第5話 赤い印の木箱
赤い印のついた木箱は、倉庫の奥で静かに積まれていた。
大きさは、両手で抱えられる程度。
見た目だけなら、どこにでもある普通の荷箱だ。
だが、シュウには見えていた。
箱の隙間から、細く濁った流れが漏れている。
月影狼の時に見た黒い糸ほど強くはない。
だが、薬草や普通の魔石から見える青い流れとも違う。
薄い灰色に、黒が少し混じったような流れ。
(何だ、これ)
シュウは箱から目を離せなかった。
「セリア。リリアさんを呼ぼう」
「分かった」
セリアはすぐに頷いた。
その判断の速さに、シュウは少し安心する。
森で出会った時から、彼女は明るくて少し勢いがある。
だが、危険の匂いを感じた時の切り替えは早い。
セリアが倉庫の入口へ向かおうとした時、横から軽い声が飛んできた。
「え、なになに? リリアさん呼ぶ感じ? それって結構まずい感じ?」
ジノ・バレットだった。
さっき自己紹介してきた小柄な青年は、赤い印の木箱とシュウたちを交互に見ながら、なぜか楽しそうにしている。
「面白がるな」
シュウが言うと、ジノは両手を上げた。
「面白がってないって。いや、ちょっとだけ面白がってるけど」
「正直だな」
「俺の長所だからな」
「たぶん短所でもある」
「それはよく言われる」
ジノは軽く笑った。
その軽さに、場の空気が少しだけゆるむ。
だが、赤い印の木箱から漏れる濁った流れは消えない。
倉庫職員が不安そうに箱を見た。
「おい、何か問題でもあるのか?」
「分かりません。ただ、普通の素材とは少し違って見えます」
「見えるって、何が」
職員が眉をひそめる。
シュウは答えに詰まった。
魔力の流れが見える。
そう言えば済む話ではない。
リリアからも、見えたものをそのまま全員に説明する必要はないと言われている。
「確認した方がいいと思います」
結局、そう答えるしかなかった。
ジノが小声で言う。
「うわ、真面目。俺なら『何かやばそう』で済ませる」
「済ませるな」
「だから俺、よく怒られるんだよな」
「分かる気がする」
「まだ会って少しなのに?」
「十分伝わってきた」
ジノは少し傷ついたように胸を押さえた。
「ひどい。新人に心を折られた」
「折れるのが早い」
「立ち直りも早いぞ」
その瞬間、セリアがリリアを連れて戻ってきた。
リリアはいつもの穏やかな顔だったが、目だけはすでに仕事の目になっていた。
「状況を確認します」
短い一言で、倉庫の空気が整う。
ジノがぴしっと背筋を伸ばした。
「お、おはようございます、リリアさん」
「ジノさん」
「はいっ」
「あなたは、なぜここに?」
「偶然です」
「依頼中ですか?」
「依頼を探している途中です」
「つまり、暇なのですね」
「言い方!」
リリアは微笑んだ。
微笑んでいるのに、ジノが一歩下がる。
「後で掲示板前に戻ってください」
「はい……」
(完全に弱いな)
シュウは少しだけ同情した。
リリアは赤い印の木箱へ視線を移す。
「シュウさん。どの箱ですか?」
「あれです。奥から二段目の、左側」
「触りましたか?」
「触っていません」
「セリアさんは?」
「触ってません」
「ジノさんは?」
「触ってません! 今回は本当に触ってません!」
「今回は、ですか」
「言葉の綾です!」
「そうですか」
リリアは軽く頷いた。
そのまま倉庫職員へ向き直る。
「この保留品の受入記録を出してください」
「あ、はい」
職員が慌てて棚から帳簿を取り出す。
リリアは帳簿を受け取り、素早くページをめくった。
「搬入は三日前。持ち込み者は……ローブ姿の商人。氏名は仮名の可能性あり。素材分類は魔石片。出所不明のため保留」
そこで、リリアの眉がほんの少し動いた。
「保留品なのに、なぜ通常素材の棚と同じ倉庫に置かれていますか?」
声は静かだった。
倉庫職員の顔がこわばる。
「その……一時置きのつもりで」
「一時置きは、どなたの指示ですか?」
「ええと、忙しかったので、私が」
「そうですか」
リリアは帳簿を閉じた。
