第47話 名前を預ける場所
王立物流院の地下で、シュウたちは記録から人の名前を削る仕組みを発見しました。
それは本来、患者や家族を差別から守るための匿名化術式でした。
しかし出口を王宮中央核へ付け替えられ、人の名前と魔力特性、仕事上の判断を抜き取る道として使われていました。
王宮側への流出を止めた直後、通路全体の匿名化術式が作動します。
このまま白い洗浄を受ければ、調査記録だけでなく、中央核と接続されたエマやナディアの名前まで削られるかもしれません。
名前を隠すことと、名前を奪うことは違います。
消して守るのではなく、必要な時に本人へ返せる場所へ預ける。
シュウたちは、迫る白い流れに新しい出口を作ります。
第47話 名前を預ける場所
白い光が、記録搬送路の奥から迫ってきた。
壁を走る何十本もの管。
管理票。
床に落ちた紙片。
光が触れるたびに、書かれていた名前だけが消えていく。
住所は残る。
症状も残る。
必要な薬の数も。
けれど、それが誰の記録だったのかだけが白く抜け落ちる。
「走れ!」
セルヴィス・アルカードの声が狭い通路へ響く。
俺たちは点検用の足場を走っていた。
先頭はセリアとセルヴィス。
その後ろに、オスカー審査官、カレン、リリア。
二人のミラ。
俺。
最後尾はイレーネ監察官だ。
イレーネは白い防護術式を後方へ向けている。
白環の術式で、白環の洗浄を止めようとしていた。
「長くは持ちません!」
イレーネが叫ぶ。
「これは攻撃術式ではありません! 防護壁を汚染記録と判断し、分解しようとしています!」
「自分の術式も消すのか!」
セルヴィスが振り返る。
「許可されていない個人情報をすべて除去する仕組みです! 術者の所属までは区別しません!」
白い光は、敵味方を判断していない。
誰かが侵入したから襲っているわけでもない。
王宮側の出口を閉じたことで、行き先を失った個人情報が通路に溜まった。
匿名化術式は、それを漏出と判断した。
そして、通路に残る名前を全部消そうとしている。
(誰かの悪意じゃない。出口がなくなった時の処理が、削除しか用意されていないんだ)
前の世界にもあった。
保管場所が足りない。
処理できない。
担当者が分からない。
だから廃棄する。
消してしまえば、目の前から問題はなくなる。
だが、消えた記録の向こうには人がいる。
「第一扉、閉鎖しています!」
セリアが叫んだ。
行く手を、丸い鉄扉が塞いでいる。
入る時には開いていた扉だ。
中央の認証板から、白い光が漏れている。
オスカー審査官が管理証を当てた。
鈍い音。
赤い文字が浮かぶ。
――管理者名、確認不能。
「私の登録が消えています」
「洗浄術式が、扉側の名簿まで削ってる?」
カレンが聞く。
「権限番号は残っています。しかし、誰に与えられた権限か確認できない」
「番号だけでは開かない?」
「不正使用を防ぐため、名前と対になっています」
正しい仕組みだ。
管理証を盗んだ者が、番号だけで扉を開けられないようにする。
だが、その名前を管理側が消している。
「手動開放は?」
俺が聞く。
「点検口の反対側です」
「反対側?」
「外から閉じ込められた者を救出するための機構なので、通路の外にあります」
「中にいる人は?」
「閉じ込められる想定がありません」
「今、閉じ込められています」
「はい」
オスカー審査官の声が苦い。
想定されていない。
だから、内側から開ける方法がない。
「壊す」
セリアが剣を抜いた。
「待て」
セルヴィスが扉へ白い測定札を当てる。
「扉の外側に、記録管が密集している。斬れば管まで傷つく」
「どの管?」
「治療所の緊急記録を運んでいる可能性がある」
「じゃあ、斬れない」
セリアは剣を下ろす。
焦って踏み込まない。
まず、壊した時に何が起きるかを聞いた。
「蝶番は?」
カレンが扉の縁を調べる。
「内側から見えません」
「床の下に抜け道は?」
俺が聞く。
オスカー審査官は首を横に振りかけた。
その途中で止まる。
「記録筒の回収槽があります」
「人が通れますか」
「通常は無理です」
「通常ではない方法なら?」
「回収籠を外せば、一人ずつなら」
ジノがいれば、真っ先に見つけていたかもしれない。
「場所は?」
「足場の下です」
セリアとセルヴィスが、床板の留め金を外す。
下には、大きな鉄籠があった。
