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納期遅れで死んだ俺、異世界では魔力の詰まりが見えるらしい 〜最弱Eランクだけど、術式を読み替えて世界の流れを変えていく〜  作者: 好山 雪
第1章 月影の森で目覚める

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第3話 Eランク、組合に立つ

 扉を開けた瞬間、空気が変わった。


 アルメリアの大通りにあった朝の匂いとは違う。

 革と鉄。汗と薬草。乾いた紙。

 それから、獣の皮や魔石が混ざったような、少しだけ鼻に残る匂い。


 ソユーズ・アヴァントゥリースト、アルメリア支部。


 そこは、シュウが想像していたよりもずっと騒がしかった。


 正面には受付カウンター。

 右手には、依頼票らしき紙が何枚も貼られた掲示板。

 左手には丸テーブルが並び、革鎧を着た男たちが朝から大声で話している。


 奥の窓口では、牙や爪、革袋に詰められた薬草らしきものを職員が確認していた。


 剣を背負った若者。

 杖を持つ女。

 長い耳のレスニク。

 獣の耳を持つズヴェーリ。

 小柄だが肩幅の広いグノーム。


 街の人々よりも、こちらの方が少し荒っぽい。


(ここが、この世界で仕事を受ける場所か)


 シュウは思わず周囲を見渡した。


 受付へ向かう者。

 依頼掲示板の前で腕を組む者。

 素材買取窓口で順番を待つ者。

 テーブルで地図を広げ、何かを相談している者。


 それぞれが違う目的で動いている。


 だが、その動きはばらばらなようで、どこか一つの流れを作っていた。


 依頼が貼られる。

 誰かが受ける。

 魔物や素材が持ち込まれる。

 報酬が支払われる。

 素材がまた別の場所へ流れていく。


(見ようとしすぎるな。今は登録が先だ)


 シュウは意識して視線を戻した。


 考え始めると止まらなくなる。

 それは前の世界でも悪い癖だった。


「ほら、シュウ。こっち」


 セリアが少し振り返り、手招きした。


 その動きが自然だったせいで、シュウは一瞬だけ足を止める。


(……近いな)


 森の中で助けられた時からそうだったが、セリアは距離感が近い。

 悪気はない。

 むしろ、こちらを気にかけてくれているのだと分かる。


 分かるのだが。


「どうしたの?」


「いや、何でもない」


(何でもない。そういうことにしておこう)


 シュウはごまかすように咳払いをして、セリアの後を追った。


 受付は三つあったが、右端の窓口だけ少し人が多い。


 そこに座っていたのは、淡い栗色の髪を後ろでまとめた若い女性だった。

 白いブラウスに深緑のベスト。胸元には、剣と翼を組み合わせた小さな徽章。


 彼女は前のアヴァントゥリーストの話を聞きながら、手元の紙に何かを書き、横の職員へ短く指示を出していた。


 声を荒げているわけではない。

 動きが特別速いわけでもない。


 けれど、無駄が少ない。


(仕事ができる人の動きだ)