「報告を曖昧にする方は、森より先に受付で遭難しますよ」
「す、すみません!」
ジノが小声でささやく。
「出た。リリアさんの遭難発言」
「有名なのか?」
「有名。あれ言われたら、だいたい誰かが詰む」
「静かに」
リリアの声が飛んだ。
「はい」
ジノは一瞬で黙った。
セリアが少しだけ笑いをこらえている。
リリアは改めてシュウを見た。
「シュウさん。何が見えましたか。できる範囲で説明してください」
「箱の隙間から、濁った流れが漏れているように見えます。黒い糸ほどではありません。でも、普通の魔石や薬草とは違います」
「色は?」
「灰色に、少し黒が混じったような感じです」
「流れの方向は?」
シュウは木箱を見つめた。
意識を集中すると、箱の中から漏れる流れが床へ落ち、そこから薄く広がっているのが見える。
「床に向かっています。そこから、少しずつ周囲に広がっているように見えます」
「人体への影響は?」
「まだ分かりません。ただ、近づくと少し気分が悪くなる感じがします」
ジノが顔をしかめた。
「え、俺わりと近くにいたけど」
「体調は?」
リリアがすぐに確認する。
「いや、今のところ元気です。ちょっと腹は減ってますけど」
「それは別件です」
「ですよね」
リリアはセリアに指示を出した。
「セリアさん。倉庫入口を押さえてください。誰も不用意に入れないように」
「はい」
セリアの顔つきが変わる。
さっきまでの軽いやり取りが消え、冒険者としての目になる。
リリアは倉庫職員に続ける。
「防護布と封印箱を用意してください。鑑定担当にも連絡を」
「はい!」
職員が慌てて動き出す。
シュウは赤い印の木箱を見つめたまま、眉を寄せた。
(流れが少し強くなってる?)
気のせいではない。
さっきより、床へ落ちる濁った流れがわずかに太くなっている。
その時、ジノが小さくくしゃみをした。
「へくしっ」
「ジノ?」
セリアが振り返る。
「いや、ちょっと鼻がむずむずして」
ジノは鼻をこすった。
その足元へ、薄い濁った流れが伸びていた。
(まずい)
シュウは反射的に声を出した。
「ジノ、そこから離れろ」
「え?」
「早く」
シュウの声が思ったより低くなった。
ジノは一瞬だけ固まったが、すぐに飛び退いた。
「うおっ、何だよ急に!」
直後、木箱の隙間から黒灰色のもやが細く漏れた。
もやは一瞬だけ空中に浮かび、さっきまでジノが立っていた場所をかすめる。
倉庫の床に置かれていた古い布袋の端が、じわりと黒ずんだ。
セリアが剣の柄に手をかける。
「何、これ」
リリアの声が低くなる。
「全員、箱から距離を取ってください」
その声に、倉庫職員たちが一斉に下がる。
だが、シュウは動けなかった。
見えている。
もやの中に、細く濁った流れがある。
それは無秩序に広がっているようでいて、何かを探すように揺れていた。
生き物のように。
(こっちに来る)
シュウは一歩下がる。
だが、もやはシュウの方ではなく、床に置かれた薬草袋へ向かった。
薬草。
さっき仕分けたばかりの、青い流れを持つ素材。
(魔力のあるものに寄ってるのか)
シュウはすぐに叫んだ。
「薬草袋をどけてください! たぶん、魔力のあるものに寄っています!」
リリアが即座に判断した。
「セリアさん、右の袋を。職員は左の棚から離れてください」
「分かった!」
セリアが駆ける。
薬草袋を抱えて横へ投げるように移動させた。
その動きは速い。
だが、もやも流れを変えた。
セリアの足元へ、細い黒灰色が伸びる。
シュウの胸が冷えた。
「セリア、足元!」
「っ!」
セリアは即座に跳んだ。
もやが彼女の靴の先をかすめる。
革の先端が少し黒ずんだ。
セリアは着地し、すぐに後ろへ下がった。
「今の、危なかった」
「ああ」
シュウの喉が乾く。
見えているのに、止められない。
月影狼の時と同じだ。
(見えるだけじゃ、足りない)
だが、今は考え込んでいる場合ではない。
もやは、また別の素材へ向かおうとしている。
