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納期遅れで死んだ俺、異世界では魔力の詰まりが見えるらしい 〜最弱Eランクだけど、術式を読み替えて世界の流れを変えていく〜  作者: 好山 雪
第1章 月影の森で目覚める

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第32話 図面にない地下道

第32話 図面にない地下道


アルメリアの地下には、かつて物資を運ぶために造られた旧王都地下水路が残されていました。


街道。


倉庫。


冒険者組合。


ベルシア商会。


これまで黒環会が入り込んだ場所は、地下の古い輸送路によってつながっている可能性があります。


しかし、組合に残された図面は何十年も更新されていません。


閉鎖されたはずの道。


仮修理のまま使われ続ける水門。


現場の担当者しか知らない抜け道。


記録から消えた設備は、存在しなくなったわけではありません。


誰にも管理されなくなっただけでした。


シュウたちは、黒環大循環の中心へ近づくため、図面にない地下道へ足を踏み入れます。



 冒険者組合の地下記録庫には、朝から古い紙の匂いが満ちていた。


 机の上には、アルメリアの地図が何枚も広げられている。


 現在の街路図。


 水路管理図。


 旧王都時代の物資輸送図。


 組合地下の防護術式図。


 どれも同じ街を描いているはずなのに、道の形が少しずつ違っていた。


「この通路、現在の図面にはありません」


 リリア・フォルンが、旧輸送図の一か所を指した。


 冒険者組合の地下から、西へ伸びる太い線。


 その先は旧穀物倉庫を通り、さらに南市へ続いている。


「埋められたんですか?」


 俺が聞くと、リリアは別の記録を確認した。


「封鎖予定とは書かれています」


「予定?」


「封鎖完了の記録はありません」


 嫌な言葉だった。


 予定。


 実施した記録がない。


 確認した人間もいない。


 前の世界でも、よく見た。


 廃止予定の設備。


 撤去予定の治具。


 更新予定の手順書。


 予定だけが何年も残り、現場では古い物が使われ続ける。


「こっちの水門も同じです」


 ミラ・フォルネが、術式図の端を指で叩いた。


「十六年前に使用停止予定。でも、停止処理の記録がない」


「壊れて動かない可能性は?」


 セリア・グランツが聞く。


「それなら、故障記録があるはず」


「記録を忘れたとか」


「それが一番困るのよ」


 ミラは眉を寄せた。


「動くのか、壊れてるのか、途中まで動くのか分からない」


 セルヴィス・アルカードが、広げられた図面を見下ろしていた。


「すべての入口を封鎖します」


 予想どおりの言葉だった。


「黒環会が地下道を使用しているなら、地上から魔力供給を断ち、出入口を白環で閉じるべきです」


「地下水路ですよね」


 俺は図面を見る。


「全部止めたら、水はどうなりますか」


「別の水路へ流れます」


「本当に?」


 セルヴィスの視線がこちらへ向く。


「図面では、そうなっています」


「図面が正しいか分からないって話をしてたところです」


 部屋が少し静かになった。


「使用停止の記録がない水門がある。図面にない通路もある。全部切ったら、どこかで水や魔力が詰まる可能性があります」


「放置すれば、黒環大循環が進みます」


「だから中を確認します」


「危険です」


「分かっています」


「分かっていません」


 セルヴィスの声が、わずかに強くなった。


「地下道は狭く、逃げ場が少ない。黒環会が流れを変えれば、水も魔力も一度に襲ってくる」


「それでも、地上から全部切るよりはましです」


「誰かが入らなければならないと?」


「はい」


「また、あなたが見るつもりですか」


「俺一人では見ません」


 自然に答えられた。


 少し前なら、まず自分が見ると言っていたかもしれない。


「図面はリリアさん。設備はミラ。水と身体の影響はノアさん。商会側の出入口はカレンさん。逃げ道はジノ。障害物はガッシュ。前はセリア」


「シュウは?」


 セリアが聞く。


「全体の流れを整理します」


「魔流視は?」


「必要になるまで使わない」


 セリアが満足そうにうなずいた。


 セルヴィスはしばらく黙っていたが、やがて図面へ視線を戻した。


「白環は地上の入口を監視します」


「一緒に入らないんですか?」


「私も入ります」


 即答だった。


「内部で黒環術式が確認された場合、切断の判断は私が行います」


「勝手に全部切らないでください」


「あなたも勝手に深視を行わないでください」


 互いに見つめ合う。


「……分かりました」


「こちらも承知しました」


 完全に信用し合っているわけではない。


 それでも、以前のセルヴィスなら最初から話し合いにはならなかっただろう。


 エルネスト・ヴァイスが、机の隅に置かれた鐘を鳴らした。


「図面だけじゃ埒が明かねえ。現場を知ってるやつを呼んである」


 しばらくして、記録庫へ一人の老人が入ってきた。


 背は低い。


 白髪は短く刈られ、右足を少し引きずっている。


 古びた革の作業着。


 腰には工具袋。


 もう現場を離れているはずなのに、爪の奥には黒い油が残っていた。


「グレン・ファルクさんです」


 リリアが紹介した。


「旧王都地下水路の保全班で、三十二年間勤務されていました」


「元だ」


 グレンは不機嫌そうに言った。


「今はただの酒飲みだ」


「朝から飲んでませんよね」


 エルネストが聞く。


「呼び出されたから、一杯目を我慢した」


「ありがとうございます」


「礼を言うなら帰りに飲ませろ」


 グレンは机の地図へ近づいた。


 一枚目を見る。


 鼻で笑う。


 二枚目を見る。


 さらに大きく鼻で笑った。


「何がおかしいんですか」


 ミラが聞く。


「図面がきれいすぎる」


「きれい?」


「現場は、こんなにまっすぐじゃねえ」


 グレンは旧輸送図へ太い指を置いた。


「ここ。八番搬入口は二十四年前に崩れた。図面じゃ今も使えることになってる」


 別の場所を指す。


「この水門は逆だ。使用停止と書いてあるが、今も動く」


「どうしてですか?」


「止める予算が出なかった」


 あまりにも現実的な答えだった。


「使わないなら閉じればいいと言われた。閉じるには水を抜いて、壁を補強して、隣の水路へ逃がす工事が要る。それを説明したら、今すぐ困っていないなら来年度にしろと言われた」


