第2話 泣いて頼み込んできた年下騎士は、甘え上手な恋人
「おはようございます」
受付のスタッフと軽く朝の挨拶を交わしながら、白を基調とした診療所に入ると、待合室にはすでに数人の患者が腰掛けていた。
「ミレーユさん、おはよう! 今日もよろしくね」
職場の先輩であるアンナが診察の準備をしながら声をかけてくる。
「おはようございます、アンナさん。すぐ着替えてきますね」
控室で白衣に着替え、髪を一つに束ねる。
鏡に映る自分の顔は、落ち着いた栗色の髪に、控えめな淡い茶色の瞳。平民の自分には、華やかさとは縁遠い地味な佇まいがよく似合っていた。レオンの眩しいほどの容姿に比べたら——そんな引け目を、時折感じてしまう。
診療が始まると、レオンについて考える余裕などなくなった。次々と訪れる患者の手当て、処方箋の確認、医師の診療の介助。息をつく暇もないほど忙しい時間が流れる。
昼過ぎ、ようやく取れた短い休憩時間に、ミレーユは診療所の裏庭にあるベンチに腰掛け、用意してきたランチボックスを開き、サンドイッチを頬張る。
そこで、ふと朝のレオンの顔が脳裏に浮かぶ。
(最近、レオンの服から時々、私の香水ではない甘い匂いがする……)
それが、ミレーユの密かな悩みだった。
最初は、レオンが仕事で接触した人や、騎士団を訪れる貴族の令嬢たちの香りが移っただけだと思おうとした。レオンは人気がある。握手を求められたり、プレゼントを贈られたりすることもしょっちゅうだ。
人懐っこく愛くるしい美形の騎士。高位貴族出身で剣の才能にも恵まれたレオンなら、このまま騎士団で順調に出世していくのだろう。眩しい彼と並ぶたび、どこか遠い世界の人間のようにも思えてしまう。
◇
ふと、彼と出会った二年前のことが思い出される。
当時二十歳だったミレーユのもとに、騎士団に入ったばかりの十八歳のレオンが、訓練中の骨折で運び込まれてきた時のことだ。あまりの激痛に耐えかねて「痛い! 死んじゃう!」と涙目で大騒ぎするレオンに対し、ミレーユは「大騒ぎしないでじっとしてください! 処置の邪魔です!」と容赦なく一喝。そのまま毅然とした態度で、手際よく医師の処置を手伝った。白衣姿で毅然と立ち回るミレーユに、レオンが一目惚れしたのだ。
『僕と付き合ってください! ミレーユさんが好きです!』
怪我が治ってからも毎日のように診療所に通い詰め、無邪気で真っ直ぐな瞳でグイグイと迫ってくるレオン。リンドン伯爵家の三男という華やかな家柄の彼に対し、自分はただの平民に過ぎない。おまけに二歳も年上だ。身分違いと年齢差に躊躇し、何度も断ろうとしたミレーユだったが、レオンの熱烈で一生懸命なアプローチに根負けし、付き合い始めたのが二年前。
だが、お互いに変則的な勤務体系。なかなか会えないすれ違いの日々に痺れを切らしたレオンが、ある日、ポロポロと涙をこぼしながら訴えてきた。
『ミレーユに会えないと死んじゃう! お願いだから、一緒に暮らして!』
もちろん、婚約もしていない男女が一つ屋根の下で二人きりで暮らすなど、社会ではまだ珍しい。だが、レオンの両親であるリンドン伯爵夫妻は、すでに私たちの交際を知っていた。
身分こそ違うものの、爵位を継ぐ立場ではない三男坊のレオンと、平民の私との結婚を、伯爵家は頭から反対しているわけでもない。むしろ、いずれレオンが騎士爵を得たら、正式に結婚するものと考えられているらしい。
そこで用意されたのが、リンドン伯爵家が王都に所有していた小さな別邸だった。そこには最低限の侍女と庭師の夫婦が住み込みで働いていた。私たちは、まだ婚約者ではない。だからこそ、完全に二人きりにならないよう最低限の体裁は整えられていた。
それでも、レオンにとっては私と暮らせるだけで十分だったらしい。
そうして始まったのが一年前——レオンが十九歳、私が二十一歳の時から続く、同居生活だった。
レオンは、事あるごとに『早く僕と結婚しよう!』と言い続けてくれている。
けれど、私は一度も首を縦に振れずにいた。伯爵家の令息である彼と、平民である私。その家格の違いが、どうしても気になってしまっていたのだ。
それに、私は彼より二歳年上だ。
もちろん、それだけで結婚を躊躇うほどの差ではないことくらい、頭では分かっているけれど、何より私を踏みとどまらせているのは——レオンの中に残る、幼さと甘えだった。
私に会えないだけで泣き出し、『一緒に暮らしたい』と駄々をこねる。
そんな彼を愛おしいと思う気持ちと同時に、この人に一生を預けてしまって本当に大丈夫なのだろうかという不安も、消えてくれなかった。
その不安は、嫌な形で的中し始めていた。
先週の夜。レオンが『仕事の付き合いだった』と言って遅く帰ってきたとき、彼の首元にかすかに残っていたのは、艶やかな大人っぽい薔薇の香りだった。
さらに、彼のポケットから落ちた女物のハンカチ。ミレーユのものではない、繊細なレースが施されたそれを、レオンに尋ねると『あ、通りがかりの令嬢が落としたのを拾っただけだよ! 騎士団に届けようと思って、そのままポケットに入れて忘れてたんだ』と焦った様子で笑っていた。
(信じたい。レオンの言葉を信じたいけれど……)
レオンは優しい。家では自分だけに無邪気に甘えてくれるけれど、一歩外に出れば、誰もが憧れるリンドン伯爵家の令息で、憧れの第一騎士団の小隊長だ。誰にでも隙のない優しさと誠実な対応を見せる彼だからこそ、行く先々で無自覚に女性たちを魅了してしまう。
ポケットのハンカチも、本当にただ親切に落とし物を拾っただけかもしれない。けれど、その誰にでも分け隔てなく接してしまう彼の世界に、平民の自分が踏み込めていないような寂しさが、どうしても消えなかった。
高貴で華やかな令嬢たちに囲まれる彼の姿と、診療所の白衣を着た自分。
もし、彼が本当に必要としているのが、私のような平民ではなく、あの完璧なエスコートにふさわしい身分ある貴族女性なのだとしたら——。
(もし彼が、私の存在を『負担』に感じ始めていたらどうしよう……)
『ミレーユしかいない』という彼の甘い言葉を信じたい反面、日に日に増していく身分差の壁が、ミレーユの胸を重く締め付けていた。
「はあ……」
重い溜息が口から漏れた。自分の考えすぎかもしれない。レオンはあんなに可愛らしく自分を求めてくれるのだから。今朝だって、あんなに甘えて『ミレーユしかいない』と言ってくれた。婚約だって申し込んでくれているのだ。
自分は年上なのだから、もっとドシッと構えて彼を信じてあげるべきなのではないか。疑うような真似をして、二人の関係を壊したくはない。
「ミレーユさん、急患が運び込まれるって!」
アンナの声が裏庭に響き、ミレーユはハッと我に返った。
「はい、すぐ行きます!」
頬を両手でパンッと叩き、モヤモヤとした気持ちを頭の隅に押しやる。急いで残りのサンドイッチを口に放り込み、診察室へと急ぐ。今は仕事に集中しなければならない。
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