第26話 改革者ヴァルド・グレイム
十三個目の月鐘を使った仕掛けは、失敗に終わりました。
しかし、共同供給管理契約そのものを支持する声は、北区から消えていません。
物が足りない。
価格が上がる。
力のある商会が在庫を先に押さえる。
ヴァルド・グレイムが指摘した問題は、確かに街の中に存在していました。
そして翌日。
契約書の総監修者として、その男が自ら月鐘会館へ姿を現します。
翌朝、月鐘会館の前には昨日より多くの馬車が並んでいた。
商人。
工房主。
組合の職員。
北区の役人。
南市から来た職人の姿もある。
十三個目の月鐘が見つかり、青硝子商会のユリウス・アーデンが拘束された。
それだけなら、今日の会合は中止になっていてもおかしくない。
けれど、月鐘会館の扉は開いていた。
昨日の契約案をどう扱うのか。
供給網の再編そのものを中止するのか。
街のあちこちで物が足りなくなり始めている今、何も決めずに帰るわけにもいかないらしい。
「嫌な感じだな」
会館の向かいに立ったジノ・バレットが、馬車の列を見ながら言った。
「昨日あんなことがあったのに、みんな集まるんだな」
「昨日あんなことがあったから集まってるんだろ」
ガッシュが答える。
今日は二人とも冒険者の装備に戻っていた。
ジノは落ち着かない様子で、何度も会館の入口と裏路地を見ている。
ガッシュは腕を組んでいるが、以前のように威張っているわけではない。
何か起きた時、どちらへ動けばいいのかを考えている顔だった。
「契約に仕掛けがあったことと、物が足りないことは別です」
カレン・ベルシアが言った。
彼女の手には、昨日配られた共同供給管理契約がある。
警戒心を鈍らせる魔道具が使われた以上、契約は無効になった。
けれど、紙に書かれていた問題までは消えない。
「実際、南市では鉄材と治療用魔石の価格が上がっています。北区の大きな商会が先に押さえたため、小さな工房へ回る量が減っているのです」
「ヴァルドが言ってたこと、全部が嘘じゃないんですね」
ノア・ルミナスが不安そうに言う。
「ええ。だからこそ、支持する人がいます」
カレンは会館を見上げた。
「問題を見つけるのが上手な人間は、それだけで信用されます。たとえ、その解決方法に問題があったとしても」
俺は昨日のユリウスの言葉を思い出していた。
自由な取引では、薬も食料も力のある者が先に手に入れる。
流れには管理者が必要だ。
その主張を聞いて、うなずいた人は確かにいた。
十三個目の鐘が鳴らなかったあとも。
「シュウさん」
ノアがこちらを見る。
視線が俺の目元へ向いていた。
「今日は痛みますか?」
「もうほとんど大丈夫です」
「ほとんど、は?」
「少しだけ残っています」
「正直でよろしいです」
すっかり返答の仕方まで覚えられている。
セリア・グランツが反対側から俺の顔をのぞき込んだ。
「今日は魔流視、使わなくていいと思う」
「俺もそう思います」
「本当に?」
「ヴァルド本人が来るなら、まず話を聞きたい」
「話して分かる相手かな」
「分からないから、聞くんです」
セリアは少しだけ考えてからうなずいた。
「分かった。でも、何かされたらすぐ言って」
剣の柄に添えられた彼女の手は、昨日より自然だった。
すぐに斬り込むためではない。
必要な時に、必要な分だけ動くための手だ。
リリア・フォルンは会館へ入る前から記録板を開いていた。
「本日の臨時協議には、ヴァルド・グレイム本人が出席予定です」
「本当に来るんですか?」
ジノが聞く。
「北区商工連絡会から正式に説明を求められています。本人から出席するとの返答がありました」
「逃げないんだな」
ガッシュが少し意外そうに言った。
リリアは静かに答える。
「逃げる必要がないと考えているのでしょう」
その言葉が、一番しっくりきた。
ラドムは逃げた。
ダリオも逃げた。
ユリウスは捕らえられた。
けれど、ヴァルドは違う。
契約書に自分の名前を載せ、堂々と会館へ来る。
自分のやっていることが、正しいと思っているからだ。
◇
大広間の天井には、十二個の青い鐘だけが下がっていた。