 シュウはすぐにそう感じた。


「リリアさん」


 セリアが声をかけると、受付の女性が顔を上げた。


「おかえりなさい、セリアさん。薬草採取の依頼でしたね」


 穏やかな声だった。


 だが、その目はセリアの表情、服の汚れ、腰の革袋、そして後ろにいるシュウを順番に確認していた。


 柔らかいが、よく見ている。


 シュウは少し背筋を伸ばした。


「はい。ただ、その……少し報告があります」


 セリアの声がわずかに硬くなる。


 リリアと呼ばれた女性は、そこで表情を変えた。


「通常報告ではなさそうですね。大丈夫です。順番に伺います」


 お姉さまのような落ち着いた声。

 だが、その声には自然と場を整える力があった。


「月影の森で、未登録者を保護しました。それと……月影狼が出ました」


 周囲の空気が、わずかに止まった。


 近くで依頼票を見ていた男がこちらを見る。

 素材窓口に並んでいたグノームも、耳だけをこちらへ向けた。


 リリアは一拍置いて、静かに言った。


月影狼ルーナ・ヴォルクですか。場所は?」


「森の浅い場所です。アルメリア側にかなり寄っていました」


「……浅い場所に」


 リリアの眉がほんの少し動いた。


 それだけで、その異常さが伝わってくる。


「討伐は?」


「しました。これが黒角と魔石です」


 セリアが革袋から布包みを取り出す。


 カウンターに置かれた黒角と月影魔石を見て、リリアの目が少し細くなった。


「素材鑑定を呼びますね」


 彼女が横に声をかけると、奥から中年の男が出てきた。


 短く刈った髪。

 片眼鏡のような小さな鑑定具。

 腰には小さな工具袋。


 男は黒角を手に取るなり、軽い調子で言った。


「月影狼か。朝から物騒だな……ん?」


 その声が途中で止まった。


 片眼鏡を下ろし、角の切断面を覗き込む。


「おい、セリア。これ、本当にお前が取ったのか?」


「はい。私が取りました」


「にしては、妙に状態がいいな」


 男は角を回しながら見た。


「魔力が抜けきっていない。根元の流れを潰さずに外してある。新人の解体師じゃまず無理だぞ」


 セリアは少し困ったようにシュウを見た。


(そこで俺を見るのか)


 見ないでほしかった。


 だが、もう遅い。


 素材鑑定担当の視線が、今度はシュウへ向いた。


「そっちの男は?」


「森で保護した人です。名前はシュウ。黒角と魔石の位置を教えてくれました」


「教えた?」


 男の目がさらに鋭くなる。


「見えていたのか?」


 シュウは一瞬だけ迷った。


 ここでごまかせる気はしない。

 しかし、全部を話していいかどうかも分からない。


 セリアが小さく言った。


「大丈夫。リリアさんは怖いけど、ちゃんと話は聞いてくれるから」


「怖い、は余計です」


 リリアが微笑んだ。


 微笑んでいる。

 だが、セリアの肩がぴくりと動いた。


「す、すみません」


「よろしいです」


(……確かに怖い)


 シュウは内心で納得した。


 その一言で、腹を決める。


「はっきり説明はできません。ただ、魔力の流れのようなものが見えました」


 周囲が再びざわついた。


「魔力の流れ?」


「鑑定魔法か?」


「いや、発動の気配はなかったぞ」


「おいおい、Eランクにもなってねえ奴が月影狼だって?」


 少し離れたテーブルから、荒っぽい声が飛んだ。


 見ると、革鎧を着た若い男が椅子にもたれ、にやにやと笑っている。

 いかにも絡んできそうな雰囲気だった。


「夢でも見たんじゃねえのか、新入り」


 周囲の何人かが笑う。


 胸の奥が、少しだけざらついた。


(言い返したいな)


 そう思った。

 だが、今の自分には何もない。


 腕力もない。

 実績もない。

 この世界の常識もない。


 ここで怒っても、ただ場を悪くするだけだ。


(我慢しろ。今は、登録が先だ)


 シュウはそう自分に言い聞かせた。


 その時、リリアがゆっくりと男の方へ顔を向けた。


「ガッシュさん」


「あ?」


「未確認の報告に横から私見を挟むのは自由です。ただし、その場合は後ほど、あなたにも証言者として記録に残っていただきます」


「いや、俺は別に……」


「それとも、正式な討伐報告の妨害として扱いましょうか?」


 声は柔らかい。

 だが、温度がない。


 ガッシュと呼ばれた男は口を閉じた。


 セリアが小声で言う。


「ほら、怖いでしょ」


「うん」


 シュウも小声で返した。


 リリアはこちらに視線を戻す。


「……この件は、ここで広げる話ではありません。セリアさん、シュウさん、奥へどうぞ」


 その声で、周囲のざわめきが引いていく。


(場を静かに制圧するタイプか)


