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納期遅れで死んだ俺、異世界では魔力の詰まりが見えるらしい 〜最弱Eランクだけど、術式を読み替えて世界の流れを変えていく〜  作者: 好山 雪
第1章 月影の森で目覚める

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第12話 灰色外套の行商人



 灰色の外套を着た男は、月影の森から少し離れた古い小屋の中で、荷車の中身を確認していた。


 黒布をめくると、そこには小さな金属の輪がいくつも並んでいる。


 補助環。


 安い魔石でも灯りを長く保てるとうたった、下町向けの魔道具部品。


 男はその一つを指先でつまみ上げ、薄く笑った。


「まったく、騒ぎにするほどのことですかね」


 小屋の隅には、すでに燃やしかけた荷札や、偽の納品書が散らばっている。

 ベルシア商会の倉庫名を使ったものも混ざっていた。


 男はそれらを見ても、顔色一つ変えない。


「灯りを欲しがったのは、あの者たちです。私は売っただけ。買ったのは彼らだ」


 補助環の表面に刻まれた黒い線が、かすかに揺れた。


 普通の者には見えない。

 だが、その線には濁った魔力が流れている。


 男はそれを気にする様子もなく、荷車の底板を外した。


 隠し箱の中には、さらに細い黒輪の欠片が数枚入っている。


「貧しい者には、多少濁った灯りでも十分でしょうに」


 男は、まるで世間話のように呟いた。


「暗闇よりは、ましなのですから」


 小屋の外で、鳥が一羽飛び立った。


 男は顔を上げる。


 遠く、アルメリアの方角に視線を向けた。


「さて。見える新人、でしたか」


 灰色の外套の男は、口元だけで笑った。


「面倒な目を持ったものですね」


     ◇


 月影の森から戻ったシュウたちは、すぐに組合の確認室へ通された。


 机の上には、森で回収したものが並べられている。


 黒布の切れ端。

 補助環の破片。

 簡易術式杭。

 濁った角兎の角から出てきた、黒い輪の欠片。


 ミラはそれぞれを布越しに並べ、記録を取っていた。


「補助環と術式杭は、作りが完全には同じじゃない。でも、使われている線の癖が似ている」


「同じ職人が作った?」


 セリアが聞くと、ミラは少し考えてから首を横に振った。


「同じ職人というより、同じ設計思想。魔力を自然に流すんじゃなくて、無理に引っ張る。弱い流れを強く見せる。その代わり、周囲から魔力を巻き込む」


 カレンは、ベルシア商会から持ち込んだ帳簿の写しを机に置いた。


「南門から出た灰色外套の行商人。名前は偽名だったわ。でも、荷車の特徴と行商許可の印から、何度か下町に出入りしていた人物と一致した」


「名前は?」


 エルネストが尋ねる。


 カレンは一枚の紙を差し出した。


「ラドム・ヴェイル。古道具と中古魔光灯を扱う行商人。表向きは、安価な生活魔道具を扱う善良な商人という評判だったそうよ」


「善良ね」


 ミラが吐き捨てるように言った。


「危険な補助環を売りつけておいて?」


「安かったことは確かでしょうね」


 カレンの声は冷静だった。


「だから、買う人がいた」


 その言葉に、部屋の空気が少し重くなる。


