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納期遅れで死んだ俺、異世界では魔力の詰まりが見えるらしい 〜最弱Eランクだけど、術式を読み替えて世界の流れを変えていく〜  作者: 好山 雪
第1章 月影の森で目覚める

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第5話 赤い印の木箱



 赤い印のついた木箱は、倉庫の奥で静かに積まれていた。


 大きさは、両手で抱えられる程度。

 見た目だけなら、どこにでもある普通の荷箱だ。


 だが、シュウには見えていた。


 箱の隙間から、細く濁った流れが漏れている。


 月影狼の時に見た黒い糸ほど強くはない。

 だが、薬草や普通の魔石から見える青い流れとも違う。


 薄い灰色に、黒が少し混じったような流れ。


(何だ、これ)


 シュウは箱から目を離せなかった。


「セリア。リリアさんを呼ぼう」


「分かった」


 セリアはすぐに頷いた。


 その判断の速さに、シュウは少し安心する。


 森で出会った時から、彼女は明るくて少し勢いがある。

 だが、危険の匂いを感じた時の切り替えは早い。


 セリアが倉庫の入口へ向かおうとした時、横から軽い声が飛んできた。


「え、なになに? リリアさん呼ぶ感じ? それって結構まずい感じ?」


 ジノ・バレットだった。


 さっき自己紹介してきた小柄な青年は、赤い印の木箱とシュウたちを交互に見ながら、なぜか楽しそうにしている。


「面白がるな」


 シュウが言うと、ジノは両手を上げた。


「面白がってないって。いや、ちょっとだけ面白がってるけど」


「正直だな」


「俺の長所だからな」


「たぶん短所でもある」


「それはよく言われる」


 ジノは軽く笑った。


 その軽さに、場の空気が少しだけゆるむ。


 だが、赤い印の木箱から漏れる濁った流れは消えない。


 倉庫職員が不安そうに箱を見た。


「おい、何か問題でもあるのか?」


「分かりません。ただ、普通の素材とは少し違って見えます」


「見えるって、何が」


 職員が眉をひそめる。


 シュウは答えに詰まった。


 魔力の流れが見える。

 そう言えば済む話ではない。


 リリアからも、見えたものをそのまま全員に説明する必要はないと言われている。


「確認した方がいいと思います」


 結局、そう答えるしかなかった。


 ジノが小声で言う。


「うわ、真面目。俺なら『何かやばそう』で済ませる」


「済ませるな」


「だから俺、よく怒られるんだよな」


「分かる気がする」


「まだ会って少しなのに?」


「十分伝わってきた」


 ジノは少し傷ついたように胸を押さえた。


「ひどい。新人に心を折られた」


「折れるのが早い」


「立ち直りも早いぞ」


 その瞬間、セリアがリリアを連れて戻ってきた。


 リリアはいつもの穏やかな顔だったが、目だけはすでに仕事の目になっていた。


「状況を確認します」


 短い一言で、倉庫の空気が整う。


 ジノがぴしっと背筋を伸ばした。


「お、おはようございます、リリアさん」


「ジノさん」


「はいっ」


「あなたは、なぜここに?」


「偶然です」


「依頼中ですか?」


「依頼を探している途中です」


「つまり、暇なのですね」


「言い方!」


 リリアは微笑んだ。


 微笑んでいるのに、ジノが一歩下がる。


「後で掲示板前に戻ってください」


「はい……」


(完全に弱いな)