「来年度に?」


「二十三年間、来年度だ」


 ガッシュが小さく吹き出した。


「笑い事じゃねえぞ」


 グレンが睨む。


「仮修理も同じだ。三日だけ持たせろと言われて直した水門が、十八年動いてる」


「十八年は仮じゃないだろ」


 ジノ・バレットが言う。


「書類の上では仮だ」


 俺は思わず額へ手を当てたくなった。


 世界が違っても、似たことは起きるらしい。


 応急処置が恒久対策になる。


 担当者しか構造を知らない。


 壊れるまで予算が出ない。


 グレンは別の図面を手に取る。


「黒環大循環だったか。そいつらが地下を使ってるなら、図面に載ってない道を通る」


「どうして分かるんですか」


「載ってる道は、昔から役人が見回っていた」


「載っていない道がある?」


「ある」


 グレンは指で、旧穀物倉庫と組合の間をなぞった。


「保全班が使っていた点検通路だ。正式な輸送路じゃない。水漏れや詰まりを見に行くための道だった」


「図面は?」


「俺の頭の中」


 全員が老人を見る。


「ほかに記録は?」


 リリアが聞いた。


「何度も出した」


「残っていません」


「だろうな。正式設備じゃないから保管対象外だと言われた」


 リリアの表情は変わらない。


 だが、ペンを握る指が少し強くなった。


「案内できますか」


 俺が聞くと、グレンは俺を上から下まで見た。


「お前が、流れを見るっていうEランクか」


「はい」


「地下は、見えたものを全部信じると死ぬぞ」


「どういう意味ですか」


「水は低い方へ流れる。魔力は薄い方へ流れる。人は楽な方へ流れる」


 グレンは自分の工具袋を叩いた。


「だが、地下には扉がある。弁がある。嘘をつくやつもいる。流れが見えても、誰が何のために変えたかまでは見えねえ」


「覚えておきます」


「返事だけは素直だな」


「最近、返事についてよく注意されます」


 セリアが横でうなずいた。


「返事はいいんです」


「お前が見張り役か」


「はい」


「しっかり見とけ。こういう男は、分かった顔をして無理をする」


「よく分かりますね」


「保全班にも何人もいた」


 セリアとグレンが、妙なところで意気投合していた。


     ◇


 旧地下水路への入口は、冒険者組合の地下酒蔵にあった。


 昨日、ジノが見つけた古い樽搬入口とは別の場所。


 壁際の酒棚を動かすと、その裏に錆びた鉄扉が現れた。


 扉には、現在の組合地図にない番号が刻まれている。


 ――点検口、十二の二。


「十二番じゃないんですか」


 リリアが聞く。


「十二番の横に、後から作ったから十二の二だ」


「正式に登録されなかった?」


「申請はした」


「保管対象外ですか」


「よく分かってきたじゃねえか」


 グレンは腰の工具から、細い鉄棒を取り出した。


 鍵穴へ差し込み、何度か角度を変える。


 重い音を立て、扉が開いた。


 冷たい空気が流れ込む。


 湿った石。


 古い油。


 わずかに鉄の匂い。


 階段は、灯りの届かない地下へ続いていた。


「順番を決めます」


 俺は全員を見る。


「先頭はグレンさんとセリア。次にミラ。俺とリリアさん。ノアさん。ジノとガッシュ。最後がセルヴィス」


「私が最後?」


「後ろから入口を閉じられる可能性があります。白環なら止められますか」


「可能です」


「では、お願いします」


 セルヴィスは少し意外そうな顔をした。


 役割を押しつけられたと思ったのかもしれない。


 だが、重要な場所を任せたつもりだった。


「カレンさんは?」


 セリアが聞く。


「ベルシア商会側の入口を確認してもらっています。地下で合流する予定です」


「地下で迷って、別の人と合流しないといいけど」


「やめてください」


 ジノが青い顔をする。


「地下道でそういうこと言うの」


「逃げ道が得意なんでしょ」


「入る前から逃げる話をするなよ」


 ガッシュが言う。


「逃げ道を考えないやつから逃げられなくなるんだよ」


「どっちも静かにしろ」


 グレンの低い声に、二人が口を閉じた。


 老人が持つ魔光灯が、暗い階段を照らす。


「地下じゃ音が先に届く。敵がいるなら、今ので全員に知られたぞ」


 ジノとガッシュが互いを睨んだ。


 それ以降、二人は本当に静かになった。


     ◇


 階段を下りると、細い石造りの通路へ出た。


 右側には水路。


 黒い水が、ゆっくり流れている。


 左の壁には、細い金属の線路が埋め込まれていた。


「荷車用ですか」


 俺が聞く。


「昔は、手押し台車で薬や食料を運んでいた」


 グレンが答える。


「地上の道が混んでいても、地下なら天気に関係なく運べた」


「便利そうなのに、どうして使われなくなったんですか」


「維持費だ」


 一言だった。


