第25話 鳴らなかった十三番目
北区商工連絡会の日がやってきました。
月鐘会館に集まるのは、アルメリアの物と金を動かす商人や工房主たち。
黒環会が狙っているのは、彼らを傷つけることではありません。
気づかれないほど小さく警戒心を鈍らせ、黒環会に都合のいい契約を、自分の意思で選んだと思わせること。
十二個の月鐘と、記録にはない十三個目。
仕掛けはすでにシュウたちの手で作り替えられています。
あとは、それを鳴らそうとする者が現れるのを待つだけでした。
月鐘会館の前には、朝から何台もの馬車が並んでいた。
磨かれた扉。
金色の留め具。
商会の紋章が刺繍された幕。
南市の荷車とは違い、どれも荷物を運ぶためというより、持ち主の信用を見せるために作られているように見える。
「馬車一台売れば、うちの母ちゃんの薬、何年分になるんだろうな」
ジノ・バレットが小声で言った。
今日は会館の臨時作業員として、灰色の上着と帽子を身につけている。
服装だけなら真面目に見える。
服装だけなら。
「余計なこと言うな。聞かれたら追い出されるぞ」
ベルシア商会の護衛服を着たガッシュが、横からたしなめる。
「北区に来てから、ガッシュが妙に常識人だな」
「俺は最初から常識人だ」
「それは無理がある」
「何だと?」
「二人とも、声」
セリア・グランツが振り返った。
今日は濃い青の護衛服に、細身の剣を下げている。
見た目はすっかり商会付きの剣士だ。
ただ、襟元が窮屈らしく、さっきから指を入れようとしてはカレンに見つかっている。
「セリアさん」
前を歩くカレン・ベルシアが、後ろを見ないまま言った。
セリアの指が止まる。
「まだ何もしてないよ」
「しようとしていました」
「見てないのに、どうして分かるの?」
「昨日から七回目ですので」
「数えてたの?」
カレンは笑顔のままだった。
その隣では、リリア・フォルンが分厚い書類を抱えている。
参加者名簿。
搬入記録。
会館職員の配置表。
展示品一覧。
昨日、月鐘会館で確認した十二個の鐘と、十三個目の小さな鐘についても、細かく記録されている。
ミラ・フォルネは工具箱を肩から下げ、欠け星堂のマルクと一緒に会館裏の整備口へ向かう予定だ。
十三個目の鐘は、すでに中央灯具へ取り付けられている。
ただし、黒環会が作った通りには動かない。
十二個の鐘から人々の反応を集めることもない。
会場へ安心感を返し、警戒心を鈍らせることもない。
誰かが起動しようとすれば、その魔力の癖だけを記録する。
流れを奪う道具を、流れの出どころを探る道具に作り替えたのだ。
「シュウさん」
ノア・ルミナスが、俺の横から顔をのぞき込む。
「体調はどうですか?」
「大丈夫です」
「昨日も同じことを言いました」
「昨日より大丈夫です」
「比較の話ではありません」
ノアは俺の手首へ指を当てた。
脈を確かめ、顔色を見る。
すっかり毎朝の点検になっている。
「少し速いです」
「緊張してるだけだと思います」
「目の痛みは?」
「ありません」
「頭痛は?」
「ありません」
「魔流視は?」
「必要になるまで使いません」
ノアはようやく手を離した。
「必要になった時も、短くです」
「はい」
セリアが反対側から念を押す。
「勝手に深く見ない」
「はい」
ミラも歩きながら口を挟んだ。
「見る対象を先に言う」
「はい」
「返事だけは立派ね」
「もう少し信用してもらえるよう頑張ります」
「頑張る方向を間違えないで」
その言葉に、みんなが少しだけ笑った。
緊張が消えたわけではない。
けれど、こうして軽口を言えるくらいには、俺たちは一緒に動くことに慣れてきたらしい。
◇
月鐘会館の大広間には、円を描くように長机が並べられていた。
中央には大きな銀色の灯具。
天井には、青い硝子で作られた十二個の月鐘が下がっている。