 シュウはセリアと顔を見合わせ、リリアの後について受付奥の扉をくぐった。


     ◇


 案内されたのは、小さな確認室だった。


 机と椅子が四つ。

 壁にはアルメリア周辺の地図。

 棚には帳簿や木札が並んでいる。


 リリアは扉を閉めると、セリアとシュウに椅子を勧めた。


「まず確認します。セリアさん、月影狼との遭遇状況を簡潔にお願いします」


「はい」


「大丈夫です。慌てなくて結構です。事実だけ、順番に」


 リリアの声は落ち着いていた。


 セリアは背筋を伸ばし、森での出来事を話し始めた。


 薬草採取の帰りに、森の浅い場所で異変を感じたこと。

 倒れていたシュウを見つけたこと。

 そこへ月影狼が現れたこと。

 自分一人では危なかったこと。

 シュウが攻撃の起点を言い当てたこと。


 リリアは途中で口を挟まない。


 ただ、必要な言葉だけを紙に書いていく。


 その姿を見て、シュウは少しだけ安心した。


(感情で判断しない人だ)


 もちろん、安心しきれる状況ではない。

 だが、少なくとも目の前の人は、騒ぎ立てる前に事実を整理しようとしている。


「次に、シュウさん」


 リリアの視線がこちらへ向いた。


 真正面から見られると、少し緊張する。


 セリアの明るい視線とは違う。

 リリアの目は、やさしいようでいて、逃げ道を残さない。


(これ、取り調べではないよな)


 そう思いながらも、シュウは姿勢を正した。


「あなたは、月影の森で倒れていたとのことですが、それ以前の記憶はありますか?」


 来ると思っていた質問だった。


 しかし、答えは難しい。


「あります。ただ、この世界のものではないと思います」


 セリアが息をのむ気配がした。


 リリアのペンも、そこでわずかに止まる。


「この世界ではない、とは?」


「俺は……日本という場所で働いていました。製造業の会社で、生産管理をしていました。深夜、仕事中に倒れて、次に目を覚ましたら月影の森にいました」


 言ってから、自分でも無茶な説明だと思った。


 だが、嘘をついても仕方がない。

 この世界の地名を適当に言ったところで、すぐにぼろが出る。


「ニ・ホ・ン……」


 リリアは聞き慣れない音を確かめるように、ゆっくりと口にした。


 その響きは、この部屋の空気から少しだけ浮いて聞こえた。


「はい。俺がいた国の名前です」


「エルディア大陸の国名ではありませんね。少なくとも、私の知識にはありません」


「だと思います」


「海の向こう、という話でもなさそうですね」


「たぶん、そういう距離の話ではないと思います」


 リリアはペン先を止め、ほんの少しだけ目を細めた。


「……分かりました。今は、そのまま記録します」


 そう言ってから、彼女はもう一度シュウを見た。


「それと、先ほどおっしゃった生産管理、という言葉ですが」


「はい」


「セイ・サン・カン・リ……。これも、こちらではあまり聞きません。商会の帳簿係や工房長の仕事に近いものでしょうか?」


 リリアは音を区切るように確認した。


 その言い方に、シュウは少しだけ異世界へ来た実感を覚えた。


 日本も、会社も、生産管理も。

 自分には当たり前だった言葉が、この世界ではそのままでは通じない。


「近いと思います。物を作る流れを見て、遅れそうなところや止まりそうなところを調整する仕事です」


「流れを調整する仕事……」


 リリアは小さく呟いた。


 その言葉に、何か引っかかったようだった。


「では、月影狼の魔力が見えたというのは、その仕事と関係が?」


「分かりません。ただ、俺には青い線のようなものが見えました。魔物の体の中を流れていて、攻撃の前に右前脚へ集まっていました」


「それで、セリアさんに伝えた」


「はい」


「黒角と魔石についても?」


「同じです。魔力が濃い場所や、流れが乱れにくそうな場所が見えました」


 リリアはそこまで書くと、少しだけ顔を上げた。


「普通ではありません」


 はっきり言われた。


 シュウは苦笑するしかない。


「自分でもそう思います」


 それでも、胸の奥に小さな不安が沈んだ。


 普通ではない。

 それは便利なことでもあり、危険なことでもある。


(また、面倒な場所に立ってるのかもしれないな)