「水路は掃除が要る。石壁は補修が要る。魔光灯も交換が要る。使ってる時は便利だと言うが、壊れてない時の保全費用は無駄に見えるらしい」


 グレンは壁の一部へ魔光灯を向けた。


 亀裂。


 その上から塗られた灰色の補修材。


 さらにその上へ、新しい亀裂。


「直した跡が三回あります」


 ミラが言う。


「四回だ」


 グレンが、補修材の下を指す。


「最初の一回は、同じ色で塗ったから見えにくい」


「記録は?」


「二回分しかないはずだ」


 リリアが携帯記録を確認する。


「一回分だけです」


「一回は消えたか」


 グレンの声が少し低くなった。


 事故がなかったから、記録が失われても誰も困らなかった。


 今までは。


 通路の先で、セリアが足を止めた。


「何かある」


 床に、黒い油が落ちている。


 古い油ではない。


 表面がまだ光っていた。


 ミラが指先へ取り、匂いを確かめる。


「台車用の潤滑油。新しい」


「どのくらい?」


「一日か、長くても二日」


 黒環会は、今もこの道を使っている。


 グレンは壁へ耳を当てた。


「何か流れてる」


「水ではなく?」


「車輪だ」


 俺たちも息を止める。


 遠くから、かすかな金属音が聞こえた。


 かたん。


 かたん。


 一定の間隔。


 誰かが台車を動かしている。


「前から?」


 セリアが小声で聞く。


 グレンは首を横に振った。


「壁の向こうだ」


 図面では、壁の向こうに通路はない。


「点検通路ですか」


「いや。俺も知らん」


 初めて、グレンの顔から余裕が消えた。


 ミラが壁へ測定具を当てる。


「魔力が通ってる」


「壁の中に?」


「向こう側に別の空間がある」


 俺は壁を見る。


 積まれた石の一部だけ、わずかに色が違う。


 目地も新しい。


「後から塞いだ?」


「違う」


 グレンが言う。


「こっち側から見ると塞いだ壁だが、向こう側から開けられるように作ってある」


「隠し扉?」


「たぶんな」


 グレンは壁の下を調べる。


 古い排水穴。


 その奥に、小さな鉄のレバーがあった。


「触らないで」


 ミラが止める。


「黒い術式がついてる」


 レバーの根元に、細い黒線が巻きついている。


 セルヴィスが前へ出た。


「切ります」


「待ってください」


「明確な黒環術式です」


「レバーと何につながっているか分からない」


「残せば罠になります」


「切って扉が開かなくなったら、中を確認できない」


「それが安全です」


「向こうに人がいたら?」


 セルヴィスの動きが止まる。


 ジノが、壁へ耳を当てた。


「車輪だけじゃない」


「何が聞こえる?」


「咳」


 全員が黙った。


「一人じゃない。何人かいる」


 壁の向こうに、人がいる。


 黒環会の構成員か。


 働かされている者か。


 消えた荷運び人か。


「切断は保留します」


 セルヴィスが言った。


 以前なら、迷わず切っていただろう。


「ただし、開く前に退路を確保します」


「ありがとうございます」


「礼を言う場面ではありません」


 それでも、少し変わっている。


「ジノ。戻る道を確認して」


「来た道だけじゃ足りない?」


「扉を開けた瞬間、水が流れる可能性があります」


「分かった」


 ジノは後方へ戻り、途中にあった横穴を確認する。


 ガッシュは、通路に置かれていた古い台車を動かした。


「水が来たら、これで塞ぐのか?」


「完全には止まらない」


 グレンが言う。


「流れを横へ逃がす。台車を斜めに置け」


「斜め?」


「正面から受けたら、押し流される」


 ガッシュは少し考え、台車の向きを変えた。


「守り払いと同じだな」


 セリアが言う。


「何が?」


「真正面から止めない。横へ流す」


「剣と台車を一緒にすんな」


「考え方は同じ」


「……まあ、そうか」


 ガッシュは少し納得した顔をした。


 ノアは、口元を覆う布と治療道具を準備する。


 リリアは時刻と場所を記録。


 ミラは黒い術式の入口を探す。


「レバーの術式は、扉を開けた人を識別するためのもの」


「攻撃は?」


「今のところない。でも、開けたことはどこかへ伝わる」


「知らせずに開けられますか」


「時間をかければ」


 遠くの車輪音が、少しずつ小さくなっていく。


「待てない」


 セリアが言った。


「向こうの台車が離れる」


 俺は考える。


 開ければ、こちらの存在が知られる。


 慎重に解除すれば、追跡対象を見失う。


 ヴァルドなら、迷わずどちらかを切り捨てるだろう。


 情報か。


 安全か。


「知らせたまま開けましょう」


 俺は言った。


「いいの?」


「相手は、俺たちが地下道を見つけたことをもう知っている可能性が高い」