そして中央灯具の内部には、外からは見えない十三個目の鐘が隠されていた。
商人や工房主たちは、会館職員に案内され、それぞれの席へ着いていく。
上等な服。
商会の紋章。
指にはめられた大きな宝石。
会話の内容は穏やかだが、その裏では互いの力を測っているのが分かった。
「あの人は、西門の穀物倉庫を三つ持っています」
カレンが俺にだけ聞こえる声で言う。
「向かいの女性は、北区の織物工房をまとめている方です。奥の白髪の男性は、鉄材の仕入れ価格にかなり影響力があります」
「よく全部覚えられますね」
「商売では、品物より先に人を覚えることもありますから」
カレンは穏やかに微笑んだ。
俺たちは、ベルシア商会の席に座っていた。
カレンが代表。
俺は調査補佐。
リリアは会合記録の確認役として、議事録担当者の近くにいる。
セリアは壁際。
ノアは医務室に近い席。
ミラとマルクは、中央灯具の操作盤がある裏室に待機している。
ジノとガッシュは搬入口と裏口。
セルヴィス・アルカード率いる白環の守り手たちは、会館の外周に配置されていた。
誰も、会合を封鎖してはいない。
けれど、何かが起こればすぐ動ける。
月鐘会館の管理責任者であるベレント・クライスが、正面の演台へ立った。
「皆様、本日はお忙しい中、北区商工連絡会へお集まりいただき、ありがとうございます」
ざわめきが静まる。
「南市および灯り小路周辺で発生した一連の騒動により、アルメリアの供給網には少なからぬ混乱が生じております」
南市の騒動。
そういう言い方をするのか。
子どもが実験に使われたことも、黒環会の魔道具が街へ流れたことも、ここでは「騒動」の二文字にまとめられる。
少し腹に引っかかった。
けれど、今は黙って聞く。
「本日の主な議題は、供給網の再編と、緊急時における共同管理体制の構築です」
ベレントが着席すると、別の男が立ち上がった。
三十代後半ほど。
淡い青の礼服。
銀縁の眼鏡。
胸には青い硝子を削ったような鳥の飾りがついている。
男はゆっくりと演台へ向かい、集まった商人たちを見回した。
「青硝子商会のユリウス・アーデンと申します」
青硝子。
ダリオの焼け残った記憶に反応した言葉だ。
俺は無意識に姿勢を正した。
カレンも表情を変えないまま、帳簿の端へ指を置く。
リリアのペンが動いた。
ユリウスは、柔らかな笑みを浮かべている。
「今回の混乱で、私たちは一つの事実を思い知らされました。各商会、各工房が、それぞれの判断だけで物を動かす仕組みには限界があるということです」
会場の何人かがうなずく。
「南市では、正体の分からない行商人が入り込み、臨時工房が用途不明の加工を引き受け、低位の冒険者が中身を知らぬまま荷物を運びました」
言っていること自体は間違っていない。
だから、聞く側も反論しにくい。
「管理されない流れは、自由なのではありません。責任の所在がなく、力の弱い者から危険を引き受ける流れです」
俺はユリウスを見た。
人当たりのいい話し方だった。
声を荒らげない。
南市を露骨に見下しているわけでもない。
むしろ、弱い者を守るためだと言っている。
「そこで青硝子商会は、新たな共同供給管理契約をご提案いたします」
会館職員が、各席へ書類を配り始めた。
表紙には、銀色の文字でこう書かれている。
――アルメリア共同供給調整契約。
ユリウスは続けた。
「材料、魔石、加工、運搬、保管。この五つを、登録された一つの調整窓口で管理する。緊急時には在庫と輸送力を共有し、欠品の発生を防ぐ」
それだけ聞けば、便利な仕組みに思える。
前世の俺なら、共同在庫や一元的な調整機能そのものには賛成したかもしれない。
実際、ばらばらに発注し、同じ材料を奪い合えば、困るのは現場だ。
問題は、誰が管理するか。
どこまで管理するか。
そして、その権限を誰が止められるかだ。
カレンは配られた契約書を、すぐにめくり始めた。