管から落ちた不良記録筒を受け止めるための籠。
記録筒と紙片で半分ほど埋まっている。
「これを全部出すの?」
セリアが顔をしかめる。
「時間がありません」
後方を見る。
白い光が近づいている。
イレーネの防護壁が、一枚ずつ薄くなっていた。
「籠ごと下げられます」
オスカー審査官が壁際の鎖を示す。
「地下の回収室まで落とす?」
「はい。ただし、昇降機は長く使われていません」
「動くか分からない?」
「動作確認記録はあります」
リリアが聞く。
「誰の確認ですか」
「中央設備管理室です」
全員が黙った。
「別の確認は?」
「ありません」
「では、壊れている前提で使います」
リリアの答えは早かった。
動くと信じて全員で乗るのではない。
壊れていても、全員が落ちない方法を考える。
「まず空の籠を下げます」
俺は言った。
「一度底まで落として、引き上げる。鎖と制動具を確認します」
「その時間で洗浄が来ます」
イレーネの防護壁が、また一枚消える。
「全員では乗りません。二人ずつ下ります」
「順番は?」
「最初にセリアとオスカーさん。下の出口を開けてください」
「シュウが先じゃないの?」
「俺が下りても扉は開けられません」
「でも、最後に残るつもりでしょ」
「最後はイレーネさんとセルヴィスです。俺とリリアさんは、その前」
セリアは一瞬こちらを見た。
無理をして最後に残ろうとしていないか確かめたのだろう。
「分かった」
「ナディアさんは?」
本物のミラが聞く。
ナディア・エルクは、自分の首元を押さえていた。
黒い線が薄く浮かんでいる。
「中央核の呼び出しが強くなってる」
「白い洗浄が近づいてるから?」
「たぶん。名前の記録を回収しようとしてる」
「ナディアさんとミラは二組目」
俺は決めた。
「接続に異常が出たら、その場で止められるように」
「カレンさんは?」
「三組目。回収した市場記録を持って」
「リリアさんの記録板は?」
リリアが自分の胸へ抱えている。
「紙の名前は消されます」
白い光は、もう床の管理札を洗っている。
「記録板を守る方法は?」
「白環の封印布を使います」
セルヴィスが外套の内側から白い布を出した。
「洗浄術式と同じ系統です。短時間なら、保管済み記録として認識させられる」
「何枚ありますか」
「三枚」
リリアの調査記録。
ナディアの名前を記した票。
役割札の写し。
守りたい記録は、それだけではない。
「一か所へ集めないでください」
俺は言った。
「三枚に分けます」
一枚目はリリア。
一枚目の控えをカレン。
ナディアの名前と接続状態は、本物のミラ。
エマの状態と補助石交換時刻は、俺。
オスカー審査官は、地下通路の構造と開閉記録。
イレーネは、匿名化術式の作動条件。
全員が少しずつ持つ。
「紙だけでは足りません」
リリアが言った。
「口頭でも確認します」
俺たちは順番に名前を言う。
「セリア・グランツ」
「オスカー・ベルン」
「ミラ・フォルネ」
「ナディア・エルク」
「カレン・ベルシア」
「リリア・フォルン」
「シュウ・サエキ」
「セルヴィス・アルカード」
「イレーネ」
イレーネの声だけ、少し間があった。
「姓は?」
リリアが尋ねる。
「白環へ入った時に停止しました」
「元の姓です」
「必要ありません」
以前なら、それで終わっていたかもしれない。
だが今は、白い洗浄が名前を削ろうとしている。
「思い出せませんか」
「覚えています」
「では、ご本人の判断ですか」
「……はい」
リリアはそれ以上聞かなかった。
「イレーネ監察官。現在使用する名前として記録します」
「それで構いません」
持たないことを選んだ名前まで、無理に掘り返す必要はない。
残すことと、晒すことは違う。
◇
回収籠を下ろす。
鎖が激しく軋んだ。
途中で一度止まり。
次の瞬間、急に落ちる。
ごん、と下から大きな音が響いた。
「制動具、一段目は壊れています」
オスカー審査官が言う。
「二段目で止まりました」
「乗って大丈夫なの?」
セリアが籠を覗き込む。
「二段目も壊れたら、底まで落ちます」
「深さは?」
「およそ二階分です」
「死にはしない?」
「打ち所によります」
「安心できない」
「籠を下げ切ってから、鎖を使って下ります」
籠を昇降機として使うのではない。
底に置き、鎖を手すり代わりにする。
