第10話 灯りを消すな
紙片に描かれた黒い輪は、部屋の小さな灯りの下で、じっとこちらを見返しているようだった。
灯りを消すな。
流れを止めれば、弱い者から凍える。
その言葉は、脅しだった。
だが、ただの脅しではなかった。
シュウは、ジノの家の窓から外を見た。
灯り小路の共同灯は、灰色に揺れている。
危険だ。
放置すれば、薬や治癒具にまで濁りが広がるかもしれない。
なら、すぐに消すべきだ。
普通に考えれば、そうなる。
だが、その灯りの下で、老人が店を閉め、母親が子供の手を引き、誰かが夜なべ仕事をしている。
灯りを消せば、危険は止まるかもしれない。
けれど、暮らしも止まる。
(正しい対応だけでは、救えない人がいる)
胸の奥が重かった。
前の世界でも、似たようなことはあった。
危険だから止める。
不良が出たから出荷を止める。
ルール上は正しい。
だが、その先には納期があり、客先があり、現場があり、誰かの生活がある。
止めればいい。
それだけで終われる話は、実際には少なかった。
「シュウ」
セリアの声で、シュウは振り返った。
彼女は紙片を握ったまま、表情を硬くしている。
「追う?」
階段の下へ消えた外套の人物。
追えば、何か分かるかもしれない。
だが、シュウは首を横に振った。
「今は追わない」
「どうして?」
「罠かもしれない。それに、ここを離れたら、ジノさんの家と薬の確認が止まる」
セリアは一瞬だけ迷った顔をした。
彼女の足は、もう半分外へ向いていた。
誰かを逃がしたくない。
誰かを助けたい。
その気持ちは分かる。
だからこそ、シュウは静かに言った。
「セリア。今は、ここだ」
セリアは唇を噛んだ。
ほんの少しだけ、悔しそうに目を伏せる。
そして、ゆっくり頷いた。
「……分かった」
その返事に、シュウは少しだけ息を吐いた。
今の彼女は止まってくれた。
それだけで、十分だった。
カレンが紙片を見つめる。
「この文面、ただの脅迫にしてはよく考えられているわ」
「どういうこと?」
ジノが聞く。
カレンは紙片の文字を指先でなぞった。
「灯りを消すな、だけなら命令。でも、弱い者から凍える、と続けている。これはこの地区の不安を正確に突いている」
「下町の人たちが、灯りを失うことを怖がっていると分かっている、ということですか」
シュウが言うと、カレンは頷いた。
「ええ。つまり、相手はこの地区の事情を知っている」
ミラが低く言う。
「補助環を売った行商人か、その関係者」
「その可能性が高いわ」
ジノが拳を握った。
「あいつら、母さんの薬にまで……」
「まだ断定しないで」
ミラがすぐに言った。
「怒るのは後。今は確認が先」
「分かってるよ」
ジノはそう言ったが、声は震えていた。
ミナが寝台のそばで兄を見上げる。
「兄ちゃん」
「大丈夫だって」
ジノは笑おうとした。
けれど、その笑顔はうまく作れていなかった。
エレナは寝台の上から、静かに口を開いた。
「ジノ」
「母さん、起きてたのか」
「ええ。少しだけ」
エレナは弱く微笑んだ。
「怒りすぎないで。怒ると、あなたは足元を見なくなるから」
「……分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「そのたぶんが怖いのよ」
ジノは何も言えず、頭をかいた。
そのやり取りは少しだけ穏やかだった。
だが、部屋の中にある問題は何一つ消えていない。
ミラが治癒補助具の蓋を閉じた。
「ここは応急処置できた。けど、外の共同灯はまだ濁ってる」
「今夜中に止めるべき?」
セリアが聞く。
ミラは即答しなかった。
代わりに、カレンを見る。
カレンも少しだけ考えた。
「危険だけを考えるなら止めるべき。でも、この地区の灯りを一斉に消せば、住民は反発するわ」
