第40話 止める権限のない現場
白環東部封鎖所は、危険な術式を外へ出さないための施設でした。
ヴァルド・グレイムは、その安全設備を逆に利用し、施設全体を「実証区三番」へ変えます。
門の内側へ残ったシュウたち。
門の外で、八つの保管区画を手動管理する白環の職員たち。
中央制御を奪われても、現場が自分の判断で止められる仕組みを作れるのか。
そして、長く影だけを追ってきたヴァルドへ、ついに手が届きます。
白環東部封鎖所の鉄門が、腹に響く音を立てて閉じた。
最後の隙間から見えたのは、門の外へ飛び出したジノ・バレットの背中だった。
内側に残ったのは五人。
俺。
セリア・グランツ。
ミラ・フォルネ。
レイヴン・クロフト。
そして、白環の隊長ユリウス・フェイン。
「外はエルドに任せた」
ユリウスが腰の連絡石を確かめる。
「八区画の手動封印と避難者の保護を継続させる。ジノ殿には、門と制御塔の外周を見てもらう」
「ジノに『殿』をつけるんですね」
「名簿にない一人を見つけた功績は認める」
「本人に言ったら、三日は自慢しますよ」
「言わなければよかったか」
短いやり取りの間にも、制御塔の駆動音は大きくなっていた。
白い石壁の内側を、重い歯車が回っているような音。
塔へ続く正面階段には、灰黒色の細い光が走っている。
「いきなり上らないで」
ミラが測定具を階段の一段目へ近づけた。
針が大きく振れる。
「白環の識別術式よ。登録された階級と権限を読んでる」
「味方を通すためのものでは?」
セリアが尋ねる。
「本来はね。今は逆。権限が高い人ほど、制御塔へ魔力を取られる」
全員の視線がユリウスへ集まった。
「私が一番よい餌というわけか」
ユリウスは首元に留めていた白銀の指揮環へ触れた。
隊長の身分と、封鎖所の緊急操作権を示すものだ。
「外せますか」
俺が聞く。
「規定では、任務中に外すことを禁じられている」
「今、その規定を読まれています」
「分かっている」
ユリウスは留め具へ指をかけた。
だが、すぐには外さない。
白環の騎士にとって、それはただの登録具ではない。
階級。
責任。
これまで積み重ねてきた判断の証明。
「外したら、隊長でなくなるわけではありません」
俺が言うと、ユリウスは少しだけ眉を動かした。
「慰めているのか」
「事実確認です」
「リリア殿なら、もう少し冷たく言いそうだ」
「では、今度教わっておきます」
ユリウスは小さく息を吐き、指揮環を外した。
「身分を捨てるのではない。敵に鍵として使わせないため、一時的に預ける」
指揮環をミラへ渡す。
測定具の針が少し下がった。
「まだ反応がある」
「本人の魔力も登録されてるから、完全には消えない」
「なら、私が最後尾だ」
ユリウスが言った。
「白環の権限が必要になった時だけ前へ出る」
肩書きを持つ者が、いつも先頭に立つ必要はない。
必要な時に責任を引き受けられる位置にいればいい。
「行きましょう」
◇
正面階段を上り始めた時、腰の連絡石から雑音が走った。
『第一手動環、保持圧が上昇!』
門の外にいるエルドの声だ。
『操作員の手が離れません!』
「どういうことだ」
ユリウスが問い返す。
『中央から緊急保持命令が入っています! 環を離せば個別封印が開く表示です!』
続けて、別の報告が重なる。
『第四区画も同じです!』
『第七区画、操作員の魔力低下!』
八区画を中央網から切り離したはずだった。
「物理管は抜いた」
ミラが奥歯を噛む。
「でも、白環の緊急命令は指揮系統を通ってる。通信環が残ってたんだ」
中央制御から独立させても、非常時の命令だけは届く。
安全のために残された別経路。
ヴァルドは、そこまで知っていた。
「操作員は何人ですか」
『各区画二名。交代要員は避難誘導へ出しています』
「離したら、本当に封印が開く?」
セリアが聞く。
「表示がそう言ってるだけかもしれない」
ミラは答えた。
「でも、今の状態で試せない」
現場の人間は環を握り続けるしかない。
手を離した結果、危険な術式具が開けば、その判断をした者の責任になる。
だから限界まで耐える。
誰かが倒れるまで。
