第3話 甘い言葉と小さな疑惑
その日の夜、夕食を終えたミレーユは、リビングの窓辺に立って小さな中庭を眺めていた。窓からは、心地良い風と、夜の街を行き交う馬車の音が聞こえている。
私は窓を閉め、カーテンを引きながら、ソファで剣の手入れをしているレオンを振り返った。
「ねえ、レオン」
「ん〜? な〜にミレーユ」
呼びかけると、レオンがこちらを見上げる。
柔らかそうな金髪が少し乱れ、整った顔で私を見上げる姿は可愛らしくて、とても王立第一騎士団の小隊長には見えない。
「……私って、やっぱり地味よね?」
「は? ……何を言ってるのさ! ミレーユは、世界で一番素敵な女性だよ!」
レオンがぱちぱちと瞬きをした後に、大きな声を張り上げた。
「でも、急にどうしたのさ!?」
「今日、街を歩く女性たちを見ていたら、皆さん、髪も綺麗に巻いてあって……。最近の市井の女の子たちの流行は、結い上げた巻き髪らしいのよ」
ミレーユは自分の長い栗色の髪を指先でつまんだ。
「私は平民だし。あなたの隣にいると、どうしても釣り合っていないような気がして……」
「そんなことないよ! 僕の金髪なんて、貴族なら珍しくもないよ! 僕は、ミレーユの栗色の髪が大好きだよ!」
即答だった。
レオンは剣を置くと、ソファから立ち上がり、ミレーユの立つ窓辺までやってくる。
「ミレーユはミレーユだよ! 僕は、ミレーユの髪も、目も、鼻も、唇も、全部、大好きだよ! 僕の大好きなミレーユを貶さないで!」
「でも……」
「でも、じゃないの!」
そう言って、レオンはミレーユの頬を両手で包み込んだ。ミレーユの大好きなレオンの緑色の瞳が、真剣にミレーユを見つめてくる。
「僕はミレーユが好き! 綺麗だから好きになったんじゃないし、スタイルが良いから好きになったわけでもないよ」
「……じゃあ、どうして?」
「ミレーユだから」
あまりにも真っ直ぐな答えに、ミレーユは思わず目を伏せる。
「僕がミレーユを選んだんだから、それでいいんだよ」
「……レオン」
「それに、ミレーユは僕が初めて会ったときからずっと最高に格好いいよ」
「私が?」
「うん。僕が骨折の治療中に、『痛い』って叫んだら、『大騒ぎしないでください!』って怒ったんだよ?」
「だって、レオンったら、本当にうるさかったもの……」
「そこ!」
レオンが嬉しそうに笑った。
「そういうところが好きなの。僕が何を言っても、ミレーユは僕を特別扱いしないんだもん」
「……褒めてるの?」
「もちろん!」
レオンはそう言うと、ミレーユのおでこに自分のおでこをコツンとくっつけ、目を見つめながら甘い声で囁いた。
「だから、もうそんなこと考えないで」
「……うん」
レオンの温かな体温が伝わってくる。こうしていると、胸の中にあった不安が少しずつ薄れていく気がした。
◇
一週間前、レオンのポケットから落ちたあの見知らぬレースのハンカチ。そして、先日の休日に二人で街を歩いていた時のことが、ミレーユの脳裏をよぎる。
『あの……第一騎士団のレオン様ですよね? 私、ファンなんです!』
大通りで声をかけてきた若い女性に対し、レオンが見せたのは、家での甘えた顔とは似ても似つかない、隙のない高潔な騎士の微笑みだった。
『そうですが、何でしょうか? すまないが、今日は非番でね。大切な恋人と買い出しの最中なんだ。気持ちだけ受け取っておくよ』
相手を傷つけず、けれど一切の付け入る隙を与えない、洗練された完璧なマナーと紳士的な対応。声をかけた女性は、断られたことすら忘れたようにその美しい顔と気品に圧倒され、うっとりと頬を染めて立ち尽くしていた。
(……外でのレオンは、いつだってあんなふうに完璧だ)
