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納期遅れで死んだ俺、異世界では魔力の詰まりが見えるらしい 〜最弱Eランクだけど、術式を読み替えて世界の流れを変えていく〜  作者: 好山 雪
第1章 月影の森で目覚める

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第18話 灰鷲両替所

西門の馬車置き場で見つかった、古い刻印の銀貨。


その出どころは、南市と西門の商人が使うという灰鷲両替所でした。


黒環会の流れは、魔道具や封印紐だけではありません。


金の流れ。


人の弱みへ差し込まれる前払い。


そして、記録に残される借り。


今回は、シュウたちがヴァルド・グレイムへ続く資金の詰まりを追います。


第18話 灰鷲両替所


 銀貨は、ただの銀貨に見えた。


 丸く、少し古びていて、端がわずかに削れている。


 表にはアルヴェリア王国の古い王冠印。


 裏には、羽を広げた鳥のような小さな刻印。


 俺には、それ以上のことは分からない。


 だが、カレン・ベルシアは違った。


 彼女はその銀貨を指先でつまみ、窓から差し込む朝の光にかざした。


「やはり、灰鷲両替所の流れですね」


「銀貨を見ただけで分かるんですか?」


 俺が聞くと、カレンは薄く微笑んだ。


「銀貨そのものは王国貨です。ただ、古い銀貨をまとめて流す両替所には癖があります。傷のつき方、磨き方、端の削れ方、そして小さな確認刻印」


 彼女は銀貨の裏側を見せた。


 羽を広げた鳥。


 それが、灰鷲両替所の確認印らしい。


「灰鷲両替所は、南市と西門を行き来する商人がよく使います。古い商隊資金や、出どころを目立たせたくない小口資金を扱う場所です」


「出どころを目立たせたくない……」


 セリア・グランツが眉をひそめた。


「それって怪しいってこと?」


「全部が怪しいわけではありません」


 カレンは銀貨を机の上に置いた。


「旅商人や小規模工房は、古い銀貨をまとめて両替することがあります。問題は、その灰鷲両替所から、黒環会に利用されかけた荷運びの前払いが出ていることです」


 調査室の机には、前日の証拠が並んでいた。


 西門の馬車置き場で見つかった固定具。


 黒輪術式片。


 ガッシュに渡された前払い銀貨。


 灰色帽子の男の偽装荷札。


 リリア・フォルンは、帳簿と証言書を並べていた。


 依頼日時。


 西門通行記録。


 空荷馬車の出入り。


 ガッシュの証言。


 銀貨の刻印。


 リリアはペン先で一つひとつを追い、静かに言った。


「灰鷲両替所を調べる価値はあります。少なくとも、ガッシュ様に渡された銀貨の束は、同じ時期にまとめて両替された可能性が高いです」


「俺の名前、そんな丁寧に呼ばなくていい」


 部屋の隅で、ガッシュが気まずそうに言った。


 昨日までなら、偉そうに腕を組んでいたはずだ。


 だが今は、壁にもたれ、視線を机の上の銀貨に落としている。


 Dランクのアヴァントゥリースト。


 荒っぽく、Eランクの俺を見下していた男。


 それでも昨日、黒環会の流れに利用されかけた。


 その事実は、ガッシュの中にまだ重く残っているようだった。


 ジノ・バレットが横から覗き込む。