 逃げたい気持ちが、ほんの少しだけあった。


 だが、逃げたところで行く場所はない。


「ただ、登録手続きは可能です。身分証がない場合でも、保護記録と仮通行記録、同行者の証言があれば、仮登録はできます」


「助かります」


「ただし、その前に簡易ステータスを確認します」


「ステータス……」


 シュウが言葉を繰り返すと、セリアが目を丸くした。


「シュウ、本当に知らないの?」


「知らない」


「……すごいね。ここまで何も知らない人、初めて見たかも」


「俺も、ここまで知らない世界に来たのは初めてだ」


「それはそうか」


 セリアは妙に納得した顔をした。


 その顔が少しおかしくて、シュウはわずかに肩の力を抜いた。


 リリアは少しだけ口元を緩めたが、すぐに説明を始めた。


「簡易ステータスは、自分の基本状態を確認するための表示です。多くの方は、心の中で『ステータス』と意識することで確認できます。正確な数値確認には鑑定板を使いますが、仮登録なら自己申告と簡易確認で進められます」


「心の中で、ステータス……」


「はい。目を閉じて、自分の状態を知りたいと意識してください」


 シュウは言われた通り、目を閉じた。


(ステータス)


 心の中でそう唱える。


 最初は何も起きなかった。


(ステータス。自分の状態を確認する)


 もう一度、意識を強める。


 すると、暗い視界の奥に、淡い青白い文字が浮かんだ。


```text

名前:シュウ・サエキ

種族:リュード?

年齢:25

所属:なし

アヴァントゥリーストランク:未登録

総合レベル:1


体力:Lv.1

筋力:Lv.1

敏捷:Lv.1

耐久:Lv.1

器用:Lv.2

知力:Lv.4

精神:Lv.5

魔力量:Lv.3

魔力制御:Lv.0

魔術階梯:未判定


技能:

観察 Lv.3

工程把握 Lv.4

調整 Lv.3

危機察知 Lv.1

魔流視マギヤ・ポトーク Lv.1


称号:

異界から流れ着いた者

流れを見る者

```


 シュウは目を開けた。


 しばらく、言葉が出なかった。


「見えましたか?」


 リリアが尋ねる。


「見えました」


「登録に必要な範囲を読み上げてください」


「分かりました」


 シュウは表示された内容を思い出しながら、一つずつ読み上げた。


 名前。

 種族。

 年齢。

 総合レベル。

 能力値。


「体力、筋力、敏捷、耐久がすべてLv.1……」


 セリアが小さく呟く。


「弱い」


「分かってる」


「ごめん。でも、弱い」


「二回言わなくていい」


 口ではそう返したが、胸の奥に鈍い痛みが残った。


(分かってる。分かってるけど、数字で見せられるときついな)


 弱い。


 言葉だけなら笑って流せる。

 だが、こうして自分の状態として示されると、逃げ場がない。


 月影狼の前で何もできなかった自分。

 セリアに守られ、街まで案内され、今も説明されなければ何も分からない自分。


 情けなさが、じわりと胸に広がった。


 セリアがこちらを見た。


 からかうような表情ではなかった。

 少しだけ心配そうな目だった。


「でも、これからだよ」


 彼女は小さな声で言った。


「最初から強い人なんて、そんなにいないから」


「……そうだな」


 その一言が、思ったよりもありがたかった。


(見えるだけじゃ足りない。強くならないと)


