすぐに、何の衒いもない言葉に、ミレーユは一瞬言葉を詰まらせた。
鼓動が少し早くなる。レオンの真っ直ぐな視線から逃げられないと悟った彼女は、溜息を一つ吐き出すと、ここ数日で起きた診療所の異変について、かいつまんで話すことにした。
「……だから、少し納品が滞っていて、対応に追われていただけなの」
「納品が遅れている?」
「ええ。包帯や、基本的な消毒薬なんかが……」
「薬も?」
「そうね。でも、きっと業者さんの都合だと思うわ」
レオンの表情が、ほんの一瞬だけ、凍りつくように変わった。ミレーユが気づく間もないほどの、僅かな変化だった。
「ねえ、ミレーユ。誰か、心当たりはある?」
ミレーユの胸が、ドクンと跳ねた。
脳裏にはっきりと浮かぶのは、あの高慢な伯爵令嬢の顔だ。
けれど……証拠もないのに、彼女の名前を口にしてレオンを巻き込むわけにはいかない。もし自分の誤解だったら、レオンの立場を悪くしてしまうかもしれない。
「……ないわ。思い当たる節なんて、何ひとつ」
ミレーユは嘘をついた。
レオンはミレーユの瞳を数秒間見つめ返していたが、やがて優しく目元を緩めた。
「そっか。……分かった」
それ以上、彼は何も追及しなかった。ただ、ミレーユの手を優しく包み込むと、静かな、けれど力強い声で告げた。
「じゃあ、明日から少しだけ気をつけてね。何か少しでもおかしいなって思うことがあったら、すぐに僕に言うこと」
「……うん。ありがとう、レオン」
レオンは包み込むようにミレーユを抱きしめた。彼女の頭に顎を乗せ、耳元で優しく囁く。
「大丈夫だよ」
「レオン?」
「僕がいるから。何があっても、ミレーユは僕が守る」
思いがけない言葉に、ミレーユは少し驚いて顔を上げた。
「……大げさよ。私はただ、包帯が届かなかったって話をしただけでしょう?」
「うん。でも、ミレーユが不安そうな顔をしてたから」
レオンはそう言って、ミレーユの髪を優しく撫でた。
「理由はまだ分からなくても、ミレーユが困ってるなら、僕が何とかするよ」
「……ありがとう」
その温かな体温に触れながら、ミレーユは深く息を吐き出し、彼の背中にそっと手を回した。
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