「いいじゃん。リリアさんに様付けで呼ばれるなんて、怖いけどちょっと偉くなった気分だぞ」


「怖いなら偉くねえだろ」


「それはそう」


 リリアのペンが、カリ、と鳴った。


 二人とも少しだけ背筋を伸ばした。


 やはり、リリアの記録音には不思議な圧がある。


 ミラ・フォルネは、固定具と黒輪術式片を工具で確認していた。


 細い銀の棒を術式片に当て、入口、変換部、出口の順に見ていく。


「こっちも昨日の新型補助環と同じ系統ね。部品を分けて運ばせて、別の場所で組む。雨樋倉庫が止まったから、西門側へ流そうとしていたんでしょう」


「一つ止めても、別の流れへ逃がす」


 俺はつぶやいた。


「物流の迂回ルートみたいだ」


「そうね。ただ、普通の迂回は荷を届けるため。これは責任を逃がすための迂回」


 ミラの声には嫌悪が混じっていた。


 カレンは帳簿を閉じる。


「灰鷲両替所へ行きましょう。金の流れを追えば、ヴァルド・グレイムへ近づけるかもしれません」


 その名前が出た瞬間、調査室の空気が少し冷えた。


 人を流れの中の要素と呼んだ男。


 灯り小路の住民を、よい実証例だったと記録に残した男。


 まだ直接対面はしていない。


 けれど、あの声は耳に残っている。


 俺は銀貨を見下ろした。


(魔道具だけじゃない。金も、人を縛る流れになる)


 前払い。


 報酬。


 借金。


 支払い記録。


 そこに弱みを結びつければ、人は簡単に動かされる。


 俺はガッシュを見た。


「ガッシュも来てくれ」


「あ?」


 ガッシュが顔を上げる。


「なんで俺が」


「銀貨を受け取った本人だからだ。灰鷲両替所で照合する時、証言が必要になるかもしれない」


「俺を晒し者にする気かよ」


「違う」


「じゃあ何だよ」


 俺は少し考えてから言った。


「利用された流れを、自分で見に行く」


 ガッシュは黙った。


 拳を握る。


 粗い魔力が腕に集まりかけたが、すぐに散った。


 自分で抑えたのだ。


 ミラがちらりと見て、ぼそっと言う。


「昨日よりまし」


「いちいち解析すんな」


「見えるものは仕方ないでしょ」


 ガッシュは舌打ちした。


 だが、拒否はしなかった。


「……一回だけだ」


「昨日も聞いたな、それ」


 ジノがにやりとする。


「うるせえ。お前よりは役に立つ」


「逃げ道の重要性を知らないな? 生き残り業界では超重要なんだぞ」


「何だよ生き残り業界って」


 言い合いを聞きながら、セリアが少しだけ笑った。


 しかし、その手は剣の柄から離れていなかった。


 灰鷲両替所。


 そこに何があるかは、まだ分からない。


     ◇


 灰鷲両替所は、南市と西門を結ぶ通りの中ほどにあった。


 石造りの二階建て。


 入口には古びた看板。


 灰色の鷲が、硬貨をつかんでいる絵が描かれている。


 店の前には、商人、荷運び、旅人、小さな工房の職人らしき者たちが並んでいた。


 思ったより普通の店だ。


 そこが逆に厄介だった。


 黒環会と関わっているからといって、店全体が真っ黒とは限らない。


 日々の両替に使っている人たちもいる。


 ここを雑に潰せば、関係のない人の金の流れまで止まる。


(黒環会の流れだけを拾う。生活の流れまで切らない)