俺も隣から目を通す。
共同在庫。
優先配分。
緊急輸送。
登録工房への発注集約。
表向きはきれいな言葉が並んでいる。
だが、途中でカレンの指が止まった。
契約書の後半。
小さな文字で書かれた追加条項。
「見つけました」
カレンが小声で言う。
「何を?」
「第十二条。緊急時、調整局は各商会の保有在庫と契約状況を、本人の同意なく変更できる」
さらにページをめくる。
「第十四条。調整局の承認を受けない工房への発注を停止できる。第十七条。安全上の懸念がある地区への供給を制限できる」
「安全上の懸念がある地区……」
灯り小路や南市が対象になる。
黒環会に逆らった工房も、安全上の懸念があると言えば切り離せる。
共同管理というより、すべての流れを一つの窓口へ握らせる契約だ。
「そして、契約解除には調整局の承認が必要です」
カレンの声が少し冷たくなる。
「入るのは簡単ですが、抜けるのは難しい」
ユリウスは演台で、まだ穏やかに話している。
「自由な取引という言葉は美しい。しかし、薬も食料も魔石も、結局は金と力のある者から確保していく。管理されない流れが、本当に弱い者を救うでしょうか」
その言葉に、俺はわずかに息を止めた。
完全な嘘ではない。
金や力のある側が、品物を先に押さえることはある。
不足した時に、弱い場所から切られることもある。
ヴァルドの考えは、そこから始まっているのかもしれない。
だから厄介なのだ。
問題を正しく見つけながら、解決のために人の意思を奪う。
「管理が必要なのは、分かる」
俺は小さく言った。
カレンがこちらを見る。
「ですが、管理する側を管理する仕組みがありません」
「はい」
その時、大広間の壁にある時計が、小さな音を立てた。
会合開始から、ちょうど半刻。
進行表では、このあと中央の月鐘が鳴り、契約案への意見確認が始まることになっている。
ユリウスが、一瞬だけ天井を見た。
本当に一瞬だった。
ほかの参加者は契約書を見ている。
会館職員は次の配布物を用意している。
だが、ユリウスだけが十二個の鐘を見上げた。
(待っている)
鐘が鳴るのを。
いや、鐘が作動するのを。
俺はカレンの袖を軽く引いた。
「ユリウスは、天井を見ました」
カレンは顔を上げずに答える。
「時刻は?」
「意見確認の直前です」
カレンは机の下で、指を二度動かした。
合図だ。
リリアがこちらを見ないまま、ペンの向きを変えた。
今のユリウスの動きを記録したのだろう。
時計の針が進む。
会場が静まる。
いつもなら、ここで月鐘が澄んだ音を響かせる。
だが。
鐘は鳴らなかった。
ユリウスの笑みが、ほんのわずかに揺れた。
すぐに元へ戻った。
けれど、俺には見えた。
「鐘の整備に少々時間がかかっているようです」
ベレントが戸惑いながら言った。
「そのまま進行していただいて構いません」
ユリウスは穏やかに答える。
だが、右手の親指が胸元の青い鳥飾りへ触れた。
その動きを、カレンも見ていた。
「青硝子商会、ユリウス・アーデン様」
カレンが立ち上がった。
突然名前を呼ばれ、会場の視線が集まる。
ユリウスは笑顔を向けた。
「何でしょう、ベルシア様」
「契約内容について、いくつか確認させてください」
「もちろんです」
「第十二条では、調整局が各商会の在庫と既存契約を変更できるとあります。変更に対する異議申し立ての方法は?」
「緊急時に、長い協議をしている時間はありません」
「異議申し立ての方法はない、ということですね」
ユリウスの笑みが少しだけ硬くなる。
カレンは続けた。
「第十四条では、未承認工房への発注を停止できる。承認基準は、どこに記載されていますか?」
「調整局が、品質と安全を総合的に判断します」
「その調整局の構成員は?」
「参加商会から選出します」
「選出方法は?」
ユリウスが、一拍だけ黙った。