十三個目の鐘は証拠品として組合で保管されている。
長机の並びも昨日とは違う。
契約を結ぶための円形ではなく、正面の演台へ向かって列を作っていた。
誰かの話を聞き、判断するための配置だ。
俺たちは後方の席に座った。
カレンとリリアは前方。
ミラ・フォルネと欠け星堂のマルクは、魔道具の技術説明を求められた時に備えて側面にいる。
セリアは俺の隣。
ノアは医務室に近い場所。
ジノとガッシュは出入口。
セルヴィス・アルカードたち白環の守り手は、壁際に立っていた。
会館管理者のベレント・クライスが演台へ上がる。
「昨日発見された未登録魔道具と、共同供給管理契約に関する臨時協議を開始いたします」
声は昨日より硬かった。
自分たちの会館へ黒い流れが入り込んでいた。
その事実は、北区の管理責任者として重いのだろう。
「まず、契約書の総監修者であるヴァルド・グレイム氏より、説明をいただきます」
会館の扉が開いた。
誰かが入ってくる。
最初に見えたのは、杖だった。
黒い木で作られた細身の杖。
装飾はほとんどない。
続いて、濃い灰色の外套。
四十代半ばほどの男だった。
背は高くない。
体つきも細い。
髪は暗い灰色で、きれいに後ろへ撫でつけられている。
右手には黒い手袋。
左目に、細い銀縁の片眼鏡。
その姿に派手さはなかった。
ユリウスの方が、よほど商人らしく華やかだった。
それでも、ヴァルドが歩くと、大広間の声が自然に消えていった。
強い魔力を感じたわけではない。
威圧されたわけでもない。
ただ、誰もがこの男の言葉を聞こうとした。
「ヴァルド・グレイムです」
演台に立った男は、静かに頭を下げた。
「まず、昨日この会館で起きた不正について、契約案の監修者としておわびいたします」
会場がざわめく。
俺も少し驚いた。
もっと言い訳から入ると思っていた。
「参加者の意思へ魔道具で干渉する行為は、許されるものではありません。ユリウス・アーデンが行った手段を、私は承認しておりません」
切り捨てた。
そう感じた。
ユリウスは昨日、必要な改革のためだと言った。
ヴァルドの思想を、そのまま代弁していた。
それでもヴァルドは、自分は承認していないと言う。
リリアのペンが動く。
カレンは表情を変えずに話を聞いていた。
「契約案についても撤回いたします」
会場の一部から、安堵の息が漏れた。
だが、ヴァルドはそこで話を終えなかった。
「ただし、契約案が必要とされた原因まで、昨日の不正とともに捨て去るべきではありません」
やはり、そう来る。
「南市の小規模工房には、材料が届いていません。灯り小路では、安定した魔石を購入できない住民が、粗悪な補助具を使わざるを得なかった。薬を必要とする者より、金を持つ商会が先に治療用魔石を確保する」
言葉に、迷いがない。
「これが、自由な流れの結果です」
会場の空気が静かに変わる。
責められているのは、青硝子商会だけではない。
ここにいる北区の商人たちだ。
物を先に押さえた者。
価格を上げた者。
不足を知りながら、利益を優先した者。
「管理を拒む者は、管理のない場所で誰が犠牲になっているのかを見ようとしません」
ヴァルドは会場を見回した。
「自らの在庫が守られている者ほど、自由を美しい言葉で語る」
何人かが気まずそうに視線を落とす。
ユリウスとは違う。
ヴァルドは、相手が言い返しにくい場所を正確に突いてくる。
俺にも、反論しづらい。
事実が混ざっているからだ。
「だからといって、人の意思を奪うことは許されません」
カレンが席を立った。
声は穏やかだ。
「その通りです」
ヴァルドはあっさり答えた。
「昨日の手段は間違っていました」
「昨日だけですか?」
カレンの問いに、会場が静まる。
「灯り小路では、不完全な補助環が住民へ販売されました。雨樋倉庫では、人の魔力反応を測る実証が行われています。灰鷲両替所では、金に困った冒険者や職人へ前払いを行い、断りにくい状況を作っていました」
「それらについては調査中です」
「V・G確認済と記された札と帳簿があります」
「私の名を利用した者がいた可能性もあります」
