第19話 火の消えた臨時工房
灰鷲両替所の隠し帳簿に残っていた名前。
――南市臨時工房。
そこは、短期間だけ借りられる小さな作業場でした。
黒環会の新型補助環は、どこか一つの大きな工房で作られていたわけではありません。
金の流れを分け、部品の流れを分け、人の責任も分ける。
シュウたちは、今度は「作る側」に残された詰まりを見に行きます。
南市の朝は、少しだけ煙の匂いがした。
パンを焼く匂い。
古い油の匂い。
鉄を削ったあとの、鼻の奥に残るような匂い。
アルメリアの中心通りとは違って、南市には働く音が近い。
戸を開ける音。
荷車を押す音。
誰かが誰かを呼ぶ声。
その全部が、まだ眠りきっていない街を少しずつ起こしているようだった。
俺たちは、その南市の奥へ向かっていた。
目的地は、灰鷲両替所の隠し帳簿に残っていた場所。
南市臨時工房。
「臨時工房って、何をする場所なんですか?」
俺が聞くと、カレン・ベルシアが歩きながら答えてくれた。
「短期間だけ借りられる作業場です。小さな商人や職人が、急ぎの注文を受けた時に使います。常設の工房を持てない人には便利ですね」
「便利な場所ほど、悪用もしやすいってことか」
「ええ。仕事ごとに借り手が変わりますから、記録が薄くなりやすい」
カレンはそう言って、少しだけ目を細めた。
「そして、責任も薄くなりやすい」
責任が薄くなる。
嫌な言葉だった。
でも、よく分かる。
前世でも似たようなことはあった。
外注先。
孫請け。
急ぎの特急対応。
誰かが無理をして、誰かが目をつぶって、最後に問題が出た時だけ「どこで起きたのか分からない」となる。
(流れが分けられると、責任も分けられる。分けられすぎると、誰も責任を持たなくなる)
俺はそんなことを考えながら、南市の路地を進んだ。
隣を歩くセリア・グランツが、ちらりとこちらを見る。
「シュウ、顔色は?」
「昨日よりはまし」
「それ、あんまり信用できない返事」
「ちゃんと寝ました」
「寝台に座って考え事してたのは、寝たって言わないよ」
「……見てたんですか」
「ノアから聞いた」
前を歩いていたノア・ルミナスが、申し訳なさそうに振り返った。
「す、すみません。でも、反動が残っている時は、本当に気をつけてほしくて」
「いや、助かってます」
本心だった。
魔流視は便利だ。
けれど、便利だからこそ怖い。
見れば何か分かる。
そう思うほど、つい見すぎる。
前世で、納期に追われて「自分がもう少し頑張れば」と考え続けたのと似ている。
あれは危ない考え方だ。
今の俺には、それを止めてくれる人がいる。
その事実が、少しだけくすぐったかった。
「でも、必要なら見る」
俺がそう言うと、セリアとノアが同時にこちらを見た。
「短く」
「集中視だけ」
二人の声が重なる。
俺は思わず苦笑した。
「はい」
少し後ろでは、ジノ・バレットとガッシュが並んで歩いていた。
正確には、並んでいるというより、ジノが勝手に横にくっついている。
「なあガッシュ、南市臨時工房って行ったことある?」
「ねえよ」
「俺はある」
「じゃあ聞くな」
「いや、話の入り口として」
「うるせえ」
ガッシュは不機嫌そうに言ったが、以前ほど声は荒くなかった。
灰鷲両替所で、自分が受け取った銀貨の流れを見た。
自分の弱さが、誰かの帳簿に「使えるもの」として残されていた。
そのことが、まだ彼の中に残っているのだろう。
怒っている。
悔しがっている。
けれど、その怒りは前ほど簡単には腕へ流れていない。
荒っぽい魔力が肩で跳ねる前に、本人が無理やり押さえているように見えた。
ミラ・フォルネがそれに気づいたのか、小さく言う。
「昨日よりは、ましね」
「またそれかよ」
「事実だから」
「褒め方を知らねえのか、お前は」
「褒めてないもの」
「余計ひどいだろ」
ジノが隣で笑った。
「ガッシュ、解析されてるぞ。よかったな」
「何がだ」
「俺なんて逃げ道ばっかり見てるから、たぶん解析する価値もない」
「それはそれで悲しくねえか?」
