第4話 貴族令嬢の突撃と、身分の差
それから数日後のことだった。
診療所での勤務を終えたミレーユが、いつものように大通りへ出ると、人混みから頭ひとつ抜けた見慣れた金色の髪が向こうに見えた。
「あ……レオン?」
今日も迎えに来てくれたらしい。嬉しくなって足を速め、レオンに向かって手を振ろうとした――その時だった。
「まあ、レオン様!」
背後から聞こえてきた甘い声に、ミレーユは足を止めた。
聞き覚えのない声に振り返ると、すぐ後ろに豪奢な馬車が停まっている。ちょうどその扉が開き、淡い桃色のドレスを纏った若い令嬢が姿を現した。
艶やかな金髪を美しく結い上げ、首元には大粒の宝石。見るからに身分の高い貴族令嬢だった。
令嬢はミレーユには目もくれず、まっすぐレオンへと駆け寄っていく。
「……やあ、ヨーク伯爵令嬢。こんな場所でお会いするとは、珍しいですね」
レオンはいつものように、完璧な騎士の微笑みを浮かべた。
「ええ、本当に! お会いできるなんて。今日はなんて幸運なのでしょう!」
ヨーク伯爵令嬢と呼ばれた令嬢は、頬を染めながらレオンを見上げている。
「先日は本当にありがとうございました。あの時、階段から落ちそうになった私を支えてくださったでしょう?」
「いえ。あれは騎士として当然のことですから」
「まあ……!」
令嬢はますます嬉しそうに目を輝かせた。
足を止めたミレーユは、少し離れた場所からその様子を見つめていた。
(……綺麗な方)
自分とは何もかもが違う。
華やかなドレスも、整えられた髪も、上品な立ち居振る舞いも。そして何より、レオンの隣に立つ姿が、あまりにも自然だった。
「それでは、私はこれで」
レオンが丁寧に一礼する。
「あ……!」
令嬢が名残惜しそうに声を漏らした。
「レオン様、またお会いできますか?」
「王都におりますから、どこかでお会いすることもあるでしょう」
「まあ……!」
レオンは微笑んだだけだった。それでも令嬢は、まるで特別な言葉をもらったかのように頬を染めていた。
やがて彼女が馬車に乗り込むと、レオンはようやくミレーユに気づいた。
「ミレーユ!」
先ほどまでの凛々しい表情が、ぱっと崩れる。
「迎えに来たんだ! すれ違いになっちゃったら大変だと思って急いでたんだけど、会えて良かった!」
「……ええ。ありがとう」
「うん!」
レオンは嬉しそうに駆け寄ると、当然のようにミレーユの手を取った。
「帰ろう。今日はミレーユの好きな白パンを買っておいたよ!」
「本当?」
「うん! だから早く帰ろ!」
その笑顔を見て、ミレーユの胸が少しだけ温かくなる。
けれど、さっきの光景が、どうしても頭から離れなかった。
◇
翌日。診療所の昼休み、ミレーユが裏庭で昼食を取っていると、受付の女性が困ったような顔でやってきた。
「ミレーユさん、お客様なんだけど……」
「私に?」
受付の女性に声をかけられてミレーユが待合室へ向かうと、そこにいたのは昨日の金髪の令嬢だった。
「こんにちは。突然、ごめんなさいね」
「……はい」
「まあ……本当に、こんなところで働いていらっしゃるのね。レオン様の恋人ともあろう方が」
ミランダは診療所の中を見回すようにして、薄く微笑んだ。
「あなたと、少しお話ししたくて参りましたの」
「私と……ですか?」
「ええ」
令嬢は優雅に扇を開く。その表情は柔らかな微笑みを浮かべているが、目は笑っていなかった。
「それでは応接室へご案内いたします。こちらへ、どうぞ……」
ミレーユは、診療の邪魔にならないよう、重い気持ちのまま応接室へ向かった。
「単刀直入に申し上げますわね」
応接室のソファで向かい合うと、令嬢の表情から先ほどまでの柔らかさが消えた。
「レオン様から、お聞きしておりますのよ」
「……何を……でしょうか?」
「あなたとのことです」
ミレーユの胸がざわついた。
「レオン様はとてもお優しい方ですもの。身分の低い女性に対しても、決して冷たくなさらないでしょう」
「……」
「けれど、それを恋愛感情だと思い込んでしまう方も、いらっしゃるのね」
ミレーユは黙ってミランダを見つめた。
「私は、レオン様にとてもよくしていただいておりますの」
「そう……なんですね」
「先日も私を助けてくださいましたし、街でお会いした時も、とても丁寧に声をかけてくださったわ」
ミランダは誇らしげに胸を張る。
「だから、私は確信しておりますの」
「……何を?」
「レオン様の隣に立つのにふさわしいのは、私だと」
胸を刺されたような気がした。けれどミレーユは、静かに答える。
「それは、レオンが決めることではないでしょうか」
「まあ……!」
ミランダの眉がわずかに上がった。