 シュウは木の机の下で、そっと拳を握った。


 リリアはペンを動かしながら、淡々と記録している。


「器用Lv.2、知力Lv.4、精神Lv.5、魔力量Lv.3、魔力制御Lv.0……魔術階梯、未判定」


 そこでリリアの手が少し止まった。


「魔術階梯が未判定で、魔力量はあるのですね」


「それが珍しいのかどうかも分かりません」


「少なくとも、確認は必要です。技能は?」


「観察Lv.3、工程把握Lv.4、調整Lv.3、危機察知Lv.1。それから……魔流視マギヤ・ポトークLv.1」


 リリアの表情が変わった。


 ほんの一瞬だった。


 だが、シュウには分かった。


 受付職員としての顔の奥で、何か別の判断が動いた。


「もう一度お願いします」


魔流視マギヤ・ポトークLv.1です」


 リリアはその文字を慎重に書き留めた。


「……聞き慣れない技能ですね」


「珍しいんですか?」


「少なくとも、私の受付経験では初めてです」


 リリアはそう言ってから、もう一度記録を確認した。


「魔力の流れを見る。月影狼の攻撃起点を読む。素材の魔力残存位置を見抜く。ステータス表示とも矛盾はありません」


 声は落ち着いている。


 だが、その表情は先ほどより明らかに硬い。


「称号はありますか?」


「異界から流れ着いた者。流れを見る者」


 部屋の空気が、少し重くなった。


 セリアは何も言わない。

 リリアもすぐにはペンを動かさなかった。


「リリアさん?」


 セリアが不安そうに声をかける。


 リリアはゆっくり息を吐いた。


「シュウさん。この結果は、当面、他の方には話さないでください」


「そんなにまずいんですか?」


「まずいかどうかを判断するためにも、広めない方がいいです」


 丁寧な言い方だった。


 だが、内容はかなり重い。


「セリアさんもお願いします。森で見た黒い糸、シュウさんの魔力視認、ステータスの内容については、今は外で話さないでください」


「分かりました」


 セリアが真剣に頷く。


 その横顔を見て、シュウは少しだけ申し訳なくなった。


(俺のせいで、セリアまで面倒なことに巻き込んでる)


 助けられたのはこちらだ。

 なのに、彼女の報告まで重くしてしまった。


「悪いな、セリア」


「え?」


「面倒なことに巻き込んだ」


 セリアは目を瞬かせたあと、少しむっとした顔をした。


「それ、違うよ」


「違う?」


「私は、自分でシュウを助けたの。だから、巻き込まれたんじゃなくて、自分で関わったの」


 まっすぐな言葉だった。


 シュウは言葉に詰まる。


(こういうところ、まぶしいな)


 そう思って、すぐに目をそらした。


「……そうか」


「そうだよ」


 セリアは少しだけ笑った。


 シュウはその笑顔を正面から見られず、手元の木目を見た。


(慣れてないな、俺)


 リリアが小さく咳払いをした。


「よろしいでしょうか。少し続けますね」


「あ、はい」


 シュウは慌てて姿勢を正した。


 リリアの目がほんの少しだけ笑っていた気がした。


「俺は、これからどうすれば?」


「仮登録は行います。アヴァントゥリーストランクはE。木札を発行します」


 リリアは別の紙を取り出した。


「ただし、しばらく単独行動は控えてください」


「理由は?」


「弱いからです」


「直球ですね」


「体力、筋力、敏捷、耐久がすべてLv.1です。森どころか、街道沿いの低級魔物でも危険です」


「反論できない」


 セリアが横で小さく笑った。


「セリアさん」


「はい」


「笑っていらっしゃいますが、あなたもDランク単独で月影狼と接触しています」


「えっ」


 リリアの声が少しだけ冷たくなった。


「報告を聞く限り、判断としては危険寄りです。保護対象を見つけた以上、撤退を優先する選択肢もありました。違いますか?」


「……違いません」


「勇気と無謀は、受付では別の欄に記録します」


「はい……」


 セリアは目を伏せた。


 ほんの一瞬、いつもの明るさが薄くなる。


「……分かってます。前にも、同じことを言われましたから」


 リリアのペンが止まった。


 部屋の空気が、ほんの少しだけ沈む。


「なら、なおさらです」


「はい」


(前にも……?)


