第12話 逃げ場所ではなく、自分の足で
「……本気で、王都を出るつもりかい?」
ケビンは湯気のあがるハーブティーのカップを置き、真剣な眼差しでミレーユを見つめた。
「ええ。北方国境近くにある野戦病院兼診療所への、医師助手の派遣の件……前々から募集が出ていたでしょう? あそこに応募しようと思うの」
「正気かい、ミレーユ!? あそこは王都から馬車で一週間もかかる寒村だぞ。隣国との緊張も高まっている地域だ。王都の診療所で働いていた方がずっと安全だし——」
「王都にいたら、きっとレオンに迷惑をかけてしまうわ」
ケビンの言葉を遮り、ミレーユはまっすぐにケビンを見つめた。
「レオンは……『離さない』と言っていたわ。同じ王都にいて、診療所に勤め続けていたら、きっと彼は毎日様子を見に来てしまう。私に気を取られて、彼が背負っている大切な仕事や騎士としての責務に集中できなくなってしまうわ。それに……私自身も、彼の顔を見るたびに胸が苦しくなってしまうの……だって……好きなんだもの」
ケビンは言葉を失い、ぐっと唇をかみしめた。
「ミレーユ……」
「完全に身を引くためにも、一度レオンの手の届かない場所へ行きたいの。それに北方の診療所なら、私の経験を存分に活かせるわ。身分もしがらみも関係ない場所で、一人の助手として誰かの役に立ちたいの」
ミレーユの強い決意に、ケビンは深く溜息をついた。そして、諦めたように眉を下げて苦笑する。
「……はあ、君が一度こうと決めたら昔から頑固で聞かないもんね。分かったよ。僕からも、院長に話が通るよううまく根回ししてあげる。名門フォード伯爵家の四男坊、ケビン様のお手柄だと思って感謝しなよ?」
「……ケビン、本当にありがとう」
◇
二人で暮らしていた小邸は、かつての温かな幸せが嘘のような静けさに満ちていた。
レオンはリビングのソファに腰掛けたまま、ぽつんと空間を見つめていた。ミレーユが『宿直するわ』と言って出ていってから、もう何時間が過ぎたのだろう。
(大丈夫。今夜は仕事なんだから、明日には帰ってくる。帰ってきたら、もう一度ちゃんと抱きしめて……僕の本当の気持ちを伝えよう……)
そう自分に言い聞かせながらも、胸のざわめきは収まらない。レオンは突き動かされるように立ち上がると、二階の寝室へと向かった。
クローゼットを開ける。ミレーユの少ない服が置いてあった場所。
身の回りの最小限の貴重品や、彼女が大切にしていた医師助手の資格証までなくなっている。
「あっ……! まさか、あのボストンバッグに……!」
血の気が一気に引いていく。
「ミレーユ! ミレーユぅ……っ」
床に崩れ落ち、頭を抱え込む。
(どうして……どうして気づかなかったんだ!)
レオンは激しい自責の念に押し潰されそうになっていた。
自分は『ミレーユを守るため』『危険な不正調査に巻き込まないため』と自分に言い訳をし、彼女に何も明かさず、外では高貴な騎士として令嬢たちと渡り合っていた。
ミレーユを愛しているからこそ、彼女の前では甘え、癒やしを求め……けれどその裏で、彼女がどれほど自分との『身分の差』や『見えない秘密』に傷つき、置き去りにされたような寂しさを抱えていたのか、何一つ理解していなかったのだ。
『大切な人を守るということは、その人の心に寄り添うことだ』
かつて父から教わった言葉が、鋭い刃となって胸に突き刺さる。
(仕事だから、ミレーユのためだからって……僕は彼女の寂しさに目をつぶり、自分の都合で彼女の優しさに甘えていただけじゃないか! 僕が完璧な騎士を演じている間、ミレーユがどれほど惨めで、切ない思いで僕を見つめていたか……!)
ミレーユが『疲れがとれるのよ』と淹れてくれた温かいハーブティーの味。疲れて帰った夜に『お帰りなさい』と微笑んでくれた優しい顔。彼女がこの家で築いてくれた温かな日々を、自分の無神経さと愚かさで壊してしまったのだ。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ! ミレーユ、頼むから僕を捨てないで……っ!」
涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、レオンは玄関へ向かった。夜明け前の王都の街を上着すら羽織らずになりふり構わず走り出した。
「ミレーユ! ミレーユ……っ!」
冷たい秋風が吹き抜ける石畳の街並みを、愛する人の名を叫びながら駆ける。
ミレーユが宿直をしているはずの診療所へ到着したが、そこに彼女の姿はなかった。見知った宿直の助手に声をかける。
「あら? レオン様。ミレーユさんなら、今日の勤務は日勤でしたから夕方に帰られましたよ。今夜の夜勤担当ではないですね」
「……えっ!? あっ、そうですか。……やだな、僕が日付を勘違いしちゃったみたいです。すみません、夜分にお邪魔しました」
レオンは激しいショックを受けながらも、ミレーユの評判を落とすわけにはいかないと、引きつる顔に精一杯の笑顔を浮かべた。
『宿直をするわ』という言葉は、レオンを安心させ、追及をかわすためのミレーユの嘘だったのだ。
彼女が本気で自分のもとを去ったのだと知り、レオンは路上に力なく膝をついた。冷たい朝靄の中、愛する人の温もりが完全に消え去ってしまったことを思い知り、レオンはただ絶望に震えていた。
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