「自分で言って少し傷ついた」
くだらないやり取りだった。
でも、重い事件の後には、こういう音が必要なのかもしれない。
リリア・フォルンは、そんな二人を横目に見ながら、手元の記録板へ何かを書き込んでいた。
たぶん、今の会話ではない。
……たぶん。
◇
南市臨時工房は、思っていたより小さな建物だった。
黒ずんだ石壁。
煙突が二本。
入口には、煤けた木の看板がかかっている。
――南市臨時工房 第三棟。
正面の戸は閉まっていた。
だが、中から人の気配はある。
金属が擦れる音。
誰かが小声で話す声。
そして、火の匂い。
ミラが扉の前にしゃがみ、細い銀の測定具を当てた。
「扉には罠なし。入口は普通。変な術式線もない」
「安全?」
ジノが少しだけ明るい声で聞く。
「扉はね」
「毎回その言い方やめてくれない? 怖いんだけど」
「怖がるくらいでちょうどいいでしょ」
ミラはさらっと返し、扉の横にある鉄の留め具を指で触った。
「ただ、最近かなり急いで使った跡がある。金具が熱で歪んでる」
カレンが帳簿の写しを開く。
「隠し帳簿では、ここに『南市臨時工房・第三棟、二番系統外枠、短納期加工』とありました」
「短納期加工……」
俺は思わず顔をしかめた。
嫌な言葉だ。
いや、言葉そのものが悪いわけじゃない。
必要な時もある。
ただ、短納期の裏には、たいてい誰かの無理がある。
リリアが記録板を確認しながら言った。
「正式な工房使用申請では、加工内容は『農具用固定環』となっています」
「農具用?」
セリアが首をかしげる。
「新型補助環とは全然違うよね」
「はい。少なくとも、名称上は違います」
リリアの声が少しだけ冷える。
「名称上は」
その時、工房の扉が内側から開いた。
出てきたのは、細身の中年男だった。
油で光る髪を後ろへ撫でつけ、作業着の上に妙に上等なベストを着ている。
現場の人間というより、工房を管理する側の男に見えた。
「何ですか、朝からぞろぞろと」
男は不機嫌そうに言った。
カレンが一歩前へ出る。
「ベルシア商会のカレン・ベルシアです。こちらの工房で加工された部品について、確認したいことがあります」
「ベルシア商会?」
男の顔がわずかに変わる。
しかしすぐ、作ったような笑みに戻った。
「これはこれは。私はこの第三棟の管理を任されております、オルセン・マディと申します。何か手違いでも?」
「手違いかどうかを確認しに来ました」
カレンは静かに言った。
リリアが横で照会書を出す。
「冒険者組合アルメリア支部からの確認です。雨樋倉庫事件、西門馬車置き場事件、灰鷲両替所の隠し帳簿に関連する加工記録の照合を行います」
オルセンの笑みが少しだけ固まった。
「物騒ですね。しかし、ここはただの臨時工房です。職人に場所を貸し、注文通りに加工するだけ。何を作るかまで、いちいち詮索していては仕事になりませんよ」
だけ。
また、その言葉だ。
売っただけ。
運んだだけ。
両替しただけ。
場所を貸しただけ。
その「だけ」が、どこまで続けば人が傷ついたことになるのだろう。
セリアの表情が険しくなる。
ガッシュも、どこか居心地が悪そうに目をそらした。
オルセンは俺たちを見回し、鼻で笑った。
「それに、こういう場所は急ぎの仕事が多いのです。安く、早く、ほどほどに。きれいごとばかり言っていたら、南市の職人は食っていけません」
「ほどほどに、ですか」
ミラが低く言った。
「そのほどほどで、人に害が出るものを作った可能性があります」
「お嬢さん、職人仕事を知らないようだ。図面通りに作るのが加工屋の仕事です。使う側の責任まで、こちらに押しつけられては困る」
ミラの目が冷たくなる。
「図面がおかしいと分かったら、止めるのも職人の仕事よ」
「理想論ですな」
オルセンは肩をすくめた。
「金を払う客がいて、仕事があり、職人が食える。それで十分でしょう」
その言葉に、俺の胸の奥が少し重くなった。
全部が嘘ではないからだ。
職人が食うための仕事。
工房を回すための注文。
現実として、それはある。