 誰も、灯り小路の住民を責めることはできなかった。


 エルネストは腕を組み、低く言った。


「ラドムの居場所は?」


「今日の夕方、南市の古道具市に出る可能性があります」


「また売るつもりか」


 セリアの声が鋭くなる。


「おそらく、在庫を処分する気でしょう」


 カレンは続けた。


「灯り小路の騒ぎで危険を感じたなら、残りを売り切って逃げる。商人としては最低ですが、逃亡前の行動としてはありえます」


 ジノが拳を握った。


 彼は壁際に立っていた。


 本来なら、この場には呼ばれないはずだった。

 だが、灯り小路の件で被害者側でもあり、下町の顔も知っている。

 エルネストが特別に同席を認めた。


「そいつが、母さんの薬にまで濁りを……」


「ジノ」


 リリアが静かに声をかけた。


「怒るのは当然です。ただし、今は証拠と安全確保が優先です」


「……分かってる」


 ジノは唇を噛んだ。


「でも、会ったら殴るかもしれない」


「殴った場合、こちらの手続きが面倒になります」


「そこ?」


「そこです」


 リリアは淡々と言った。


「怒りで相手を逃がすより、記録と証拠で逃げ道を塞いだ方が効果的です」


 ジノは黙った。


 シュウは、その言葉に少しだけ納得した。


 相手を殴るのは一瞬だ。

 だが、それだけでは補助環の流れは止まらない。


 どこで作られ、誰が運び、誰が売り、どこへ流れたのか。


 それを押さえなければ、また同じことが起きる。


「俺は何をすれば?」


 シュウが尋ねると、エルネストがこちらを見た。


「お前はラドムの荷を見る。補助環があれば、濁りで分かるだろう」


「はい」


「ただし、昨日みたいに無理に流れへ触るな」


「……はい」


「間があったな」


「気をつけます」


 セリアがすぐに言う。


「私が見てます」


「頼んだ」


 エルネストは頷いた。


 ミラが小さな透明筒をシュウに渡した。


「これを持っていて。濁った補助環に近づくと、針が振れる。あなたの目ほど正確じゃないけど、証拠になる」


「分かりました」


「見えた、だけじゃ逃げられる。記録と道具で残す」


「はい」


 カレンは黒い手袋をはめた。


「私は買い手役をやるわ。ベルシアの名は出さない。安い補助環を探している商人として近づく」


「危険じゃないですか?」


 シュウが聞くと、カレンは微笑んだ。


「商人同士の会話なら、剣より慣れているわ」


「でも、相手は普通じゃありません」


「普通の商人の方が少ないわ」


 それはそれでどうなのかと思ったが、シュウは口に出さなかった。


     ◇


 南市の古道具市は、夕暮れ前から人が増え始めていた。


 壊れた鍋。

 古い布。

 欠けた皿。

 中古の魔光灯。

 修理済みだという暖房具。

 出所の怪しい小物。


 正規の商会区とは違い、ここでは値段も品質もばらばらだった。


 呼び込みの声が飛び交う。


「安いよ、安いよ!」


「直せばまだ使える!」


「魔石は別売りだ!」


「今だけ半額!」


 シュウは人混みの中で、思わず立ち止まりそうになった。


 物の流れが多すぎる。


 魔石。

 壊れた魔道具。

 古い工具。

 人の手から手へ渡る小銭。


 その中に、薄い青や灰色の流れが混ざっている。


(見すぎるな)