(止める権限がない現場は、壊れるまで動くしかない)
前の世界でも、何度も見た。
設備に異音がある。
作業者の顔色が悪い。
材料が規格から外れかけている。
それでも、ラインを止める許可を持つ人間は遠くにいる。
電話はつながらない。
納期は迫る。
現場は回し続ける。
そして事故が起きた後で、なぜ止めなかったと問われる。
「塔へ急ぐしかありません」
俺が言うと、レイヴンが階段の上を見た。
「急ぐのは賛成だが、向こうも歓迎の準備をしてるぞ」
二階へ続く踊り場で、白い格子扉が降りた。
その向こうに三体の影が立つ。
白環騎士の形をしている。
だが、中に人はいない。
押収された鎧型術式具へ、白い封印環が無理やり接続されていた。
「人が入ってないなら、遠慮はいらないね」
セリアが剣を抜く。
「壊しすぎるなよ」
レイヴンも短剣を構えた。
「中の術式が飛び散る」
「じゃあ、止める」
セリアは短く息を吸った。
足裏で石床を掴む。
剣を握り直し、踏み込みを一歩分だけ抑える。
一体目の鎧が、白い槍を突き出した。
「守り払い!」
正面から受けない。
槍先を格子側へ流し、鎧自身の腕を格子へ絡ませる。
レイヴンが横から入り、肘の接続環へ短剣を差し込んだ。
「一つ」
「数える余裕あるの?」
「余裕がないから数えるんだよ」
二体目が剣を振り下ろす。
セリアは焦って前へ出ず、半歩下がった。
剣が床へ食い込む。
「月閃!」
薄い青い刃が、鎧の膝裏だけを切った。
立てなくなった鎧を、レイヴンが階段の端へ押す。
三体目はユリウスへ向かった。
外したはずの指揮権限を、本人の魔力から読んでいる。
「やはり私か」
ユリウスは白環術式を使わなかった。
腰の剣を鞘ごと抜き、鎧の腕を受ける。
「シュウ、ミラ! 先へ行け!」
「でも――」
「白環の流れを止めるのが、私の役割だろう!」
自分で引き受けた役割。
無理やり残された仕事ではない。
「三階の配線室へ!」
ミラに腕を引かれ、俺は階段を駆け上がった。
◇
三階の配線室には、白い管が壁一面を走っていた。
八区画へ向かう指揮線。
緊急動力核から上がる太い供給線。
制御塔最上階へ続く命令線。
どれも同じ白に見える。
「どれを切れば、操作員の手が離れる?」
ミラが測定具を順番に当てる。
「命令線だけ切りたい。でも、保持命令と封印維持が重なってる」
「全部切ったら?」
「八区画の個別封印が落ちるかもしれない」
外では十六人が手動環を握り続けている。
時間はない。
壁の管を見ても、違いは分からない。
ただ、目の奥には昨日から鈍い痛みが残っていた。
「一度だけ見ます」
「入口と出口だけ」
ミラが即座に言う。
「全体を追わないで。操作員へ戻ってる線を探して」
「分かりました」
俺は壁へ手をつかず、足を肩幅に開いた。
息を細く吐く。
視界の焦点を、白い管の表面ではなく、その少し奥へずらす。
入口。
緊急動力核から入る力。
出口。
八区画の手動環へ戻る命令。
心の中で意識する。
(流れを見ろ)
視界の色が落ちた。
白い管の中に、青い流れが浮かぶ。
封印を維持する流れは、緊急動力核から各区画へ一方向に伸びている。
その外側へ、灰黒色の細い線が絡みついていた。
灰黒色の線は各区画へ命令を送るだけではない。
手動環を握る操作員から、魔力を吸い上げて戻ってくる。
中央の力だけでは足りない分を、人で埋めている。
「保持命令は……別の線です」
声を出した瞬間、こめかみが強く脈打った。
「場所は?」
「青い維持線の外側。八本が、途中で一本に束ねられてる」
「束ねてる環は?」
探す。
深く追わない。
入口と出口だけ。
灰黒色の帰り道は、部屋の中央にある白い監査盤へ集まっていた。
本来は、各区画の操作状況を記録する装置だ。
ヴァルドは記録の流れを、吸い上げる流れへ読み替えている。
「監査盤……下から二段目の環」
「見つけた!」
ミラが工具を差し込む。
「もう切って!」
視界を戻す。
色が一気に戻った反動で、床が傾いたように見えた。
膝へ力が入らない。
吐き気が込み上げる。
「シュウ!」
ミラが片手で肩を支えた。
「大丈夫です」