一人ずつなら、鎖が切れても巻き込まれる人数を減らせる。
セリアが先に下りる。
足。
腰。
肩。
身体強化を流し、鎖を滑るように降りていく。
続いてオスカー審査官。
「下の扉を確認する!」
声が返ってくる。
二組目。
ミラとナディア。
ナディアが鎖へ手をかけた瞬間、白い光が彼女の足元へ届いた。
床へ落ちていた紙片から、名前が消える。
ナディアの首の輪が黒く光った。
「っ!」
指から力が抜ける。
ミラが腕を掴んだ。
「離さないで!」
「名前が……」
「何?」
「聞こえなくなってる」
「中央核の呼び出し?」
「違う。自分の名前が、遠くなる」
白い洗浄は紙だけを消しているのではない。
中央核と接続された記録領域を通じ、ナディアの中に残る個人名へ触れている。
「ナディア・エルク!」
ミラが叫ぶ。
「あなたの名前!」
「ナディア……」
「工具袋の裏に、N・Eって刻んである!」
「でも、それが私のものか……」
「自分で言ったでしょ!」
「中央核が言わせたのかもしれない」
「じゃあ、後で確かめればいい!」
ミラはナディアの肩を強く掴む。
「今、消していい理由にはならない!」
ナディアの目が少し戻る。
「ミラ……フォルネ」
「そう。私はミラ。あなたはナディア」
「違っていたら?」
「訂正する!」
リリアの声が飛ぶ。
「今の記録へ、後日確認予定と書いてあります!」
最初から完全な名前でなくてもいい。
今、自分が選んだ呼び方を残す。
間違っていれば直せる。
消せば、直すこともできない。
「下りるよ」
ミラが言う。
ナディアがうなずく。
二人で鎖を下りていく。
三組目はカレン。
市場の封印記録を身体へ結びつけ、一人で降りる。
リリアは封印布に包んだ記録板を先に下へ渡した。
「シュウさん」
「はい」
「口頭確認を」
「エマ・コール。ナディア・エルク。中央核接続中。補助石交換は四半刻ごと」
「私の名前は?」
「リリア・フォルン」
「ミラさんは?」
「ミラ・フォルネ」
「あなたは?」
「シュウ・サエキ」
「確認しました」
俺が先に鎖へ手をかける。
リリアが続く。
左手首の青い紐は、セリアの手元へ続いたままだ。
「紐、長すぎませんか」
下からセリアが言う。
「逃げる時も見張るから」
「魔流視は使いません」
「知ってる。転落防止にも使える」
紐が少し張る。
支えになるほど強くはない。
それでも、下に誰かがいると分かる。
俺とリリアが底へ着く。
残るのはセルヴィスとイレーネ。
白い光は、もう二人の足元まで来ていた。
「防護壁を解除します」
イレーネが言う。
「先に下りろ」
セルヴィスが答える。
「最後尾は私です」
「防護を維持できる者が先に下りれば、上で解除した瞬間に洗浄が流れ込む」
「だから、私が最後です」
「私の外套を残す」
セルヴィスは白い外套を脱ぎ、手すりへ結んだ。
外套に刻まれた白環術式が、一時的な壁になる。
「装備を捨てるつもりですか」
「後で回収する」
「洗浄されます」
「また作ればいい」
「白環の階級印も入っています」
「名前と同じだ。印がなくても、俺がやるべきことは変わらん」
セルヴィスが、そんなことを言うようになった。
イレーネも驚いた顔をしている。
「早く行け」
セルヴィスに促され、イレーネが鎖を下りる。
続いてセルヴィス。
最後に足場から手を離した瞬間、外套の防護が破れた。
白い光が鉄扉まで一気に流れ込む。
壁にあった全員の入室記録が消える。
誰が中へ入ったのか。
何人いたのか。
管理票からは分からなくなった。
それでも、全員が地下の回収室へ下りていた。
俺たち自身が、互いの存在を確認している。
◇
回収室の出口は、手動式だった。
セリアとオスカー審査官が、すでに錆びた横棒を回している。
「固い!」
「右へ少し戻してから左!」
ミラが下りてくるなり叫んだ。
「またそれ?」
「古い設備だから!」
セリアが逆方向へわずかに押す。
錆が剥がれる音。
次に二人で左へ回す。
扉が開いた。
その先は物流院の地下倉庫。
地上へ続く階段がある。
「全員いますか」
リリアが確認する。
一人ずつ名前を呼ぶ。
返事。
九人。
全員いる。
ナディアも、自分の名前へ答えた。
だが、連絡石が三回鳴ったまま止まらない。
「エマさんの状態が危険です」
俺たちは階段を駆け上がった。
◇
治療室の扉は開いていた。
中ではノアがエマの身体を支えている。