 白環の守り手なら、まとめて封鎖するかもしれない。


 でも、それではまた詰まる。


 店に入る前に、ノアが俺の袖を軽く引いた。


「シュウさん」


「大丈夫です。今日は魔流視を使わないつもりです」


「つもり、は不安です」


「……必要なら集中視だけにします」


「深視に入ったら止めます」


 ノアは真剣だった。


 俺はうなずくしかなかった。


 セリアも横から言う。


「息を細く吐いたら、私も見るからね」


「完全に監視されてる」


「当然」


 セリアは少しだけ頬を膨らませた。


 その様子を見て、ジノが小声で言う。


「シュウって、心配され慣れてないよな」


「うるさい」


「図星か」


「記録しますか?」


 リリアが静かに言うと、ジノはすぐに口を閉じた。


 店内に入ると、硬貨の音が耳に飛び込んできた。


 銀貨が積まれる音。


 銅貨を数える音。


 帳簿をめくる音。


 両替所の奥には、細い目をした中年の男が座っていた。


 整えられた髭。


 指には灰鷲の紋章が入った指輪。


 目元は笑っている。


 だが、こちらを値踏みするような視線だった。


「いらっしゃいませ。灰鷲両替所へようこそ」


 男は穏やかに言った。


「私は支配人のバルク・ヘイズと申します。本日は両替でしょうか。それとも、商会間の照会でしょうか」


 カレンが一歩前へ出た。


 表情は穏やか。


 だが、空気が変わった。


 商人と商人の距離だ。


「ベルシア商会のカレン・ベルシアです。確認したい銀貨があります」


「ベルシア商会の方でしたか。それはそれは」


 バルクは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。


「どうぞ奥へ」


 案内されたのは、店の奥にある小さな応接室だった。


 壁には古い商隊の絵。


 棚には帳簿。


 机の上には、硬貨を数えるための小さな天秤が置かれている。


 カレンは椅子に座らず、銀貨を机の上に置いた。


「この銀貨の流れを確認したいのです」


 バルクは銀貨を見た。


 一瞬だけ、目が細くなる。


 すぐに穏やかな顔へ戻った。


「古い王冠印ですね。こうした銀貨はよく扱っております」


「灰鷲の確認印があります」


「ええ。当店を通ったものでしょう。ただ、日々多くの銀貨を扱っています。個別の流れまでは」


「帳簿を確認すれば分かりますね」


 カレンは微笑んだ。


 バルクも微笑み返す。


「もちろん、正当な手続きがあれば」


 リリアが静かに書類を出した。


「冒険者組合アルメリア支部からの照会書です。雨樋倉庫事件、西門馬車置き場事件に関わる前払い銀貨の照合を求めます」


 バルクは書類を受け取った。


「なるほど。組合もずいぶん熱心ですね」


「記録確認は命を守る防波堤です」


 リリアは淡々と言った。


「防波堤ですか。大げさな」


 バルクは小さく笑った。


「銀貨は銀貨ですよ。使う者の心まで、両替所は管理できません」


「心ではなく、流れを確認したいのです」


 リリアのペン先が、照会書の時刻を指す。


「この銀貨が、いつ、誰によって、どの束から出されたのか」


「それは個人情報に関わります」


 カレンの笑みが深くなった。


「商会間の信用毀損と、黒輪術式片の流通に関わる照会です。個人情報を盾にする段階ではないと思いますが」


 バルクの笑みがわずかに固まった。


「黒輪術式片、ですか」


「ご存じありませんか?」


「恐ろしい話ですね」


 知らないふりがうまい。


 だが、うますぎる。


 俺は部屋の空気に、かすかな重さを感じた。


 魔力の違和感ではない。


 いや、完全には違うとも言い切れない。


 胸の奥に、小さな引っかかりがある。


 棚の奥。


 帳簿の並び。


 そこだけ、空気が少し沈んでいる。


(見るか?)


 いや、まだ早い。


 今日はカレンとリリアが主役だ。


 俺が魔流視で先走る必要はない。


 カレンは銀貨をもう一枚机に置いた。


 ガッシュが受け取った銀貨の一つだ。


「この銀貨は、昨日、Dランクアヴァントゥリーストのガッシュ様へ前払いとして渡されました。彼に渡した人物は、灰色の帽子の男。西門馬車置き場で黒輪術式片とともに確保されています」