「その台詞を禁止する仕組みも必要ね」
「言い換えます。今は意識があります」
「悪化してるじゃない」
それでも、探す線は見つけた。
ミラは監査盤の環を半分だけ開く。
「これだけ切ると、操作員から吸う流れは止まる。でも中央の表示は全部『保持失敗』になる」
「現場の封印は?」
「手動環を物理的に固定できれば保つ」
連絡石を取る。
「ジノ、聞こえますか」
『聞こえる! こっちは全員、手がしびれてる!』
「手動環を固定する金具は?」
『専用品は六本! 環は八つ!』
八つ必要なのに、六本しかない。
予備不足。
よくある話だった。
「同じ太さの物を二本探して!」
『白環の規定品じゃなくても?』
「今は回転を止められればいい!」
『エルドのおっさんが嫌な顔してる!』
連絡石の向こうで、エルドの声がした。
『聞こえている! 規定外の固定は、環を傷める可能性がある!』
「操作員の腕はもう傷んでいます!」
『分かっている!』
一瞬の沈黙。
『搬入台の車輪止めを二本使う。私の判断として記録しろ!』
『記録する人、今いないけど!』
『なら、お前が覚えておけ!』
『そういうの一番苦手なんだよ!』
怖がりながらも、ジノの足音は遠ざかっていく。
やがて金属を引きずる音。
『八区画、固定具を入れた!』
「操作員に確認を!」
『第一、固定確認!』
『第二、封印維持!』
声が順に続く。
『第八、固定確認! 全区画、手を離せる!』
「ミラ!」
「吸い上げ線を切る!」
工具が監査環を引き抜いた。
灰黒色の細い光が弾ける。
塔全体が大きく揺れた。
『手が離れた!』
『封印、維持しています!』
中央表示はすべて赤に変わった。
だが、八区画の現物は閉じたままだ。
画面の上では異常。
現場では安全。
どちらを信じるかは、もう迷わない。
「中央が、現場から力を吸えなくなった」
ミラが最上階へ続く管を見る。
「ヴァルドの出力が落ちる」
「上へ行きましょう」
一歩踏み出す。
足がふらついた。
「肩、貸す」
「工具箱も持ってるのに?」
「工具より軽くして」
「努力します」
「今じゃなくて、今後」
ミラの肩を借り、階段へ戻る。
踊り場では、三体の鎧がすべて床へ固定されていた。
セリアが俺の顔を見る。
「見たね」
「入口と出口だけです」
「反動は?」
「頭痛と吐き気と、少し脱力」
「全部じゃない」
「でも、線は切れました」
「それはミラがやった」
「はい」
セリアは怒る代わりに、俺の反対側へ回って腕を支えた。
「歩くのは手伝う。次に見るかは、みんなで決める」
「分かりました」
「その返事は本当?」
「今度は本当です」
レイヴンが前で笑う。
「ずいぶん管理されるようになったな、段取り屋」
「改善の結果です」
「悪くない」
◇
最上階の制御室は、円形だった。
中央に白い緊急動力核。
その周囲を、黒い変換環が三重に囲んでいる。
壁には八区画の状態表示。
すべて赤い異常表示だ。
その前に、ヴァルド・グレイムが立っていた。
黒い手袋。
整った商人服。
焦りのない穏やかな顔。
隣には白環の副所長、マティアス・ロウ。
五十歳前後の痩せた男だ。
右手首に、灰黒色の契約環が食い込んでいる。
「操作員からの補助供給が切れました」
ヴァルドが表示を見る。
「現物ではなく、表示を捨てましたか」
「表示は現物を知るためにあります」
俺は答えた。
「表示を守るために人を潰すものじゃない」
「十六人が少し疲れるだけで、二百点を超える危険物を管理できる。効率のよい配置でしょう」
「交代できない配置を、効率がいいとは言いません」
「交代要員を置けば、人件費が増える」
「倒れた後の処理費用を、計算から外してるだけです」
ヴァルドの口元から、わずかに笑みが消えた。
「あなたはいつも、数字に入らないものを持ち出す」
「入れていないのは、そちらです」
マティアスが低い声で言った。
「理想だけなら、誰でも言える」
ユリウスが一歩前へ出る。
「マティアス。なぜ黒環会を入れた」
「現場を見ていない者が、簡単に聞くな」
「答えろ」
マティアスは壁の勤務表を指した。
「必要定員は四十四名。実員は三十一名。欠員十三名だ」