誰にでも隙なく親切で、誰をも無自覚に魅了してしまう高貴な彼。
『恋人がいる』とはっきり言ってくれた嬉しさの反面、令嬢たちの憧れの騎士の隣に立つ自分が、あまりにも釣り合っていないように思えて仕方がなかった。
帰宅すると、レオンは心配そうな表情を浮かべて、どこか元気のない私を気遣ってくれる。
「ミレーユ?」
「……なに?」
「また難しい顔してる。何か気になることでもあるの?」
レオンが心配そうにミレーユの顔を覗き込んでくる。
「ねえ、何かあった?」
「ううん。……何でもないわ」
「本当に?」
「本当よ」
「じゃあ……」
レオンは少し考えたあと、ミレーユの腰に腕を回した。
「ぎゅーってしてもいい?」
「もうしてるでしょう?」
「もっと! ミレーユが足りない!」
「ふふ」
私もギュッと抱きしめ返すと、レオンは嬉しそうに頬を緩めた。
「やっぱりミレーユ、大好き!」
「私も」
毎日こうして一緒に暮らしている。レオンの言葉を疑いたくなんてない。それなのに、心のどこかに刺さった小さな棘だけは、どうしても消えてくれなかった。
◇
その頃。王都の中心部から離れた場所にあるリンドン伯爵邸では、晩餐後の静かな時間が流れていた。
「レオン様から連絡が届いております」
執事から封書を受け取ったリンドン伯爵家の当主ギルバートは、封を切って目を通す。
「……またミレーユの話か」
隣にいた伯爵夫人バーバラが微笑む。
「レオンは、何ですって?」
「今度の休日には、ミレーユさんを連れて温室の花を見に来たいそうだ」
「まあ」
夫人は嬉しそうに笑った。
「本当に、あの子はミレーユさんが大好きなのですね」
「ああ、本当にな。あそこまでの執着、いったい誰に似たものやら」
伯爵も小さく笑う。
三男のレオンが、あれほど『何か』を大切にする姿を、両親はこれまで見たことがなかった。
「最初はどうなることかと思いましたけれど……」
「平民の娘との交際だからな」
「ええ。でも、あの子を見ていると、反対する理由などなくなってしまいますわね」
伯爵夫人は静かに窓の外へ目を向ける。
「ミレーユさんは、レオンをちゃんと叱ってくれるでしょう?」
「ああ。あの甘え癖のひどい息子には、ちょうどいい」
「ふふっ」
二人は顔を見合わせて笑った。
リンドン伯爵家は、古くから王家に仕えてきた家柄だった。表向きは武門の名家。そして、王家から与えられた役目の中には、表には決して出ないものもあった。
だからこそ、伯爵夫妻は人を見る目に長けていた。そして、息子が誰を大切にしているのかも、ずっと前から分かっていた。
「……ミレーユさんが、本当にレオンを愛しているのなら」
伯爵は届いた手紙を丁寧に畳んだ。
「我々にとっても、守るべき家族だ」
「ええ」
夫人は穏やかに頷く。
「ミレーユさんには、何も心配せずにレオンの隣にいて欲しいですわね」
「ああ」
その言葉には、伯爵家当主としての揺るぎない決意が込められていた。
◇
二人は寝支度を済ませ、あとはベッドに入って眠るだけ。そんな穏やかな夜だった。
「レオン、明日の朝は早いんでしょう?」
「うん……」
「だったら、もう寝ましょう」
「え〜、もう少しだけミレーユと話したいなあ」
「駄目」
「あと五分!」
「さっきも聞いたわ、それ」
「じゃあ三分!」
「……もう」
甘えるレオンに呆れながら、ミレーユは笑った。
この人は、本当に私を愛してくれている。そう思いたいし、信じたかった。
だからこそ、胸の奥に芽生え始めた小さな疑念を、ミレーユはまだレオンにぶつけられずにいた。
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