第21話 バカな女の暴挙
ミレーユが戦場で倒れてから、季節は厳しい冬を越え、緑が芽吹く春を迎えていた。
ケビンが王都へ戻ってから、半年余りが過ぎていた。重症だった兵士たちも、少しずつ馬車での長旅に耐えられるまでに回復し、順番に王都へ帰還していった。それに伴い、役目を終えた野戦病院も縮小され、今月いっぱいで閉鎖されることになっている。
ミレーユは一度も意識を取り戻さなかったが、レオンは片時も彼女のそばを離れなかった。レオンは第一騎士団に退団届を提出したものの受理されず、未だ『休職扱い』のまま彼女に寄り添い続けている。
そして、明日、ミレーユもついに意識不明のまま王都へ帰る。リンドン伯爵家が手配した、寝た状態のまま移動できるよう特別に改装された馬車で、レオンと共に戻るのだ。
レオンは慣れた手際でミレーユの身体を拭き、着替えさせると、ケビンから直接指導された手技で鼻の管から栄養剤を注ぐ。
それでも、ミレーユの身体はこの半年でかなり痩せてしまった。オイルを念入りに塗り込んではいるものの、肌の張りは失われ、どこかカサついている。爪を丁寧に切り、髪をブラッシングして器用に三つ編みを編み込んでいく。それらはすべて、この半年で手慣れたレオンの日課だった。
レオン自身の髪もかなり伸びたが、手入れをする気もなく、邪魔だからと後ろで結わえている。面倒だからと伸ばしっぱなしの髭のせいで、かつての甘く可愛らしかった面影は消え、どこか野性味のある男へと変わっていた。けれど、その魅力的な美貌に変わりはない。
意識のない平民女性の介護をし続ける『王都から来た美貌の騎士様』は、地元の女性たちの間でも注目の的だった。だが、レオンが彼女たちの誘いに乗ることは一度たりともなく、頑なな態度を崩さなかった。その一途な姿がさらに好印象を与え、レオンの人気は高まる一方だった。
「ミレーユ、明日は、いよいよ王都へ向けて馬車の旅だよ。……君が、どんな気持ちでこんな最前線へとやってきたのかを思うと、今でも胸が張り裂けそうになる。こんなことになったのも、全部僕のせいだ……。ごめんよ、代われるものなら、僕が代わりに倒れたかったのに」
レオンはミレーユの変わらぬ寝顔を見つめながら、ぽろぽろと涙をこぼした。この半年で、どれほどの涙を流したか分からない。
「二人で暮らした、あの家に戻りたかったんだけど……母上が『ミレーユさんは我が本邸で療養してもらいます』ってきかなくてね。ミレーユの部屋も綺麗に改装したんだよ。ミランダ義姉上も、兄上たちも君の帰りを待っている。一緒に帰ろう、王都へ」
愛おしそうに語りかけるレオンの言葉に、ミレーユの寝顔は変わらない。
時折、うわごとのように「レオン……」と彼の名前を呟くことだけは続いていたが、その瞳が開かれることはなかった。
やがて、レオンが身支度と汗を流すために病室を後にした。
レオンが去り、静寂に包まれた病室。その中で——ミレーユの指先と瞼が、かすかに動いた。けれど、それに気づく者は、まだ誰もいなかった。
◇
「ふう。これですっきりしたね。さあ、ゆっくり休んで」
下の処理と清拭と着替えを済ませて、レオンは眠り続けるミレーユの額にそっと口づけた。
この半年余り、レオンがミレーユのそばを離れることはほとんどなかった。
食事の介助も、身体を拭くのも、髪を整えるのも、すべて自分の手で行ってきた。ほんの少しでも離れるときには、必ず信頼できる誰かにミレーユを託していた。
だが、この日は違った。
「レオン様! 大変です!」
野戦病院の外から、村人が血相を変えて駆け込んできた。
「近くの宿舎で男が暴れています! 酒に酔って、周囲の者に手を上げているようで……! 子供も巻き込まれているようで、助けてください!」
レオンは眉をひそめたが、すぐにミレーユへ視線を戻す。
「……分かった。すぐに行く」
そして、病院の入口にいた小間使いの老婆へ声をかけた。
「お婆さん、悪いけど、少しの間だけミレーユを見ていてくれる? 今日の処置は済んでいるから、見守ってくているだけで大丈夫だよ」
「はい、もちろんでございますよ。ほら、早く行ってあげてくださいな」
「ありがとう。何かあったら、すぐ僕を呼んで」
「ええ、承知しておりますとも」
レオンはもう一度病室へ戻ると、ミレーユの寝顔を見つめた。
「ミレーユ、ちょっと出てくるけど、すぐ戻るからね」
そう囁くと、後ろ髪を引かれる思いで幕舎を出ていった。
それから、ほんのわずかな時間だった。
「……ここにいるのね」
老婆の背後から、女の声がした。
「まあ、あんた……どうやってここへ?」
「レオン様に頼まれたの」
そう答えたのは、最近になって野戦病院へ顔を出すようになった村の若い女だった。
王都から来た素敵な騎士様。誰にでも平等に接し、しかも眠り続ける女性の世話をしているレオンは、いつの間にかこの土地の女たちの間でも『憧れの騎士様』として有名になっていた。この女も、騒いでいた女の一人だった。
「レオン様から、この人のお世話を頼まれたの。私が代わるわ」
「本当にレオン様から頼まれたのでしょうね?」
老婆は念を押すように女を見つめた。
「えっ、ええ。レオン様に直接、頼まれたのよ。本当よ!」
「……そうですか。レオン様がそうおっしゃったのなら……」
老婆はなおも怪訝そうな顔をしていたが、女がレオン本人から頼まれたと言う以上、強く拒むこともできなかった。
「それじゃあ、少しの間頼みますよ」
「ええ。任せて」
老婆が幕舎を出ていくと、女は一人、ベッドへと近づいていった。
そこには、半年以上眠り続ける茶色の髪の女がいた。その頬は痩せ、茶色のパサついた髪は丁寧に三つ編みされている。その髪を、あの騎士が毎日手入れしているのだ。身体を拭き、着替えさせ、眠る彼女に愛を囁く。
女の胸の奥に、どす黒い嫉妬が湧き上がった。
「……どうして」
女は唇を噛んだ。
「どうして、あんたなの?」
返事はない。茶色の髪の痩せこけた女は、ただ静かに眠っている。
「あんたは、何もできないじゃない」
震える声が漏れる。
「目も開けない。話すこともできない。騎士様を抱きしめることもできない……」
それなのに。それなのに騎士様は、この女から離れない。女の視線が、ベッドの茶色の髪の痩せこけた女の顔から鼻へ伸びた細い管へと移った。
「……この女さえ、いなければ」
小さく呟いた。
「騎士様は、私を見てくれるのに」
震える手が伸びる。そして——。細い管を、乱暴に掴んだ。
「こんなもの……!」
一気に引き抜く。
「——っ!」
ミレーユの身体が僅かに跳ねた。傷ついた鼻粘膜から鮮血が流れ出し、白いリネンに赤い点を作った。
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