執事の距離、メイドの距離ですわ
エレナがアパートへ向かう少し前、別の場所では、もう一人――否、一人と一柱――静かに行動しておりました。
メイドの雪乃は、目立たない服装に身を包み、通りの向こう側からアパートを見上げていました。
華美な装いを捨てても、立ち姿の所作までは隠せません。
それでも今は、九条院家の使用人ではなく、「通りすがりの大人」である必要がありました。
「……こちらが、お嬢様のお住まい」
小さく息を吸い、吐く。
胸の奥が、きゅっと締め付けられます。
洗濯物が、ベランダに干されていました。
きちんと揃ってはいないけれど、乱雑でもない。
風に揺れるシャツとスカートは、確かに“生活の途中”の匂いがしました。
「……ご自分で、なさっているのですね」
あたりを見回しながら、雪乃はそっと歩きます。
ゴミ置き場。
分別は完璧とは言えませんが、守ろうとした跡がありました。
胸が痛むと同時に、少しだけ、誇らしい。
一方、少し離れた場所では、執事・鷹宮が車内に残り、静かに周囲を観察しておりました。
校門前での姿、歩き方、重そうな鞄。
必要以上の感情を挟まず、ただ“事実”として受け止める。
「生活は……回っております」
そう、心の中で確認します。
やがて、エレナが買い物袋を下げて戻ってきました。
中身が透けて見えます。
値引きシールの貼られた食材、必要最低限の量。
雪乃は思わず、一歩踏み出しかけました。
「エレナ様……」
呼びたい。
せめて声だけでも。
けれど、その足は地面に縫い止められたまま。
これは“見守る”と決めた行動。
今、声をかけてしまえば、すべてが変わってしまいます。
エレナは鍵を開け、アパートの中へ消えていきました。
その背中が見えなくなるまで、雪乃は立ち尽くします。
胸の奥が、じんわりと熱くなりました。
「……ちゃんと、前を向いておられます」
それは、自分に言い聞かせる言葉でもありました。
車内に戻った雪乃は、短く報告を入れます。
生活は簡素。
けれど、破綻はしていない。
鷹宮はそれを聞き、静かに目を閉じました。
「十分です」
それだけを告げます。
親も、使用人も、同じ場所に立っています。
手を差し伸べたい衝動を、必死に抑えながら。
エレナは知らない。
自分の一日が、こんなにも多くの人の胸を揺らしていることを。
その夜、アパートの一室に灯りがともります。
質素な部屋。
静かな時間。
それを、遠くから、確かに見届ける者たちがいました。