「ずいぶん強気でいらっしゃるのね」
「強気だなんて……」
「では、申し上げますわ」
ミランダは扇を閉じた。
「あなたは平民でしょう? 私はヨーク伯爵家の娘、ミランダ。レオン様と同じ貴族の世界に生きる者ですわ」
「……はい」
「レオン様はリンドン伯爵家の御令息ですわ。これから騎士としてますます出世される方。その隣に立つ女性には、それ相応の身分と教養が求められます」
「……」
「あなた自身も、分かっているのではありません?」
その言葉が、胸の奥深くに沈んだ。
そんなこと、言われなくても分かっている。ずっと、自分でも考えていたことだった。
だからこそ、何も言い返せなかった。
「それに――」
ミランダが美しく微笑む。
「レオン様は、私には特別にお優しいのですもの」
その言葉だけが、妙に耳に残った。
◇
それから数日。
ミレーユの周囲では、小さな嫌がらせが続くようになった。
診療所へ届くはずだった包帯や薬品が別の場所へ届けられていたり、診療所宛ての手紙がなぜか紛失したり。
もちろん、誰がやったのか証拠はない。
けれど、ある日。
「ミレーユ様。ごきげんよう」
仕事を終えて診療所を出たところで、待ち構えていたように令嬢が声をかけてきた。
「……ヨーク伯爵令嬢様」
「ちょうどよかったわ」
彼女は周囲に聞こえるような声で言った。
「先ほどレオン様とお会いしたのです」
「……そうですか」
「私のことを、とても心配してくださいましたわ」
「レオン様が、あなたにそんなふうに心配してくださることはあります?」
ミレーユの胸が痛んだ。
けれど、その時だった。
「――ヨーク伯爵令嬢」
低い声が響いた。その声に驚いて二人が振り返ると、そこにはレオンが立っていた。
「レオン……」
ミレーユが呟く。
レオンは真っ直ぐミランダを見ていた。
「僕がいつ、あなたのことを特別に心配したんですか? ヨーク伯爵令嬢」
「え……?」
「先ほどの話です」
レオンの表情から笑みが消えていた。
「僕は、道端で転びそうになったあなたを支えただけです。昨日も、騎士として挨拶しただけでしょう」
「で、でも……」
「それを、どうして彼女を訪れてまで言うんです?」
ミランダの顔が青ざめる。
「私は……レオン様のお心を……」
「僕の心?」
レオンは静かに首を傾げた。
「僕が愛している女性は、ミレーユだけです」
「……!」
「僕は一度も、あなたに特別な気持ちを伝えた覚えはありません」
ミランダの唇が震える。
「ですが……私は、レオン様が私に優しくしてくださったから……」
「騎士なら、女性に親切にするのは当然です」
冷たい声だった。
「それを特別な愛情だと勘違いされては困ります」
「……っ」
「それから」
レオンはミレーユの隣に立った。
「診療所に何かしたのなら、もうやめてください」
「な、何もしておりませんわ!」
「……そうですか」
レオンは淡々と答えた。
「なら、それで結構です。調べれば、すぐにわかることですからね」
そしてミレーユの手を取る。
「帰ろう、ミレーユ」
「……うん」
歩き出した二人の背中を、ミランダは呆然と見つめていた。
やがて、その瞳から涙がこぼれ落ちる。
「どうして……」
震える唇を噛みしめる。
「どうして、あんな女のために……」
レオン様が、私を選ばないなんて。
その瞳に浮かんだ涙が、いつしか悔しさへと変わっていく。
「……私のほうが、ふさわしいのに」
誰にも届かない声が、夕暮れの街に消えていった。
◇
「ミレーユ、大丈夫?」
帰り道で、レオンが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……大丈夫よ」
「本当に?」
「うん」
ミレーユが微笑むと、レオンはようやく安心したように笑った。
「よかったぁ」
そして、ぐいっと肩を引き寄せる。
「今日はいっぱいミレーユに甘えるからね」
「ふふ。外ではあんなに格好よくしているのに」
「だって、ミレーユの前だから」
レオンは当たり前のように言った。
「僕がこんなふうになるの、ミレーユだけだよ」
その言葉に、ミレーユの胸が温かくなる。
けれど同時に――。自分だけが知っていると思っていた彼の『外の顔』が、やはり少しだけ遠く感じられた。
「ねえ、ミレーユ」
「なに?」
「帰ったら、ぎゅーってさせてね」
「もうしてるでしょう?」
「もっと!」
「もう……」
甘えるレオンに笑いながら、ミレーユはその手を握り返した。
今はまだ、この温もりだけを信じていたかった。
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