 ガッシュが気まずそうに顔をそらす。


 バルクはちらりと彼を見た。


 その視線には、かすかな侮りがあった。


「なるほど。金に困った冒険者が、怪しい仕事に飛びついたと」


 ガッシュの肩が震えた。


 セリアの目が鋭くなる。


 バルクは続けた。


「失礼。ですが、よくある話です。低位の冒険者は、前払いに弱い。中身を見ない。相手を確かめない。銀貨を握れば、それで終わりです」


「てめえ……」


 ガッシュの腕に、粗い魔力が集まりかける。


 肩のあたりで跳ねる。


 怒りがそのまま腕へ流れている。


 俺は低く言った。


「ガッシュ、流すな」


「っ……」


「相手に乗るな」


 ガッシュは歯を食いしばった。


 拳を握り、ゆっくり下ろす。


 魔力が散っていく。


 バルクが面白そうに目を細めた。


「おや、ずいぶん聞き分けがよくなりましたね」


 今度はセリアが一歩前へ出た。


 しかし、踏み込みはしない。


 剣の柄を握り直すだけだ。


「それ以上、煽るなら外で話す?」


「剣士の方は物騒ですね」


「必要ならね」


 空気が張り詰める。


 その中で、カレンだけは静かに笑っていた。


「バルク支配人」


「はい」


「両替所は、金に困った人を見下す場所ではありませんよ」


「もちろんです」


「商売は、金だけでは続きません。信用で続くものです」


 カレンは机に置いた銀貨を指で押さえた。


「その信用を、誰かの弱みに差し込む鎖として使ったのなら、両替所としては致命的です」


 バルクの笑みが、ほんの少し消えた。


 リリアがペンを走らせる。


「バルク・ヘイズ支配人、低位冒険者への前払い仕事について『よくある話』と発言。銀貨の出どころについては未回答」


「記録しないでいただきたい」


「記録します」


「会話の切り取りは誤解を招きます」


「では、正確に説明してください」


 リリアの声は静かだった。


 逃げ道を一つずつ塞ぐ声だ。


 バルクはしばらく沈黙した。


 やがて、棚の方へ歩き出す。


「分かりました。帳簿を確認しましょう」


 その動きに、ミラが目を細めた。


 彼女は応接室の棚を見ていた。


 工具は出していない。


 しかし、術式を見る時の顔になっている。


「待って」


 ミラが言った。


 バルクの手が止まる。


「その棚、何か仕込んでるでしょ」


「仕込む?」


「感覚で言ってるんじゃない。棚の金具に術式線がある。入口は取っ手。変換部は蝶番。出口は……帳簿の背」


 ミラは細い工具を取り出した。


「触ると、帳簿の一部が焼ける仕掛けね」


 バルクの顔から笑みが消えた。


 セリアが即座に剣を抜いた。


 短く息を吸う。


 足裏で床を掴む。


 だが、踏み込みすぎない。


 部屋が狭いからだ。


 彼女は半歩だけ前に出て、バルクと棚の間に入った。


「動かないで」


 バルクは両手を上げた。


「誤解です。防犯用の術式ですよ」


「帳簿を焼く防犯術式?」


 ミラが冷たく言った。


「便利な防犯ね」


 カレンは棚へ近づいた。


「ミラさん、解除できますか?」


「完全解除は時間がかかる。でも焼失の出口を絞るくらいなら」


 ミラは工具を金具に当てた。


 銀の棒がかすかに震える。


「入口は取っ手。変換部は蝶番。出口は帳簿の背……やっぱり。焼く対象は三冊だけ」


「三冊?」


 リリアがすぐに反応する。


「どの三冊ですか」


「右から二、五、七」


 リリアのペンが走る。


「対象帳簿三冊。隠蔽対象の可能性あり」


 バルクの額に汗がにじんだ。


 俺は棚を見た。


 胸の奥の違和感が強くなる。


 ミラが術式を押さえている。


 リリアが記録している。


 カレンが逃げ道を塞いでいる。


 今なら、深く見る必要はない。


 集中視で、焼失の流れだけ確認すればいい。


 俺はノアを見た。


 ノアは不安そうにうなずいた。


「短く、です」


「はい」


 息を細く吐く。


 棚を見るのではなく、その奥にある流れを探す。


 視界の焦点を、ほんの少しだけずらす。


 入口と出口を探す。


(流れを見ろ)