でも、それを盾にして何でも流していいわけではない。
カレンが穏やかに微笑んだ。
「では、記録を確認させていただきます」
「記録?」
「はい。加工依頼書、使用申請、材料入庫、廃材処理、職人の作業記録。臨時工房でも、それくらいは残しているはずです」
オルセンは少しだけ目を細めた。
「当然あります。ただ、今は忙しい」
リリアが静かにペンを持ち直した。
「記録があるなら、確認はすぐ終わります」
「……」
「記録がない場合は、その旨を記録します」
オルセンは黙った。
リリアの声は大きくない。
けれど、逃げ道に細い針を置くような声だった。
「分かりました。中へどうぞ」
◇
工房の中は、外よりずっと暑かった。
炉の火は落とされていたが、石壁にはまだ熱が残っている。
床には鉄粉が散り、作業台の上には削りかけの輪金具がいくつも置かれていた。
若い職人が二人、俺たちを見て気まずそうに手を止める。
そのうち一人は、まだ少年に近い年だった。
細い腕に火傷の跡がある。
ノアがすぐに気づき、少し心配そうに見る。
オルセンは作業台の横にある棚から、分厚い記録帳を取り出した。
「こちらが使用記録です。見れば分かる通り、農具用固定環の加工です」
リリアが帳簿を受け取る。
作業日。
依頼名。
材料数。
加工数。
作業者名。
ペン先が静かに走る。
「……作業時間が合いませんね」
早かった。
オルセンの眉が動く。
「何がですか」
「農具用固定環二十個の加工としては、炉の使用時間が長すぎます。逆に、仕上げ工程の記録が短すぎます」
「職人が慣れていたのでしょう」
ミラが作業台の部品を一つ手に取った。
工具を当て、内側の溝を確認する。
「これは農具用じゃない」
その声は、はっきりしていた。
「何を根拠に?」
オルセンが言う。
ミラは部品を机に置いた。
「農具用固定環なら、内側の溝は滑り止めでいい。でもこれは、魔力を通すための細い術式溝がある。入口、変換部、出口の位置も、雨樋倉庫の新型補助環と合う」
「偶然でしょう」
「嘘を言っても魔道具は直らない」
ミラの声が冷えた。
「これ、補助環の外枠よ。しかも、人の魔力反応を測る型の」
若い職人の一人がびくりと肩を震わせた。
オルセンがその職人を睨む。
「余計な顔をするな」
セリアが一歩前へ出る。
「今の、どういう意味?」
「職人を指導しただけです」
「脅してるように見えたけど」
「剣士の方は物騒に見えるものが多いようだ」
セリアの手が剣の柄に伸びる。
だが、抜かない。
足裏で床を確かめ、呼吸を整えるだけだ。
彼女は前へ出たい気持ちを、きちんと止めていた。
俺は作業場の奥を見た。
炉の横。
灰を入れる大きな鉄箱。
そこだけ、胸の奥に妙な引っかかりがある。
まだ見えてはいない。
でも、空気が少し重い。
セリアがすぐに気づく。
「シュウ?」
「少しだけ見る」
ノアがこちらに来て、俺の手首にそっと触れた。
「短くです」
「はい」
息を細く吐く。
炉を見るのではなく、その奥にある流れを探す。
視界の焦点を、ほんの少しだけずらす。
入口と出口を探す。
(流れを見ろ)
工房の輪郭が薄れる。
火の消えた炉。
灰の入った鉄箱。
その底に、灰黒色の細い線が残っていた。
動いてはいない。
でも、何かが隠されている。
奥へ追おうとした瞬間、目の奥が少し痛んだ。
俺はすぐに視界を戻す。
「灰箱の底に何かあります」
ミラがすぐに動いた。
「場所は?」
「炉の右。大きい鉄箱」
ミラが工具で灰をかき分ける。
若い職人の顔が青ざめた。
オルセンが一歩動く。
「そこは廃材です。汚いだけですよ」
「だったら、なおさら確認します」
カレンがにこりと笑った。
ミラが灰の底から取り出したのは、薄い金属板だった。
黒く焦げている。
だが、内側には細かな溝が残っていた。
「型板ね」
ミラの声が低くなる。
「新型補助環の外枠を作るための型板。しかも、量産用に近い」
工房の中が静まり返った。
オルセンの顔から笑みが消える。
「知らない。そんなものは、誰かが勝手に」