「反発だけならいい」
ミラの声は硬い。
「でも、暗闇で転ぶ人、夜仕事ができない人、病人の世話ができない家も出る」
「そういうこと」
カレンは静かに頷いた。
「だから、消すなら代わりが必要」
全員の視線が、自然とシュウに集まった。
「……俺を見るな」
思わずそう言うと、セリアが少しだけ笑った。
「でも、シュウは流れが見えるから」
「見えるだけだ」
「うん。でも、見えるだけでも、できることはあるってミラが言ってた」
ミラが少し気まずそうに視線をそらす。
「言ったけど、何でもできるとは言ってない」
「分かってる」
シュウは窓の外を見た。
灰色の灯り。
濁った流れ。
消せば安全。
残せば危険。
どちらかしかないのか。
(いや、違う)
シュウは机の上に置かれた治癒補助具を見る。
ミラは、濁った部品を外し、良質な魔石で一時的に流れを安定させた。
完全に直したわけではない。
だが、今夜を越すための応急処置にはなっている。
共同灯も同じことができないか。
「全部を消すんじゃなくて、危ない補助環だけ外せませんか」
シュウが言うと、ミラが眉を寄せた。
「外せるものなら外す。でも、古い共同灯は補助環を外すと魔力が足りなくて消える可能性がある」
「そこへ、代わりの魔石を一時的に入れる」
「数が足りない」
カレンが答えた。
「良質な魔石は持っているけれど、通り全部は無理ね」
「通り全部じゃなくて、濁りが強いものから順番に」
シュウは外を見ながら続けた。
「濁りが弱い灯りは、今夜だけ監視。濁りが強い灯りは補助環を外して、代替魔石を入れる。薬や治癒具に近い家を優先する」
ミラの目が少し変わった。
「優先順位をつけるってこと?」
「はい。全部一度にはできないなら、危険度の高いところから」
前の世界の仕事が、頭の中で動き出していた。
全部の問題を一気に解決できない時。
どこから手をつけるか。
どこを止め、どこを流すか。
それを間違えれば、被害が広がる。
「判断基準は?」
ミラが聞く。
「濁りの強さ。薬や治癒具との距離。人が集まる場所。子供や病人がいる家の近く。あと、流れが広がっている方向」
カレンが口元に手を当てる。
「……悪くないわ」
「商会の運搬人を使えば、代替灯と魔石を運べるかもしれない」
セリアが続ける。
「組合にも人を出してもらおう。住民への説明が必要だし」
ジノが扉の方へ向かう。
「じゃあ、俺がリリアさん呼んでくる」
「待って」
セリアが止める。
「一人で行かない方がいい」
「でも、早くしないと」
「私が一緒に行く」
セリアがそう言うと、ジノは少しだけ顔をしかめた。
「いや、俺一人でも」
「外套のやつがまだ近くにいるかもしれない」
「……分かった」
ジノは素直に頷いた。
以前の彼なら、軽口でごまかして飛び出していたかもしれない。
だが今は違う。
母と妹のいる部屋を一度振り返り、それからセリアを見る。
「頼む」
「うん」
二人が部屋を出ていく。
残ったシュウは、窓の外の共同灯を見つめた。
今夜中に、できるところまでやるしかない。
◇
リリアが灯り小路に到着したのは、それから半刻ほど後だった。
しかも、一人ではなかった。
組合職員が数名。
薬師ギルドの若い薬師。
商会の運搬人。
そして、なぜかエルネストまでいた。
「がっはっは! 夜に呼び出されるとは、なかなか騒がしい新人だな、シュウ!」
エルネストの声は大きかった。
そのせいで、灯り小路の住民がさらに顔を出す。
シュウは思わず肩をすくめた。
「俺が呼び出したわけでは……」
「細かいことはいい」
エルネストは笑ったあと、すぐに表情を引き締めた。
「状況は聞いた。危険な補助環が下町に出回っている可能性がある。だが、灯りを全部消すわけにはいかん。そういう話だな」
