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納期遅れで死んだ俺、異世界では魔力の詰まりが見えるらしい 〜最弱Eランクだけど、術式を読み替えて世界の流れを変えていく〜  作者: 好山 雪
第1章 月影の森で目覚める

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第11話 月影の森へ戻る

 翌朝のアルメリアは、いつもより少し冷えていた。


 宿の窓を開けると、石畳の上を白い朝靄が薄く流れている。

 遠くで荷車の車輪がきしみ、屋台の準備をする音が聞こえた。


 昨日の灯り小路の騒ぎが嘘のように、街はまた動き始めている。


 だが、シュウには分かっていた。


 何も終わっていない。


 赤い印の木箱。

 濁った補助環。

 灯り小路の共同灯。

 ジノの母の薬。

 そして、行商人が向かったという月影の森。


 流れは、最初に自分が目覚めた森へ戻っている。


(また、あそこか)


 シュウは腰の木札に手を触れた。


 Eランクの仮登録木札。


 軽い。

 けれど、今の自分には重い。


 部屋の扉が軽く叩かれた。


「シュウ、起きてる?」


 セリアの声だった。


「起きてる」


「入っていい?」


「ああ」


 扉が開き、セリアが顔を出す。


 今日はいつもの軽い服装ではなく、革鎧の紐をきちんと締め、腰には剣を下げていた。

 表情も少し硬い。


「体調は?」


「昨日よりはましだ」


「頭痛は?」


「少しだけ」


 正直に答えると、セリアは目を細めた。


「少しだけ?」


「本当に少しだけだ」


「無理したら、すぐ言って」


「ああ」


「返事だけじゃなくて」


「実行する」


 先に言うと、セリアは少しだけ笑った。


「よろしい」


(リリアさんみたいになってきたな)