 棚の輪郭が薄れた。


 金具から細い灰黒色の線が伸びている。


 三冊の帳簿の背に絡みつき、その先で小さな火種のように揺れている。


 深く追わない。


 原因方向だけを見る。


 いや、原因は棚ではない。


 床下だ。


 応接室の机の下から、もう一本の線が棚へ伸びている。


「机の下にも術式片があります」


 俺はすぐに視界を戻した。


 目の奥が少し痛むが、まだ耐えられる。


「棚だけじゃない。机の下が起点です」


 セリアがすぐに机を蹴ってずらした。


 床板の隙間に、小さな黒い金属片がはめ込まれている。


 ミラが舌打ちした。


「二重起動。棚を止めても、机側から焼く気だったのね」


「悪質です」


 リリアの声が一段低くなった。


 バルクは後ずさる。


「私は知らない。前任者の仕掛けかもしれない」


「その前任者はいつ退職を?」


「三年前です」


 リリアのペンが止まる。


「この机は先月入れ替えられています」


 バルクが黙った。


 カレンが微笑む。


「帳簿は嘘をつきません。嘘をつくのは、帳簿を書く人間です」


 ミラが工具を机下の術式片に当てた。


「出口を絞る。カレン、帳簿を取って。リリア、触る順番を記録して」


「はい」


「分かりました」


 ミラが深く息を吐く。


「今」


 カレンが右から二冊目の帳簿を抜いた。


 続けて五冊目。


 七冊目。


 棚の金具が一瞬だけ黒く光る。


 だが、火は出なかった。


 ミラが机下の術式片を押さえ込んでいる。


「長くは持たない。早く」


 リリアが帳簿を開いた。


 依頼主。


 両替日。


 銀貨枚数。


 受取人。


 中継名義。


 ペン先が走る。


 そして、ある行で止まった。


「ありました」


 調査室で聞く時より、さらに冷たい声だった。


「灰鷲両替所。三日前。古王冠印銀貨百二十枚を小口分割。受取名義は、G商会代理。支払い先は、低位冒険者複数、荷運び人、南市臨時工房」


「低位冒険者複数……」


 ガッシュがつぶやいた。


 自分だけではない。


 同じように金で釣られた者が、他にもいる。


 リリアは次の行を読んだ。


「備考欄。『灯り小路実証費、二番系統、V・G確認済』」


 部屋の空気が止まった。


 V・G。


 ヴァルド・グレイム。


 ついに、金の流れの中にその頭文字が出た。


 バルクは青ざめた顔で叫んだ。


「私は知らない! ただ帳簿を預かっただけだ!」


「帳簿に備考を書く権限があるのは?」


 リリアが聞く。


 バルクは答えない。


 カレンが帳簿の端を指でなぞる。


「この筆跡、支配人筆記欄ですね」


「違う!」


「では筆跡照合をしましょう。両替所の正規帳簿と、こちらの隠し帳簿を並べれば分かります」


 バルクの顔が歪んだ。


 その瞬間、彼は懐から小さな黒い札を取り出した。


 ミラが叫ぶ。


「起動札!」


 セリアが動く。


 右足が床を噛む。


 腰が沈む。


 青い魔力が足から肩へ、腕へ、剣へ流れる。


 だが、狭い部屋で剣を振れば、帳簿に当たる。


 セリアは一瞬で判断を変えた。


「守り払い!」


 剣ではなく鞘を使い、バルクの手元を横へ払う。


 黒い札が床へ落ちる。


 ジノが叫びながら木椅子を蹴った。


「待て待て待て! それ絶対踏んじゃだめなやつ!」


 倒れた椅子が札の上に重なり、札の光を遮った。


 ミラが駆け寄り、工具で札を押さえる。


「雑だけど助かった!」


「今のは作戦!」


「今回は認める!」


「やった!」


 ガッシュはその場に立ち尽くしていた。


 腕に魔力が集まりかけている。


 バルクを殴りたいのだろう。


 だが、彼は拳を震わせながら、足を止めていた。


「……殴らねえ」


 ガッシュが低く言った。


「殴ったら、こいつの話を聞けなくなる」


 セリアが少し驚いたようにガッシュを見る。


 ガッシュは悔しそうに顔を歪めた。


「俺だって、少しは学ぶ」


「少しだけね」


「うるせえ」


 それでも、彼は止まった。