五つの補助石は、すべて灰黒色に濁っていた。
「次の石を!」
ノアが叫ぶ。
白環本部から届いた封印石が、机の上に積まれている。
治療助手が交換しているが、濁る方が速い。
「何が起きていますか」
ナディアが駆け寄る。
「中央核が、エマさんの記録を引いています!」
「匿名化術式で名前を削ってから、空いた部分へリリアの役割を戻そうとしてる」
「止められる?」
「入口を切れば、今度こそ記憶が損傷する」
本物のミラとナディアが測定具を当てる。
「出口が一つじゃない」
ミラが言う。
「物流院地下。王宮中央核。もう一つ……」
ナディアの顔が強張る。
「テオ」
「テオさんへつながってる?」
「私たち三人は、役割共有のために相互接続されている」
「テオさんを通じて、中央核がエマさんを引いている?」
「たぶん」
「では、テオさんの接続を止めなければ」
セルヴィスが扉へ向かう。
だが、その必要はなかった。
廊下の向こうから、俺と同じ顔をした男が歩いてくる。
テオ・ラウナー。
首元の黒い線が、はっきり浮かんでいる。
いつもの紺色の外套は乱れ、額には汗があった。
「接続を開きます」
テオが言った。
「何をするつもりですか」
「エマの役割記録を、私の側へ戻す」
「あなたに負荷が集まります」
「分かっています」
「中央核の指示ですか」
「違う」
「信じろと?」
セルヴィスが身構える。
テオは俺を見た。
「信じる必要はありません。測定してください」
ミラとナディアが、同時に測定具を向ける。
「嘘じゃない」
ミラが言う。
「テオ側の出口を開けば、エマの負荷は下がる」
「テオさんは?」
「上がる」
「どれくらい?」
「分からない」
また分からない。
でも、測れる範囲は測った。
「どうして来たんですか」
俺が尋ねる。
「エマは、中央核の誤記を止めた」
「それで?」
「あの保留がなければ、中央核は九番箱の異常を学習できなかった」
「中央核のため?」
「そうです」
テオは答えた。
少し間を置き、続ける。
「それだけではない」
エマを見る。
「彼女が消えれば、保留を選んだ理由も消える」
「中央核には記録が残っています」
「結果だけです」
テオは拳を握る。
「なぜ署名を拒んだのか。なぜ負荷を受けても保留を消さなかったのか。それは記録されていない」
中央核の中にいても、気づき始めている。
人の判断は、結果だけではない。
「お願いします」
テオが言った。
「今だけ、接続を開かせてください」
「時間を決めます」
俺は答えた。
「三十呼吸」
「短い」
「長く開けば、中央核が逆流します」
「六十」
「四十」
「五十」
「四十五」
「交渉してる場合?」
セリアが呆れた声を出す。
「四十五呼吸で」
カレンが時刻盤を持つ。
「経過を読み上げます」
リリアは、テオの行動と時刻を記録。
ノアはエマの呼吸と脈。
ミラとナディアは接続部。
セルヴィスとイレーネは、中央核から黒環術式が来た場合に備える。
セリアはテオの前。
俺は全体を見る。
「開始」
テオが胸元の黒い石へ手を置いた。
首の輪が光る。
エマへ流れ込んでいた灰黒色の線が、向きを変えた。
テオの身体へ入っていく。
「エマ側、低下!」
「補助石の濁りが止まった!」
「十呼吸!」
テオの顔が歪む。
俺と同じ顔。
だが、苦しみ方まで同じではない。
「二十!」
「中央核から逆流!」
ナディアが叫ぶ。
「右の接続に黒い命令!」
「白環で止めます!」
イレーネが白い術式を細く流す。
切らない。
テオの記憶まで断たないよう、黒い命令だけを横へ逸らす。
「三十!」
エマの指が動く。
ノアが呼びかける。
「エマさん。聞こえますか」
「……はい」
「ご自分の名前は?」
「エマ……コール」
「確認しました」
「四十!」
テオの膝が揺れる。
セリアが身体を支える。
「あと五!」
「テオ側の負荷が限界!」
「閉じます!」
ミラとナディアが工具を回す。
「四十五!」
接続が閉じた。
テオが倒れかける。
セリアと俺で支えた。
俺の顔が、俺の肩へ寄りかかる。
やはり気持ちが悪い。
「大丈夫ですか」
「必要な負荷です」
テオが苦しそうに答える。
「その言い方、やめた方がいいですよ」
「あなたに言われたくありません」
「よく言われます」
少しだけ、テオの口元が動いた。
笑ったのかもしれない。
◇
エマの状態は安定した。
