EP 9
権力の乱用には、さらなる上位の権力を――皇帝陛下の鉄槌
「——ほう。私の前で、法と正義を力で揉み消すと申すか、愚息よ」
地を這うような、重厚で威厳に満ちた声が空中庭園を震わせた。
庭園の奥、咲き乱れる薔薇のアーチを潜り抜けて現れたのは、ルナミス帝国の絶対権力者・皇帝マルクスその人であった。
五十歳という年齢を感じさせない筋骨隆々とした体躯。歴戦の覇気を纏ったその瞳は、実の息子であるユリウスを、まるで路傍の石ころでも見るかのような冷徹さで見下ろしていた。
そして皇帝の斜め後ろには、完璧なタイミングで付き従う『氷の公爵』ルーファス・アバロンの姿がある。
彼の唇には、獲物が完全に罠にかかったことを喜ぶような、極めて冷ややかで美しい笑みが浮かんでいた。
「ち、父上……!? なぜ、このような場所に……っ」
ユリウスは完全にパニックに陥り、へたり込んだまま後ずさった。
しかし、すぐさま彼の足りない頭は「皇帝(父)が自分を助けに来てくれたのだ」という、都合の良い妄想へと縋り付いた。
「おお、父上! ちょうど良いところへお越しくださいました! 見てください、このゴルド商会の娘を! このリベラという女は、私とミラの真実の愛に嫉妬し、偽造した書類で皇室を脅迫してきたのです!」
ユリウスは立ち上がり、すがりつくようにマルクス皇帝へと駆け寄ろうとした。
「父上の絶大なる権力で、この傲慢な女を国家反逆罪で捕らえてください! そして、ゴルド商会の財産を没収し、私の……いや、皇室の借金を帳消しにするのです! そうすれば全てが丸く収まり——」
パァァァァンッ!!
ユリウスの狂ったような弁明は、マルクス皇帝の裏拳によって物理的に遮断された。
乾いた破裂音が響き、ユリウスの身体は糸の切れた傀儡のように吹き飛び、見事に(キャルルが粉砕した)大理石の砂利の山へと突っ込んだ。
「ぶべっ……!? ぁ、あぐっ……ち、父上……? な、なぜ……私を……っ」
「黙れ、この帝国の癌細胞め。これ以上、その腐った口を開くことは許さん」
口から血を流し、信じられないものを見るような目を向けるユリウスに対し、マルクス皇帝は一切の容赦なく吐き捨てた。
「偽造した書類だと? 皇室への脅迫だと? 貴様は本当に、自分が何を口走っているのかわかっているのか。……今朝、ルーファス公爵から提出された『報告書』と『裏帳簿』、全てこの私が直接目を通したわ!」
「なっ……」
「貴様が魔獣コロシアムの胴元から受け取っていた賄賂。ミラ男爵家が国庫から横領した農業支援金。そして、ポポロ・シガーの密輸ルートの隠蔽。……全て、帝国情報部が完全に裏付けを取った『動かぬ事実』だ。これを偽造だと言うことは、帝国情報部……ひいては、この私に対する反逆と同義であると知れ!」
皇帝の雷鳴のような怒声に、庭園の空気がビリビリと震える。
ミラは「ひぃっ!」と悲鳴を上げ、ガタガタと震えながら両手で頭を抱え込んだ。
「バカな……そんな、嘘だ……父上は、私の言葉よりも、公爵や一介の商人の言葉を信じるというのですか!? 私はあなたの血を引く、次期皇帝なのですよ!?」
「次期皇帝? ハッ、笑わせるな」
マルクス皇帝は心底忌々しげに吐き捨てた。
「私が貴様を皇太子として置いていたのはな、ひとえに『リベラ嬢が婚約者として傍にいてくれたから』だ! 彼女の頭脳、法務知識、そしてゴルド商会の経済力。それらが貴様の致命的な無能さを補って余りあると判断したからこそ、帝国の未来を託すつもりでいたのだ!」
皇帝の言葉に、ユリウスは雷に打たれたように硬直した。
自分の実力だと信じて疑わなかったものは、全てリベラの力であり、父である皇帝すらも「ユリウスではなく、リベラの能力」を評価していたのだという残酷な現実。
「それをお前は……あろうことか、大勢の貴族の前でリベラ嬢を侮辱し、婚約を破棄した。さらには、このような底の浅い詐欺師の娘に現を抜かし、国庫を食い物にする犯罪にまで手を染めた。……ユリウス。お前はもはや、帝国の次期皇帝ではない。ただの『国賊』だ」
「こ、国賊……っ」
完全なる死刑宣告。
マルクス皇帝は絶望に染まる息子から視線を外すと、スッと居住まいを正し、あろうことかリベラに向かって深く頭を下げた。
「……リベラ・ゴルド殿。私の愚息が、多大なる無礼と損害を与えたこと、帝国を代表して深く謝罪する。貴女がこれまで裏で帝国を支えてくれていたこと、私は知っていた。その貴女にこのような仕打ち……皇帝として、合わせる顔がない」
「こ、皇帝陛下……っ!? 頭を、お上げくださいませ」
さすがのリベラも、一国の絶対君主に頭を下げられるとは思っておらず、完璧な淑女の仮面が一瞬外れかけた。
——皇帝マルクスは、リベラの愛読書である『国富論』や『自省録』を読み込み、彼女の法務・経済政策を高く評価していた数少ない理解者の一人だった。リベラとしても、この皇帝には一定の敬意を抱いているのだ。