 そう思ったが、口には出さなかった。


 出せば、たぶん怒られる。


 シュウは上着を整え、部屋を出た。


     ◇


 組合の前には、すでに何人かが集まっていた。


 セリア。

 ミラ。

 組合職員二名。

 それから、エルネスト。


 カレンの姿はない。


「カレンさんは?」


 シュウが尋ねると、ミラが答えた。


「商会側の調査。ベルシアの倉庫と薬師ギルドの流れを追ってる」


「一緒には来ないんですね」


「戦闘向きじゃないし、森に商会の交渉術はあまり効かない」


 ミラは工具袋を肩にかけ直した。


「その代わり、補助環の実物と帳簿の写しは預かった。私たちは森側の痕跡を見る」


 エルネストが大きな腕を組んで立っていた。


 今日は鎧こそ着ていないが、腰に大剣を下げている。

 昨日までの豪快な支部長とは違い、元アヴァントゥリーストとしての空気が強い。


「今回の調査は、森の浅い場所までだ」


 エルネストが低く言った。


「灰色の外套の行商人が南門から出た。その後、月影の森方面へ向かった。追うのはそこまでだ」


「森の奥には行かないんですか?」


 シュウが聞くと、エルネストはすぐに答えた。


「行かん」


 短い。


「理由は二つ。一つ、シュウの体力では危険。二つ、月影狼が浅い場所に出た時点で、森の流れは普通じゃない。奥へ踏み込むには準備が足りん」


「分かりました」


 反論はなかった。


 月影狼の前で、自分は何もできなかった。

 今の自分が森の奥へ行くのは、ただの無謀だ。


 セリアも小さく頷いている。


 その横顔は真剣だったが、どこか緊張しているようにも見えた。


 エルネストが彼女に声をかける。


「セリア」


「はい」


「今日は突出するな」


 セリアの肩がわずかに動いた。


「……分かっています」


「分かってるだけじゃ足りねえ。足が動きそうになったら、まずシュウを見ろ」


「シュウを?」


「こいつは戦えんが、止める声くらいは出せる」


「俺は警報器ですか」


「今はそれで十分だ」


 エルネストは笑った。


 豪快な笑いだったが、目は真剣だ。


 セリアは少しだけシュウを見た。


「じゃあ、止めてね」


「努力する」


「そこは、任せろって言うところじゃない?」


「俺が勢いよく言うと、逆に不安だろ」


「それはそうかも」


「否定してくれ」


 セリアは小さく笑った。


 その笑顔で、少しだけ空気が軽くなった。


 しかし、森へ向かう道を見た瞬間、シュウの胸はまた重くなった。


 月影の森。


 自分がこの世界で最初に死にかけた場所。

 そして、黒い糸が伸びていた場所。


 そこへ、もう一度向かう。


     ◇


 アルメリアの南門を抜けると、空気が変わった。


 街の石と煙の匂いが薄れ、湿った草と土の匂いが強くなる。


 昨日まで自分にとって街は未知の場所だった。

 だが、森を前にすると、街の方がまだ安全だったのだと思い知らされる。


 門番がエルネストに敬礼した。


「ギルドマスター、月影の森方面ですね」


「ああ。三日前の灰外套の件で確認だ」


「記録はこちらです」


 門番は小さな板を差し出した。


 リリアが用意したものらしい。

 エルネストは内容を確認し、ミラへ渡す。


「灰色の外套。黒布をかけた小型荷車。南門を出たのは夕刻前」


 ミラが読み上げる。


「荷の申告は、修理用魔光灯と古道具」


「古道具、ね」


 エルネストが鼻を鳴らした。


「便利な言葉だな」


 シュウは門の外の道を見た。


 土の道には、多くの馬車や荷車の跡が残っている。

 だが、その中に一つだけ、薄い濁った流れが残っていた。


 まるで荷車が通った後に、目に見えない粉がこぼれたような跡。


「見えます」


 シュウは言った。


 全員の視線が集まる。


「道に、薄い濁りが残っています。荷車の跡みたいに、森の方へ続いています」


 エルネストの表情が引き締まった。


「追えるか」


「たぶん。ただ、薄いです」


「無理はするな。頭痛が出たらすぐ止める」


「はい」


 シュウはゆっくり歩き出した。


 濁った流れは、道の端に沿って続いていた。


 街道の真ん中ではなく、やや外れた土の柔らかい場所。

 荷車の車輪跡と重なるように、細い灰黒色が伸びている。


 魔物の気配はまだない。


 だが、セリアは周囲を警戒していた。

 エルネストも軽い足取りに見えて、いつでも動ける位置にいる。


 ミラは歩きながら、小さな補助環の破片を透明な筒に入れて見比べていた。


「同じ流れ?」


「完全には同じじゃないです。でも、似ています」


「似ている、ね」


 ミラは不満そうに眉を寄せた。


「もっと分類できる言葉が欲しい」


「努力します」


「努力じゃなくて覚えて」


「……覚えます」


 セリアが横で笑いそうになっていた。


「何だ?」


「ミラに教育されてるなって」


「最近、教育されてばかりだ」


「新人だからね」


 その言葉に、シュウは少しだけ肩をすくめた。


 新人。

 確かにそうだ。


 この世界の常識も、文字も、戦い方も、魔道具も分からない。


 だが、流れだけは見える。


 その見えるものに、少しずつ言葉を与えていくしかない。


     ◇


 月影の森は、朝でも薄暗かった。


 青みがかった葉。

 湿った地面。

 遠くで鳴く鳥の声。


 そして、木々の奥に漂う独特の静けさ。


 シュウは、初めてこの森で目覚めた時のことを思い出した。


 冷たい土。

 二つの月。

 月影狼の牙。

 セリアの声。


(よく生きてたな、俺)


 そう思う。


 森の入口に近づくにつれ、セリアの表情が硬くなっていった。


「大丈夫か?」


 シュウが小声で聞く。


「大丈夫」


 セリアはすぐに答えた。


 だが、その声は少しだけ早かった。


「本当に?」


「大丈夫」


 二回目の返事は、少しだけ強かった。


 これ以上聞くべきではない。


 そう思った時、エルネストが前を向いたまま言った。


「セリア。大丈夫かどうかは、こっちが判断する」


「……はい」


「足が速くなるなよ」


「はい」


 セリアは一度だけ深く息を吸った。


 それから、いつもの位置へ戻る。


 シュウはその横顔を見て、何も言わなかった。


 彼女にとって、この森はただの森ではない。


 まだ詳しくは知らない。

 だが、そのことだけは分かる。


 森の入口に入ると、濁った流れは少し濃くなった。


 荷車の跡は、通常の道から外れ、細い脇道へ向かっている。


「こっちです」


 シュウが指さすと、エルネストが足を止めた。


「正規の採取道じゃないな」


「行商人が荷車で通れる道ではある?」


 ミラが聞く。


「古い搬出路だ。昔、森の奥から木材を出していた道だが、今はほとんど使われていない」


「なぜですか?」


 シュウが聞くと、エルネストは森の奥を見た。


「何年か前から、魔物の出方が変わった。安全な道ではなくなった」


 セリアの指が、剣の柄に触れる。


 ほんの少しだけ。


 シュウはそれを見逃さなかった。


(ここで何かあったのか)