 組合。


 ベルシア商会。


 旧地下水路の地図を送ってきた黒い記録石。


 こちらが来ることまで、想定されているかもしれない。


「隠れているつもりで動くより、知らせたうえで記録を取る」


「罠だったら?」


「罠が動く場所を絞れます」


 ミラが考え、うなずいた。


「開いた瞬間の魔力を記録できる。接続先も少しなら追える」


「深く見なくていい?」


 セリアが聞く。


「ミラの測定具で先に見ます」


「よろしい」


 許可をもらった。


 誰が責任者なのか、分からなくなってきた。


「開けるぞ」


 グレンがレバーへ手をかける。


「三つ数える」


 全員が構える。


「一」


 セリアが剣を抜く。


「二」


 ガッシュが台車を押さえる。


「三」


 グレンがレバーを下げた。


 黒い線が一瞬だけ光る。


 ミラの測定具が高い音を鳴らした。


 石壁が、低い音を立てて横へ動く。


 冷たい風。


 油。


 汗。


 そして、薬品の匂い。


 壁の向こうには、広い地下通路があった。


 線路が二本。


 魔光灯。


 新しい木箱。


 長机。


 そこでは、十人以上の人間が作業をしていた。


 痩せた男。


 年老いた女。


 若い荷運び人。


 全員の首には、細い黒い輪が巻かれている。


 セリアの剣先が下がる。


「捕まってる……?」


 作業員たちも、突然開いた壁を見て動きを止めた。


 その中に、一人だけ見覚えのある男がいた。


「ハイン!」


 ジノが叫ぶ。


 蒼い流れへ潜り込んだ荷運び人。


 ベルクとソマを地下記録庫へ閉じ込め、組合の記録を外へ送ろうとした男。


 ハインは、台車の横で黒い箱を抱えていた。


 逃げるかと思った。


 だが、彼は動かなかった。


 顔には青い痣。


 首の黒い輪は、ほかの作業員より太い。


「来るな」


 ハインが言った。


「誰にやられた」


 ジノが一歩進む。


「来るな!」


 ハインの声が裏返る。


 首の輪が黒く光った。


 周囲の作業員たちも苦しそうに首を押さえる。


「全員の輪がつながってる!」


 ミラが叫ぶ。


「一人が逆らえば、ほかの人にも流れる!」


 セルヴィスが白い術式を構える。


「まとめて切断します」


「駄目!」


 ハインが叫んだ。


「切れば、奥の水門が開く!」


「何?」


 その瞬間。


 通路の奥で、重い金属音が響いた。


 ごん。


 一度。


 続いて、床の下から水が流れる音。


「水門が動いた」


 グレンの顔色が変わる。


「どの水門ですか」


「ここは、図面にない」


 老人が奥を見る。


「だが、この水量は普通じゃねえ」


 通路の端にある細い排水溝から、水があふれ始める。


 最初は指一本ほど。


 すぐに足首まで増えた。


「戻れ!」


 セルヴィスが叫ぶ。


「全員を置いていけません!」


 ノアが作業員へ走ろうとする。


 セリアが腕を掴む。


「待って! 輪がある!」


「でも、水が!」


 ハインは抱えていた黒い箱を床へ置いた。


「中央分配室へ行け」


「どこですか!」


 俺が聞く。


「この線路を奥へ。三つ目の分岐を左」


「一緒に来い!」


 ジノが叫ぶ。


 ハインは首を横に振った。


「俺が動けば、こいつらに流れる」


「だったら、輪を外してから――」


「時間がない!」


 水位が、ふくらはぎまで上がる。


 黒い箱が浮き始めた。


 ハインは箱を蹴り、こちらへ滑らせる。


 リリアが受け止めた。


「何が入っていますか」


「分配記録」


「黒環大循環の?」


「ああ」


 ハインの顔が歪む。


「俺は金をもらって組合へ入った。ベルクとソマも閉じ込めた。言い訳はしない」


 ジノが唇を噛む。


「でも、こんなことになるとは思わなかったって?」


「……そうだ」


「それで済むと思うか」


「思ってない」


 ハインはまっすぐジノを見た。


「だから、これを持っていけ」


 作業員の一人が倒れた。


 ノアが身体を動かしかける。


 黒い輪が光り、別の作業員が苦しそうにうめく。


「動かせない」


 ミラが歯を食いしばる。


「輪を解除するか、水を止めないと」


「両方は?」


「今ここでは無理!」


 水。


 黒い輪。


 分配記録。


 中央分配室。


 どれを先にする。


 人を助けるなら、輪を外す。


 全員を救うなら、水を止める。


 記録を持ち出すなら、今すぐ戻る。


 選択肢が多いようで、どれも時間が足りない。


「役割を分けます」


 俺は言った。


「セルヴィスとミラは輪を確認。ノアは倒れた人を、その場で診てください。セリアとガッシュは水の流れを横へ逃がす。リリアさんは記録を守る」


「シュウは?」