 意識して視野を狭める。


 リリアからも、ミラからも言われている。

 無理に見れば、頭痛が来る。


 横にいたセリアが、そっと声をかけた。


「大丈夫?」


「ああ。人と物が多くて、少し見づらいだけだ」


「無理そうなら言って」


「言う」


「本当に?」


「本当に」


 セリアはしばらくこちらを見ていたが、やがて頷いた。


 少し離れた場所で、カレンが買い手役として歩いている。

 服装も少し変えており、いつもの上品な商会人というより、地方から来た小商人のように見えた。


 ミラは帽子を深くかぶり、工具袋を隠している。

 ジノは、地元の下町民として自然に紛れ込んでいた。


 ただ、ジノだけは表情が硬い。


 いつもの軽さがない。


 シュウは、彼の視線の先を追った。


 市場の奥。


 古い布屋と中古魔光灯の店の間に、小さな荷車がある。


 黒布をかけた荷車。


 その横に、灰色の外套を着た男が立っていた。


「いた」


 シュウが小さく言う。


 セリアの目が細くなる。


「あれがラドム?」


「たぶん」


 灰色外套の男は、穏やかな笑みを浮かべて客と話していた。


 細身。

 年齢は三十代半ばほど。

 声は柔らかく、仕草は丁寧。


 だが、シュウには見えた。


 荷車の中から、細い灰黒色の流れが漏れている。


 間違いない。


 補助環だ。


     ◇


「奥様、その魔光灯なら、こちらの補助環が合いますよ」


 ラドム・ヴェイルは、年配の女に向かって優しく言った。


「良質な魔石など、毎日買えるものではありませんでしょう? この補助環を入れれば、安い魔石でも灯りが長持ちします」


「でも、最近この辺りで危ないって噂が……」


「噂です」


 ラドムは柔らかく笑った。


「高い魔石を売りたい商会や、修理代を取りたい魔道具職人が流した話でしょう。貧しい者が安く灯りを得ることを、面白く思わない者もいますから」


 その言葉に、ミラの眉が跳ね上がった。


 セリアも剣の柄に手を置きかける。


 シュウは小さく首を振った。


 まだだ。


 カレンが、客を装って近づく。


「その補助環、ずいぶん評判が良いのね」


 ラドムはカレンを見る。


 一瞬、目が細くなった。


 だが、すぐに笑顔へ戻る。


「ええ。夜の灯りに困る方々には、とても喜ばれております」


「安い魔石でも使える?」


「もちろん」


「副作用は?」


 カレンの声は穏やかだった。


 ラドムは、わずかに口角を上げた。


「副作用、ですか。魔道具に多少の癖はあります。しかし、暗闇で過ごすよりはよほど良いでしょう」


「最近、灯りが灰色に濁るという話も聞いたわ」


「古い魔光灯ではよくあることです」


「薬や治癒具に影響が出たという話は?」


 その瞬間、ラドムの目が少しだけ冷えた。


 本当に一瞬だった。


 だが、シュウには見えた。


 彼の周囲の魔力が、微かに黒く細くなる。


「それは大げさな噂でしょう」


 ラドムは笑った。


「そもそも、薬が効かないのを補助環のせいにするのは、少々無理があります。貧しい地区では、元から薬の質も保管状態も悪いものです」


 ジノの表情が変わった。


 彼の足が前に出る。


 セリアがすぐに肩を押さえた。


「ジノ」


「分かってる」


 だが、声は震えていた。


 ラドムはさらに続ける。


「私は灯りを売っただけですよ。買ったのは彼らです。安いものには理由がある。そんなことも知らずに買ったのなら、それは買い手の問題でしょう」


 その場の空気が、冷たくなる。


 シュウの胸の奥にも、熱が灯った。


(こいつは、分かっていて売っている)


 間違いない。


 ラドムは危険性を完全に知らなかったわけではない。

 知った上で、責任を買い手に押しつけている。


 カレンの微笑みが、薄くなった。


「では、あなたはその補助環が安全だと保証できるのね」


「当然です」


「商人として?」


「ええ。商人として」


「なら、記録を残しても構わないわね」


 カレンが指を鳴らす。


 背後から、リリアが姿を現した。


 組合職員を伴っている。


 ラドムの表情が、初めて明確に動いた。


「……組合の方ですか」


「ソユーズ・アヴァントゥリースト、アルメリア支部のリリア・フォルンです」


 リリアは淡々と名乗った。


「危険性のある魔道具部品の販売について、確認させていただきます」


「これは古道具市での通常販売です。組合が口を出す話ではないのでは?」


「灯り小路で健康被害の恐れが出ています。組合が保護対応を行った記録もあります」


 リリアは書類を開く。


「さらに、月影の森周辺で回収された術式片と、あなたが販売する補助環に関連性がある可能性があります」


 ラドムは笑みを戻した。


「可能性、ですか。証拠ではありませんね」


 リリアは表情を変えない。


「確認のため、荷の開示をお願いします」


「拒否します」


「理由は?」


「商売上の秘密です」


 ラドムは笑った。


 その笑顔が、ひどく薄い。


「弱い者の灯りを守るために、私のような小さな商人が努力しているのです。それを大きな組合や商会が邪魔する。美しい話ではありませんね」


 周囲の客たちがざわつく。


 ラドムはそれを分かっていて言っている。


 自分を、貧しい者の味方に見せている。


(うまいな)


