第8話 商会の帳簿は嘘をつかない
カレン・ベルシア。
その名を聞いた瞬間、作業場の空気が少し変わった。
ミラは露骨に眉を寄せた。
セリアは少しだけ姿勢を正した。
魔道具ギルドの見習いたちは、作業の手を止めないふりをしながら、ちらちらと入口の方を見ている。
それだけで分かる。
この女性は、ただの商人ではない。
「あら。歓迎されていないみたいね」
カレンは柔らかく微笑んだ。
年齢は二十代後半ほど。
落ち着いた色の上質な服。
ゆるく巻いた髪。
指先には細い銀の指輪。
声も表情も穏やかだった。
だが、視線だけは違う。
封印箱。
作業台の上の魔光灯。
ミラの工具。
セリアの剣。
そして、シュウ。
それらを一瞬で確認していた。
(商人というより、交渉人だな)
シュウはそう感じた。
相手の表情、立ち位置、道具、会話の温度。
そういうものを見て、次の言葉を選ぶ人間の目だ。
「歓迎する理由がないだけ」
ミラが短く言った。
「うちの作業場に、出所不明の術式片が持ち込まれた。その経路にベルシア商会の名前が出た。あなたなら、どう歓迎する?」
「お茶くらいは出すかしら」
「冗談の気分じゃない」
「でしょうね」
カレンは微笑みを崩さなかった。
けれど、その声から少しだけ柔らかさが消えた。
「こちらも冗談で来たわけではないわ。ベルシアの名が不正な荷に使われたなら、放っておけないもの」
ミラは封印箱を指で軽く叩いた。
「使われた、ね」
「ええ」
「自分たちは関係ないと?」
「そう言いたいところだけれど、商売でそれを言うと信用を失うわ」
カレンは一歩、作業場の中へ入った。
「正しくは、こうね。ベルシア商会の正式な出荷記録には、その赤い印の木箱は存在しない。ただし、うちの倉庫名が使われた以上、どこかで誰かがベルシアの流れに紛れ込ませた可能性はある」
その言い方に、シュウは少しだけ目を細めた。
責任逃れではない。
だが、認めすぎてもいない。
線引きがうまい。
(この人、相当やり手だ)
カレンの背後に見える金色のような魔力の流れは、細く複雑に絡み合っていた。
黒ではない。
白でもない。
いくつもの線が、商会の倉庫、取引先、人、荷車、金、契約へ伸びているように見える。
シュウは無意識に、その流れを追いかけそうになった。
その瞬間、目の奥が少し痛んだ。
(追いすぎるな)
昨日から魔流視を使い続けている。
見ようとすれば見える。
だが、見えるからといって、見続けていいわけではない。
シュウは軽くまばたきをした。
カレンの視線が、こちらへ向く。
「あなたが、シュウさんね」
「はい。シュウ・サエキです」
「魔力の流れが見える、と聞いたわ」
その言葉に、セリアが少しだけ反応した。
ミラも不機嫌そうに目を細める。
「誰から聞いたの」
「組合から正式に聞いたわけではないわ。ただ、倉庫で騒ぎがあれば噂は流れる。商会は噂で荷を守る仕事でもあるの」
「嫌な仕事ね」
「ええ。嫌な仕事も多いわ」
カレンはそう言ってから、シュウへ向き直った。
「あなたには、この箱がどう見えたのかしら」
その口調は丁寧だった。
だが、ただの好奇心ではない。
商会の名を守るため。
損害を見積もるため。
誰を信じ、誰を切るか判断するため。
そういう目的を含んだ問いだった。
シュウは少し考えてから答えた。
「濁った流れが見えました。魔力を持つものに寄っていくように見えました。薬草や魔石に反応していたので、放置すると周囲の素材に影響すると思います」
「人には?」
「分かりません。ただ、近くにいたジノがくしゃみをしていました。体調への影響がないとは言い切れません」
「ジノ・バレット?」
カレンの眉が、ほんのわずかに動いた。
シュウはその変化を見逃さなかった。
「知っているんですか?」
「名前だけね。低ランクのアヴァントゥリーストで、薬師ギルドへの出入りが多い子でしょう」
セリアが小さく頷く。
「ジノは、よく薬師ギルドに行ってます」
「そう」
カレンは短く答えた。
それ以上は言わなかった。
だが、シュウの胸に小さな引っかかりが残る。
薬師ギルド。
ジノ。
薬代。
低品質の魔石。
安い魔道具部品。
点と点が、まだ細い線にもならないまま、頭の中に並んでいた。
「カレン」
ミラが低い声で言った。