 シュウは少しだけ同情した。


 リリアは赤い印の木箱へ視線を移す。


「シュウさん。どの箱ですか?」


「あれです。奥から二段目の、左側」


「触りましたか?」


「触っていません」


「セリアさんは?」


「触ってません」


「ジノさんは?」


「触ってません! 今回は本当に触ってません!」


「今回は、ですか」


「言葉の綾です!」


「そうですか」


 リリアは軽く頷いた。


 そのまま倉庫職員へ向き直る。


「この保留品の受入記録を出してください」


「あ、はい」


 職員が慌てて棚から帳簿を取り出す。


 リリアは帳簿を受け取り、素早くページをめくった。


「搬入は三日前。持ち込み者は……ローブ姿の商人。氏名は仮名の可能性あり。素材分類は魔石片。出所不明のため保留」


 そこで、リリアの眉がほんの少し動いた。


「保留品なのに、なぜ通常素材の棚と同じ倉庫に置かれていますか?」


 声は静かだった。


 倉庫職員の顔がこわばる。


「その……一時置きのつもりで」


「一時置きは、どなたの指示ですか?」


「ええと、忙しかったので、私が」


「そうですか」


 リリアは帳簿を閉じた。


「報告を曖昧にする方は、森より先に受付で遭難しますよ」


「す、すみません!」


 ジノが小声でささやく。


「出た。リリアさんの遭難発言」


「有名なのか?」


「有名。あれ言われたら、だいたい誰かが詰む」


「静かに」


 リリアの声が飛んだ。


「はい」


 ジノは一瞬で黙った。


 セリアが少しだけ笑いをこらえている。


 リリアは改めてシュウを見た。


「シュウさん。何が見えましたか。できる範囲で説明してください」


「箱の隙間から、濁った流れが漏れているように見えます。黒い糸ほどではありません。でも、普通の魔石や薬草とは違います」


「色は?」


「灰色に、少し黒が混じったような感じです」


「流れの方向は?」


 シュウは木箱を見つめた。


 意識を集中すると、箱の中から漏れる流れが床へ落ち、そこから薄く広がっているのが見える。


「床に向かっています。そこから、少しずつ周囲に広がっているように見えます」


「人体への影響は?」


「まだ分かりません。ただ、近づくと少し気分が悪くなる感じがします」


 ジノが顔をしかめた。


「え、俺わりと近くにいたけど」


「体調は?」


 リリアがすぐに確認する。


「いや、今のところ元気です。ちょっと腹は減ってますけど」


「それは別件です」


「ですよね」


 リリアはセリアに指示を出した。


「セリアさん。倉庫入口を押さえてください。誰も不用意に入れないように」


「はい」


 セリアの顔つきが変わる。


 さっきまでの軽いやり取りが消え、冒険者としての目になる。


 リリアは倉庫職員に続ける。


「防護布と封印箱を用意してください。鑑定担当にも連絡を」


「はい!」


 職員が慌てて動き出す。


 シュウは赤い印の木箱を見つめたまま、眉を寄せた。


(流れが少し強くなってる?)


 気のせいではない。


 さっきより、床へ落ちる濁った流れがわずかに太くなっている。


 その時、ジノが小さくくしゃみをした。


「へくしっ」


「ジノ?」


 セリアが振り返る。


「いや、ちょっと鼻がむずむずして」


 ジノは鼻をこすった。


 その足元へ、薄い濁った流れが伸びていた。


(まずい)


 シュウは反射的に声を出した。


「ジノ、そこから離れろ」


「え?」


「早く」


 シュウの声が思ったより低くなった。


 ジノは一瞬だけ固まったが、すぐに飛び退いた。


「うおっ、何だよ急に!」


 直後、木箱の隙間から黒灰色のもやが細く漏れた。


 もやは一瞬だけ空中に浮かび、さっきまでジノが立っていた場所をかすめる。


 倉庫の床に置かれていた古い布袋の端が、じわりと黒ずんだ。


 セリアが剣の柄に手をかける。


「何、これ」


 リリアの声が低くなる。


「全員、箱から距離を取ってください」


 その声に、倉庫職員たちが一斉に下がる。


 だが、シュウは動けなかった。


 見えている。


 もやの中に、細く濁った流れがある。

 それは無秩序に広がっているようでいて、何かを探すように揺れていた。


 生き物のように。


(こっちに来る)


 シュウは一歩下がる。


 だが、もやはシュウの方ではなく、床に置かれた薬草袋へ向かった。


 薬草。


 さっき仕分けたばかりの、青い流れを持つ素材。


(魔力のあるものに寄ってるのか)


 シュウはすぐに叫んだ。


「薬草袋をどけてください! たぶん、魔力のあるものに寄っています!」


 リリアが即座に判断した。


「セリアさん、右の袋を。職員は左の棚から離れてください」


「分かった!」


 セリアが駆ける。


 薬草袋を抱えて横へ投げるように移動させた。


 その動きは速い。


 だが、もやも流れを変えた。


 セリアの足元へ、細い黒灰色が伸びる。


 シュウの胸が冷えた。


「セリア、足元!」


「っ!」


 セリアは即座に跳んだ。


 もやが彼女の靴の先をかすめる。


 革の先端が少し黒ずんだ。


 セリアは着地し、すぐに後ろへ下がった。


「今の、危なかった」


「ああ」


 シュウの喉が乾く。


 見えているのに、止められない。


 月影狼の時と同じだ。


(見えるだけじゃ、足りない)