ヴァルドは少しも揺れない。
ダリオの記憶は焼かれた。
ラドムは逃げている。
ユリウスは、魔道具干渉という明確な犯罪を行った。
けれど、ヴァルド本人が命じたという直接の証拠は、まだ足りない。
「便利ですね」
カレンの笑みが薄くなる。
「問題が起きれば、末端が勝手に行ったことになる」
「組織の責任と、個人の責任は分けて考えるべきでしょう」
「組織の成果は、あなたの改革。組織の失敗は、個人の暴走ですか」
会場の空気が張りつめる。
ヴァルドは、初めてほんの少しだけ目を細めた。
「ベルシア商会の方は、言葉がお上手だ」
「商売ですから」
「ですが、言葉では物は届きません」
「人の意思を奪う魔道具よりは、届く可能性があります」
互いに声を荒らげない。
それでも、その間には剣より鋭いものがあった。
ヴァルドはカレンから視線を外し、会場全体へ向き直った。
「私は、新しい提案をいたします」
会館職員が、今度は一枚だけの紙を配り始める。
昨日の分厚い契約書とは違う。
内容は単純だった。
北区商会が保有する余剰在庫を申告する。
南市と灯り小路の不足量を集計する。
組合立ち会いのもと、一定量を優先配分する。
価格は通常価格の範囲内。
契約解除の制限なし。
供給先の停止権限もない。
「かなり変わっています」
俺が小声で言うと、カレンがうなずいた。
「昨日の問題点が、ほとんど消されています」
新しい提案だけを見れば、悪くない。
むしろ必要な仕組みに見える。
ヴァルドは言った。
「まずは一か月。透明な記録のもと、小規模な共同供給を行う。これにも反対されますか?」
答えにくい。
昨日の仕掛けを暴いた俺たちが、ただ管理が嫌だから反対しているように見えてしまう。
しかも、内容にはリリアの記録やカレンの監査を入れる余地まである。
「こちらの調査結果を利用したのか」
ミラが小さくつぶやく。
南市で俺たちがやったこと。
生活通行。
商流通行。
危険物だけを拾う検査。
記録と技術確認。
ヴァルドは、こちらの方法を見ていた。
そして、表向きは問題のない形へ整えて持ってきた。
「賛成します」
会場のどこかから声が上がった。
鉄材を扱う商人だった。
「余剰在庫がある商会も、売り先が明確になるなら困らない」
「価格が管理されるなら、南市の工房にも回せる」
「組合が記録するなら、昨日のようなことは起こりにくいだろう」
賛同する声が増えていく。
俺は紙を見つめた。
悪い提案ではない。
それでも、何かが引っかかる。
「集計された情報は、誰が持つんですか」
気づけば、俺は立ち上がっていた。
ヴァルドの片眼鏡が、こちらへ向く。
「あなたがシュウ・サエキですね」
名前を知られていることに、背中がわずかに冷えた。
「質問に答えてください」
「不足量、在庫量、加工能力。すべて共同調整室で管理します」
「共同調整室の責任者は?」
「私は助言者として参加する予定です」
「助言だけ?」
「何を疑っているのですか」
「情報の流れです」
俺は配布された紙を持ち上げた。
「この仕組みが始まれば、どの商会が何を持っていて、どの工房が何を作れて、どの地区で何が足りないかが、一か所に集まる」
「調整には必要です」
「必要です。でも、その情報を一番持っている人が、一番流れを変えやすくなる」
ヴァルドは静かに俺を見ていた。
俺は続ける。
「昨日は契約で権限を集めようとした。今日は情報を集める。方法が変わっただけで、最終的には同じ場所へ流れが集まるんじゃないですか」
会場が静かになった。
商人たちは、改めて紙を見る。
ヴァルドは少しだけ笑った。
初めて俺自身に興味を持ったような笑みだった。
「情報を集めずに、何を根拠に配分するのですか?」
「集めるなとは言ってません」
「では、何が問題です?」
「一人の判断で変えられることです」
「大勢で協議している間に、薬が切れたら?」
「緊急時の決定者は必要です。でも、後から確認できる記録と、止める仕組みも必要です」
「記録を残しても、失われた命は戻らない」
「だからといって、決定者が何をしても止められない仕組みにはできない」