「詳細は契約成立後に」
会場に小さなざわめきが起こる。
カレンは笑顔を崩さない。
「つまり、私たちは管理者が誰になるかも、承認基準も、異議申し立て方法も分からないまま、在庫と発注権を預けるのですね」
「緊急時には、決断が必要です」
「決断と白紙委任は違います」
空気が変わった。
もし十三個目の鐘が本来の働きをしていたら、参加者たちは今より落ち着き、警戒心を弱めていたはずだ。
ユリウスの説明を、多少不明なところがあっても「後で確認すればいい」と受け入れていたかもしれない。
だが、今は違う。
商人たちが契約書をめくり始める。
「この解除条項は何だ」
「供給制限の判断を、一つの調整局へ渡すのか?」
「青硝子商会が窓口になるとは書いていないが、実務は誰が担う?」
疑問が、一つずつ声になる。
ユリウスは笑顔を保っている。
けれど、胸元の青い鳥飾りへ触れる指が、少し強くなった。
裏室にいるミラからの合図がない。
つまり、十三個目の鐘への正規起動はまだ来ていない。
ユリウスの鳥飾りは、別の起動具なのかもしれない。
俺の胸の奥に、小さな引っかかりが生まれた。
見たい。
鳥飾りから、どこへ流れが伸びているのか。
けれど、勝手には使わない。
俺は壁際のセリアを見る。
「中央灯具と、ユリウスの胸元だけ見たい」
セリアはすぐに意味を理解した。
「短く」
医務室側にいるノアも、こちらを見てうなずく。
裏室への合図役が、ミラの返事を伝える。
対象限定。
深視なし。
三人の確認がそろった。
俺は息を細く吐いた。
ユリウス本人ではなく、胸元の飾りと中央灯具の間を見る。
視界の焦点を、ほんの少しだけずらす。
入口と出口を探す。
(流れを見ろ)
大広間の色が薄くなった。
ユリウスの胸元から、細い灰黒色の線が伸びている。
中央灯具へ向かっている。
だが、途中で床へ落ちていた。
長机の下。
会場職員が飲み物を運ぶ通路。
そこにいる一人の給仕係へつながっている。
若い男。
銀色の盆を持っている。
線の出口は、盆の裏。
「給仕係! 中央から二人目! 盆の裏!」
俺はすぐに視界を戻した。
目の奥が少し痛む。
けれど、深くは見ていない。
給仕係の男が顔を上げた。
自分が見つかったと分かったのだろう。
盆を床へ投げようとする。
「セリア!」
短く息を吸う音。
右足が床を噛む。
腰が沈む。
青い魔力が足から肩へ流れ、剣へ届く。
セリアが踏み出した。
「守り払い!」
剣の腹が銀盆の縁を打つ。
盆は参加者のいない通路側へ弾かれ、床を滑った。
裏側には、小さな黒い術式片が貼りついている。
術式片が光った。
同時に、中央灯具の内部で十三個目の鐘が震える。
しかし、音は鳴らない。
代わりに、裏室からミラの声が響いた。
「起動者、記録した!」
給仕係が裏口へ走る。
だが、扉の前にはジノがいた。
「そっちは逃げ道だけど、今日は使わせない!」
ジノが近くの木箱を押し倒す。
「また木箱かよ!」
反対側からガッシュの声が飛んだ。
「使えるものは使うんだよ!」
給仕係が方向を変える。
今度は搬入口。
そこへガッシュが回り込む。
腕ではなく、足へ魔力を落とす。
床を踏み、腰を沈める。
動きはまだ荒い。
けれど、前のように肩だけで力を押し出してはいない。
「止まれ!」
ガッシュが体ごと道を塞いだ。
給仕係が小さな黒い札を投げる。
ガッシュは殴り返そうとした。
だが、一瞬だけ踏みとどまる。
「セリア!」
「下がって!」
セリアが間へ入り、黒い札を剣の腹で横へ払った。
札は壁にぶつかり、黒い煙を上げて消える。
給仕係は逃げ道を失った。
それでも懐へ手を入れようとする。
白い輪が、その腕を囲んだ。
「それ以上動けば、腕ごと封じます」
セルヴィス・アルカードが会場入口に立っていた。
白環の守り手たちが、すでに外周を押さえている。
「会館を封鎖します」