 だが、今は考え込んでいる場合ではない。


 もやは、また別の素材へ向かおうとしている。


 その先には、棚から落ちかけた小さな魔石袋があった。


「魔石袋を離して!」


 シュウが叫ぶ。


 だが、近くにいた若い倉庫職員が慌てて手を伸ばした。


「これか!」


「素手で触るな!」


 リリアの声が飛ぶ。


 しかし、職員の手はもう袋に近づいていた。


 もやが伸びる。


 シュウは思わず前に出た。


 できることはない。


 それでも、体が動いた。


「やめろ!」


 その瞬間、ジノが横から飛び込んだ。


「うおおおお、待て待て待て!」


 ジノは若い職員の腰に飛びつき、そのまま二人で床に転がった。


 魔石袋の手前を、黒灰色のもやがかすめる。


「いったぁ! 俺の膝! 俺の大事な膝!」


「ジノ!」


 セリアが声を上げる。


 ジノは床に転がったまま、涙目で親指を立てた。


「生きてる! たぶん!」


「たぶんじゃ困ります」


 リリアが冷たく言う。


「でも、今の判断は助かりました」


「え、褒められた? 今、褒められました?」


「調子に乗る前に下がってください」


「はい!」


 ジノは若い職員を引きずるようにして後ろへ下がった。


 シュウは一瞬、ジノを見た。


 普段は軽い。

 口も軽い。

 だが、今の一瞬、彼は逃げなかった。


(ただのトラブルメーカーってわけじゃないのか)


 シュウはそう思いながら、再び木箱を見た。


 もやの流れが、不安定になっている。


 薬草袋も、魔石袋も遠ざけられた。

 行き場を失ったように、箱の周囲で渦を巻いている。


「リリアさん、防護布は?」


「もう来ます」


 リリアの返事と同時に、職員が厚手の布と金属製の箱を持って駆け込んできた。


 布には、薄い銀色の紋様が刻まれている。


「封印布です。完全ではありませんが、漏れは抑えられます」


 リリアが言う。


 シュウはもやを見た。


 流れは箱の右上から漏れている。

 隙間があるのはそこだ。


「あの角です。右上の隙間から漏れています」


「分かりました。セリアさん」


「はい」


「私が布を投げます。セリアさんは剣の鞘で押さえてください。直接触れないように」


「了解」


 リリアが封印布を広げる。


 セリアは剣を抜かず、鞘を構えた。


 その横顔は真剣だった。


 シュウは思わず言った。


「無理するなよ」


 セリアがちらりとこちらを見る。


「大丈夫。今度はちゃんと聞こえてる」


 何気ない言葉だった。


 だが、シュウには少しだけ引っかかった。


 今度は。


 その言葉の奥に、昨日聞いた「前にも、同じことを言われましたから」という声が重なる。


 しかし今は、深く考える余裕はない。


「いきます」


 リリアが封印布を投げた。


 布が箱にかぶさる。


 もやが一瞬、激しく揺れた。


「セリア!」


「任せて!」


 セリアが踏み込み、鞘で布の端を押さえた。


 もやが布の下で暴れる。


 シュウには、濁った流れが封印布の紋様に触れ、細く分散していくのが見えた。


(効いてる)


 だが、完全ではない。


 右下から、まだ少し漏れている。


「右下、まだ漏れてます!」


「追加布を!」


 リリアが即座に指示する。


 職員が二枚目の布を投げる。

 今度はジノが素早く拾い、腰を低くして箱へ近づいた。


「ジノ、無理しないで!」


 セリアが叫ぶ。


「無理じゃない! 俺は今、人生で三番目くらいにかっこいい!」


「一番じゃないのか!」


 シュウが思わず突っ込む。


「一番と二番はこれから取っとくんだよ!」


 ジノは叫びながら、二枚目の布を箱の右下に滑り込ませた。


 直後、セリアが鞘で押さえる。


 濁った流れが、少しずつ弱くなった。


 倉庫の空気が、ようやく落ち着いていく。


 シュウは大きく息を吐いた。


 気づけば、背中に汗をかいていた。


(初仕事で、これか)