「灰箱の底に?」
リリアが聞く。
「廃棄物です。誰が入れたかなど」
「廃棄記録を確認します」
リリアは帳簿をめくる。
そしてすぐに、ペン先を止めた。
「廃材処理の記録がありません」
「書き忘れでしょう」
「作業記録は細かいのに、型板の廃棄だけ書き忘れたのですか」
「……」
リリアは表情を変えない。
「記録します」
その時、工房の奥で小さな音がした。
カチリ。
ミラの顔色が変わる。
「炉の下!」
次の瞬間、火の消えていたはずの炉の奥から、灰黒色の光が走った。
残っていた熱が一気に膨らむ。
灰箱の近くにいた若い職人が、逃げ遅れた。
「危ない!」
セリアが動いた。
短く息を吸う。
足裏で床を掴む。
腰が沈み、青い魔力が肩から腕へ流れる。
剣身に薄い光が走った。
だが、ここで斬れば炉が割れるかもしれない。
セリアは一瞬で剣の向きを変えた。
「守り払い!」
剣の腹で熱の流れを横へ逸らす。
灰黒色の火花が壁に散り、石壁が焦げた。
若い職人は腰を抜かして座り込む。
ノアがすぐに駆け寄った。
彼の呼吸を見る。
脈を確認する。
火傷した腕に両手を当てる。
「大丈夫です。少しだけ、治癒をかけますね」
淡い白い光が、ノアの指先から広がる。
若い職人の顔が少しだけ緩んだ。
「す、すみません……」
「謝らなくていいです。今は動かないで」
ミラは炉の下へ工具を差し込んでいた。
「焼却術式! 型板と記録を一緒に焼く仕掛け!」
「止められるか?」
俺が聞く。
「完全には無理。出口を逃がさないと炉が割れる」
「出口は?」
俺はまた見ようとした。
その瞬間、セリアが鋭く言う。
「シュウ、待って」
「でも――」
「ミラが見る」
ミラが炉の下に測定具を当てた。
額に汗が浮かぶ。
「入口は炉の奥。変換部は下。出口は煙突……違う、詰まってる! だから内側に熱が戻ってる」
「煙突を開ければいいのか?」
「開ければ逃がせる。でも、開閉レバーが固着してる」
ジノがすぐに煙突横を見る。
「レバーは上! でも足場が悪い! 俺なら登れるけど、力が足りない!」
ガッシュが舌打ちした。
「どけ」
彼は煙突横の梯子に手をかけた。
腕に魔力が集まりかける。
いつものように力任せに腕へ流れようとする。
俺は思わず叫んだ。
「腕じゃない! 足から流せ!」
「ああ!?」
「腕だけに集めると、肩で詰まる! 足で踏ん張って、腰に流せ!」
ガッシュは一瞬、怒鳴り返そうとした。
けれど、歯を食いしばり、言われた通り足を踏みしめた。
荒い魔力が足に落ちる。
まだ不器用だ。
流れは太く、ぎこちない。
それでも、肩で跳ねる量が少し減った。
「命令すんな、Eランク……!」
「今は聞け、Dランク!」
「くそが!」
ガッシュは梯子を上り、固着したレバーを掴んだ。
腕だけで引かない。
足を踏ん張り、腰を落とし、全身で引く。
ぎぎぎ、と嫌な音がした。
ジノが下で叫ぶ。
「いける! たぶんいける! いや、いけてくれないと俺たち焼ける!」
「うるせえ!」
ガッシュが吠えた。
レバーが動いた。
煙突の奥で、詰まっていた熱が一気に上へ抜ける。
灰黒色の光が薄くなった。
ミラがすかさず工具を差し込む。
「今、焼却線を切る!」
小さな火花。
金属音。
そして、炉の奥の光が消えた。
工房の中に、熱と煙だけが残る。
ガッシュは梯子の上で肩で息をしていた。
荒い。
けれど、さっきより魔力の流れは落ち着いている。
ミラが下から見上げて言った。
「今のは、ましじゃなくて、良かった」
ガッシュは驚いたようにミラを見た。
「……褒めたのか?」
「ええ。珍しく」
「珍しくは余計だ」
ジノがにやにや笑う。
「よかったな、ガッシュ。解析済みで高評価だぞ」
「うるせえ。降りたら殴る」
「ほら、すぐそういうこと言う」
軽口が戻った。
だが、オルセンだけは笑っていなかった。
彼はじりじりと出口へ下がっている。
カレンがそれに気づいた。
「どちらへ?」
「火事になりかけたんです。人を呼びに」
「外には白環の監視も組合員もいます。お手数ですが、ここでお待ちください」