 怒りを腕に流さず、踏みとどまった。


 それは小さな変化だった。


 だが、確かな変化だった。


 バルクは床に膝をついた。


 カレンが静かに見下ろす。


「バルク支配人。あなたは金の流れを扱う立場にありながら、人の弱みへ鎖をかけました」


「私は……私は、命令されただけだ」


「誰に?」


 バルクは唇を噛む。


「言えば、私も消される」


「言わなければ、記録があなたを追います」


 リリアが帳簿を閉じた。


「証拠は確保しました。隠し帳簿三冊、焼失術式、起動札、G商会代理への小口分割記録、V・G確認済の備考。これで両替所としての責任は問えます」


 バルクの肩が震えた。


 さっきまで低位冒険者を見下していた男が、今は自分の逃げ道を探している。


「ヴァルド様は……」


 その名が出た。


 全員が息を止める。


「ヴァルド様は、金は血だと言っていた。流れを動かすには、魔力より先に金を押さえろと」


「それで、低位冒険者に前払いを?」


「金に困った者は断れない。断っても、記録が残る。一度受け取れば、次も使える。そう言われた」


 ガッシュの顔が歪む。


 バルクは震える声で続けた。


「灯り小路は、実証区だ。雨樋倉庫は、回収点。西門は、迂回路。灰鷲は、資金口。私は資金を小口に分けただけだ」


「だけ」


 俺は思わず繰り返した。


「また、だけか」


 売っただけ。


 運ばせただけ。


 両替しただけ。


 記録しただけ。


 その「だけ」が積み重なって、人が縛られ、子どもが実験台にされ、街が切り離されかけた。


「その『だけ』が、人を詰まらせるんだ」


 俺の声は、自分で思ったより低かった。


 バルクは俺を見た。


「理想論だ。流れは金で動く。金に困る者は、金で動く。それだけだ」


「違う」


「何が違う」


「金で動くんじゃない。金がないから、動かされるんだ」


 バルクは黙った。


「そこに選択肢がないなら、それは取引じゃない。鎖だ」


 部屋の中に、硬貨の音はもう聞こえなかった。


 応接室の外では、まだ普通の両替が続いている。


 その普通の音が、ひどく遠く感じた。


     ◇


 灰鷲両替所の外には、いつの間にか白い外套の一団が立っていた。


 セルヴィス・アルカード。


 白環の守り手だ。


 彼は確保された帳簿とバルクを見て、静かに言った。


「灰鷲両替所は即時封鎖します」


 ジノが顔をしかめた。


「また封鎖かよ」


「黒環会の資金口です。放置する理由がありません」


 セルヴィスの判断は早い。


 そして、間違っているとは言い切れない。


 だが、俺は店の外に並ぶ人々を見た。


 旅商人。


 職人。


 荷運び。


 小さな袋に銅貨を握る老婆。


 彼らは全員、黒環会ではない。


 今日の両替ができなければ、仕入れが止まる者もいる。


 薬代を崩せない者もいる。


 俺はセルヴィスに向き直った。


「完全封鎖ではなく、管理営業にしてください」


「またですか」


「黒環会の資金口は止める。でも、生活と正規商流の両替は残す」


「両替所の中枢が汚染されています」


「だから、帳簿を分ける。黒環会関係の帳簿と資金は白環と組合で押さえる。少額両替はベルシア商会の監督付きで続ける。大口と古銀貨の小口分割は停止」


 カレンがすぐに続けた。


「ベルシア商会から監査人を出せます。灰鷲両替所の信用は一時停止。ただし、生活用両替窓口だけは別帳簿で動かす形にします」


 リリアも記録紙を出す。


「組合側で、低位冒険者への前払い依頼を照合します。今後、一定額以上の前払い仕事は依頼内容の開示を義務づける申請を出します」


 セルヴィスは俺たちを見た。


「あなた方は、いつも流れを残そうとする」


「全部止めると、別の詰まりができます」


 俺は言った。


「詰まった人は、また黒環会に狙われる」


 セルヴィスはしばらく黙っていた。


 その視線は冷たい。


 だが、以前より少しだけ、こちらの言葉を計算に入れているようにも見えた。


「試験的に認めます。ただし、白環監視下です」