 薬草仕分けと木箱運搬。


 それだけのはずだった。


 だが、今は倉庫の中に封印された不審な箱があり、セリアは靴の先を黒くし、ジノは膝を押さえてうめいている。


「痛い。俺、今なら治癒魔法に優しくされたい」


「自分で歩けますか?」


 リリアが尋ねる。


「歩けます。褒められたので」


「では後で医務室へ」


「優しい!」


「その前に事情聴取です」


「優しくなかった!」


 ジノの声に、倉庫内の数人が小さく笑った。


 緊張が少しだけほどける。


 リリアは封印された木箱を見つめた。


「これは通常の保留品ではありません。素材鑑定だけでなく、魔道具ギルドにも確認を依頼します」


「魔道具ギルドですか?」


 シュウが尋ねる。


「はい。この封印布への反応を見る限り、単なる汚染素材ではない可能性があります」


「術式ですか?」


「断定はできません」


 リリアはそう言ってから、少しだけ声を落とした。


「ですが、普通の素材ではないことは確かです」


 シュウは頷いた。


 普通ではない。


 その言葉を、今日だけで何度聞いただろう。


 リリアはシュウへ視線を向けた。


「シュウさん。よく気づきました」


「見えただけです」


「見えたものを報告できた。それは仕事です」


 リリアの声は穏やかだった。


 その言葉に、シュウは少しだけ胸を突かれた。


 見えるだけでは足りない。

 それは分かっている。


 でも、見えたものを伝えることにも意味はある。


「ありがとうございます」


 シュウは静かに答えた。


 セリアが隣に立つ。


「ね。初依頼、大活躍だったじゃん」


「活躍と言うには、かなり危なかった」


「でも、助かった人がいる」


 セリアはジノと若い職員を見た。


 ジノは膝を押さえながら、若い職員に何か大げさに語っている。


「俺がこう、ばっと行って、ぐわっと止めたわけよ」


「はい、助かりました」


「もっと感動していいんだぞ?」


「はい、感動しました」


「棒読み!」


 そのやり取りを見て、セリアが笑う。


「ね。助かった」


「そうだな」


 シュウは小さく頷いた。


 初仕事は、想像していたよりずっと騒がしかった。

 そして、少しだけ怖かった。


 だが、何もできなかったわけではない。


     ◇


 その日の夕方。


 ギルドマスター室には、封印された赤印の木箱についての報告書が置かれていた。


 エルネスト・ヴァイスは、それを読みながら眉を寄せた。


「保留品から濁った魔力の漏出。封印布に反応。魔力を持つ素材へ誘引……」


 机の向かいにはリリアが立っている。


「シュウさんが最初に気づきました」


「だろうな」


「ジノさんが若い職員を止めています」


「ジノが?」


 エルネストは少しだけ意外そうな顔をした。


「珍しいな。逃げ足だけは速いと思っていたが」


「今回は、前に出ました」


「そうか」


 エルネストは報告書を閉じた。


「で、箱の出所は?」


「持ち込み者は仮名。商人登録も不明瞭です。商会ギルドに照会中です」


「ふん。匂うな」


「はい」


 エルネストは机の引き出しを開け、白い輪の徽章を取り出しかけた。


 だが、すぐには取り出さなかった。


「まだ白環に上げるには早いか」


「魔道具ギルドの確認を待つべきかと」


「そうだな」


 エルネストは椅子に深く座った。


「しかし、月影狼の次は赤印の箱か。あの新人が来てから、妙な流れが見えやすくなってきたな」


「本人が呼び込んでいるのではなく、元からあったものが見え始めただけかもしれません」


 リリアの言葉に、エルネストは少しだけ笑った。


「受付らしい見方だ」


「事実の整理です」


「分かってる」


 エルネストは窓の外を見た。


 夕暮れのアルメリア。

 屋台の煙。

 帰路につく人々。

 組合の前を通る荷車。


 何気ない街の流れ。


 だが、その下に、別の流れが潜んでいる。


「見える奴が現れたことで、見えないままだったものが動き出すかもしれん」


「シュウさんには、まだ重すぎるのでは」


「重いだろうな」


 エルネストは低く言った。


「だが、軽いものだけ持たせて育つ世界じゃねえ」


 リリアは少しだけ目を伏せた。


「潰さないように見ます」


「頼む」


     ◇


 その頃、シュウは組合近くの食堂で、セリアと向かい合って座っていた。


 目の前には、約束のスープがある。


 野菜と豆が入った、素朴な匂いのする温かいスープ。


「初依頼、お疲れさま」


 セリアが木のカップを掲げた。


「お疲れさま」


 シュウもカップを軽く合わせる。


 一口飲むと、体の中に温かさが広がった。


(うまい)