 シュウは唇を噛んだ。


 ただ捕まえようとすれば、周囲の反発を招く。

 灯り小路の老人たちと同じように、ここにも安い灯りを必要とする人がいる。


 そこを利用している。


 カレンが一歩前に出た。


「ラドム・ヴェイル。ベルシア商会の封印紐を、あなたの荷に使った記録があります」


 ラドムの目が細くなる。


「何の話でしょう」


「偽の荷札、偽の倉庫名、偽装された赤印の木箱。あなたの荷車と同じ黒布の繊維も確認済みよ」


「証拠は?」


「あります」


 カレンは布に包まれた封印紐を取り出した。


 ミラも透明筒を掲げる。


「この補助環から出ている濁りと、森で回収した術式杭、赤印の木箱の破片。反応が一致している」


「濁りなど、目に見えないものを証拠と言われましても」


 ラドムは肩をすくめた。


 その時、シュウが前へ出た。


「見えます」


 ラドムの視線が、シュウに向く。


「あなたが?」


「はい」


「噂の新人ですか。Eランクの」


 ラドムはわざとらしく、シュウの腰の木札を見る。


「ずいぶんと立派な目をお持ちのようですね。剣も魔法も扱えない方が、目だけで商売を裁くのですか?」


 周囲の一部が、小さく笑った。


 セリアの表情が険しくなる。


 だが、シュウは前に出たまま立っていた。


 腹は立つ。

 だが、今ここで怒れば相手の思うつぼだ。


「裁くのは俺ではありません」


 シュウは言った。


「ただ、あなたの荷から、灯り小路で見たものと同じ濁った流れが出ています」


「だから?」


「その濁りは、魔石や薬に絡みます。ジノさんの母親の薬にも、濁りが絡みかけていました」


 ラドムはちらりとジノを見た。


「それはお気の毒に」


 軽い声だった。


 ジノの拳が震える。


 ラドムは続けた。


「ですが、薬の管理が悪かったのでは? 貧しい家では、保管も十分ではありませんから」


「てめえ……!」


 ジノが飛び出そうとする。


 セリアが止める。


「ジノ!」


「離せ!」


 ラドムは薄く笑った。


 その笑顔に、シュウの胸の奥で何かが熱くなった。


(またか)


 弱い人のせいにする。

 困っている人のせいにする。

 自分が流したものの責任を、買った側に押しつける。


 前の世界でも見た。


 現場のせい。

 確認不足のせい。

 使い方が悪い。

 保管が悪い。


 上流で流した問題を、下流で受けた人間の責任にする。


「それは違う」


 シュウの声は、思ったより低かった。


 ラドムの笑みが止まる。


「何が違うと?」


「知らずに買った人に、全部の責任を押しつけるのは違う」


「安いものを買うなら、リスクも買うべきでしょう」


「リスクを説明していないなら、それは商売じゃない」


 カレンが、ほんの少しだけシュウを見る。


 シュウは続けた。


「あなたは灯りを売ったんじゃない。濁りを隠して流した」


 ラドムの目から、笑みが消えた。


 一瞬だけ、灰色の外套の内側から黒い流れが見えた。


(来る)


 シュウは叫んだ。


「荷車から離れてください!」


 次の瞬間、ラドムは荷車の底を蹴った。


 黒布の下から、小さな補助環がいくつも飛び散る。


 同時に、灰黒色の流れが周囲へ広がった。


 客たちが悲鳴を上げる。


 ミラが叫ぶ。


「封印布!」


 組合職員が動く。

 セリアが子供を抱えて下がらせる。

 ジノは近くにいた老人を引っ張って避難させた。


 ラドムはその隙に、荷車の後ろへ回る。


「失礼。商談はここまでです」


「逃がすか!」


 セリアが追おうとする。


 だが、シュウには見えた。


 ラドムが逃げる方向の地面に、細い黒い糸が張られている。


「セリア、右じゃない! 正面は罠!」


 セリアは踏み込む寸前で止まり、横へ跳んだ。


 直後、地面から灰色の魔力が跳ね上がる。


「またこれ!」


 セリアは着地し、別方向から回り込む。


 ラドムの顔がわずかに歪んだ。


「本当に面倒な目ですね」


 その声には、先ほどまでの丁寧さが消えていた。


 ミラが荷車の補助環へ封印布をかける。


 カレンは周囲の商人たちへ指示を飛ばす。


「近づかないで! 荷には触れない! 倒れた人がいたら組合職員へ!」


 リリアはすでに記録板を手に、ラドムの動きを追っていた。


「逃走行為、危険物の散布、販売記録の不提示。すべて記録します」


「こんな時に記録!?」


 ジノが叫ぶ。


「こういう時こそ記録です」


 リリアは冷静だった。


 ラドムは市場の奥へ逃げる。


 その先には狭い路地。


 逃げ込まれれば見失う。


「シュウ!」


 セリアが叫ぶ。


「どっち!?」


 シュウは目を凝らした。


 灰黒色の流れが、ラドムの足元から二方向へ伸びている。


 一つは路地。

 もう一つは、古い井戸の近く。


 路地の流れは濃い。

 だが、不自然に濃すぎる。


(囮だ)