「この術式片、正規の品じゃない。でも、作りは完全な素人仕事でもない。粗いけど、目的はある」
「目的?」
「低品質の魔石から、無理に魔力を引き出す。そういう作りに見える」
カレンの表情が、そこで初めてわずかに曇った。
「……そう」
「心当たりがあるの?」
「需要ならあるわ」
カレンは静かに答えた。
「良質な魔石は値上がりしている。魔光灯も、保温具も、治癒補助具も、魔石がなければ動かない。でも、安い魔石は不安定で長持ちしない」
彼女は作業台の上の壊れた魔光灯へ視線を落とした。
「だから、安い魔石でも長く使える補助部品があれば、欲しがる人は多い」
「でも、これは周囲を濁らせる」
ミラの声は硬い。
「分かっているわ」
「分かっていて流していたなら、問題よ」
「分かっていたら流さないわ。少なくとも、ベルシアの名ではね」
カレンの声が、少しだけ鋭くなった。
柔らかい笑みは残っている。
だが、その奥にある商人としての誇りが見えた。
「契約は紙ではなく信用で動く。信用を汚す商売は、長く続かない」
その言葉に、シュウは前の世界の取引先を思い出した。
納期。
品質。
数量。
検査成績書。
どれも紙に書く。
だが、本当に積み上がるのは信用だった。
一度失えば、取り戻すのは難しい。
「商会の帳簿を確認させてもらう必要がある」
ミラが言うと、カレンは少しだけ笑った。
「魔道具整備士に商会の帳簿を見せる趣味はないわ」
「逃げるの?」
「違うわ。見るなら、見方を知っている人間を連れてきなさい」
カレンの視線が、シュウへ向いた。
「彼なら、面白いかもしれない」
「俺ですか?」
思わず聞き返す。
「ええ。あなたは流れを見るのでしょう? 商売も流れよ。物の流れ、金の流れ、人の流れ、記録の流れ。そのどこかが詰まれば、必ず歪みが出る」
その言葉に、シュウは黙った。
まさに、自分が前の世界で見ていたものだった。
部品が足りない時。
外注先から納品が遅れる時。
帳簿上の在庫と現物が合わない時。
問題は、いつもどこかの流れにあった。
「ただし」
カレンは微笑みを深めた。
「商会の帳簿は、誰にでも見せるものではないわ。組合、魔道具ギルド、そしてベルシア商会。それぞれ立ち会いの上で、必要な範囲だけ確認する。それが条件」
「随分と慎重ね」
ミラが言う。
「商人は慎重でなければ、すぐに食われるもの」
カレンは淡々と答えた。
その声には、ただの余裕ではない何かがあった。
苦労を知っている者の声。
シュウはそう感じた。
◇
ベルシア商会の倉庫は、アルメリアの南側にあった。
魔道具ギルドから歩いて十五分ほど。
通りが少し広くなり、荷車の数が増える。
商会区。
セリアがそう説明した。
石造りの倉庫が並び、荷を積んだ馬車が行き来している。
建物の前では、商人や運搬人が忙しく声を交わしていた。
「こっちは初めてだな」
シュウが言うと、セリアが頷いた。
「私もあまり来ないかな。依頼で護衛に来ることはあるけど」
「ミラさんは?」
「私は嫌い」
ミラは即答した。
「帳簿と契約と値引き交渉の匂いがする」
「それは商会区だから仕方ないんじゃないか」
「だから嫌いなの」
ミラは不機嫌そうに言った。
カレンは少し前を歩きながら、くすりと笑った。
「でも、あなたたちの魔道具部品も、素材も、工具も、商会を通らなければ届かないものが多いわ」
「分かってる。だから余計に嫌」
「正直ね」
「嘘を言っても魔道具は直らない」
「その言い回し、あなたらしいわ」
二人は仲が悪いのか、悪くないのか分からない。
少なくとも、完全に初対面ではなさそうだった。
ベルシア商会の倉庫前に着くと、若い倉庫番がカレンに気づき、慌てて頭を下げた。
「カレン様」
「赤印の保留記録を確認します。北側の帳簿室を使うわ」
「はい」
倉庫番はちらりとシュウたちを見る。
セリアの剣。
ミラの工具袋。
シュウのEランク木札。
特にシュウの木札を見た時、少しだけ不思議そうな顔をした。
(Eランクが何でここに、って顔だな)
気持ちは分かる。
自分でもそう思っている。
帳簿室は、倉庫の一角にあった。
細長い机。
棚に並んだ帳簿。
壁にかけられた荷札。
部屋の奥には、小さな魔光灯が一つ灯っている。
カレンが帳簿を数冊取り出し、机に並べた。
「赤印の箱が組合倉庫に持ち込まれたのは三日前。ベルシアの倉庫名が使われていた。だから、前後五日の荷動きを確認します」