「はい」
シュウは頷いた。
リリアが横で帳面を開く。
「住民説明は私が行います。カレンさん、代替魔石の数は?」
「今すぐ出せる良質品は八つ。中品質なら二十。ただし、中品質は長時間持ちません」
「ミラさん、応急調整に必要な時間は?」
「一基あたり早くて十分。古い型ならもう少し」
「組合職員は住民誘導。薬師ギルドは薬と治癒具の確認。セリアさんとジノさんは人の移動補助」
リリアは迷いなく役割を分けていく。
その姿に、シュウは少しだけ見入った。
(やっぱり、この人は段取りが早い)
リリアは最後にシュウを見た。
「シュウさん」
「はい」
「あなたは濁りの強い場所を見てください。危険度の順番を決めます」
「分かりました」
「ただし、無理をしないこと。目の痛みや頭痛が出たら、すぐに報告してください」
「はい」
「返事だけでなく実行してください」
「……はい」
リリアの目は優しかった。
しかし逃げ場はない。
セリアが横で小さく笑った。
「リリアさん、シュウの扱い上手いね」
「新人教育ですので」
「俺は子供か」
「無茶をする方は、年齢に関係なく新人扱いです」
反論できなかった。
◇
作業は、予想以上に難航した。
最初の問題は、住民の反発だった。
「灯りを外すだと?」
「今夜どうするんだ!」
「また高い魔石を買えって話だろ!」
雑貨屋の老人だけではない。
灯り小路の住民の多くが、不安と怒りを抱えていた。
それは当然だった。
安く手に入れた補助環。
少し明るくなった夜。
ようやく続けられるようになった夜仕事。
それを突然、危険だから外すと言われても納得できない。
リリアは怒鳴り返さなかった。
静かに、一人ずつ説明していく。
「今すぐ全ての灯りを消すわけではありません」
「濁りが強いものから順番に確認します」
「代替の灯りを用意します」
「薬や治癒具の近くにあるものを優先します」
その声は、冷静だった。
だが、住民の不安は簡単には消えない。
そこへカレンが一歩前に出た。
「今夜の代替魔石は、ベルシア商会が持ちます」
住民たちがざわつく。
「ただし、これは施しではありません」
カレンは穏やかに続けた。
「商会の名が使われた荷が、この小路に濁りを運んだ可能性があります。だから、まず信用を守るために必要な対応をする。それだけです」
「信用?」
老人が低く言った。
「商人の信用なんぞ、わしらの灯りより大事か」
「ええ」
カレンは即答した。
周囲が静まる。
「商人の信用がなくなれば、安い魔石も、薬も、食料も、ここには届かなくなる。私たちは信用で物を運びます。だから、その信用を守ることは、あなたたちの灯りを守ることでもあります」
強い言葉だった。
老人は黙った。
完全に納得したわけではない。
だが、少なくとも耳は傾けた。
シュウは、そのやり取りを見て思った。
(白か黒かじゃない)
商人は利益を求める。
だが、利益だけでは流れは続かない。
信用があるから物が流れる。
カレンはそれを守ろうとしている。
その横で、ミラはすでに一基目の共同灯を開けていた。
「シュウ、こっち」
呼ばれて、シュウは共同灯へ向かう。
古い金属の筒。
中には小さな魔石と、黒ずんだ補助環。
補助環からは、濁った糸が伸びている。
「濃いです。薬師ギルドの方、近くに薬を置いている家はありますか?」
若い薬師がすぐに答える。
「この向かいに老夫婦の家があります。薬棚があります」
「なら、ここは優先で外した方がいい」
「了解」
ミラが工具を入れる。
補助環を外した瞬間、共同灯の光が弱くなる。
住民たちがざわついた。
「ほら、消えかけてるじゃないか!」
老人の声が飛ぶ。
ミラは顔をしかめながらも、カレンの魔石を入れた。
光が戻る。