 聞きたい。

 だが、今ではない。


 脇道へ入ると、森の匂いがさらに濃くなった。


 木々の根が地面を這い、古い車輪跡はところどころ草に埋もれている。

 それでも、濁った流れは続いていた。


 やがて、小さな空き地に出た。


 そこには、古い荷車の跡が残っていた。


 車輪の跡。

 焚き火の跡。

 地面に落ちた黒い布の切れ端。

 そして、木の根元に置かれた小さな金属片。


 ミラがすぐに近づこうとする。


「待って」


 シュウが止めた。


 ミラの足が止まる。


「何?」


「金属片の周りに、濁った流れがあります。でも……」


「でも?」


「昨日の補助環とは少し違います」


 シュウはゆっくり近づいた。


 金属片から出ているのは、灰黒色の流れ。

 だが、ただ周囲を濁らせているわけではない。


 地面から伸びる青い流れ。

 森そのものの魔力の流れのようなもの。


 その一部が、金属片の周囲で細く絡まっている。


 そして、絡まった場所から先へ、濁りが流れ出していた。


(これは、元からある流れに取り付けられてる?)


 シュウは眉を寄せた。


「たぶん、これは補助環の部品じゃありません」


 ミラが慎重に近づく。


「見た目は似てる。でも、刻まれている線が違う」


「何の部品ですか?」


「簡易術式杭……に近い。でも、普通は地脈調整や結界補助に使うもの」


「地脈調整?」


 ミラは地面を指さした。


「土地にも魔力の流れがある。大きな建物や結界を作る時、その流れを少し整えるために使うことがある。ちゃんと使えば、流れを安定させる道具」


「つまり、本来は悪いものではない?」


「そう」


 ミラは金属片を睨む。


「でも、これは刻み方が雑。流れを整えるというより、無理に引っ張ってる」


 シュウは地面の流れを見た。


 青い流れが、金属片の周囲で引っかかっている。

 その引っかかりから、濁りが生まれている。


 しかし、完全に破壊しているわけではない。


 むしろ、何かを無理に押さえ込んでいるようにも見えた。


「エルネストさん」


「あ?」


「この森の流れ、ここで少し詰まっています。でも、ただ壊しているというより、何かを押さえようとしているようにも見えます」


 エルネストの目が細くなった。


「押さえようとしている?」


「はい。うまく説明できませんが、流れを止めるためじゃなく、暴れないように縛っているような」


 ミラが金属片を見たまま呟く。


「失敗した応急処置……?」


 その言葉に、空気が変わった。


 応急処置。


 灯り小路で、シュウたちがやったことと同じ言葉。


 危険な流れを完全には直せない。

 だから、一時的に抑える。


 もしこれも、誰かが森の異常を抑えようとして打ち込んだものだとしたら。


「でも、その結果、濁りが出ている」


 セリアの声は硬かった。


「そうだな」


 シュウは頷いた。


「助けようとして失敗したのか、最初から利用するつもりだったのかは、まだ分からない」


 エルネストは低く唸った。


「面倒な話になってきたな」


「黒環会の仕掛けではないんですか?」


 ミラが聞くと、エルネストはすぐには答えなかった。


「黒環会が関わっている可能性はある。だが、黒環の全員が同じ考えで動いているとは限らん」


 その言葉に、シュウはエルネストを見た。


 黒環会。


 これまで、敵のように語られてきた名前。


 だが、エルネストの言い方は、単純な悪の組織を語るものではなかった。


「ギルドマスターは、黒環会を知っているんですか」


 シュウが尋ねると、エルネストは少しだけ笑った。


「知らんと言ったら嘘になるな」


「白環の守り手も?」


 その場が静かになった。


 ミラがシュウを見る。

 セリアも目を見開いた。


 エルネストは、しばらく黙っていた。


 それから、ため息をつく。


「誰に聞いた」


「第3話……じゃなくて、いえ、報告の中で白い輪の話が出ていた気がして」


「第3話?」


「すみません、変な言い間違いです」


(危ない。何を言ってるんだ俺は)