「俺は文字が読めません」
シュウは正直に言った。
「聞いているわ。だから、私が読む。あなたは違和感を見る。ミラは部品名と術式片の分類を確認。セリアは……」
「私は?」
「不審者が来たら止めて」
「分かりやすい役割だね」
セリアは少し笑って、扉の近くに立った。
カレンは帳簿を開いた。
「まず、通常の魔石片。三日前の午前、南門から搬入。仕入れ元はラグナー採石組合。数量は木箱十二」
「ラグナー採石組合は実在する」
ミラが言った。
「品質は低いけど、安い魔石片をよく出す」
カレンは続ける。
「同日午後、木箱十がベルシア倉庫へ。二箱は薬師ギルド経由で治癒具工房へ」
「薬師ギルド?」
シュウが反応した。
ジノの顔が頭に浮かぶ。
カレンも気づいたように、少しだけ視線を上げた。
「ええ。治癒具工房は薬師ギルドと取引があるわ。低級の治癒補助具には、安い魔石片も使う」
「ジノがよく出入りしている場所ですね」
「そうね」
カレンはそれだけ言って、帳簿へ戻る。
「問題は、その翌日。帳簿上は、ベルシア倉庫から組合倉庫へ魔石片を送った記録はない」
「なら、誰かが倉庫名だけ使った?」
セリアが言う。
「可能性はあるわ」
カレンは別の帳簿を開く。
「でも、荷札だけなら外で偽造できる。問題は、赤印の木箱に使われていた封印紐」
「封印紐?」
「商会が荷を閉じる時に使う紐よ。ベルシア商会のものだった」
ミラの表情が硬くなる。
「内部の人間が関わってる可能性があるってこと?」
「否定はできないわ」
カレンの声は静かだった。
その静けさが、かえって重かった。
自分の商会の中に、信用を汚す者がいるかもしれない。
それは商人にとって、外敵より厄介なのだろう。
シュウは帳簿を見ても読めない。
だが、机の上に並べられた荷札、封印紐、帳簿、木箱の記録。
それらの間に、薄い金色の流れが見えた。
普通の荷の流れは、帳簿から荷札へ、倉庫へ、出荷先へとつながっている。
だが、ひとつだけ違う。
帳簿に書かれていないはずの流れが、棚の奥から細く伸びている。
シュウは立ち上がった。
「シュウ?」
セリアが声をかける。
「少し、気になるものがあります」
シュウは帳簿棚の奥へ近づいた。
棚の下段。
古い木箱の影。
そこに、細く切れかけた封印紐が落ちていた。
シュウには、その紐から薄い濁りが見えた。
「これです」
カレンの表情が変わった。
彼女はすぐに布を取り出し、素手で触らないように封印紐を拾う。
「ベルシアの封印紐ね」
「普通のものですか?」
「見た目は普通。でも、ここに落ちている理由はないわ」
ミラが封印紐を覗き込む。
「少しだけ魔力が濁ってる」
「分かるんですか?」
シュウが聞くと、ミラは眉を寄せた。
「あなたほどじゃない。でも、ここまで残っていれば分かる」
カレンは倉庫番を呼んだ。
「北帳簿室に最後に入った者は?」
「ええと……通常は私と主任、それからカレン様です」
「他には?」
「二日前、臨時の運搬人が棚の修理で入りました」
「名前は?」
倉庫番は一瞬、言葉に詰まった。
「それが……紹介状はあったんですが、名前までは」
カレンの笑みが消えた。
「名前を確認せず、帳簿室に入れたの?」
「す、すみません。主任が急ぎだと」
部屋の空気が冷える。
カレンは声を荒げなかった。
だが、その分、言葉が鋭かった。
「商会の帳簿室は、荷置き場ではありません」
「はい……」
「信用は、一枚の帳簿から崩れます」
「申し訳ありません」
シュウはそのやり取りを見ていた。
怒り方がリリアに少し似ている。
静かで、逃げ場がない。
ただ、リリアが命を守るために記録を重んじるなら、カレンは信用を守るために記録を重んじている。
(守っているものが違うだけで、似ているのかもしれないな)
その時、帳簿室の外から小さな騒ぎ声が聞こえた。
「待ってください! ここは勝手に入れません!」
「違うって! 俺、届け物! 薬師ギルドから!」
聞き覚えのある声だった。
セリアが扉を開ける。
廊下の向こうで、ジノが倉庫番に止められていた。
片手には小さな革袋。
もう片方の手には、薬師ギルドの印がついた紙包み。
「ジノ?」
「あ、セリア! ちょうどよかった! 俺、怪しい者じゃないって説明して!」