「グレンさんと中央分配室へ行きます」


「駄目」


 セリアが即答した。


「水を止められる場所がそこにある」


「一人で行くつもり?」


「グレンさんがいます」


「戦えない二人で?」


「俺はまだ五十八だ」


 グレンが不機嫌そうに言う。


「戦えるとは言ってねえが、年寄り扱いするな」


「そういう問題じゃありません!」


 水位が膝へ近づく。


 議論している時間はない。


「私も行く」


 セリアが言った。


「ここは?」


「ガッシュなら台車を使える。セルヴィスもいる」


「でも――」


「一人で向き合わないでって、言ったよね」


 セリアの目が、まっすぐ俺を見る。


「一緒に行こう」


 以前、俺が言うべきだった言葉を、彼女に言われた。


「分かりました」


 うなずく。


「一緒に行きましょう」


 セリアが少しだけ笑った。


 すぐに表情を引き締める。


「ジノは?」


 俺が聞くと、ジノはハインと作業員たちを見ていた。


「ここに残る」


「いいのか」


「逃げ道を作る」


 声は震えていた。


「ハインを許したわけじゃない。でも、こいつらを置いて逃げたら、俺も同じになる」


 ハインが目を伏せる。


 ガッシュがジノの肩を叩いた。


「俺も残る」


「水を押さえるんだろ」


「だから残るんだよ」


 いつもの言い争いはなかった。


 俺たちは役割を確認する。


 中央分配室へ向かうのは、俺、セリア、グレン。


 残る者たちは、黒い輪の解除と作業員の救助。


 もし水位が腰を越えたら、全員撤退。


 誰か一人の判断ではない。


 戻る条件も、先に決める。


「行くぞ」


 グレンが線路沿いを進み始める。


 俺とセリアが続く。


「三つ目の分岐を左!」


 背後から、ハインの声がした。


「ただし、二つ目の分岐に気をつけろ!」


「何がありますか!」


「図面にはない落とし穴だ!」


 グレンが舌打ちする。


「何でも図面にねえな、この地下は」


 俺たちは水をかき分けながら、暗い通路を走った。


     ◇


 一つ目の分岐。


 右は水路。


 左は崩落。


 二つ目の分岐。


 床の一部に新しい石板が敷かれている。


「止まれ!」


 グレンが鉄棒を投げた。


 石板へ落ちた瞬間、床が開く。


 下には黒い水が渦巻いていた。


「本当に落とし穴……」


 セリアが顔をしかめる。


「これ、運搬路に必要ですか」


「必要なわけあるか」


 グレンは壁の細い縁を指す。


「横を通る」


 人一人が足を置けるほどの幅しかない。


 下では水が流れている。


 セリアが先に進んだ。


 壁へ手をつき、一歩ずつ移動する。


 途中で振り返り、俺へ手を伸ばした。


「つかまって」


「大丈夫です」


「いいから」


 差し出された手を取る。


 温かい。


 地下水の冷たさの中で、その温度だけがはっきりと分かった。


「下を見ないで」


「言われると見たくなる」


「子どもみたいなこと言わない」


 グレンが後ろからぼそっと言う。


「いちゃつくなら地上でやれ」


「いちゃついてません!」


 セリアの声が裏返る。


 手は離されなかった。


 どうにか向こう側へ渡る。


 三つ目の分岐を左。


 その先には、大きな鉄の扉があった。


 扉には、三つの輪。


 黒。


 白。


 そして、色を失った灰色の輪。


「中央分配室」


 グレンが扉の文字を読む。


「こんな設備、聞いたことがねえ」


「旧王都時代の物では?」


「外側は古い。だが、この輪は新しい」


 セリアが黒い輪を睨む。


「黒環会が追加した?」


「白い輪もあります」


 白環の術式。


 黒環と白環。


 二つが同じ扉に刻まれている。


「白環が、ここを知っていた?」


 俺の胸に、新しい疑問が生まれる。


 セルヴィスは知らないようだった。


 では、別の白環の者が関わっているのか。


 グレンが扉の下へ魔光灯を向ける。


「水が向こうから来てる」


 隙間から、強い水流が噴き出していた。


「開けたら押し流されるぞ」


「開けずに止められますか」


「無理だ」


「やっぱり、見るしかない?」


 セリアが俺を見る。


 目の奥には、まだ鈍い痛みがある。


 ここへ来るまで、魔流視は使っていない。


 対象を扉の入口だけに絞れば、短時間で済むかもしれない。


「三つの輪の接続だけ見ます」


「深く見ない」


「はい」


「私が止めたら、途中でもやめる」


「はい」


 グレンが俺たちを見る。


「本当に見張られてるんだな」


「必要なんです」


 セリアが答えた。


 俺は息を細く吐く。


 扉。


 三つの輪。


 その入口と出口だけ。


 視界の焦点を、奥へずらす。


(流れを見ろ)