今度は、少し青白く澄んだ光だった。
シュウには、その流れがまっすぐ見えた。
「濁りは?」
ミラが聞く。
「まだ少し残っています。でも、広がりは止まっています」
「なら次」
ミラは短く言った。
作業は続いた。
二基目。
三基目。
四基目。
濁りの強いものから順番に補助環を外していく。
シュウは見た。
ミラが外す。
カレンが代替魔石を渡す。
リリアが記録する。
セリアが住民を誘導する。
ジノが荷物を運ぶ。
薬師が薬棚を確認する。
それぞれが違う仕事をしている。
だが、今は一つの流れになっていた。
(これなら、少しずつ止められる)
そう思った矢先だった。
小路の奥で、子供の泣き声が上がった。
「ルカが倒れた!」
誰かが叫ぶ。
全員が振り返る。
小さな男の子が、共同灯の下で膝をついていた。
その手には、淡い光を放つ小さな護符が握られている。
護符から青い魔力が出ている。
そこへ、近くの共同灯から伸びた濁った糸が絡みついていた。
「護符に反応してる!」
シュウが叫ぶ。
セリアがすぐに走った。
だが、濁った糸は子供の手元へさらに伸びる。
「セリア、正面から触るな!」
「分かった!」
セリアは子供を抱き上げようとして、手を止めた。
どう動けばいいか、一瞬迷う。
その迷いは正しい。
だが、時間がない。
シュウは共同灯の流れを見た。
濁った糸は護符へ向かっている。
元は共同灯の補助環。
なら、補助環から護符へ向かう途中に、流れが細くなる場所がある。
(そこを切れれば……いや、俺に切る力はない)
見えるだけだ。
でも、見える。
見えているなら、伝えられる。
「ミラさん! 共同灯の下、右側の継ぎ目! そこが一番細い!」
「分かった!」
ミラが走る。
工具を差し込み、右側の継ぎ目をこじる。
だが、古い金具が固い。
「動かない!」
濁った糸は、もう護符に触れかけている。
男の子の顔が苦しそうに歪む。
シュウの胸の奥が熱くなった。
(またか)
見えている。
危ない場所が見えている。
でも、手が届かない。
(見えるだけじゃ、足りない)
その言葉が、頭の中で何度も響く。
シュウは走り出していた。
「シュウ!」
セリアの声が聞こえる。
自分でも、何をするつもりなのか分からなかった。
ただ、共同灯の右側の継ぎ目。
そこに向かって手を伸ばした。
触れる直前、青と灰黒の流れが視界いっぱいに広がる。
(切れないなら、ずらせ)
なぜそう思ったのかは分からない。
水路の板を少し動かすように。
詰まった流れの逃げ道を作るように。
シュウは継ぎ目の近くにあった細い金属片を、指先で押した。
ほんの少し。
本当に、わずかに。
次の瞬間、濁った糸の向きがずれた。
護符へ向かっていた流れが、共同灯の外側へ逸れる。
「今!」
セリアが男の子を抱き上げ、護符を布で包んだ。
ミラが補助環を外す。
カレンが封印布を投げる。
リリアが周囲の住民を下がらせる。
一瞬の連携だった。
濁った糸は行き場を失い、封印布の中で細く縮む。
男の子の泣き声が、少しずつ戻った。
「ルカ!」
母親が駆け寄る。
薬師がすぐに確認する。
「大丈夫です。少し魔力酔いを起こしていますが、命に別状はありません」
その言葉を聞いた瞬間、シュウは膝から力が抜けた。
「あ」
視界が揺れる。
青い流れが、ぐにゃりと歪んだ。
頭の奥が焼けるように熱い。
(まずい。これ、やりすぎた)
倒れる。
そう思った時、誰かが支えた。
セリアだった。
「シュウ!」
「……悪い」
「悪いじゃない!」
セリアの声が近い。
怒っている。
心配している。
たぶん、両方だ。
「無理してないって言ったのに!」
「今のは……ちょっと無理した」
「ちょっとじゃない!」
シュウは反論しようとしたが、言葉が出なかった。