「井戸の方です! 路地は見せかけ!」


 セリアが即座に方向を変える。


 ラドムが振り返った。


 その顔に、初めて焦りが浮かぶ。


「なぜ分かる」


 セリアが距離を詰める。


 ラドムは懐から小さな黒い輪を取り出し、地面へ投げようとした。


 その時、横から誰かが飛び込んだ。


 ガッシュだった。


 組合の荒っぽいDランクアヴァントゥリースト。

 いつも新人を見下していた男が、ラドムの腕を乱暴につかんだ。


「おいおい、街中で何をばらまいてんだ、灰色野郎」


「離しなさい」


「嫌だね」


 ガッシュはにやりと笑った。


「リリアさんに、逃げ道塞げって言われてんだよ。断ったら後が怖え」


 ラドムは腕を振りほどこうとする。


 だが、その一瞬で十分だった。


 セリアの剣の鞘が、ラドムの手元を打つ。


 黒い輪が地面へ落ちる。


 ミラが封印布を投げ、すぐに包み込む。


 ラドムは顔を歪めた。


 だが、まだ諦めていない。


 彼の外套の内側から、黒い細い糸が伸びる。


 市場の外へ。


 誰かがいる。


「外に、もう一人います!」


 シュウが叫んだ瞬間、遠くの屋根の上で何かが光った。


 ラドムの足元に黒い円が浮かぶ。


「転移符!」


 ミラが叫ぶ。


 セリアがラドムへ飛びかかる。


 だが、黒い円の方が一瞬早かった。


 ラドムの体が、影に沈むように揺らぐ。


 消える直前、彼はシュウを見た。


 その目は、もう商人のものではなかった。


「流れを止めれば、弱い者から凍える」


 紙片と同じ言葉。


 ラドムは笑った。


「あなたの綺麗な正義で、あの者たちの夜を照らせるといいですね」


 次の瞬間、灰色外套の行商人は黒い円の中へ消えた。


 市場には、散らばった補助環と、封印布に包まれた黒い輪。

 そして、怒りと恐怖でざわつく人々だけが残された。


     ◇


 騒ぎが収まったのは、完全に日が落ちてからだった。


 補助環は回収された。

 ラドムの荷車も押収された。

 負傷者はいなかったが、数人が軽い魔力酔いを起こした。


 リリアは淡々と記録をまとめている。


 ミラは荷車の底を調べていた。


「隠し箱がある」


 彼女が言うと、カレンがランプを近づけた。


 荷車の底板の奥。

 そこには、燃やし損ねた納品書の切れ端が残っていた。


 カレンが布越しに取り出す。


 焼け焦げた紙には、短い文字が残っている。


「……実証区」


「何ですか、それ」


 シュウが聞く。


 カレンの表情が険しくなった。


「灯り小路のことかもしれない」


 ミラが紙を覗き込む。


「下に名前がある」


 リリアが読み上げた。


「ヴァルド・グレイム」


 その名を聞いた瞬間、カレンの顔から色が少し消えた。


「知っているんですか?」


 シュウが尋ねる。


 カレンは、いつもの柔らかな笑みを消したまま答えた。


「表向きは、流通改善を掲げる商人よ。安価な魔道具部品の流通に関わっている」


「表向きは?」


「裏は、まだ分からない」


 カレンは焼けた紙を見つめた。


「でも、もし彼が関わっているなら、ラドムはただの売り子に過ぎない」


 ジノが低く言った。


「じゃあ、母さんの薬も、灯り小路も……そのヴァルドってやつが?」


「まだ断定できません」


 リリアが言う。


「ですが、調べる必要があります」


 シュウは焼けた紙の端を見た。


 そこから、細い灰黒色の流れがまだ残っている。


 そして、その奥に、もっと太い流れの気配があった。


 ラドムのものではない。


 もっと冷たく、整った流れ。


 人を助けるための流れではない。


 人を計るための流れ。


 シュウの背筋に、冷たいものが走った。


 ラドム・ヴェイルは逃げた。


 しかし、彼は本体ではなかった。


 灯り小路を濁らせた流れの奥には、さらに大きな意志がある。


 実証区。


 その言葉が、シュウの胸に重く残った。


 人の暮らす街を、誰かが実験場と呼んでいる。


 その事実だけで、十分すぎるほど腹が立った。


(許せない)


 シュウは拳を握った。


 見えるだけでは足りない。


 だが、見えたなら、追える。


 そして今度こそ、逃がさない。


 南市の灯りが、夜風に揺れていた。


 その灯りの奥で、灰色の濁りはまだ消えていない。


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