 派手な味ではない。

 だが、今の体には妙にしみた。


 セリアがにこにこしながら聞いてくる。


「どう?」


「うまい」


「でしょ?」


「正直、かなり助かる」


「ふふ。じゃあ、次も奢ってもらおうかな」


「俺の報酬が消える」


「冗談だよ。半分くらい」


「半分は本気か」


 セリアは楽しそうに笑った。


 その笑顔を見て、シュウは少しだけ安心した。


 倉庫で足元に黒いもやが伸びた時、胸が冷えた。

 月影狼の時と同じように、見えているのに止められない感覚があった。


(見えるだけじゃ足りない)


 その思いは消えない。


 だが、今日、リリアは言った。


 見えたものを報告できた。それは仕事です。


 その言葉もまた、胸に残っていた。


「シュウ?」


「ん?」


「また難しい顔してる」


「少し考えてた」


「赤い箱のこと?」


「ああ」


 セリアはスープを見つめた。


「私も、気になる」


「黒い糸とは違った。でも、普通でもなかった」


「また、月影の森と関係あるのかな」


「分からない」


 シュウは正直に答えた。


「でも、たぶん何かの流れにはつながってる」


「流れ、か」


 セリアは小さく呟いた。


 その声は、いつもより少しだけ静かだった。


 シュウは聞きたくなった。


 昨日、リリアに言われた「前にも、同じことを言われましたから」の意味を。

 エルネストやリリアが知っていそうな、セリアの過去を。


 だが、セリアはまだ話したい顔をしていない。


 だから、聞かなかった。


「今は、できることからやる」


 シュウは言った。


「薬草を分ける。木箱を運ぶ。見えたものを報告する。文字を覚える。体を鍛える」


「うん」


「それから、少しずつ強くなる」


 セリアはしばらく黙ってから、柔らかく笑った。


「じゃあ、明日から基礎訓練だね」


「やっぱりあるのか」


「あるよ。まずは走るところから」


「走るのか」


「走るよ」


「……お手柔らかに」


「大丈夫。死なないくらいにする」


「その言い方は不安になる」


 セリアが笑った。


 その明るさに、シュウも少しだけ笑った。


 赤い印の木箱。

 濁った流れ。

 黒い糸。

 白い輪。


 分からないことは増えている。


 だが、今日初めて、この世界で仕事をした。

 誰かの役に立てた。

 そして、戻ってこられた。


 その事実だけは、確かだった。


 食堂の扉が開き、外の冷たい風が少しだけ入り込む。


 同時に、聞き覚えのある軽い声がした。


「お、いたいた。初依頼で事件起こした新人コンビ」


 ジノだった。


 膝に布を巻き、片手を上げている。


「事件を起こしたのは箱だ」


 シュウが言うと、ジノは隣の席に勝手に座った。


「細かいことはいいんだよ。で、俺も混ぜてくれ。今日、俺ちょっと頑張ったし」


「リリアさんの事情聴取は終わったのか?」


「終わった。心が三回くらい折れた」


「立ち直りが早いな」


「長所だからな」


 ジノは笑った。


 だが、ふとその笑顔が少しだけ薄くなる。


「まあ、でもさ」


「ん?」


「今日の報酬、医務室代で少し飛んだんだよな。うち、薬代もあるし……いや、何でもない」


 言いかけて、ジノはすぐにいつもの顔へ戻した。


「というわけで、誰か心優しい人がスープを一杯おごってくれてもいい」


「それが目的か」


「半分な」


「半分は?」


「腹が減った」


「全部じゃないか」


 セリアが笑う。


 シュウも呆れながら、店員を呼んだ。


「スープを一杯追加で」


「お、シュウ優しい! 俺、今日から君のこと好き!」


「軽いな」


「俺の好意は安いぞ」


「安すぎる」


 ジノはけらけら笑った。


 その笑い声は軽い。


 だが、さっき一瞬だけこぼれた「薬代」という言葉が、シュウの耳に残った。


(この人も、何か抱えてるのか)


 明るいだけの人間ではない。

 この街も、この組合も、この世界も。


 見えている流れの下に、見えていない事情がある。


 シュウはスープをもう一口飲んだ。


 温かい。


 今はまだ、それでいい気がした。


 初依頼の一日は、こうして終わった。


 だが、赤い印の木箱から漏れた濁った流れは、確かにどこかへつながっていた。


 シュウがまだ知らない、黒でも白でもない大きな流れへと。


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