今日の勤務者三十八名には、他施設からの応援も含まれていたらしい。
「王都は危険物を増やした。封印事故は一件も許さないと言った。その一方で、人員補充の申請は三年続けて保留だ」
声が震えている。
「夜間は一人で二つの区画を見る。休みを取らせれば、別の者が連勤になる。誰かが倒れれば、残った者へ回す。それでも監査官は、規定通り運用しろと言う」
(また、現場と管理の間か)
マティアスは、ここで働く人間を守りたかったのかもしれない。
少なくとも最初は。
「ヴァルドは、中央自動制御なら三十一人で回せると言った」
「その結果、十六人から魔力を吸いました」
「そんな設計だとは聞いていない!」
マティアスの顔が歪む。
「黒い環は判断を補うだけだと。危険物の開放傾向を先に読み、必要な区画へ力を配るだけだと!」
「ニックさんが残っていることは?」
「知らなかった」
「王都監査官が偽者だと?」
「知らなかった!」
「では、何を確認したんですか」
マティアスは答えられなかった。
人が足りない。
要求は減らない。
そこへ、少ない人数で回せる仕組みが持ち込まれた。
確認する余裕もないから、効果だけを信じる。
導入した後は、失敗を認めれば自分の責任になる。
だから止められない。
「事情は記録します」
ユリウスが言った。
「人員不足も、補充申請が保留されたことも、中央の責任を問う」
「今さらか」
「今さらだ」
ユリウスは逃げずに認めた。
「だが、お前が外部助手を名簿へ入れず、偽の監査官を通し、危険な変換環を接続した責任も消えない」
「私一人へ押しつけるのか」
「押しつけない。分けて記録する」
中央の人員配置の責任。
副所長の導入判断。
ヴァルドの偽装と術式改変。
現場へ無理を回し続けた運用。
全部を一人の罪にして終わらせない。
だからといって、誰の責任でもないことにもしない。
「マティアス」
ユリウスが手を伸ばす。
「契約環を止める。こちらへ来い」
マティアスの足が、わずかに動いた。
その瞬間、ヴァルドが操作環を回した。
灰黒色の契約環が、マティアスの腕を締め上げる。
「ぐっ……!」
「不良品は、工程から外さなければならない」
ヴァルドの声に、初めて露骨な冷たさが混じった。
セリアが踏み込む。
だが床から白い拘束線が噴き出した。
「足元!」
俺の視界の端に、灰黒色の線が一瞬ちらつく。
強い異常に反応した半自動の警告。
セリアは踏み込みを途中で止め、横へ跳んだ。
拘束線が空を切る。
レイヴンが反対側からヴァルドへ走る。
「逃がすかよ!」
ヴァルドは緊急動力核の裏へ下がった。
三重の黒い変換環が高速で回り始める。
「封鎖反転、最終段階へ移行」
壁の赤い表示が、一斉に点滅した。
「ミラ!」
「中央から各区画へ、開放命令を送ろうとしてる!」
「通信線は切ったはずでは?」
「白環の最上位命令よ! 副所長の権限を使ってる!」
マティアスの契約環が、権限鍵にされている。
彼を倒せば止まるかもしれない。
だが、それは人を安全装置として壊すやり方だ。
「ユリウスさん。副所長より上の停止権限は?」
「封鎖隊長権限がある。だが指揮環は外した」
「使えば、また吸われます」
「分かっている」
ユリウスはミラから白銀の指揮環を受け取った。
「何秒必要だ」
ミラが変換環を見た。
「命令を止めるだけなら十秒。中央管理を切り、各区画へ停止権限を渡すなら三十秒」
「三十秒保たせる」
「魔力を取られます!」
「私が決めた」
指揮環を首元へ戻す。
白い光がユリウスの全身へ走った。
直後、灰黒色の線が指揮環へ食いつく。
ユリウスの膝が沈んだ。
「白環封鎖隊長ユリウス・フェインの権限で命じる!」
それでも声は止まらない。
「全区画、中央命令を拒否! 現場確認を優先せよ!」
白い命令線と灰黒色の開放線が、制御室の中央でぶつかった。
「三十秒!」
ミラが配線盤へ飛びつく。
「シュウ、右の青い管! 維持線を押さえて!」
「はい!」
工具の柄で管の留め具を固定する。
手に振動が伝わる。
目を使わなくても分かるほど、二つの流れがぶつかっている。
「セリア、レイヴン! 変換環を止めて!」