セルヴィスが言う。
参加者たちがざわめいた。
このまま全ての扉を閉じれば、会場は混乱する。
商人や工房主たちが一斉に出口へ向かえば、怪我人が出るかもしれない。
「外へ出る道は一つ残してください!」
俺は叫んだ。
セルヴィスがこちらを見る。
「敵を逃がします」
「敵はもう押さえています。参加者を閉じ込めないでください!」
短い沈黙。
セルヴィスは白環の守り手へ手を上げた。
「正面通路のみ確保。その他を封鎖」
完全封鎖ではない。
白環が、こちらのやり方に少し合わせた。
ノアと会館の治癒師たちが、驚いて立ち上がった参加者を落ち着かせている。
「走らないでください! 出口は確保されています!」
いつもは小さなノアの声が、今日は大広間の奥まで届いた。
リリアはその間も、記録を止めていなかった。
「ユリウス・アーデン、意見確認時刻直前に天井を確認。青い鳥飾りに接触。直後、給仕係が黒輪術式片を起動。十三個目の鐘との接続を確認」
ユリウスの顔から、ようやく笑みが消えた。
「ずいぶんと強引な記録ですね」
「事実を順番に記しただけです」
「私が飾りに触れたことと、その給仕係が勝手に動いたことに、どのような関係が?」
「あります」
ミラが裏室から出てきた。
手には、薄い記録板。
「十三個目へ起動信号を送った魔力の癖。あなたの鳥飾りに残ってる。給仕係の術式片は中継しただけ」
マルクも、丸眼鏡を直しながら続く。
「青硝子に感応魔石の粉を練り込んでおる。洒落た飾りのつもりかもしれんが、石の癖までは隠せんぞ」
ユリウスは胸元の飾りへ手を伸ばした。
セリアの剣先が、静かにその手を止める。
「触らないで」
「剣を向ける相手を間違えていませんか」
「子どもや商人の心を勝手に触る人よりは、間違えてないと思う」
ユリウスの目が冷たくなる。
穏やかな商人の顔が、初めて崩れた。
「心を操るなど、大げさな」
「警戒心を弱め、契約を受け入れやすくする仕掛けでした」
カレンが言った。
「それを操っていないと?」
「不安を減らしただけです」
ユリウスは言い切った。
「人は変化を恐れる。必要な改革であっても、古い習慣や目先の損得に縛られ、拒絶する。ならば、余計な恐れを少し取り除いてやればいい」
会場の商人たちが静かになる。
「共同管理が必要なのは事実です」
ユリウスは、もう笑っていなかった。
「自由な取引に任せた結果、薬も魔石も金のある者が買い占め、貧しい地区には粗悪品しか届かなかった。南市の職人は安値で使われ、低位冒険者は危険な仕事へ流れた」
ガッシュが奥歯を噛む。
ジノも拳を握った。
ユリウスの指摘には、彼ら自身が経験した事実が混ざっている。
「だから流れを管理する」
ユリウスの声が強くなる。
「必要な場所へ、必要な量を、管理者が配る。そうすれば弱い者も救える。目の前の自由を守るために、全体を不安定にする方が無責任ではありませんか」
反論しにくい言葉だった。
共同管理そのものが悪いわけではない。
計画も、調整も、優先順位も必要だ。
俺は前世で、それを仕事にしていた。
「管理は必要です」
俺が言うと、ユリウスがこちらを見た。
「ほう。話が分かる方もいる」
「でも、選ぶ権利を奪っていい理由にはならない」
「選択に任せれば、正しい改革は進まない」
「正しいかどうかを、誰が決めるんですか」
「結果を見られる者です」
「その結果に含まれる人の顔を、あなたは見ていますか」
ユリウスの眉がわずかに動く。
「南市で子どもが実験に使われました。職人は用途を隠され、冒険者は金で釣られた。あなたたちは、それを必要な結果として記録した」
「不完全な試行に損失はつきものです」
会場の空気が冷えた。
ユリウスは気づいていないのか。
あるいは、気づいていても構わないと思っているのか。
「損失?」
セリアの声が低くなる。
「あの子たちを、損失って呼んだの?」