その先には、棚から落ちかけた小さな魔石袋があった。
「魔石袋を離して!」
シュウが叫ぶ。
だが、近くにいた若い倉庫職員が慌てて手を伸ばした。
「これか!」
「素手で触るな!」
リリアの声が飛ぶ。
しかし、職員の手はもう袋に近づいていた。
もやが伸びる。
シュウは思わず前に出た。
できることはない。
それでも、体が動いた。
「やめろ!」
その瞬間、ジノが横から飛び込んだ。
「うおおおお、待て待て待て!」
ジノは若い職員の腰に飛びつき、そのまま二人で床に転がった。
魔石袋の手前を、黒灰色のもやがかすめる。
「いったぁ! 俺の膝! 俺の大事な膝!」
「ジノ!」
セリアが声を上げる。
ジノは床に転がったまま、涙目で親指を立てた。
「生きてる! たぶん!」
「たぶんじゃ困ります」
リリアが冷たく言う。
「でも、今の判断は助かりました」
「え、褒められた? 今、褒められました?」
「調子に乗る前に下がってください」
「はい!」
ジノは若い職員を引きずるようにして後ろへ下がった。
シュウは一瞬、ジノを見た。
普段は軽い。
口も軽い。
だが、今の一瞬、彼は逃げなかった。
(ただのトラブルメーカーってわけじゃないのか)
シュウはそう思いながら、再び木箱を見た。
もやの流れが、不安定になっている。
薬草袋も、魔石袋も遠ざけられた。
行き場を失ったように、箱の周囲で渦を巻いている。
「リリアさん、防護布は?」
「もう来ます」
リリアの返事と同時に、職員が厚手の布と金属製の箱を持って駆け込んできた。
布には、薄い銀色の紋様が刻まれている。
「封印布です。完全ではありませんが、漏れは抑えられます」
リリアが言う。
シュウはもやを見た。
流れは箱の右上から漏れている。
隙間があるのはそこだ。
「あの角です。右上の隙間から漏れています」
「分かりました。セリアさん」
「はい」
「私が布を投げます。セリアさんは剣の鞘で押さえてください。直接触れないように」
「了解」
リリアが封印布を広げる。
セリアは剣を抜かず、鞘を構えた。
その横顔は真剣だった。
シュウは思わず言った。
「無理するなよ」
セリアがちらりとこちらを見る。
「大丈夫。今度はちゃんと聞こえてる」
何気ない言葉だった。
だが、シュウには少しだけ引っかかった。
今度は。
その言葉の奥に、昨日聞いた「前にも、同じことを言われましたから」という声が重なる。
しかし今は、深く考える余裕はない。
「いきます」
リリアが封印布を投げた。
布が箱にかぶさる。
もやが一瞬、激しく揺れた。
「セリア!」
「任せて!」
セリアが踏み込み、鞘で布の端を押さえた。
もやが布の下で暴れる。
シュウには、濁った流れが封印布の紋様に触れ、細く分散していくのが見えた。
(効いてる)
だが、完全ではない。
右下から、まだ少し漏れている。
「右下、まだ漏れてます!」
「追加布を!」
リリアが即座に指示する。
職員が二枚目の布を投げる。
今度はジノが素早く拾い、腰を低くして箱へ近づいた。
「ジノ、無理しないで!」
セリアが叫ぶ。
「無理じゃない! 俺は今、人生で三番目くらいにかっこいい!」
「一番じゃないのか!」
シュウが思わず突っ込む。
「一番と二番はこれから取っとくんだよ!」
ジノは叫びながら、二枚目の布を箱の右下に滑り込ませた。
直後、セリアが鞘で押さえる。
濁った流れが、少しずつ弱くなった。
倉庫の空気が、ようやく落ち着いていく。
シュウは大きく息を吐いた。
気づけば、背中に汗をかいていた。
(初仕事で、これか)
薬草仕分けと木箱運搬。
それだけのはずだった。
だが、今は倉庫の中に封印された不審な箱があり、セリアは靴の先を黒くし、ジノは膝を押さえてうめいている。
「痛い。俺、今なら治癒魔法に優しくされたい」
「自分で歩けますか?」
リリアが尋ねる。
「歩けます。褒められたので」
「では後で医務室へ」
「優しい!」
「その前に事情聴取です」
「優しくなかった!」
ジノの声に、倉庫内の数人が小さく笑った。