「任せて!」
セリアが黒い拘束線の間を進む。
呼吸を整える。
一歩。
止まる。
次の線が過ぎてから、もう一歩。
焦って最短距離を踏み抜かない。
レイヴンが左から短剣を投げ、変換環の外輪へ噛ませた。
「一枚目!」
回転が少し落ちる。
セリアは剣を両手で握り直した。
「月閃!」
青い刃が二枚目の接続部を切る。
黒い環が傾いた。
「十五秒!」
ミラが白い管を二本つなぎ替える。
中央へ集まっていた命令線が、八本へ分かれ始める。
『第一手動区画、停止権限を受領!』
連絡石から声。
『第二、受領!』
一つずつ、現場へ止める権限が渡っていく。
「ヴァルド!」
マティアスが苦しみながら、自分の腕を操作盤から引き離した。
「私を、鍵にしたのか……!」
「あなたが望んだのでしょう」
ヴァルドは冷たく答える。
「少ない人数で、迷わず動く仕組みを」
「こんなものを望んだんじゃない!」
「要求仕様が曖昧でしたね」
その言葉に、腹の底が冷えた。
説明しなかった危険を、依頼側の確認不足へ変える。
ラドムと同じ。
ヴァルドは、もっと上手く責任を流しているだけだ。
「二十五秒!」
ユリウスの指揮環へ亀裂が入る。
膝をついても、命令を保っている。
「あと五秒!」
「第七、受領!」
「第八、受領!」
ミラが最後の中央接続を引き抜いた。
「権限分割、完了!」
八本の白い線が、それぞれ別の区画へ伸びる。
灰黒色の開放命令は、行き先を失って崩れた。
三重の変換環が止まる。
緊急動力核の光も、穏やかな白へ戻った。
ユリウスの身体から、灰黒色の線が離れる。
「ユリウスさん!」
「生きている」
荒い呼吸の間から答えが返る。
「三十秒とは、長いな」
「現場ではもっと長く感じます」
「覚えておく」
◇
ヴァルドは、止まった変換環を一度だけ見た。
怒鳴らない。
悔しがらない。
帳簿上の損失を確認するような目だった。
「実証区三番、運用失敗」
淡々とつぶやく。
「原因。現場への停止権限移譲。予定外の規定外部品使用。非登録作業者の救出による時間損失」
「まだ人を損失として書くんですか」
「記録は評価のためにあります」
「違います」
俺は工具の柄から手を離した。
震えていた。
目の奥も痛い。
それでも、ヴァルドを見る。
「次に同じ失敗を起こさないためにある」
「同じ意味でしょう」
「人を替えて続けるなら違います」
ヴァルドは答えず、制御室奥の小さな搬送台へ走った。
「逃げる!」
セリアが追う。
搬送台は一人分の鉄籠だった。
ヴァルドが中へ入り、黒い手袋で降下環を回す。
「外周搬送路へ出れば、地下水路へ抜けられる」
ユリウスが言う。
「止められないの?」
「外側に非常止めがある!」
鉄籠が降り始めた。
セリアが手を伸ばす。
届かない。
ヴァルドは格子の向こうから、薄く笑った。
「流れを見るだけでは、流れには追いつけませんよ」
次の瞬間。
鉄籠が大きく揺れ、途中で止まった。
下から、金属を叩く音が三回。
連絡石に、ジノの息を切らした声が入る。
『逃げ道は、先に見るって言っただろ!』
外周を調べていたジノが、搬送路の非常止めを落としたのだ。
『でも、これ長く保たない! 重りが下がってる!』
「十分!」
レイヴンが搬送台の手動巻上げ鎖へ飛びつく。
「セリア、引け!」
二人で鎖を引く。
止まった鉄籠が、少しずつ上がってくる。
ヴァルドが内側から黒い小環を取り出した。
「あれ、起動したら籠ごと落ちる!」
ミラが叫ぶ。
セリアは鎖をレイヴンへ任せ、剣を構えた。
鉄籠が床の高さへ戻る。
黒い小環が光る。
「風切り!」
青い一閃が格子の隙間を抜けた。
ヴァルドの手ではなく、黒い小環だけを弾き飛ばす。
小環が床を転がった。
レイヴンが鉄籠の扉を開き、ヴァルドの腕をねじり上げる。
「止まった荷は回収する主義でね」
「私は荷ではありません」
「奇遇だな。俺たちもそう思ってたところだ」
セリアが剣先をヴァルドの喉元へ向ける。
「動かないで」
ヴァルド・グレイム。
灯り小路を実証区と呼び、人を記録項目として扱った男。
ようやく、その両手へ白環の拘束具がはめられた。