オルセンの顔が歪む。
「私は関係ない! 場所を貸しただけだ!」
その声は、さっきまでよりずっと荒かった。
「図面を持ってきたのは客だ。加工したのは職人だ。私は管理しただけだ。何が悪い!」
若い職人が、ノアに支えられながら顔を上げた。
「……違います」
小さな声だった。
だが、工房の中によく響いた。
オルセンが睨む。
「黙れ」
若い職人は震えた。
それでも、言葉を続けた。
「図面を見た時、ミラさんが言ったみたいに、変な溝があるって分かりました。俺、言ったんです。これ、農具じゃないって」
オルセンの顔がさらに険しくなる。
「黙れと言っている」
セリアが若い職人とオルセンの間に立った。
剣は抜かない。
けれど、その背中だけで十分だった。
「話して」
セリアは静かに言った。
若い職人は泣きそうな顔でうなずいた。
「そしたら、オルセンさんが……『余計なことを考えるな。金を払う客がいる。お前らは言われた通り削ればいい』って」
リリアのペンが走る。
オルセンが叫ぶ。
「そんなもの、証言だけでは――」
「記録します」
リリアは一切揺れなかった。
「さらに、型板、焼却術式、廃材記録なし、帳簿上の農具用固定環、実物の補助環外枠。照合します」
オルセンの喉が鳴る。
カレンが静かに言った。
「オルセン様。職人が食べていくための仕事を守りたいなら、なおさら危険な仕事を止めるべきでした」
「きれいごとだ」
「ええ。よく言われます」
カレンは微笑んだ。
「ですが、信用を失った工房には、そのきれいごとすら売れなくなります」
オルセンは何も言えなかった。
◇
昼過ぎ、南市臨時工房第三棟は一時停止となった。
ただし、白環の守り手が求めた完全封鎖ではない。
危険な型板と焼却術式のあった第三棟だけを止め、他の棟は組合と商会の確認を受けながら動かすことになった。
セルヴィス・アルカードは不満そうだった。
「やはり、臨時工房全体を封鎖すべきです」
「それをすると、関係のない職人の仕事まで止まります」
俺が言うと、セルヴィスは冷たい目を向けた。
「黒環会は、その関係のない者の中に紛れます」
「だから、記録と検査を入れます。全部止めるんじゃなく、危ない流れを拾う」
「手間がかかる」
「かかります」
「遅い」
「でも、切り捨てなくて済む人が増えます」
セルヴィスは何も言わなかった。
ただ、工房の前で不安そうに立つ職人たちを一瞥した。
その目には、やはり人というより範囲を見る冷たさがあった。
でも、前ほど即座に切り捨てる感じでもなかった。
ほんの少しだけ、こちらのやり方を観察している。
そう見えた。
ミラは回収した型板を布で包んでいた。
「この型板があれば、新型補助環の外枠は作れる。だけど、完全な図面はここにはない」
「図面は誰が持っているんでしょう」
俺が聞くと、若い職人が小さく手を上げた。
「図面は、持ち込まれたあと、すぐ回収されました。灰色の外套じゃなくて……黒い革鞄の男です」
「黒い革鞄?」
リリアが記録する。
「はい。顔はよく見えませんでした。でも、鞄に銀色の細い鎖がついていました」
カレンの表情が変わった。
「銀鎖の鞄……」
「知っているんですか?」
「商会の間で、少し噂になっている人物がいます。表向きは工房仲介人。名は、ダリオ・セイン」
「ヴァルドの部下?」
「おそらく。少なくとも、灰鷲両替所の資金と、南市臨時工房の加工をつなげる役です」
新しい名前。
ダリオ・セイン。
ヴァルド・グレイムへ続く、もう一つの線。
リリアの記録板に、また新しい文字が加わる。
灯り小路。
雨樋倉庫。
西門馬車置き場。
灰鷲両替所。
南市臨時工房。
そして、ダリオ・セイン。
点が線になり、線が網になっていく。
ヴァルドの作った流れが、少しずつ見え始めていた。
ガッシュが梯子のそばに座り込んでいた。
疲れた顔をしている。
俺が近づくと、彼は顔をそむけた。
「何だよ」
「さっきは助かった」
「別に、お前のためじゃねえ」
「分かってる」