 シュウはセリアを見た。


 だが、セリアはもう顔を上げていた。

 いつものように笑おうとしている。


 それが逆に、何かを隠しているように見えた。


 だが今、聞くべきことではない気がした。


 リリアはすぐに穏やかな顔に戻る。


「とはいえ、結果としてシュウさんを保護し、月影狼も討伐しています。そこは評価されます」


「ありがとうございます」


 セリアが少しだけほっとした顔をした。


「まずは低難度依頼と基礎訓練。あと、魔力制御の確認が必要です」


 リリアはシュウへ向き直る。


「魔力量があって制御がない状態は、扱いを誤ると危険です」


「分かりました。無茶はしません」


「そうしてください」


 リリアはセリアへ視線を移した。


「セリアさん。可能であれば、しばらくシュウさんの案内をお願いできますか? 保護対象の案内依頼として、組合から正式に処理します」


「私でいいんですか?」


「月影狼の件で状況を共有しているのは、今のところあなたが一番です。それに、シュウさんが信用している相手でもあります」


 信用。


 その言葉に、シュウは少しだけ胸の奥が動いた。


 出会ってまだ一日も経っていない。

 だが、確かにセリアは自分を助けてくれた。


 剣を持って前に立ち、街まで連れてきてくれた。


「やります」


 セリアは即答した。


 その声は明るかった。

 けれど、さっきの沈んだ表情が、シュウの頭の片隅に残ったままだった。


「ただし、報酬はちゃんと出ますよね?」


「もちろんです」


「あと、シュウにスープを奢ってもらいます」


「それは個人間でお願いします」


「はい」


 セリアは満足そうに頷いた。


(そこは譲らないのか)


 シュウは苦笑した。


 同時に、少しだけ安心した。

 重い話が続いていた中で、セリアのその明るさに救われた気がした。


     ◇


 仮登録の手続きは、思ったよりも淡々と進んだ。


 リリアが用意した木札に、シュウの名前と仮登録番号が刻まれる。

 文字は読めないが、そこには確かに自分の名前があるらしい。


「これが仮登録木札です。正式な身分証ではありませんが、アルメリア支部内では登録者として扱われます」


 リリアは木札を差し出した。


「なくさないでください。再発行には手数料がかかります。手数料は、わりと痛いです」


「分かりました。絶対になくしません」


「よろしいです」


 シュウは木札を受け取った。


 軽い。


 だが、その軽い木札が、今の自分にとってはかなり大きな意味を持っていた。


 身分証なし。

 所持金は銀貨三枚。

 文字も読めない。

 剣も魔法も使えない。


 そんな自分が、この世界で最初に得た肩書き。


 Eランク。


 最弱の新人。


(ここから始めるしかない)