ヴァルドの目がわずかに細くなる。
「あなたは、ずいぶん管理に詳しい」
「前の世界で、生産管理をしていました」
会場の人々には、前の世界という言葉の意味は分からないだろう。
けれどヴァルドは、そこを聞き返さなかった。
「では分かるはずです」
彼の声が、少し低くなる。
「すべての者の希望を聞いていては、物は流れない。誰かが優先順位を決め、誰かが後回しになる」
「分かります」
「後回しにされた者は不満を言う。だが、全体を守るためには必要だ」
「それも分かります」
俺は答えた。
「でも、後回しにする相手を、最初から壊れても構わない人として扱う必要はない」
ヴァルドの表情が、初めて止まった。
「灯り小路を実証区にした。南市の職人を、用途を知らせず使った。金に困る人へ危険な仕事を流した」
「証拠のない断定です」
「じゃあ聞きます」
俺はヴァルドを見た。
「貧しい地区へ、不完全な魔道具を流すことをどう思いますか」
大広間が静まり返った。
ヴァルドは答えを急がなかった。
杖に両手を重ね、ほんの少し首を傾ける。
「正規品を買えない者に、何も与えないことが正しいと?」
「危険を隠して渡すことが正しいとは思いません」
「多少の副作用があっても、灯りがつくなら助かる者はいる」
その口調は穏やかだった。
だから、一瞬、聞き流しそうになる。
「貧しい地区は、新しい低価格技術の実証に適しています。必要性が高く、既存の高価な仕組みに縛られていない」
胸の奥が、すっと冷えた。
カレンの表情から笑みが消える。
リリアのペンが動いた。
セリアの手が、剣の柄を強く握る。
ヴァルドは続ける。
「もちろん、安全性への配慮は必要です。しかし、完全な安全を待っていれば、彼らは永遠に暗闇の中です」
「実証すること自体を否定してるんじゃない」
俺の声も低くなった。
「何を試すのか説明して、断れるようにするべきだと言ってるんです」
「断る者が多ければ、技術は進まない」
「だから黙って使う?」
「結果的に多くが救われるなら、多少の負担は避けられません」
多少の負担。
雨樋倉庫に縛られていた子どもたち。
箱の中に入れられていた青年。
魔力を吸われた灯り小路の住民。
それが、この男にとっては多少なのだ。
「それを負担と言えるのは、自分が払わない側だからです」
俺が言うと、ヴァルドの笑みが薄くなった。
「あなたも管理者なら、誰かに負担を求めたことがあるでしょう」
痛いところを突かれた。
前世の俺も、現場へ急ぎを頼んだ。
残業をお願いした。
無理な納期を、何とかつないでもらった。
自分が止められなかった流れの中で、誰かに負担を押しつけた。
「あります」
俺は答えた。
セリアが少しだけこちらを見る。
「何度もあります。だから、間違っていたことも分かる」
「間違いを恐れて決められない管理者は、もっと多くを失います」
「決めないとは言ってない」
逃げずに、ヴァルドを見る。
「決めた結果、誰が苦しんだのかを見ると言ってるんです。数字が合ったから終わりじゃない」
ヴァルドの片眼鏡に、窓からの光が反射した。
「流れを見るっていうのは、人を数字にすることじゃない」
俺は一つずつ言葉を置いた。
「そこに誰がいるのかを見ることです」
「甘い」
「そうかもしれません」
「その甘さで、街全体を救えると?」
「少なくとも、人を救うために人を潰す仕組みよりは、ましです」
会場の空気が動かない。
誰も言葉を挟めない。
ヴァルドは、しばらく俺を見つめていた。
やがて、ほんの少し笑った。
「興味深い」
褒められたとは思わなかった。
むしろ、材料を見るような目だった。
「あなたは流れを見ているのではない。流れに感情を持ち込んでいる」
「人が流れているなら、感情を切り離せません」
「いつか、その感情が判断を鈍らせます」
「あなたは、いつか人がいない数字だけを管理することになる」
ヴァルドの表情から、完全に笑みが消えた。
ほんの一瞬。
けれど、確かに届いた。
その時、会場の後方で小さな物音がした。
白環の守り手が、ヴァルドの同行者の一人へ近づいている。