「分かってんなら言うな」
少し間が空いた。
ガッシュは、自分の手を見ていた。
「腕だけじゃ、だめなんだな」
「え?」
「力を入れりゃいいと思ってた。腕に集めて、殴って、押して。それで何とかなるって」
ガッシュは苦い顔をした。
「でも、昨日も今日も、それじゃ食われた」
俺は何も言わなかった。
ガッシュが自分で言葉にしている。
それを邪魔したくなかった。
「足から流せって、あれ……」
「たぶん、身体強化の基本なんだと思う」
「たぶんかよ」
「俺、剣士じゃないし」
「役に立たねえな、Eランク」
「助言は聞いたくせに」
「うるせえ」
ガッシュは顔をそむけた。
けれど、前みたいに本気で見下している声ではなかった。
「……一回だけ、練習してやってもいい」
「誰と?」
「お前じゃねえ。セリアだ」
少し離れた場所で、セリアが驚いた顔をした。
「私?」
「踏み込みとか、流れとか、そういうの……少しだけだ。少しだけ聞く」
セリアは一瞬ぽかんとした。
それから、ふっと笑った。
「いいよ。ただし、偉そうにしたら木剣で転がす」
「やれるもんならやってみろ」
「言ったね」
ジノが嬉しそうに横から入る。
「俺も見学する! ガッシュが転がるところ!」
「お前は来るな!」
「絶対行く!」
また言い合いが始まった。
南市の工房前に、少しだけ笑い声が戻る。
その向こうで、火の消えた炉から細い煙が上がっていた。
あの炉は、危険な型板を隠すために使われた。
でも、本来は職人が物を作るための火だったはずだ。
火そのものが悪いわけではない。
流れそのものが悪いわけでもない。
どこへ向けるか。
誰のために使うか。
そこを間違えれば、人を傷つける。
(黒環会は、火も、金も、人も、全部を自分たちの流れに組み込む)
俺は、布に包まれた型板を見た。
そして、リリアの記録板に書かれた新しい名前を見る。
ダリオ・セイン。
ヴァルドへつながる、工房仲介人。
次に追うべき流れは、そこだ。
セリアが隣に来た。
「見つかったね、次の詰まり」
「ああ」
「無理して見た?」
「今日は少しだけ」
「本当に少し?」
「……少しより、ちょっと多いくらい」
セリアがじとっと見る。
「次から、見た時間もリリアさんに記録してもらう?」
「それは怖い」
「でしょ」
俺たちは、少しだけ笑った。
まだ終わりではない。
ヴァルドは遠い。
黒環会の流れも深い。
白環の目も、こちらを見ている。
でも、火の消えた臨時工房で、一つだけ分かったことがある。
作る人間も、運ぶ人間も、使う人間も。
誰か一人を責めて終わりにすれば、流れはまた別の場所で詰まる。
だから、ほどく。
隠された型板を見つけるように。
焼かれかけた記録を残すように。
力任せだった腕の流れを、足元から整えるように。
少しずつ。
面倒でも。
人が、人のまま選べる道へ。
南市の空に、細い煙が溶けていった。
その先に、次の名前が浮かんでいる。
ダリオ・セイン。
そして、そのさらに奥に。
ヴァルド・グレイムの冷たい笑みが、まだ見えない場所で待っていた。
第19話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、灰鷲両替所の隠し帳簿から出てきた「南市臨時工房」を調査する回でした。
新型補助環は、一つの場所で完成品として作られていたのではなく、外枠、接続片、固定具、封印紐、記録石などに分けられて流されていました。
臨時工房の管理者オルセンは、「場所を貸しただけ」「図面通りに作っただけ」と責任を逃れようとします。
一方で、若い職人はおかしいと気づきながらも、仕事を失う怖さから止めきれませんでした。
今回、ガッシュは力任せではなく、足から魔力を流して踏ん張るという小さな成長を見せました。
まだ素直ではありませんが、黒環会に利用されかけた経験から、自分の弱さと少しずつ向き合い始めています。
次回は、黒い革鞄の工房仲介人、ダリオ・セインを追い、ヴァルド・グレイムの製造網にさらに近づいていきます。