体が重い。
目の奥が痛い。
だが、男の子は助かった。
それだけは分かった。
ミラがシュウの前にしゃがみ込む。
「今、何をしたの」
「分かりません」
「分からない?」
「流れが……護符に向かってたから、少しずらせないかと思って」
ミラの目が大きくなる。
「ずらした?」
「たぶん」
「たぶんで術式の流れに触ったの?」
「……はい」
ミラの表情が険しくなった。
「馬鹿」
「すみません」
「でも、助かった」
短い言葉だった。
それだけで、十分だった。
リリアがシュウの状態を確認する。
「意識はありますね。吐き気は?」
「少し」
「頭痛は?」
「あります」
「魔力の使いすぎ、または過集中の可能性があります。今日はもう魔流視を使わないでください」
「分かりました」
「返事だけでなく実行してください」
「……はい」
セリアの腕が、まだシュウを支えている。
近い。
いつもなら照れるところだ。
だが今は、照れる余裕もなかった。
「立てる?」
「少し待てば」
「待つ」
セリアは即答した。
その声が、いつもより少し震えていた。
シュウは小さく息を吐いた。
「怒ってるか?」
「怒ってる」
「助けたのに?」
「助けたから怒ってるの」
セリアは低く言った。
「シュウが倒れたら、意味ないでしょ」
その言葉に、胸の奥が痛んだ。
彼女の過去をまだ詳しくは知らない。
だが、誰かが目の前で倒れることに、セリアが強く反応する理由は少しずつ見えてきていた。
「悪かった」
「……今は、それでいい」
セリアは小さく答えた。
◇
その後の作業は、エルネストの指揮で一気に進んだ。
危険度の高い共同灯はすべて停止。
代替魔石が入れられるものは応急復旧。
補助環は封印布で回収。
薬と治癒具は薬師ギルドが確認。
灯り小路は、完全な明るさを取り戻したわけではない。
それでも、真っ暗にはならなかった。
住民たちの表情にも、不安は残っている。
だが、最初のような怒りだけではなくなっていた。
雑貨屋の老人が、シュウの前に立った。
「お前、名前は」
「シュウです」
「さっきは、うちの小路の子を助けた」
「俺だけじゃありません」
「それでもだ」
老人は深く頭を下げた。
「ありがとう」
シュウは少し戸惑った。
「……無事でよかったです」
老人は頭を上げ、封印された補助環の入った箱を見た。
「わしらは、灯りが欲しかっただけだ」
「分かります」
「危ないものだと知っていたら、買わなかった」
「はい」
「だが、安ければまた買う者はいる」
老人の言葉は重かった。
「今夜はお前らが来た。だが、明日はどうする。次はどうする。高い魔石を買えない者は、また安い輪に手を出す」
シュウは答えられなかった。
その通りだった。
今回の補助環を回収しても、仕組みが変わらなければまた繰り返す。
黒い輪の紙片に書かれた言葉が頭をよぎる。
流れを止めれば、弱い者から凍える。
悔しいが、そこには現実がある。
エルネストが横から低く言った。
「だから、流れを見つける必要がある」
「ギルドマスター」
「誰が売った。どこで作った。どの商会の流れに紛れた。誰が必要として買った。そこを見ずに、危険だから全部止めろでは終わらん」
エルネストはシュウを見た。
「お前も、それが分かり始めてるんだろう」
シュウは黙って頷いた。
分かり始めている。
魔物を倒すだけではない。
術式を壊すだけでもない。
この世界の問題は、人の暮らしの中に流れている。
そこを見なければ、本当には止まらない。
◇
夜更け。
灯り小路の応急対応が終わり、シュウたちはジノの家の前に集まっていた。
ジノの母は落ち着いている。
ミナも少し安心したようだった。