「感情で制度は作れません」
ユリウスは冷たく答えた。
俺の中で、何かが静かに沈んだ。
怒りだった。
熱く爆発する怒りではない。
冷たく、重い怒り。
「感情だけでは制度は作れない」
俺は言った。
「それは分かります」
納期。
数量。
能力。
在庫。
数字を見なければ、物は作れない。
人の気持ちだけで工場は回らない。
でも。
「数字の中にいる人を忘れた制度は、いつか必ず人を潰します」
「理想論です」
「現場を知らない管理の方が、よほど理想論ですよ」
前世の俺は、管理する側にいた。
数字を追い、納期を追い、人へ頼んだ。
誰かの無理で計画をつないだこともある。
だからこそ分かる。
管理する側が、自分だけは傷つかない場所にいるのは危険だ。
「流れを見るっていうのは、人を数字にすることじゃない」
俺はユリウスを見た。
「その数字の場所に、誰がいるのかを見ることです」
ユリウスは答えなかった。
代わりに、ゆっくりと周囲を見る。
逃げ道を探している。
しかし正面にはセルヴィス。
搬入口にはガッシュ。
裏口にはジノ。
セリアの剣先は、まだ胸元の鳥飾りへ向いている。
カレンが契約書を持ち上げた。
「この契約は無効です」
「あなた一人に決める権限はない」
「もちろんです。ですから、皆様にお尋ねします」
カレンは参加者たちへ向き直った。
「警戒心を鈍らせる魔道具の下で、管理者も承認基準も決まっていない契約へ署名しますか?」
返事はなかった。
だが、誰もペンを取らなかった。
それが答えだった。
ユリウスの肩から、わずかに力が抜ける。
「分かりました」
彼は小さく息を吐いた。
「本日のところは、失敗ということでしょう」
「本日のところ?」
リリアが聞き返す。
ユリウスは薄く笑った。
最初の穏やかな笑みとは違う。
「この契約を拒んでも、物が不足すれば、あなた方は同じ仕組みを求めます。流れは、いつか管理者を必要とする」
セルヴィスが白い輪を狭める。
「続きは拘束後に聞きます」
「私を拘束しても、何も変わりませんよ」
ユリウスは抵抗しなかった。
白環の守り手たちに腕を取られる。
その胸元から、青い鳥飾りが外された。
ミラがすぐに布で包む。
カレンは契約書をめくり、最後のページで指を止めた。
「シュウさん」
「何かありましたか?」
「監修者の欄です」
そこには、小さな文字で一人の名が書かれていた。
供給調整制度・総監修。
ヴァルド・グレイム。
これまで、金属札や記録石、隠し帳簿の中にしかなかった名前。
だが今度は違う。
正式な契約書。
北区の商工連絡会で配られた書類。
誰にでも見える場所に、その名が記されている。
「隠れるのをやめた……?」
セリアがつぶやいた。
カレンは静かに首を横に振る。
「いいえ。おそらく最初から、彼は隠れているつもりがなかったのでしょう」
「どういうことですか?」
「ヴァルド・グレイムは、北区では供給網の改革を進める専門家として知られています」
俺は契約書の名前を見た。
黒環会の実験を指示する男。
貧しい地区を実証区と呼ぶ男。
そして表では、街を救う改革者。
隠れていた悪人を見つけたわけではない。
街の人々が信用している人物の裏側へ、ようやくたどり着いたのだ。
「捕まえれば終わり、じゃないんですね」
ノアが小さく言った。
「たぶん」
俺は答えた。
ユリウスの言葉に、うなずいた参加者もいた。
契約の仕掛けが暴かれたあとも、共同管理そのものは必要だと言う者がいる。
それは当然かもしれない。
黒環会が見つけた問題は、本当に街の中にあるのだから。
ただ反対するだけでは、ヴァルドには勝てない。
もっと良い流れを作らなければならない。
◇
騒ぎが落ち着いた頃には、窓の外が夕暮れ色に変わっていた。
十三個目の鐘は、中央灯具から外され、証拠品として布に包まれている。
結局、一度も音を鳴らさなかった。