緊張が少しだけほどける。
リリアは封印された木箱を見つめた。
「これは通常の保留品ではありません。素材鑑定だけでなく、魔道具ギルドにも確認を依頼します」
「魔道具ギルドですか?」
シュウが尋ねる。
「はい。この封印布への反応を見る限り、単なる汚染素材ではない可能性があります」
「術式ですか?」
「断定はできません」
リリアはそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「ですが、普通の素材ではないことは確かです」
シュウは頷いた。
普通ではない。
その言葉を、今日だけで何度聞いただろう。
リリアはシュウへ視線を向けた。
「シュウさん。よく気づきました」
「見えただけです」
「見えたものを報告できた。それは仕事です」
リリアの声は穏やかだった。
その言葉に、シュウは少しだけ胸を突かれた。
見えるだけでは足りない。
それは分かっている。
でも、見えたものを伝えることにも意味はある。
「ありがとうございます」
シュウは静かに答えた。
セリアが隣に立つ。
「ね。初依頼、大活躍だったじゃん」
「活躍と言うには、かなり危なかった」
「でも、助かった人がいる」
セリアはジノと若い職員を見た。
ジノは膝を押さえながら、若い職員に何か大げさに語っている。
「俺がこう、ばっと行って、ぐわっと止めたわけよ」
「はい、助かりました」
「もっと感動していいんだぞ?」
「はい、感動しました」
「棒読み!」
そのやり取りを見て、セリアが笑う。
「ね。助かった」
「そうだな」
シュウは小さく頷いた。
初仕事は、想像していたよりずっと騒がしかった。
そして、少しだけ怖かった。
だが、何もできなかったわけではない。
◇
その日の夕方。
ギルドマスター室には、封印された赤印の木箱についての報告書が置かれていた。
エルネスト・ヴァイスは、それを読みながら眉を寄せた。
「保留品から濁った魔力の漏出。封印布に反応。魔力を持つ素材へ誘引……」
机の向かいにはリリアが立っている。
「シュウさんが最初に気づきました」
「だろうな」
「ジノさんが若い職員を止めています」
「ジノが?」
エルネストは少しだけ意外そうな顔をした。
「珍しいな。逃げ足だけは速いと思っていたが」
「今回は、前に出ました」
「そうか」
エルネストは報告書を閉じた。
「で、箱の出所は?」
「持ち込み者は仮名。商人登録も不明瞭です。商会ギルドに照会中です」
「ふん。匂うな」
「はい」
エルネストは机の引き出しを開け、白い輪の徽章を取り出しかけた。
だが、すぐには取り出さなかった。
「まだ白環に上げるには早いか」
「魔道具ギルドの確認を待つべきかと」
「そうだな」
エルネストは椅子に深く座った。
「しかし、月影狼の次は赤印の箱か。あの新人が来てから、妙な流れが見えやすくなってきたな」
「本人が呼び込んでいるのではなく、元からあったものが見え始めただけかもしれません」
リリアの言葉に、エルネストは少しだけ笑った。
「受付らしい見方だ」
「事実の整理です」
「分かってる」
エルネストは窓の外を見た。
夕暮れのアルメリア。
屋台の煙。
帰路につく人々。
組合の前を通る荷車。
何気ない街の流れ。
だが、その下に、別の流れが潜んでいる。
「見える奴が現れたことで、見えないままだったものが動き出すかもしれん」
「シュウさんには、まだ重すぎるのでは」
「重いだろうな」
エルネストは低く言った。
「だが、軽いものだけ持たせて育つ世界じゃねえ」
リリアは少しだけ目を伏せた。
「潰さないように見ます」
「頼む」
◇
その頃、シュウは組合近くの食堂で、セリアと向かい合って座っていた。
目の前には、約束のスープがある。
野菜と豆が入った、素朴な匂いのする温かいスープ。
「初依頼、お疲れさま」
セリアが木のカップを掲げた。
「お疲れさま」
シュウもカップを軽く合わせる。
一口飲むと、体の中に温かさが広がった。
(うまい)
派手な味ではない。