「分かりました」


「それと、シュウ・サエキ」


「はい」


「あなたの言う第三の処理は、手間がかかりすぎる」


「そうですね」


「非効率です」


「かもしれません」


「それでも続けるのですか」


 俺は灰鷲両替所の前に並ぶ人々を見た。


 ガッシュは、少し離れた場所で自分の銀貨を握りしめている。


 ジノは、老婆に生活用両替の列を案内している。


 ノアは体調の悪い商人に声をかけている。


 セリアは、白環の守り手と住民の間に立つように位置取っている。


 リリアは記録を整え、ミラは焼失術式を封印し、カレンは監査人の手配を始めている。


 手間はかかる。


 面倒だ。


 一括で止めた方が早い。


 それでも。


「人を切り捨てないための手間なら、必要です」


 俺は答えた。


 セルヴィスは何も言わなかった。


 ただ、ほんのわずかに目を細めた。


     ◇


 その夜、アルメリア支部の調査室には、新しい線が引かれていた。


 灯り小路。


 雨樋倉庫。


 西門馬車置き場。


 灰鷲両替所。


 それぞれを結ぶ線の先に、リリアが小さく文字を書いた。


 ――V・G。


 ヴァルド・グレイム。


 カレンは帳簿を閉じる。


「資金口を押さえたことで、ヴァルド側は動かざるを得ません」


 ミラは黒い起動札を見ながら言った。


「術式片の系統もかなり揃ってきた。新型補助環の組立場所か、設計者に近づけるかもしれない」


 リリアは新しい調査項目を書き出す。


「次は、南市臨時工房です。灰鷲の帳簿に名前が出ています」


 ガッシュが壁際で低くつぶやいた。


「……俺みたいなやつ、他にもいるんだろうな」


 誰も否定しなかった。


 ジノが少しだけ真面目な顔で言う。


「いるだろうな。銀貨二十枚って、けっこうでかいし」


「お前なら受けるか?」


「前の俺なら、ちょっと揺れた」


 ジノは正直に言った。


「母ちゃんの薬代ってさ、待ってくれないんだわ」


 ガッシュは何も言えなくなった。


 俺は二人を見た。


 黒環会は、そこを狙う。


 金が必要な人。


 見栄を張る人。


 家族を守りたい人。


 認められたい人。


 弱さを責めるのではなく、弱さにつけ込む流れを止めなければならない。


 その時、調査室の窓の外で、黒い鳥が一羽飛び立った。


 夜の中に溶けるような影。


 ただの鳥かもしれない。


 だが、胸の奥に小さな違和感が残った。


 俺は息を吐きかけて、止めた。


 今は見ない。


 無理に追わない。


 必要なら、仲間と一緒に見る。


 セリアがそれに気づいたように、俺の横に立った。


「見ないの?」


「今は、見ない」


「うん。その方がいい」


 セリアは少しだけ笑った。


 俺は机の上の地図を見る。


 南市臨時工房。


 灰鷲両替所の隠し帳簿に出てきた、次の名前。


 金の流れの先に、術式の流れがある。


 そして、その先にヴァルドがいる。


(流れを支配するんじゃない)


 俺は心の中でつぶやいた。


(詰まった場所をほどいて、人が選べる道を残す)


 夜の帳簿に、また一本、新しい線が引かれた。


第18話を読んでいただきありがとうございます。


今回は、灰鷲両替所を調査し、黒環会の資金の流れに迫る回でした。


危険な魔道具や術式片だけでなく、前払い銀貨や両替記録も、人を縛る流れとして使われていました。


カレンは商流読解で銀貨と両替所の流れを追い、リリアは隠し帳簿と記録の矛盾を押さえました。


ミラは帳簿焼失用の術式を見抜き、セリアとジノの動きによって証拠を守ることができました。


また、ガッシュは怒りで暴走しかけながらも、自分で踏みとどまる場面が出てきました。


白環の守り手セルヴィスは、灰鷲両替所の即時封鎖を選ぼうとしましたが、シュウたちは生活用の両替を残す「管理営業」という形を提案します。


次回は、隠し帳簿に出てきた南市臨時工房を追い、新型補助環の製造側へ近づいていきます。


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