 色が薄れる。


 黒い輪。


 地下全体から、魔力と情報を集めている。


 白い輪。


 何かが一定量を超えた時、流れを切断するために置かれている。


 そして灰色の輪。


 どちらにもつながっていない。


 いや。


 つながりが切られている。


 本来、扉を開閉するための管理術式。


 黒環と白環が、その上から別々の機能を追加している。


「灰色の輪が元の操作部です!」


 俺はすぐに視界を戻した。


「黒と白は後からつけられてる!」


「灰色を動かせば、水を止められるか?」


 グレンが聞く。


「分かりません。でも、扉の開閉と分配を操作する部分です」


 グレンが灰色の輪を調べる。


 中央に、小さな穴。


 彼は工具袋から何本もの鍵を出した。


 一つ目。


 入らない。


 二つ目。


 回らない。


 三つ目。


 途中まで入る。


「これだ」


「鍵を持っていたんですか」


「保全班の共通鍵だ。古い設備ほど、同じ鍵で何でも開く」


「安全上、どうなんですか」


「昔の役人に言え」


 グレンが鍵を回す。


 灰色の輪が、かすかに光った。


 だが途中で止まる。


「固い」


「一緒に回しますか」


「力だけかけたら折れる」


 グレンは耳を扉へつける。


「中の圧が高すぎる。先に逃がさねえと動かん」


「逃がす場所は?」


「だから図面が要るんだ」


 図面はない。


 俺は周囲を見る。


 扉の左右。


 床。


 壁。


 古い設備には、整備するための場所がある。


 完全に閉じたままでは、圧力を抜けない。


「点検用の小弁があるはずです」


「どこに?」


「人が触れる場所」


 扉の正面では危険すぎる。


 下は水。


 上。


 魔光灯を向ける。


 扉の右上に、小さな丸い蓋があった。


「セリア、届きますか」


「やってみる」


 セリアが壁の出っ張りへ足をかける。


 剣の鞘を丸い蓋へ当てた。


「回す?」


「左へ少しだけ」


 グレンが指示する。


 セリアが力をかける。


 動かない。


「固い!」


「押すんじゃねえ。少し戻してから回せ」


「戻す?」


「固着してる時は、一度逆へ動かすんだ」


 セリアが右へわずかに押す。


 金属が小さく鳴った。


 そのあと、左へ。


 蓋が回る。


「開いた!」


 細い水が、壁際の溝へ流れ始めた。


 扉の向こうの圧力が少しずつ下がる。


「今だ」


 グレンが鍵を回す。


 灰色の輪が動いた。


 黒と白の輪が同時に光る。


 警告するような音が響く。


 扉が、ゆっくり内側へ開いた。


     ◇


 中央分配室は、地下に造られた巨大な円形空間だった。


 壁には、アルメリア各地の名が刻まれている。


 北区。


 南市。


 灯り小路。


 東門。


 西門。


 冒険者組合。


 ベルシア商会。


 そのほかにも、治療院、工房、倉庫、井戸。


 街のあらゆる場所から伸びる管と術式線が、中央へ集まっていた。


 中心には、巨大な黒い環。


 まだ完成していない。


 環の一部が欠けている。


 だが、すでにゆっくり回転していた。


「これが、黒環大循環……」


 セリアがつぶやく。


 環の下には、いくつもの台車が並んでいる。


 薬。


 魔石。


 食料。


 記録石。


 人の名簿。


 黒環会が街から集めてきたものだ。


 物だけではない。


 情報まで、同じ場所へ集めている。


 壁の一部には、白い術式が食い込んでいた。


 黒い流れが一定量を超えると、外側の地区ごと切断するように組まれている。


「白環は、これを止めようとしていた?」


 セリアが言う。


「違う」


 俺は白い線を見る。


「止めるんじゃない」


「何?」


「黒環大循環が完成した時、接続された地区をまとめて切るための術式です」


 黒い環が街をつなぐ。


 白い術式が、つながった地区ごと切断する。


 支配か。


 切り捨てか。


 二つの組織が、同じ設備の上で街を奪い合っている。


「セルヴィスは知っているのか」


 グレンが聞く。


「分かりません」


 少なくとも、彼の反応は本物に見えた。


 白環の中にも、別の流れがある。


 強硬派。


 さらに、その上。


 黒環会だけを追えば終わると思っていた。


 だが、敵は一つではない。


 その時。


 中央の黒い環が大きく動いた。


 低い音。


 壁の文字が、一つずつ黒く光り始める。


 北区。


 西門。


 東門。


 冒険者組合。


 ベルシア商会。


 そして。


 治療院。


「何が起きてる?」


 セリアが剣を構える。


 黒い環の中央に、数字が浮かび上がった。


 十二。


 十一。


 十。


「数えてる」


「何まで?」


 九。


 八。


 俺は分配台の記録を見る。


 治療用魔石。


 治療院の魔力供給。


 地下水路の補助魔力。


 それらが一つの線で結ばれている。


「治療院です」


「何が?」


「治療院の魔力を、ここへ引き込もうとしてる!」


 七。


 六。


 今、治療を受けている人たちがいる。


 リク。


 ボルン。


 エッダ。


 ほかにも多くの患者。


「止められるか!」


 グレンが中央の操作盤へ走る。


「元の分配機能を探す!」


 俺は黒い環を見る。


 魔流視を使えば、入口が分かるかもしれない。


 だが、さっき短く使ったばかりだ。


 目の奥に痛みが戻っている。


 五。


「シュウ」


 セリアが俺の前に立つ。


「見るつもり?」


「ほかに方法が――」


「私たちは何のために一緒に来たの」


 四。


 グレンが操作盤を叩く。


「治療院の線が見つからん!」


 セリアは中央の黒い環を見た。


「シュウが入口を言う。私が切る」


「黒い環の中へ入ることになります」


「一人でやるよりいい」


 三。


「深く見たら、止めます」


「分かりました」


 二。


 俺は息を吐く。


 視界の焦点を、黒い環の中心へ。


(流れを見ろ)


