第5話 伯爵令嬢の焦燥と歪み
その夜。ヨーク伯爵邸へ戻ったミランダは、自室に戻ったミランダは、鏡台の前の椅子に腰を下ろした。
鏡に映る自分の顔をぼんやりと見つめる。涙で濡れた頬も、乱れた髪も、今はどうでもよかった。頭の中では、先ほどレオンから告げられた言葉が、何度も繰り返されている。
『僕が愛している女性は、ミレーユだけです』
『それを特別な愛情だと勘違いされては困ります』
「……どうして……」。何度思い返しても、胸が締めつけられる。
自分はただ、レオンに優しくしてもらえたことが嬉しくて、それが特別なものだと信じたかっただけなのに。
レオン・リンドン伯爵令息。
第一騎士団で小隊長を務め、社交界でもその美貌と優秀さで名を馳せる青年。これまで彼が自分に向けてくれていたのは、いつだって柔らかく、育ちの良さを感じさせる紳士的な微笑みだった。
だが、先ほど、彼が自分に向けた視線は何だったのだろう。
まるで、自分など大勢いる女の一人にすぎないと言わんばかりの、冷え切った瞳だった。その瞬間、ミランダは思い知らされた。自分が特別なのだと思っていたのは、どうやら自分だけだったのだと。
そして最後には、迷うことなく、あの平民の女――ミレーユの手を取った。そのまま自分には目もくれず、女を連れて去っていった。
遠ざかっていく二人の後ろ姿を見つめながら、ミランダは唇を噛み締めた。
「……どうして」
鏡の中の青ざめた自分に向かって、絞り出すように呟いた。
「どうして、私ではないの……?」
ミランダは誇り高きヨーク伯爵家の長女だ。
生まれながらに伯爵令嬢としての矜持を教え込まれ、幼い頃から厳しい貴族教育を受けてきた。立ち振る舞い、完璧な社交辞令、詩や音楽の教養、さらには家格にふさわしい優雅な礼儀作法。すべてを完璧に身につけてきた自負がある。
そんな彼女がレオンを意識するようになったのは、ここ最近のことだった。
騎士としての凛々しさと、伯爵令息としての気品を併せ持つ彼を知るうちに、ミランダの中に、ある思いが芽生えていった。
――自分のような女性こそ、彼の隣に立つのにふさわしいのではないだろうか。
それは、まだレオン本人から何かを約束されたわけでもない。ただ、ミランダ自身がそう信じているだけのことだった。
それなのに――「……あんな、どこの馬の骨とも知れぬ平民の女が?」
先ほどの二人の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。レオンが、何のためらいもなくミレーユの手を取り、自分を置き去りにして去っていった光景。
悔しさに、ミランダはドレスのひだを指先が白くなるほど握りしめた。胸の奥で、黒い嫉妬がゆっくりと渦を巻いていく。
贅沢なドレスを着ているわけでもない。宝石を身につけているわけでもない。
ただ王都の小さな診療所で、白衣を着て病人の世話をしているだけの女だ。手は荒れ、髪型も化粧も流行とは無縁。身につけているものも、どこまでも質素だった。
それなのに、なぜレオンはあの女を選んだのか。
「おかしいわ……こんなの、絶対に間違っている」
ミランダは整えられた爪が手のひらに食い込むほど、硬く拳を握りしめた。
レオン様は、きっと本当の愛というものを分かっていらっしゃらないだけだ。あの女の薄っぺらな優しさに毒され、目が眩んでいるだけに違いない。あの女がいつも側にいて、甲斐甲斐しく世話を焼くから、自分が本来手に入れるべき高位の貴族としての幸せを見失っているのだ。
そうだ。きっと、そうに違いない。
「……ほんの少しだけ、二人が離れればいいのよ」
誰もいない部屋で、ミランダは静かに呟いた。鏡の中の自分の口元が、歪んだ笑みを形作っていく。
「ほんの少し……困ればいいの」
あの女が。あの女の今の生活が、少しだけ苦しくなればいい。診療所で働き続けることが難しくなり、レオン様と顔を合わせる時間が減れば、いいのだ。
余裕を失った平民の女がどんなにあさましいかを知れば、レオン様だって目を覚ますはずだ。自分が誰を選ぶべきだったのか、自ずと理解されるに違いない。
ミランダは手元にあった手鏡を強く握りしめ、鏡台の鏡へと叩きつけた。
ガッシャン!!
鏡が大きな音を立てて割れ、破片が床へ飛び散る。
ひび割れた鏡に映った自分の顔は、いくつもの断片に分かれ、ひどく歪んで見えた。
それでもミランダは、自分がこれからしようとしていることが、人としても、貴族としても決して許されないことだとは気づいていなかった。
「……レオン様の隣にいるべきなのは、私よ」
そう呟くミランダには、自分こそがレオンに選ばれるべきだという思いを疑う理由など、もうどこにもなかった。
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