中央核との接続は残っている。
だが、白い匿名化術式からは切り離せた。
ナディアも、自分の名前を覚えている。
物流院地下で回収した記録は、一部の名前を失った。
すべては守れなかった。
それでも、分けて持った記録は残っている。
誰か一人の紙が消えても、別の人が内容を覚えている。
リリアが、それらを照合して新しい記録を作り始めた。
「消えた部分は?」
俺が聞く。
「空欄にします」
「推測で埋めない?」
「はい。誰の記録だったか確認できるまで、未確認とします」
「戻らなかったら?」
「名前が分からない記録として残します」
「役に立ちますか」
「何かがあったことは残せます」
名前を失っても、最初から存在しなかったことにはしない。
それも大切だった。
オスカー審査官は、回収した古い搬送路の管理票を見ていた。
「白い洗浄術式は、王宮から起動されたものではありません」
「自動だった?」
「はい。王宮側の出口を閉じ、個人記録の流量が規定を超えたことで作動しています」
「では、黒環会の罠ではなかった?」
「起動自体は違います」
イレーネが答える。
「ただし、王宮側へ流すことを前提に設定値を変更した者はいます」
白環の安全機能。
王宮の管理。
黒環会の中央核。
どれか一つだけを悪とすれば、原因を見失う。
「本来の保管庫が小さくされた時期は?」
リリアが尋ねる。
「十七年前です」
「変更承認者は?」
オスカー審査官が古い文字を読む。
表情が変わる。
「王立魔術研究局、分配設計責任者」
名前は。
オルバス・ノクト。
想像どおりだった。
だが、その下にもう一人の署名がある。
「共同承認者?」
イレーネが紙を受け取る。
白環の紋章。
古い階級印。
署名。
――白環総監、アルトゥール・アルカード。
セルヴィスの顔から表情が消えた。
「アルカード……」
セリアが彼を見る。
「あなたの家族?」
「祖父です」
低い声だった。
「十七年前の白環総監。黒環会との戦いで死亡したと聞いている」
白環の最高責任者。
オルバスと共に、保管庫を縮小し、王宮側の出口を太くした人物。
「黒環会へ協力していた?」
カレンが聞く。
セルヴィスは、すぐに答えなかった。
「分からない」
その一言を、ようやく絞り出す。
「祖父は、黒い流れを止めるためなら地区を切るべきだと教えた人物です」
「なら、何か理由があったのかもしれません」
俺が言う。
「かばう必要はない」
「かばっていません」
署名がある。
変更が行われた。
その結果、個人情報が中央核へ流れた。
事実は重い。
でも、理由はまだ分からない。
「記録を追いましょう」
リリアが言った。
「共同承認の前後に、どのような報告があったのか。誰が変更を申請し、誰が施工したのか」
「白環本部の記録庫を開けます」
イレーネが答える。
「総監級の封印記録です。通常は監察官でも閲覧できません」
「開けられるんですか」
「セルヴィスの血統印と、現監察官である私の承認があれば」
セルヴィスは祖父の署名を見つめたまま、静かにうなずいた。
「開ける」
白環の守り手も、一つの流れではない。
黒環会を止めるために戦った者。
人を守るため名前を隠した者。
地区を切り離した者。
オルバスと同じ書類へ署名した者。
そこに、どんな判断があったのか。
知らなければならない。
◇
テオは治療室の隅に座っていた。
首元の黒い線は、まだ消えていない。
「中央核へ戻るんですか」
俺が聞く。
「戻らなければ、次の指示が止まります」
「今は俺たちの名前による単独指示が停止されています」
「私の指示ではありません」
「誰の?」
テオは答えない。
「第三環統合管理者」
俺が言うと、顔が動いた。
「知っていたんですね」
「中央核から、準備状況だけは聞いていました」
「俺とあなたを重ねる?」
「はい」
「同意したんですか」
「拒否という項目はありません」
「あなた自身は?」
「必要なら受け入れます」
「何のために?」
「黒環、白環、蒼流。三つの判断を一つへまとめるためです」
「一つへまとめなくても、つなげられます」
「今日のように時間がかかる」
「時間がかかっても、エマさんは自分の名前で目を覚ましました」
「もっと速く止められた可能性もある」
「もっと速く消された可能性もあります」
テオは黙った。
「統合は、いつですか」
「本審査の日」