 無数の線が見えた。


 治療院。


 細い青い線。


 その入口が、環の下にある一枚の黒い板へ集まっている。


「環の下! 左から三枚目の板!」


 一。


 セリアが走る。


 黒い環の回転の間へ身体を滑り込ませる。


 足。


 腰。


 肩。


 剣。


 青い魔力が、一つの流れになる。


「月閃!」


 青い刃が黒い板を断つ。


 環の回転が止まった。


 数字が消える。


 部屋が暗くなる。


 俺は魔流視を切った。


 膝から力が抜ける。


「シュウ!」


 セリアが駆け戻る。


 身体を支えられ、どうにか床へ倒れずに済んだ。


「短くって言ったでしょ」


「短かったです」


「倒れかけた」


「倒れてません」


「その言い訳、もう聞き飽きた」


 怒っている。


 でも、支える腕は優しかった。


 グレンが操作盤を見る。


「治療院への流れは戻った」


「本当に?」


「ああ。少なくとも、今はな」


 安堵しかけた時。


 暗くなった中央の黒い環から、人の声がした。


 年老いた男の声。


 ベルシア商会の記録石から聞こえた声と同じだった。


「見事です、シュウ・サエキ」


 黒い環の中心に、男の姿が映る。


 黒い礼服。


 長い白髪。


 痩せた顔。


 その背後には、黒い環が幾重にも重なっていた。


「私はオルバス・ノクト」


 男は静かに名乗った。


「黒環大循環の設計者です」


 ヴァルドよりも上。


 黒環会の中心にいる人物。


 オルバスは、俺たちを見て微笑んだ。


「あなたは今日、治療院を救った」


「そのために仕掛けたんですか」


「仕掛けではありません。選別です」


「何を選んだ」


「あなたが何を守り、何を捨てる人間なのか」


 胸の奥が冷える。


「私は何も捨てていません」


「今は、そう見えるでしょう」


 オルバスの背後に、アルメリアの地図が浮かぶ。


 黒い線は、街の外へも伸びていた。


 周辺の村。


 採掘町。


 街道。


 さらに遠く。


「一つの治療院を救うために、あなたは中央分配室へ入りました」


「それが何です」


「その扉を開いたことで、最後の接続確認が完了した」


 グレンが操作盤を見る。


 顔色が変わる。


「何だ、これは……」


 中央の環は止まっている。


 だが、床の下。


 もっと深い場所で、別の巨大な何かが動き始めていた。


 ごうん。


 地面が揺れる。


 壁に刻まれた街の名が、再び光る。


 今度は黒ではない。


 青白い光。


 俺たちが止めたはずの治療院の線も、別の場所へつながっていく。


「黒環大循環は、一つの環ではありません」


 オルバスが言う。


「この街そのものが、一つの部品です」


 アルメリアの外へ伸びる線。


 その先にも街。


 村。


 工房。


 鉱山。


 黒環会が作ろうとしているのは、アルメリアだけを支配する流れではない。


 もっと大きい。


 国全体。


 いや、その先まで。


「ヴァルドには街の流れを整えさせました」


 オルバスは続ける。


「あなたには、詰まりを取り除かせた」


 今まで俺たちが直してきた場所が浮かぶ。


 灯り小路。


 雨樋倉庫。


 灰鷲両替所。


 南市臨時工房。


 月鐘会館。


 蒼い流れ。


「まさか……」


 俺の声がかすれる。


「俺たちが直した流れを利用した?」


「壊れた流れは、循環へ組み込めません」


 オルバスは穏やかに微笑む。


「あなたは優秀な保全担当者です、シュウ・サエキ」


 身体の内側が冷たくなる。


 黒環会の妨害を止めた。


 人を救った。


 流れをつなぎ直した。


 それがすべて、黒環大循環を完成させるために利用されていた可能性がある。


「違う」


 セリアが言った。