 不安はある。

 情けなさもある。


 それでも、胸の奥には少しだけ熱があった。


 悔しいなら、強くなればいい。

 分からないなら、覚えればいい。

 できないなら、一つずつできることを増やせばいい。


「月影狼の素材については、いったん組合で預かります。黒角と魔石は状態が良いため、標準買取より上乗せ査定になる可能性があります」


「上乗せ?」


「素材鑑定担当の判断です。正式な査定後、報酬として支払います」


「助かります」


「ただし、今回は異常発生の調査対象でもあります。すぐに全額支払いできない可能性があります」


「分かりました」


 金は必要だ。

 だが、あの黒い糸のことを考えると、簡単に売って終わりというわけにはいかないのだろう。


 リリアは書類をまとめると、少し声を落とした。


「この件は、私からギルドマスターに報告します」


「ギルドマスター……」


「アルメリア支部の責任者です。大きな声と大きな体格の方ですが、話は通じます。たぶん」


「たぶん?」


「お会いすれば分かります」


 リリアは涼しい顔で言った。


「今すぐ呼び出すことはしませんが、後日、話を聞かれる可能性があります」


「分かりました」


「それまで、森へ戻ることは避けてください」


「戻るつもりはありません」


 即答だった。


 セリアも横で頷く。


「私も、今は戻るべきじゃないと思います」


「賢明です」


 リリアはそこで、少しだけ表情を和らげた。


「では、今日のところは宿を確保してください。セリアさん、案内をお願いします」


「任せてください」


「シュウさん」


「はい」


「この世界では、分からないことを分からないまま進めると危険です。困ったら、まず聞いてください」


 シュウはその言葉を聞き、少しだけ目を伏せた。


 前の世界では、分からないことを聞く余裕がないまま進むことが多かった。

 分かっていないのに分かったふりをして、後で大きな問題になることもあった。


 この世界で同じことをすれば、命に関わる。


「分かりました。聞きます」


「それがいいです」


 リリアは短く頷いた。


     ◇


 シュウとセリアが確認室を出ると、組合のざわめきが再び耳に入った。


 先ほどと同じ場所のはずなのに、少しだけ見え方が変わっている。


 自分はもう、ただ保護された迷子ではない。


 仮とはいえ、アヴァントゥリーストとして登録された。


 Eランク。


 弱い。

 間違いなく弱い。


 だが、始まりの位置に立った。


「おめでとう、シュウ」


 セリアが隣で笑った。


「最弱の仲間入りだね」


「祝われてる気がしない」


「でも、本当におめでとう。登録できたんだから」


 その笑顔が近い。


 素直に喜んでくれているのが分かる。


 シュウは少し視線をそらした。


「……そうだな。ありがとう」


「ん? 照れてる?」


「照れてない」


(照れてるかもしれない)


 セリアはにやっと笑った。


「ふうん」


「その顔はやめてくれ」


「どの顔?」


「分かってて聞いてるだろ」


 セリアは楽しそうに笑った。


 その時、先ほどのガッシュがテーブルの方から声をかけてきた。


「おい、新入り。Eランクの木札を落とすなよ。薄っぺらいから風で飛ぶぞ」


 数人が笑う。


 セリアがむっとした顔で一歩前に出ようとした。


 シュウは片手で制した。


「気をつけます」


「あ?」


「助言、ありがとうございます」


 シュウが真面目に頭を下げると、ガッシュは逆に言葉を失った。


「……変な奴だな」


「よく言われます」


「まだそんなに言われてないでしょ」


 セリアが横から突っ込む。


「今日だけで十分言われた」


「それはそうかも」


 ガッシュは面白くなさそうに鼻を鳴らした。


「ちっ。調子狂うぜ」


 彼はそれ以上絡んでこなかった。


 セリアが小声で言った。


「よかったの? 言い返さなくて」


「言い返せるほど強くない」


「でも、嫌だったでしょ」


「嫌だった」


 シュウは正直に答えた。


「でも、今は我慢する。腹は立ったけど、喧嘩して勝てる相手じゃない」


 言ってから、自分の中に小さな悔しさが残っていることに気づいた。


(いつか、ああいう言葉を笑って流せるくらいにはなりたいな)


 それは、力で黙らせたいという意味ではない。


 ただ、自分で自分を情けないと思わなくて済むくらいには、強くなりたかった。


「そっか」


 セリアは少しだけ表情を柔らかくした。


「じゃあ、強くなろう」


「簡単に言うな」


「簡単じゃないから、一緒にやるんでしょ」


 また、返事に困ることを言う。


 シュウは視線をそらし、木札を腰にしまった。


「……頼む」


「うん。任せて」


 セリアの声は、いつもより少しだけ嬉しそうだった。


「まずは宿だよね」


「その前に、スープじゃないのか?」


「よく覚えてたね」


「何回も言われたからな」


「じゃあ、安くておいしい店に連れていく」


「頼む」


 セリアが扉へ向かって歩き出す。


 その背中を追いながら、シュウはふと振り返った。


 受付の奥で、リリアが誰かに短く指示を出している。

 素材鑑定担当が黒角をもう一度確認している。

 そして、組合の奥へ向かう職員が、何かの報告書を持って階段を上がっていく。


(あの報告書が、俺のことか)


 たぶん、そうだ。


 自分の知らないところで、何かが動き始めている。


 不安はある。


 だが、それでも。


(まずは飯だ。食べて、休んで、明日から少しずつ強くなる)