ジノは階段の下で、しばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言った。
「俺さ」
「うん」
セリアが静かに返す。
「安い補助環、いいなって思ってたんだよ」
ジノは笑わなかった。
「母さんの治癒具、魔石代がきつくてさ。薬もいるし、飯もいるし。安く長く使える部品があるなら、欲しいって思った」
「ジノさん」
「だから、あの爺さんたちの気持ち、分かるんだよ。危ないって知らなかったら、俺も買ってたかもしれない」
誰も責めなかった。
責められなかった。
シュウも同じだ。
家族を助けるために、安い選択肢がある。
それを選ばないと言い切れる人間が、どれだけいるだろう。
カレンが静かに言った。
「必要だから売れる。売れるから流れる。そこを誰かが利用した」
ミラが拳を握る。
「粗悪品を流したやつは許さない」
「粗悪品だけなら、まだ分かりやすかったわ」
カレンの声は低かった。
「これは、人の困りごとに入り込んでいる」
シュウは空を見上げた。
夜の空。
月はまだ一つしか見えない。
もう一つは雲に隠れている。
この世界に来てから、まだ数日しか経っていない。
なのに、もういくつもの流れに巻き込まれている。
月影狼。
赤い印の木箱。
補助環。
灯り小路。
ジノの薬。
すべてが少しずつつながっている。
その時、リリアが一枚の紙を持ってきた。
「ギルドマスター。補助環を売った行商人について、門番から情報がありました」
「早いな」
「灰色の外套、黒布の荷車。三日前、南門から出ています」
「行き先は?」
「月影の森方面です」
その場の空気が止まった。
月影の森。
シュウが最初に目覚めた場所。
月影狼が現れた場所。
黒い糸が伸びていた場所。
セリアの表情が硬くなる。
シュウも、胸の奥が冷たくなった。
(また、あそこか)
エルネストは低く笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
「偶然にしちゃ、流れが揃いすぎてるな」
リリアが頷く。
「はい」
エルネストはシュウ、セリア、ミラ、カレン、ジノを順に見た。
「明日、月影の森周辺を調べる。全員では行かせん。だが、シュウ」
「はい」
「お前の目が必要になる」
シュウはゆっくり頷いた。
怖くないわけではない。
あの森には月影狼がいた。
黒い糸があった。
そして、自分がこの世界で最初に死にかけた場所でもある。
それでも、行く理由ができてしまった。
灯りを守るため。
薬を守るため。
この街の弱い場所に入り込んだ濁りの元を探すため。
「行きます」
セリアが隣で言った。
「私も」
エルネストは彼女を見た。
「分かってる。ただし、無茶はするな」
セリアは一瞬だけ目を伏せた。
「……はい」
ジノも手を上げる。
「俺も行く」
「お前は留守番だ」
エルネストが即答する。
「早い!」
「家族を見てろ」
ジノは言い返そうとして、言葉を飲み込んだ。
そして、小さく頷いた。
「……分かった」
その顔は悔しそうだった。
だが、逃げる顔ではなかった。
シュウはジノを見た。
「戻ったら、報告します」
「絶対だぞ」
「はい」
「あと、無茶すんなよ。俺が言うのも何だけど」
「説得力は少し弱いですね」
「少しどころじゃないって言うなよ」
ジノはようやく少し笑った。
灯り小路には、まだ灰色の名残がある。
しかし、その夜、すべての灯りが消えることはなかった。
危険な流れを止めながら、必要な灯りは残す。
それは、黒でも白でもない選択だった。
シュウは腰の木札に手を触れた。
Eランクの新人。
弱く、何も知らず、まだ見えるだけの男。
けれど今、その目は少しずつ、この世界の詰まりを映し始めている。
月影の森へ。
濁った流れは、再びそこへ戻ろうとしていた。