セルヴィスが冷たい声で言った。
「右手の鞄を開けなさい」
同行者の男が後ずさった。
「これは私物です」
「黒い流れが検出されています」
ミラの測定具が、かすかに鳴っている。
同行者が鞄を抱え、出口へ走ろうとした。
ジノが叫ぶ。
「正面は無理! 左も白環! 逃げるなら窓だけど、二階だぞ!」
「逃げ道を教えるな!」
ガッシュが男の前へ回り込む。
足を踏みしめる。
魔力を腕だけへ集めず、腰へ落とす。
「止まれ!」
男が黒い小環を取り出した。
セリアがすぐに動く。
短く息を吸い、地面を踏む。
だが、参加者が近い。
大きく踏み込まない。
「守り払い!」
剣の腹が小環を持つ手を横へ逸らす。
小環が床へ落ちた。
ミラが布をかぶせ、工具で押さえる。
リリアは席を立たず、男の動きと鞄を記録していた。
カレンが鞄の留め具を見る。
「青硝子商会の印ではありません。ヴァルド様個人の輸送印ですね」
会場の視線が、一斉にヴァルドへ向く。
同行者は床へ押さえられた。
鞄の中から出てきたのは、小さな記録石が六つ。
さらに、各商会の在庫量と、北区工房の加工能力が書かれた一覧。
まだ共同供給の提案は採決されていない。
それなのに、すでにかなりの情報が集められている。
「これは?」
ベレントが青ざめた顔で聞く。
ヴァルドは記録石と書類を一瞥した。
「私の指示ではありません」
「またですか」
カレンの声が冷える。
「また、同行者が勝手に行ったことになるのですか」
同行者の男が叫んだ。
「違う! 私はヴァルド様に――」
その首元に黒い線が浮かんだ。
ミラが叫ぶ。
「口止め術式!」
ノアがすぐに駆け寄る。
男の呼吸を確かめ、胸元に両手を置く。
「話さないでください! 今は息をして!」
淡い白い光が広がる。
黒い線は消えない。
しかし、締めつけが少し弱まった。
ヴァルドは、その様子を静かに見ていた。
部下が苦しんでいる。
それなのに、一歩も近づかない。
「解除方法を知っているんじゃないですか」
セリアがヴァルドを見る。
「知りません」
「自分の同行者でしょう!」
「彼が何者と契約していたかまでは把握していない」
あまりにも淡々としていた。
同行者の目が、絶望したようにヴァルドを見る。
その瞬間、分かった。
この男も、切り捨てられた。
ダリオと同じ。
ユリウスと同じ。
役目が終われば、ヴァルドは手を離す。
それでもヴァルドは、何も間違っていないような顔をしている。
「あなたの部下でしょう」
俺が言った。
「部下ではありません。協力者です」
「言葉を変えれば、責任が消えるんですか」
「証拠のない責任を負うことはできません」
「でも、成果が出た時は自分の改革にする」
ヴァルドの視線が俺へ戻る。
「シュウ・サエキ。あなたは、感情で事実を曲げようとしている」
「あなたは、事実を細かく切って責任を消している」
視線がぶつかる。
ここでヴァルドを拘束することはできない。
鞄は同行者が持っていた。
口止め術式も、ヴァルドとの直接のつながりを証明できていない。
会場にいる多くの人間は、彼の新しい提案へ一定の価値を感じている。
無理に捕らえれば、ヴァルドを支持する者たちは、改革を恐れる古い商会に潰されたと考えるだろう。
セルヴィスも、それを理解しているらしい。
白い輪を構えながらも、ヴァルド本人へは向けていない。
ヴァルドはゆっくり杖を持ち直した。
「本日の提案は、一度持ち帰っていただいて構いません」
「逃げるのですか」
セリアが言う。
「私は正式な招きを受けて来ただけです」
ヴァルドは演台を降りる。
その途中で、俺の横を通った。
足を止める。
「あなたの仕組みを見せてください」
小さな声だった。
周囲には聞こえない。
「管理せず、切り離さず、それでも物を不足なく届ける仕組みを」
片眼鏡の奥の目が、冷たく俺を見る。
「できなければ、人々は私の管理を選びます」
「人の心を鈍らせなくても?」
「ええ」
ヴァルドは微笑んだ。
「飢えと不足は、魔道具より簡単に人を動かしますから」
そう言い残し、男は会館を出ていった。
誰も止められなかった。