「いいや、私の謝罪を受け取ってほしい。……そして、貴女がユリウスに突きつけた『350万ゴールドの請求』。これは帝国法に照らし合わせても完全に正当な債権であると、皇帝である私がこの場で公式に認めよう」
「父上ぇぇっ!? そ、そんな馬鹿な! それでは私は……っ!」
「黙れ! 貴様は帝国の法に裁かれ、その借金を自身の労働で一生かけて償うのだ。……ドンガン地下帝国の鉱山か、マグローザ漁船か、好きな方を選ばせてやる」
マルクス皇帝の決定は絶対だった。
ユリウスの頼みの綱であった「上位の権力による揉み消し」は、最悪の形で彼自身の首を絞める結果となったのだ。
その光景を満足げに見つめていたルーファス公爵が、ゆっくりとリベラの隣へと歩み寄った。
「見事な論戦だったよ、私の美しい法務官」
ルーファスはリベラの腰をそっと抱き寄せると、ユリウスたちに見せつけるように、彼女の耳元で甘く囁いた。
「皇帝陛下からの正式な承認も得た。これで外堀は完全に埋まったわけだ。……どうだい? 君の計算通りに、彼らは法という名の処刑台に上がってくれただろう?」
「……ルーファス様。あなたが事前に皇帝陛下へ根回しをしてくださったおかげですわ。これで、いらぬ政治的摩擦を避けることができます」
「君のためなら、帝国の議会など一日で掌握してみせよう。君はただ、その聡明な頭脳で、彼らに引導を渡せばいい」
公爵の、常軌を逸したスケールの溺愛と過保護。
その圧倒的な権力と庇護の下で優雅に微笑むリベラの姿は、ユリウスにとって、直視できないほどの屈辱だった。
自分が捨てた女が。
自分よりもはるかに上位の権力者である皇帝から謝罪され、冷徹で知られる筆頭公爵から熱烈に溺愛され、帝国の中心で光り輝いている。
一方で自分は、全てを失い、借金まみれの罪人として地に這いつくばっている。
その圧倒的な格差が、ユリウスの肥大化した自尊心を完全に破壊し、そして……最後に残った、最も醜悪な『ルサンチマン(怨嗟)』を暴走させた。
「……ふざ、けるな……」
砂利の中からフラフラと立ち上がり、ユリウスは血走った目でリベラを睨みつけた。
もはや理性など微塵も残っていない。ただ相手を傷つけ、貶めたいという子供じみた悪意だけが、彼を動かしていた。
「ふざけるな……! なにが法務官だ! なにがゴルド商会だ!
貴様は所詮、平民上がりの成金商人の娘だろうが!! 皇族である私を謀略でハメて、公爵に色目を使って取り入り、帝国の富をしゃぶり尽くす……薄汚い、底辺の寄生虫め!!」
空中庭園が、シン、と静まり返った。
皇帝マルクスが「貴様ぁっ!」と激怒し、ルーファスの瞳に絶対零度の殺気が宿り、キャルルが「殺す」と本気のトーンで呟いた。
だが、彼らが動くよりも早く。
「——寄生虫、ねぇ」
リベラ・ゴルドの口から、ひどく冷たい、だが火山が噴火する直前のようなマグマの熱を帯びた声が漏れた。
彼女はゆっくりと、自分のイブニングバッグに手を伸ばした。
取り出したのは、書類ではない。
細工の施された、純金製の煙管(無臭タイプ)だった。
リベラはそれを唇に咥え、ふぅ……と、架空の紫煙を吐き出すような仕草をした。
(……ああ、もう。本当に、救いようのないバカね)
前世からの彼女の信念。
『どんな人にも、最初から悪人などいない。罪を憎んで人を憎まず』。
だが、権力に胡坐をかき、己の無能を棚に上げ、生まれや血筋で他者を不当に貶めるような『生粋の外道』に対してだけは、彼女はその信念を一時的に棚上げすることにしている。
「……陛下。そしてルーファス様」
リベラが振り返る。
その顔に浮かんでいたのは、完璧な令嬢の微笑みでも、冷徹な法務官の顔でもない。
かつて裏社会を震え上がらせた、悪人専門の弁護士にして元レディース総長・桜田リベラの、極限までドスの効いた『極妻の顔』だった。
「法的な手続きは完了いたしました。……少々、この『元婚約者』に、私的な教育を施してもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ……存分にやれ、リベラ殿。私の権限において、一切不問とする」
マルクス皇帝が、彼女のあまりの迫力に思わず一歩後ずさりしながら許可を出す。
ルーファスは目を細め、「君の望むように、美しい猛獣よ」と嬉しそうに微笑んだ。
リベラはゆっくりと、ユリウスへと向き直った。
純金製の煙管を片手に持ち、ヒールの音を響かせて一歩、また一歩と距離を詰める。
「な、なんだ……! く、来るな! 私は皇族だぞ……っ!」
「皇族? 血筋? 平民上がり?」
リベラは煙管の先で、ユリウスの胸ぐらをトン、と突いた。
そして。
「おんどれ、誰に向かって口叩いとんじゃ、あぁ?」
完璧な標準語が崩れ去り、岡山県出身のレディース魂が完全覚醒した、地獄の底から響くような方言が、空中庭園に炸裂した。
読んでいただきありがとうございます。
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