 エルネストは怪訝そうに見たが、深くは追及しなかった。


「まあいい。今はまだ詳しく話す段階じゃねえ」


「はい」


「だが、一つだけ覚えておけ」


 エルネストの声が低くなる。


「黒い輪が全部悪で、白い輪が全部正しい。そんな単純な話なら、世界はとっくに片づいてる」


 その言葉は、森の空気の中で重く響いた。


 シュウは、灯り小路の老人の言葉を思い出した。


 灯りが欲しかっただけだ。


 黒い輪の紙片に書かれていた言葉も。


 流れを止めれば、弱い者から凍える。


 間違っている。

 危険だ。

 でも、その中には、現実の一部が混じっている。


「じゃあ、俺たちはどうすれば」


「だから見極める」


 エルネストは言った。


「誰が、何のために、どこを詰まらせているのか。何を守ろうとして、何を壊しているのか」


 シュウは金属片を見た。


 濁った流れ。

 だが、その奥にある青い流れは、完全には消えていない。


 壊しているのか。

 守ろうとして失敗しているのか。


 見えるだけでは、まだ分からない。


     ◇


 空き地の調査を続けると、さらにいくつかの痕跡が見つかった。


 黒布の切れ端。

 安い補助環の破片。

 使い捨ての工具。

 そして、簡易術式杭が三本。


 ミラは一本ずつ封印布で包み、記録していく。


「この杭、全部同じ方向を向いてる」


「方向?」


 シュウが尋ねると、ミラは森の奥を指さした。


「流れをこの先から引いている。あるいは、この先へ逃がしている」


 シュウはその方向を見た。


 森の奥。


 初めて来た夜、黒い糸が伸びていた方角。


 そして、遠吠えが聞こえた方角。


 セリアの顔が、少し青ざめた。


「セリア?」


「……その奥」


 彼女の声は小さかった。


「兄さんが、最後に向かった方角と同じ」


 空気が止まった。


 シュウは、初めてその言葉を聞いた。


 兄さん。


 セリアが何度か見せていた沈んだ表情。

 リリアが「前にも同じことを言われた」と聞いた時の空気。

 エルネストが彼女に突出するなと言った理由。


 その中心にいる人物。


「セリアの兄?」


 シュウが静かに聞くと、セリアは小さく頷いた。


「レオン。私の兄。数年前、この森の依頼で……帰ってこなかった」


 言葉は短かった。


 それ以上は、まだ言えないようだった。


 エルネストもミラも黙っている。


 この場にいる全員が、その話を知っているのかもしれない。


 知らなかったのは、シュウだけだ。


「ごめん」


 シュウは言った。


「今、無理に聞かない」


 セリアは少しだけ驚いたようにこちらを見た。


 そして、かすかに笑った。


「ありがとう」


 その笑顔は、いつもの明るいものではなかった。


 けれど、無理に作ったものでもなかった。


 エルネストが空き地の奥へ視線を向ける。


「今日はここまでだ」


「奥へは?」


 セリアが反射的に聞いた。


 エルネストの声が少し低くなる。


「行かん」


「でも」


「行かん」


 二度目は、命令だった。


 セリアは拳を握った。


 だが、足は動かなかった。


 シュウは彼女の横に立つ。


「セリア」


「分かってる」


「今は、ここまでだ」


「……分かってる」


 セリアは目を閉じ、深く息を吐いた。


「ごめん。大丈夫」


 大丈夫ではない。

 たぶん、そう言いたくなった。


 けれど、シュウは何も言わなかった。


 ただ、彼女の隣に立っていた。


 その時だった。


 森の奥から、低い音が響いた。


 遠吠え。


 月影狼のものに似ている。

 だが、もっと深く、重い。


 空気が震える。


 シュウの視界に、黒い糸が見えた。


 森の奥から、空き地へ向かって一本。

 そして、地面に打ち込まれた術式杭へつながっている。


 その黒い糸の周囲に、青い流れが絡んでいた。


(これは……月影狼の時と同じ。でも、少し違う)