いや。
止めるべき証拠が、まだ足りなかった。
◇
臨時協議が終わった後も、会館には多くの人が残っていた。
ヴァルドの提案について話す者。
鞄から見つかった情報一覧を問題視する者。
それでも共同供給は必要だと主張する者。
意見は一つにまとまらない。
十三個目の鐘を壊しただけでは、何も終わっていなかった。
カレンは北区の商人たちに囲まれている。
「共同供給自体は検討すべきだ」
「だが、情報を一か所に集めるのは危険だ」
「では誰が不足量を判断する?」
「組合へ任せるのか?」
次々と質問が飛ぶ。
リリアは、会場の発言を記録していた。
ミラは鞄から出てきた記録石を調べている。
ノアは口止め術式を受けた同行者の治療を続けていた。
セリアは、ヴァルドが出ていった扉を見つめている。
「悔しい」
ぽつりと言った。
「捕まえられなかったこと?」
「それもある。でも……あの人の話に、少し納得しそうになった」
「俺もです」
物が足りない。
管理が必要だ。
全体を見る者が決めなければならない。
その部分だけなら、間違っていない。
「だから余計に嫌」
セリアは唇を噛んだ。
「全部間違ってる人なら、斬れば終わるのに」
「斬っても終わらないと思う」
「分かってる」
セリアは小さく息を吐いた。
「だから悔しいの」
ジノとガッシュも近づいてくる。
ジノは、配られた新しい提案書を持っていた。
「これ、本当に駄目なのか?」
「駄目とは言い切れない」
俺が答えると、ジノが困った顔をする。
「母ちゃんの薬が安定して届くなら、正直ありがたいんだよな」
「俺も、材料が回らなくて仕事が減ったやつを知ってる」
ガッシュが言う。
「ヴァルドのやり方はむかつく。でも、代わりがないなら、そっちを選ぶやつはいるだろ」
その通りだった。
ヴァルドを否定するなら、代わりが必要だ。
ただ自由に任せるだけでは、また力のある者が先に取る。
白環のように危険な地区を切れば、弱い場所から物が止まる。
そして、ヴァルドの管理へ任せれば、人の意思と情報が一か所へ集められる。
「試してみるしかない」
俺は言った。
「何を?」
セリアが聞く。
「俺たちのやり方で、供給を回す」
全員がこちらを見る。
頭の中に、南市でやったことが浮かんでいた。
生活通行。
商流通行。
危険物の検査。
記録。
工房の能力確認。
商会の在庫。
必要な人への優先配分。
一か所へ権限を集めず、それぞれが見た情報を共有する。
「一人の管理者を作らない」
俺はゆっくり言葉にする。
「リリアさんが不足量と配分を記録する。カレンさんが商会の在庫と価格を見る。ミラが魔石や魔道具の品質を確認する。組合と商会と工房で、同じ数字を共有する」
「決める人は?」
ガッシュが聞く。
「一人では決めない。緊急時だけ仮の優先順位を使う。あとで必ず見直す」
「遅くならない?」
ノアが心配そうに聞く。
「なるかもしれません。だから、小さい範囲で始める」
灯り小路。
南市の臨時工房。
ジノの母が使う薬。
欠け星堂の魔石。
いきなり街全体は無理だ。
まず、顔が見える範囲で試す。
「灯り小路と南市で、必要な薬と魔石だけを対象にする」
カレンがこちらへ戻ってきた。
話を聞きながら、少し考えている。
「小規模な共同供給の実証ですね」
実証。
その言葉に、全員の空気が少し硬くなる。
灯り小路が黒環会の実証区にされたことを思い出したのだろう。
「人を勝手に実験台にはしません」
俺は言った。
「参加する店や住民へ説明する。断っても不利益はない。結果も隠さない」
リリアがペンを止め、こちらを見る。
「記録は公開しますか?」
「個人の事情は隠します。でも、在庫量、配分理由、価格、届かなかったものは公開する」
カレンが小さくうなずく。
「権限ではなく、情報を共有する仕組み」
ミラも会話へ加わる。
「品質確認は必要。安いからって粗悪な魔石を混ぜたら、黒環会と同じになる」
「お願いします」
ノアが手を挙げた。
「薬については、必要な時期と量を治癒師側で確認できます」
ジノも続く。
「灯り小路の人に話すなら、俺が行く。難しい話は分かんないけど、母ちゃんたちが何に困ってるかは聞ける」