けれど、鳴らなかったからこそ見えたものがある。
鐘が鳴るのを待っていた人間。
魔力に鈍らされなくても残る、商人たちの疑問。
そして、黒環会が差し出した管理の形を、完全には否定できない街の事情。
ジノは会館の外階段に座り込み、足を伸ばしていた。
「今日は木箱一個で済んだ」
「使ったことに変わりはねえだろ」
ガッシュが隣へ腰を下ろす。
「便利だったろ?」
「まあな」
「認めた」
「一回だけだ」
「最近そればっかりだな」
少し離れたところで、ノアが給仕係の若い男を診ている。
彼もまた、前払いで雇われただけらしい。
首元には弱い口止め術式があった。
実行した責任は消えない。
でも、切り捨てて終わりにもできない。
リリアは彼の証言を、一つずつ記録していた。
カレンは、会合に参加していた商人たちと話している。
契約を破棄するだけではなく、供給網の問題そのものは改めて協議する必要があると説明しているようだった。
ミラとマルクは、青い鳥飾りと十三個目の鐘を調べている。
セルヴィスは白環の守り手へ指示を出しながら、ときどきこちらを見ていた。
セリアが俺の隣に立つ。
「目は?」
「少し痛いです」
「少し?」
「本当に少しです」
「ノアに言った?」
「これから言います」
「今すぐ」
「はい」
俺は苦笑しながら、月鐘会館を振り返った。
天井には、十二個の青い鐘だけが残っている。
青硝子を通した夕陽が、床に淡い光を落としていた。
「シュウ」
「はい」
「ヴァルドって人、今までより近くなったのかな」
「近くはなったと思う」
「でも、難しくもなった?」
俺は少し考えてから、うなずいた。
「悪いことを隠しているだけの人なら、証拠を出せば終わります。でも、ヴァルドの言っている問題に納得する人がいる」
「管理しないと、弱い人が困るって話?」
「うん」
南市では、仕事と金が足りなかった。
北区では、供給の混乱を恐れていた。
ヴァルドは、その不安に答えを出そうとしている。
人の意思を奪うという、間違った方法で。
「じゃあ、私たちも答えを出さないといけないんだね」
セリアが言った。
「止めるだけじゃなくて」
「そうだと思う」
黒環会の流れを壊す。
白環のように切り離す。
それだけでは、また同じ問題が残る。
物が足りない。
仕事がない。
薬が届かない。
力のある商会が先に品物を押さえる。
そこを変えなければ、ヴァルドの言葉は何度でも人を引きつける。
(流れをほどいたあと、どうつなぎ直すか)
俺は布に包まれた十三個目の鐘を見た。
今日、鐘は鳴らなかった。
けれど、別の音が聞こえ始めた気がする。
管理されるか。
切り離されるか。
その二つではない、新しい流れを求める音。
まだ名前もない。
まだ形もない。
それでも、俺たちが南市で少しずつ作ってきたものがある。
記録する。
確認する。
危険な流れだけを止める。
生活の道は残す。
誰か一人の能力に頼らない。
それを、もっと大きな仕組みにできるだろうか。
夕刻の鐘が、北区の街へ響いた。
今度は会館の仕掛けではない。
街の時間を知らせる、普通の鐘だった。
その音を聞きながら、俺は契約書に記された名前を思い出す。
ヴァルド・グレイム。
黒い流れの向こう側にいた男は、ついに街の表へ姿を現した。
次に戦うのは、隠された魔道具だけではない。
人を納得させる言葉と、街が抱えている本当の詰まりだ。
第26話 改革者ヴァルド・グレイム
十三個目の月鐘を使った仕掛けは、失敗に終わりました。
しかし、共同供給管理契約そのものを支持する声は、北区から消えていません。
物が足りない。
価格が上がる。
力のある商会が在庫を先に押さえる。
ヴァルド・グレイムが指摘した問題は、確かに街の中に存在していました。
そして翌日。
契約書の総監修者として、その男が自ら月鐘会館へ姿を現します。