 俺の肩を支えたまま、映像の男を睨む。


「シュウが直したのは、あなたのためじゃない」


「目的は重要ではありません。結果として流れは整った」


「結果だけで、人のやったことを自分の物にしないで」


 オルバスの笑みが、ほんのわずかに薄くなる。


 セリアは剣を向けた。


「シュウがつないだのは、人と人だよ。あなたの輪じゃない」


 オルバスはしばらく彼女を見た。


「なるほど」


 楽しそうに目を細める。


「それが、彼を止める環ですか」


 映像が揺れる。


「次は王都でお会いしましょう」


「待て!」


 俺が声を上げる。


 だが、男の姿は薄れていく。


「アルメリアでの実証は、完了しました」


 最後の言葉が、円形室へ響いた。


 黒い環から光が消える。


 床の揺れも止まった。


 静けさが戻る。


 しかし、壁に映った一本の線だけが残っていた。


 アルメリアから北へ。


 王都へ向かう線。


 黒環大循環の次の接続先。


 俺はその線を見つめる。


 今までの戦いは、すべてアルメリアの中だった。


 だが黒い流れは、すでに街の外へ進んでいる。


「利用されたと思ってる?」


 セリアが聞いた。


 正直に言えば、少し。


 いや、かなり。


 自分たちが直したものが、敵の役に立った。


 そう考えると、足元が崩れるような感覚がした。


「思っています」


「じゃあ、地上に戻ったら皆に話そう」


「皆に?」


「一人で考えたら、絶対に自分のせいにするから」


 言い返せない。


「利用された部分があるなら、利用できない形へ変えればいい」


「簡単に言いますね」


「簡単じゃないよ」


 セリアは俺の腕を、自分の肩へ回した。


「だから皆でやるんでしょ」


 中央分配室の壁。


 黒と白の術式。


 その間に残った灰色の古い管理環。


 どちらの組織にも属していない、本来の流れ。


 俺たちはまだ、黒環大循環を止めていない。


 白環が街を切り離そうとする理由も、すべては分かっていない。


 地下に残した仲間たちも、今なお黒い輪と水に向き合っている。


「戻りましょう」


 俺は立ち上がる。


 少しふらつく。


 セリアの肩を借りたまま、一歩進む。


「ハインたちを助ける」


「うん」


「分配記録を確認する」


「うん」


「セルヴィスに、白い術式のことを聞く」


「うん」


「それから――」


 壁に残る王都への線を見る。


「俺たちがつないだ流れを、黒環会の部品にはさせない」


 グレンが工具袋を持ち直した。


「話が長え。水門は止めたが、地下の水は待ってくれねえぞ」


「すみません」


「謝るなら歩け」


 老人が先へ進む。


 その背中を追い、俺たちも中央分配室を出た。


 図面にない地下道。


 記録から消えた設備。


 仮修理のまま残された水門。


 誰も管理しなくなった流れ。


 そのすべてを、黒環会は拾い集めていた。


 けれど。


 使われたからといって、これまで救った人が消えるわけではない。


 リクの命。


 エッダの灯り。


 ジノの母へ届いた魔石。


 戻ってきた御者。


 救出された職人たち。


 それは黒環会の成果ではない。


 俺たちが守った人たちだ。


 そのつながりまで、黒い輪へ渡すつもりはなかった。


 地下通路の向こうから、ジノの声が聞こえる。


「シュウ! 早く来てくれ!」


 切迫した声だった。


「輪が外れ始めた! でも、ハインのやつだけ止まらない!」


 俺たちは水を蹴り、仲間たちのもとへ走った。


 アルメリアでの実証は完了した。


 オルバスはそう言った。


 だが、こちらはまだ終わっていない。


 黒環大循環の最初の環を、ここで必ずほどく。

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