ガッシュは少し迷ってから言った。
「南市の冒険者や荷運びに、変な前払いが混ざってないか見る」
セリアが笑う。
「ちゃんと役割があるね」
「お前に言われると腹立つな」
「私は護衛。あと、シュウが無理したら止める」
「そこも役割に入るんですか」
「重要だよ」
カレンがふっと笑った。
「では、試してみましょう」
ヴァルドが要求した答え。
管理せず。
切り離さず。
それでも必要な物を届ける仕組み。
できる保証はない。
失敗するかもしれない。
誰かに遅いと責められるかもしれない。
それでも、ヴァルドのように人を黙って試すのではなく。
白環のように危険ごと切り離すのでもなく。
説明し、記録し、選べる形でやってみる。
「名前は?」
ジノが聞いた。
「何の?」
「この仕組み。共同なんとかだと、ヴァルドのやつと同じでややこしいだろ」
誰もすぐには答えなかった。
まだ、名前をつけるほど大きなものではない。
小さな流れだ。
南市と灯り小路をつなぐだけの、細い試み。
それでも、エルネストが以前言った言葉を思い出す。
黒環会のように支配せず。
白環のように切るだけでもない。
詰まりをほどき、別の道を作る。
「蒼い流れ」
セリアが、窓の外を見ながら言った。
「え?」
「黒でも白でもないなら、シュウの魔力が見える時みたいな、蒼い流れでいいんじゃない?」
軽い思いつきだったのかもしれない。
けれど、その言葉は不思議と胸に残った。
蒼い流れ。
まだ環にはなっていない。
まだ細く、切れやすい。
でも、誰か一人が握るのではなく、皆でつなぐ流れ。
「悪くない」
俺が言うと、セリアが少しうれしそうに笑った。
「じゃあ、決まり?」
「正式な名前は、うまくいってから考えましょう」
「慎重だなあ」
ジノが言う。
「失敗した時、恥ずかしいから」
「現実的な理由だった」
小さな笑いが起きた。
会館の外では、北区の鐘が鳴っている。
ヴァルドは去った。
捕まえることもできなかった。
むしろ、新しい課題を突きつけられた。
それでも、今日は追いかけるだけでは終わらなかった。
こちら側の流れを作る。
その最初の形が、ようやく見え始めた。
俺は机の上の提案書を見た。
ヴァルドの共同供給。
流れを一か所へ集め、管理する仕組み。
その隣に、リリアが新しい紙を置く。
そこには、まだ項目だけが書かれていた。
必要品。
必要量。
保有在庫。
品質。
価格。
配分理由。
確認者。
そして、一番下。
本人への説明。
同意。
ヴァルドの紙にはなかった項目だった。
(流れをほどくために、人を詰まらせるな)
俺は心の中でつぶやいた。
答えは、言葉だけでは足りない。
実際に物を届けなければならない。
薬を。
魔石を。
必要な人へ。
ヴァルドとの本当の戦いは、これから始まる。
第26話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、ヴァルド・グレイム本人が初めて表舞台へ登場しました。
ヴァルドは、十三個目の月鐘による意思への干渉をユリウス個人の暴走として切り離し、契約案を撤回しました。
一方で、南市や灯り小路へ物が届かないという問題を示し、より穏当な共同供給案を提案します。
内容そのものには合理性があり、ジノやガッシュも、薬や仕事が安定するなら助かると感じています。
しかし、在庫量、加工能力、不足状況といった情報がヴァルドのもとへ集中すれば、彼は契約による権限がなくても街の流れを操作できるようになります。
またヴァルドは、貧しい地区を低価格技術の実証に適した場所と考え、多少の副作用や負担を必要なものとして扱っていることを隠しませんでした。
シュウたちはヴァルドを否定するだけでなく、灯り小路と南市を対象に、自分たちの方法で小規模な共同供給を始めることを決めます。
権限を一人に集めず、在庫、品質、価格、配分理由を共有し、住民へ説明して同意を得る仕組みです。
次回は、薬と魔石を実際に必要な人へ届けるための「蒼い流れ」の最初の実践が始まります。