「四日後?」
「変わりました」
テオは胸元から、黒い命令板を出した。
そこには、新しい時刻。
――明日、王宮第一鐘。
「早すぎます」
「判断記録が揃ったためです」
「本人確認も終わっていない」
「中央核には必要ありません」
テオは命令板を机へ置く。
「統合には、あなたの同意も必要ない」
魔流視。
中央核接続。
二つを一人へ重ねる。
俺が王宮へ行かなければ済む話ではないらしい。
「どうやって俺を?」
「あなたが近くにいれば、統合環が接続します」
「近くって、どのくらい?」
「王都内」
セリアの手が剣の柄へ伸びる。
「じゃあ、王都を出る?」
「今からでは間に合いません」
「どうして」
「すでに仮接続が始まっているからです」
その言葉と同時に、俺の視界の端へ灰黒色の線がちらついた。
半自動的な反応。
強い異常。
テオの胸元から伸びた細い黒線が、俺の左手首へ近づいている。
青い紐が、かすかに震えた。
まだ触れてはいない。
だが、入口を探している。
俺は焦点を奥へずらさなかった。
魔流視も発動しない。
今、見れば、向こうから接続されるかもしれない。
「シュウ?」
セリアが気づく。
「見ないで」
「見てません」
「何があるの」
「接続が始まりかけています」
テオも自分の胸元を押さえる。
「中央核が、あなたを認識した」
「止め方は?」
「明日の第一鐘までに、第三環統合室を停止する」
「場所は?」
「王宮の地下です」
閉鎖予定の搬送路の先。
俺たちの判断記録が送られた場所。
王宮中央核。
そこに、第三環統合室がある。
「案内できますか」
俺が聞くと、テオは苦しそうに笑った。
「案内すれば、中央核への反逆になります」
「しない?」
「まだ決めていません」
「いつ決めますか」
「明日の第一鐘までに」
「ぎりぎりですね」
「あなた方のやり方を参考にしました」
冗談なのか、本気なのか分からない。
テオは立ち上がる。
扉の前で一度振り返った。
「シュウ・サエキ」
同じ声で、俺の名前を呼ぶ。
「明日、もし私が中央核の指示だけを話していたら」
「はい」
「私の名前を呼んでください」
「テオ・ラウナー?」
「それが、まだ私の名前なら」
テオは治療室を出ていった。
俺たちは、その背中を止めなかった。
戻るか。
反抗するか。
どちらも、こちらが代わりに決めることではない。
ただ、選べる出口だけは残しておく。
名前を預ける場所。
間違えた時に戻れる記録。
役割を失っても、人として残れる流れ。
それを作らなければ。
明日の第一鐘。
王宮地下で、俺とテオを一つにする術式が動き出す。
黒環でも。
白環でも。
中央核が作った蒼流でもない。
人を部品にしない第三の環を。
それまでに、王都の流れへつながなければならない。
第47話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、記録搬送路を洗う白い匿名化術式から、名前と調査記録を守る回でした。
この洗浄は、黒環会が直接攻撃として起動したものではありません。
王宮側の不正な出口を閉じた結果、行き先を失った個人情報が通路に溜まり、白環の安全機能が自動で作動しました。
本来は情報漏出を防ぐ仕組みです。
しかし削除以外の出口が用意されていなかったため、中央核と接続されたナディアの名前まで消そうとします。
シュウたちは記録を一か所へ集めず、複数人で分けて持ち、互いの名前と確認事項を口頭でも残しました。
完全な記録でなくても、後から訂正できる形で残す。
分からない部分を勝手に埋めず、最初から存在しなかったことにもしない。
蒼流の環らしい記録方法です。
また、テオは中央核の命令ではなく、自分の判断でエマの負荷を引き受けました。
彼はまだ中央核の考えから離れてはいません。
それでも、結果だけでは記録できないエマの選択を残そうとしています。
白環の古い変更記録には、オルバス・ノクトと、セルヴィスの祖父である白環総監アルトゥール・アルカードの共同署名が見つかりました。
白環側にも、王宮中央核へ情報を流した理由と責任があります。
そして、シュウとテオを一つの身体へ重ねる第三環統合は、明日の第一鐘に前倒しされました。
次回は白環の総監級記録を調べながら、王宮地下の第三環統合室へ入るための道と、統合術式を止める方法を探します。