だが、今の体には妙にしみた。
セリアがにこにこしながら聞いてくる。
「どう?」
「うまい」
「でしょ?」
「正直、かなり助かる」
「ふふ。じゃあ、次も奢ってもらおうかな」
「俺の報酬が消える」
「冗談だよ。半分くらい」
「半分は本気か」
セリアは楽しそうに笑った。
その笑顔を見て、シュウは少しだけ安心した。
倉庫で足元に黒いもやが伸びた時、胸が冷えた。
月影狼の時と同じように、見えているのに止められない感覚があった。
(見えるだけじゃ足りない)
その思いは消えない。
だが、今日、リリアは言った。
見えたものを報告できた。それは仕事です。
その言葉もまた、胸に残っていた。
「シュウ?」
「ん?」
「また難しい顔してる」
「少し考えてた」
「赤い箱のこと?」
「ああ」
セリアはスープを見つめた。
「私も、気になる」
「黒い糸とは違った。でも、普通でもなかった」
「また、月影の森と関係あるのかな」
「分からない」
シュウは正直に答えた。
「でも、たぶん何かの流れにはつながってる」
「流れ、か」
セリアは小さく呟いた。
その声は、いつもより少しだけ静かだった。
シュウは聞きたくなった。
昨日、リリアに言われた「前にも、同じことを言われましたから」の意味を。
エルネストやリリアが知っていそうな、セリアの過去を。
だが、セリアはまだ話したい顔をしていない。
だから、聞かなかった。
「今は、できることからやる」
シュウは言った。
「薬草を分ける。木箱を運ぶ。見えたものを報告する。文字を覚える。体を鍛える」
「うん」
「それから、少しずつ強くなる」
セリアはしばらく黙ってから、柔らかく笑った。
「じゃあ、明日から基礎訓練だね」
「やっぱりあるのか」
「あるよ。まずは走るところから」
「走るのか」
「走るよ」
「……お手柔らかに」
「大丈夫。死なないくらいにする」
「その言い方は不安になる」
セリアが笑った。
その明るさに、シュウも少しだけ笑った。
赤い印の木箱。
濁った流れ。
黒い糸。
白い輪。
分からないことは増えている。
だが、今日初めて、この世界で仕事をした。
誰かの役に立てた。
そして、戻ってこられた。
その事実だけは、確かだった。
食堂の扉が開き、外の冷たい風が少しだけ入り込む。
同時に、聞き覚えのある軽い声がした。
「お、いたいた。初依頼で事件起こした新人コンビ」
ジノだった。
膝に布を巻き、片手を上げている。
「事件を起こしたのは箱だ」
シュウが言うと、ジノは隣の席に勝手に座った。
「細かいことはいいんだよ。で、俺も混ぜてくれ。今日、俺ちょっと頑張ったし」
「リリアさんの事情聴取は終わったのか?」
「終わった。心が三回くらい折れた」
「立ち直りが早いな」
「長所だからな」
ジノは笑った。
だが、ふとその笑顔が少しだけ薄くなる。
「まあ、でもさ」
「ん?」
「今日の報酬、医務室代で少し飛んだんだよな。うち、薬代もあるし……いや、何でもない」
言いかけて、ジノはすぐにいつもの顔へ戻した。
「というわけで、誰か心優しい人がスープを一杯おごってくれてもいい」
「それが目的か」
「半分な」
「半分は?」
「腹が減った」
「全部じゃないか」
セリアが笑う。
シュウも呆れながら、店員を呼んだ。
「スープを一杯追加で」
「お、シュウ優しい! 俺、今日から君のこと好き!」
「軽いな」
「俺の好意は安いぞ」
「安すぎる」
ジノはけらけら笑った。
その笑い声は軽い。
だが、さっき一瞬だけこぼれた「薬代」という言葉が、シュウの耳に残った。
(この人も、何か抱えてるのか)
明るいだけの人間ではない。
この街も、この組合も、この世界も。
見えている流れの下に、見えていない事情がある。
シュウはスープをもう一口飲んだ。
温かい。
今はまだ、それでいい気がした。
初依頼の一日は、こうして終わった。
だが、赤い印の木箱から漏れた濁った流れは、確かにどこかへつながっていた。
シュウがまだ知らない、黒でも白でもない大きな流れへと。