 その順番だけは、間違えないようにしようと思った。


     ◇


 その日の夕方。


 アルメリア支部の最上階。


 ギルドマスター室の机に、一枚の報告書が置かれた。


 それを読んでいる男は、四十代後半ほどに見えた。

 がっしりした体格。短く整えた黒髪に、わずかに混じる白。

 顔には古い傷跡があり、鋭い目をしている。


 アルメリア支部ギルドマスター。


 エルネスト・ヴァイス。


 彼は報告書の一部で手を止めた。


「Eランクにもなってねえ新人が、月影狼の素材を持ち込んだか」


 エルネストは低く笑った。


「はっ。朝から退屈しねえ話だ」


 机の上には、月影狼の黒角と魔石が置かれていた。


 黒角には、まだわずかに青い魔力が残っている。

 魔石も濁りが少ない。


 通常の新人が持ち込む素材ではない。


「で、こいつが例の報告か」


 エルネストの目が報告書の一文に止まる。


魔流視マギヤ・ポトーク……」


 さきほどまでの豪快な空気が、すっと消えた。


 部屋の中の温度が少し下がったように感じる。


「月影狼が浅い場所に出た。黒い糸を見た。異界から流れ着いた者。流れを見る者」


 エルネストは一つずつ並べるように呟いた。


 偶然として片づけるには、材料が多すぎる。


 扉が軽く叩かれ、リリアが入室した。


「報告の通りです」


「本人の様子は?」


「混乱はしていますが、受け答えは冷静です。嘘を重ねている印象はありません」


「戦闘力は?」


「現時点では、かなり低いです」


「がっはっは! そこは見りゃ分かるだろうな。体力も筋力もLv.1か。よく森から戻ったもんだ」


 豪快に笑ったあと、エルネストはすぐに目を細めた。


「だが、弱いだけの男が月影狼の攻撃起点を読んだ」


「はい」


「素材の流れも見た」


「はい」


「そして、黒い糸を見た」


 リリアは表情を引き締めた。


「セリアには見えていません。本人のみです」


「なるほど」


 エルネストは椅子にもたれず、机の引き出しを開けた。


 そこから、小さな白い金属片を取り出す。


 輪の形をした徽章。


 リリアはそれを見ても、何も言わなかった。


 ただ、その目がわずかに動く。


「まだ早い」


 エルネストの声が低くなる。


「白環へ報せるには、まだ早い。一度の異常では判断できん」


「では、観察を続けますか」


「そうだ。低ランク依頼を回せ。危険すぎず、能力が確認できるものがいい」


「薬草仕分け、素材整理、荷運び補助あたりでしょうか」


「それでいい。単独行動はさせるな。セリアをつけておけ」


「すでに案内依頼として処理しています」


 エルネストはわずかに笑った。


「仕事が早いな」


「受付ですので」


 リリアは淡々と答えた。


 エルネストは報告書を閉じた。


「もし、あの男がもう一度、黒い流れを見つけたなら」


 そこで言葉を切る。


 部屋の空気が少し重くなった。


「その時は、俺が直接話す」


「承知しました」


 リリアは一礼し、退出しようとした。


 だが、扉の前で一度だけ足を止める。


「ギルドマスター」


「あ?」


「セリアさんの件ですが」


 エルネストの表情が少しだけ変わった。


「また、助ける側に回ったか」


「はい」


「……レオンの時から、変わってねえな」


 その名が落ちた瞬間、部屋の空気がさらに低くなった。


 リリアは静かに目を伏せた。


「本人には、まだ触れない方がよろしいかと」


「分かってる。傷口をこじ開ける趣味はねえ」


 エルネストは白い輪の徽章を指先で回した。


「だが、黒い流れが絡むなら話は別だ。あの子の過去も、いずれ戻ってくるかもしれん」


「はい」


「今は見ておけ。シュウも、セリアもだ」


「承知しました」


 リリアが退出したあと、エルネストは一人、白い輪の徽章を見つめた。


「流れを見る者、か」


 それはただの偶然か。

 それとも、長く待っていたものなのか。


 まだ分からない。


 だが、アルメリアの小さな組合支部で、確かに一つの流れが変わり始めていた。


 その頃、何も知らないシュウは、セリアに連れられて安い食堂へ向かっていた。


 腰には、仮登録の木札が一枚。


 最弱のEランク。


 けれど、その小さな木札が、黒環会と白環の守り手。


 二つの環の間に、静かな波紋を広げ始めていることを、シュウはまだ知らなかった。


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