 黒い糸は、ただ伸びているだけではない。


 何かを縛っている。


 何かを押さえている。


 そして、その押さえ方が乱暴すぎて、周囲に濁りをばらまいている。


「来るぞ」


 エルネストが大剣に手をかけた。


 セリアも剣を抜く。


 茂みの奥で、何かが動いた。


 現れたのは、月影狼ではなかった。


 角兎。


 Eランクでも相手にするような小型魔物。


 だが、その目は黒く濁り、額の小角には灰色の線が巻きついていた。


 一匹ではない。


 二匹、三匹、五匹。


 森の奥から、濁った角兎が次々に現れる。


 ミラが低く言った。


「補助環の濁りが、魔物にまで回ってる?」


「違う」


 シュウは首を振った。


「これは、もっと奥から来てます」


 エルネストが笑った。


 凶暴な笑みだった。


「浅い場所まで漏れ始めたか」


 セリアが剣を構える。


 だが、足が少し前に出すぎている。


「セリア、待て!」


 シュウが叫ぶ。


 セリアは止まった。


 一瞬だけ、こちらを見る。


 止まった。


 そのわずかな一瞬が、今回は命を分けた。


 地面から、黒い糸が跳ね上がった。


 さっきまでセリアが踏み込もうとしていた場所を、灰黒色の魔力がかすめる。


 セリアの顔が青ざめる。


「今の……」


「足元に流れがあった」


 シュウは息をのむ。


 見えていた。


 だから止められた。


 昨日のように、無理に触れたわけではない。

 ただ、声を出しただけだ。


 それでも、止められた。


「よく止めた」


 エルネストが言った。


「セリア、下がりすぎるな。だが突出するな。シュウの声を聞け」


「はい!」


 セリアの声が戻る。


 濁った角兎たちが、一斉に飛びかかってきた。


 エルネストの大剣が一閃する。


 一匹が吹き飛ぶ。


 セリアは横から回り込み、二匹目の角を弾いた。


 ミラは小さな魔道具を起動し、足元に簡易結界を展開する。


 シュウは戦えない。


 剣も振れない。

 魔法も撃てない。


 だが、見える。


 角兎たちの体内を流れる濁った魔力。

 飛びかかる直前に集まる足の筋。

 地面から跳ね上がる黒い糸。


「右、足元!」


「セリア、左のやつは角じゃなくて後ろ脚!」


「ミラさん、結界の外側に流れが集まってます!」


 声を出す。


 伝える。


 それだけで、戦いの流れが少し変わる。


 セリアの剣が、濁った角兎の後ろ脚を捉える。

 ミラの結界が、黒い糸を弾く。

 エルネストの大剣が、最後の一匹を地面へ叩きつける。


 戦闘は長くは続かなかった。


 しかし、森の静けさは戻らない。


 倒れた角兎たちの体から、灰黒色の流れが地面へ染み込んでいく。


 シュウはその流れを見た。


 地面の中。

 術式杭。

 森の奥。


 すべてがつながっている。


「これは、ただの補助環の事件じゃない」


 シュウは呟いた。


 エルネストが頷く。


「ああ。森そのものに、何かしてやがる」


 その時、倒れた角兎の一匹の角が、ぱきりと割れた。


 中から、小さな黒い輪の欠片が落ちる。


 ミラが息をのむ。


「術式核……?」


 シュウには、その欠片から伸びる細い糸が見えた。


 糸は森の奥へ続いている。


 そして、その先で。


 一瞬だけ、大きな青い流れが見えた。


 巨大で、深く、傷ついた流れ。


 そこに黒い輪が巻きつき、無理やり押さえ込んでいる。


(あれは……)


 シュウの目の奥が痛む。


 見てはいけないほど大きな流れ。


 それでも、一瞬だけ見えた。


 森の奥で、何かが壊れかけている。


 そして、誰かがそれを乱暴に縛っている。


 遠くで、再び遠吠えが響いた。


 今度は、怒りではない。


 悲鳴のように聞こえた。


 セリアが剣を握りしめる。


「兄さんが向かったのは、あの奥……」


 シュウは答えられなかった。


 エルネストは低く言った。


「撤収する」


「でも!」


 セリアが声を上げる。


「今の情報を持ち帰る。準備なしで奥へ行けば、全員死ぬ」


 その言葉に、セリアは黙った。


 悔しさで唇を噛む。


 シュウも、森の奥を見た。


 行きたいわけではない。

 怖い。


 だが、あの流れを見てしまった。


 灯り小路の濁りも、補助環も、赤い木箱も、すべてここへつながっている。


 なら、いずれ向き合わなければならない。


 今ではない。


 だが、必ず。


 シュウは倒れた角兎の黒い輪の欠片を見つめた。


 黒環会の仕掛けなのか。

 誰かの失敗した応急処置なのか。

 あるいは、その両方なのか。


 まだ分からない。


 ただ一つだけ、はっきりした。


 月影の森は、ただの森ではない。


 この街の灯りと薬を濁らせた流れは、森の奥で傷ついた大きな流れから漏れ出している。


 シュウは拳を握った。


(見えるだけじゃ足りない)


 けれど今日、声だけでセリアを止められた。


 声だけで、戦いの流れを少し変えられた。


 小さな一歩だ。


 だが、確かに進んでいる。


 森の奥から、三度目の遠吠えが響いた。


 それは、シュウたちを呼んでいるようにも、来るなと警告しているようにも聞こえた。


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