「怪しくない人は、だいたい自分で怪しくないって言わないよ」
「それはそうだけど!」
ジノは焦ったように手を振った。
シュウも廊下へ出る。
「どうしたんですか?」
「薬師ギルドからベルシア商会に届け物。ついでに、リリアさんから伝言」
「伝言?」
ジノは息を整えると、急に真面目な顔になった。
「赤印の箱と似た濁りが、下町の魔光灯で見つかったって」
全員の表情が変わった。
ミラが一歩前に出る。
「どこの魔光灯?」
「灯り小路の共同灯。あと……」
ジノは一瞬だけ言葉を詰まらせた。
さっきまでの軽さが、消えていた。
「俺んちの近くでも、同じように光が濁ってる」
「ジノ」
セリアの声が少し低くなる。
ジノは無理に笑おうとした。
「いや、まあ、うちの魔光灯は元から古いし? 安物だし? たぶん大したことないと思うけどさ」
たぶん。
いつもの口癖のようなその言葉が、今だけは妙に弱く聞こえた。
シュウはジノの背後に、細い濁った流れがついているのを見た。
それは木箱のものよりさらに薄い。
だが、消えてはいない。
「ジノさん」
「ん?」
「その革袋、何ですか?」
「ああ、母さんの薬。帰りに受け取ってきた」
ジノは何でもないように言った。
だが、シュウには見えていた。
革袋の中の薬包へ、濁った細い糸が絡みかけている。
胸の奥が、冷たくなる。
「その袋、置いてください」
「え?」
「ゆっくり。床に置いて、離れてください」
シュウの声が低くなった。
ジノの顔から、笑みが消える。
「……何か、見えてるのか?」
「はい」
セリアがすぐにジノの横へ立つ。
「ジノ、言う通りにして」
ジノは一瞬だけ迷った。
だが、すぐに革袋を床へ置き、二歩下がった。
ミラが封印布を取り出す。
カレンが倉庫番たちに下がるよう指示する。
シュウは床の上の革袋を見つめた。
薬包に絡む濁った糸。
それはまだ細い。
しかし、薬の中にある微かな魔力を見つけて、少しずつ入り込もうとしている。
(薬にまで、入り込むのか)
もしこれが、ジノの母親に渡っていたら。
もし下町の共同灯から、同じ濁りが広がっているなら。
もし安い魔光灯や治癒補助具を使う家ほど、影響を受けているのなら。
これは、ただの商会不正ではない。
弱い場所から、流れが濁り始めている。
ジノの声が震えた。
「なあ、シュウ」
いつもの軽さはなかった。
「その薬、母さんに飲ませたら……まずいのか?」
シュウはすぐに答えられなかった。
分からない。
だが、分からないまま進めてはいけない。
リリアの言葉が、頭の奥で響く。
分からないことを分からないまま進めると危険です。
シュウは拳を握った。
「まだ分かりません」
正直に言った。
「でも、確認するまで飲ませない方がいい」
ジノの顔が、青ざめた。
作業場でも、倉庫でも、どこか他人事のように軽口を叩いていた青年が、初めて本気で立ち尽くしていた。
セリアが静かにジノの肩へ手を置く。
ミラは封印布を広げる。
カレンは表情を消し、低く言った。
「灯り小路へ行きましょう」
「危険かもしれない」
ミラが言う。
「だから行くのよ」
カレンの声は静かだった。
「ベルシアの名前が使われて、下町の灯りと薬にまで濁りが出ているなら、これはもう帳簿だけの問題ではないわ」
シュウはジノの薬袋を見つめた。
濁った糸は、まだ細い。
だが、その先には人の生活がある。
灯り。
薬。
安い魔石。
古い魔道具。
昨日まで見えていなかった街の流れが、いま目の前でつながり始めていた。
黒でも白でもない。
それは、誰かが暮らすために選んだ安い流れだった。
そして今、その流れが静かに濁り始めている。
シュウは顔を上げた。
「行きましょう」
ジノがこちらを見る。
「俺も行く」
「もちろん」
シュウは頷いた。
「あなたの家の近くなんでしょう」
ジノは唇を噛んだあと、小さく頷いた。
「ああ」
その声は、いつもの軽いジノではなかった。
守りたいものを持つ、一人の兄の声だった。
灯り小路。
安い魔光灯が並ぶ下町。
そこに、赤い印の木箱から始まった濁りの次の流れがある。
シュウはまだ知らない。
その先で、自分が初めて見ることになるのは、魔物でも術式でもない。
この世界で、弱い者ほど濁った流れに飲まれやすいという、あまりにも現実的な仕組みだった。