爽快な気持ちになると思っていた。
だが、胸にあるのは安堵と、重い疲れだった。
ヴァルド一人が、すべての流れを作ったわけではない。
人員不足。
止められない規定。
現物を見ない監査。
名前のない作業者。
責任を一人へ集める仕組み。
その隙間へ、ヴァルドは流れ込んだ。
(捕まえたら終わりじゃない。入れる穴を残せば、次の誰かが来る)
「マティアスさんの契約環を外せますか」
俺が聞くと、ミラが腕を調べた。
「今ならできる。供給は止まってる」
「先に治療を」
「あなたもね」
「はい」
今度は反論しなかった。
◇
制御塔の門が再び開いたのは、夜明け前だった。
白環の職員三十八名。
外部搬入助手ニック・ハルバ。
封鎖反転による死者は、ゼロ。
手動環の操作員十六名には、魔力の消耗と腕のしびれが出た。
ユリウスも、指揮環から魔力を吸われて治療を受けている。
規定外の車輪止めを使った二つの手動環には傷がついた。
交換が必要になる。
だが、操作員の腕は残った。
エルドは、その事実を自分の署名で記録した。
「器具の損耗は私の判断によるものだ」
「ジノ様の発案も記録しますか」
白環の記録職員が聞く。
「当然だ」
「え、俺も弁償するの?」
ジノが青ざめる。
「功績としてだ」
「先に言ってよ!」
「それから、搬入助手ニック・ハルバの氏名を入構記録へ追記する」
エルドはニックを見る。
「後からではあるが、ここにいたことを消さない」
ニックは戸惑いながら、深く頭を下げた。
ヴァルドは白環の護送車へ入れられた。
彼は最後まで抵抗しなかった。
ただ、押収した黒い記録板を確認していたミラが、急に俺を呼んだ。
「シュウ、これ」
記録板には、実証区三番の結果が残っている。
灯り小路。
旧王都地下水路。
白環東部封鎖所。
これまでの記録の下に、見慣れない項目があった。
――実証区四番。
――王都西環物流区。
――運用開始済み。
「四番……」
セリアがつぶやく。
「ここを止める前から、次が動いてたの?」
記録板の最下部には、総括責任者の名が刻まれていた。
――オルバス・ノクト。
初めて見る名前だった。
俺たちがヴァルドを追っている間にも、黒い流れは王都へ入っている。
「ヴァルド」
俺は護送車へ向いた。
「オルバス・ノクトは誰ですか」
ヴァルドは格子の奥で、初めて少しだけ楽しそうに笑った。
「私を止めたことは評価します」
「質問に答えてください」
「ですが、私は現場幹部にすぎない」
黒い手袋を外された指で、王都の方角を示す。
「彼は、世界全体を一つの工程として見ている」
東の空が、薄く白み始めていた。
一つの現場は止めた。
止める権限も、中央から八つの区画へ戻した。
だが、王都ではすでに別の現場が動いている。
ヴァルドの先にいたのは、さらに大きな帳簿で人と物を数える男だった。
第40話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、中央制御から切り離した八つの区画へ、実際に止める権限を渡す回でした。
ヴァルドは白環の緊急命令系統を使い、手動環を握る十六人から不足分の魔力を吸い上げていました。
シュウたちは専用固定具六本に加え、搬入台の車輪止め二本を使用して手動環を物理的に固定し、操作員を解放します。
副所長マティアスは、定員四十四名に対して実員三十一名という人員不足と、三年間保留された補充申請の中で、ヴァルドの中央自動制御を受け入れていました。
事情は考慮されますが、偽の監査官を通し、確認不足のまま危険な術式を導入した責任まで消えるわけではありません。
制御室では、ユリウスが三十秒だけ中央の命令を押さえ、その間にミラが停止権限を八区画へ分割しました。
逃走を図ったヴァルドは、外周搬送路の非常止めを先回りしていたジノと、セリア、レイヴンの連携によって拘束されています。
しかし、回収した記録には、王都西環物流区ですでに「実証区四番」が動いていると残されていました。
次回は、ヴァルドの供述と押収記録を照合しながら、黒環会上位幹部オルバス・ノクトと王都へ続く流れを追います。




