EP 6
慰謝料減額交渉という名の自爆——お花畑な皇子の皮算用
ルナミス皇城の最上層に位置する『空中庭園』。
一年を通じて温暖な気候に保たれ、希少な花々が咲き乱れるこの庭園は、本来であれば皇族が心静かに憩うための神聖な場所である。
しかし現在のそこは、ひどく浮かれた、現実逃避の甘い香りに満ちていた。
「ユリウス様ぁ……本当に大丈夫でしょうか? ゴルド商会が物流を止めたせいで、お城のシェフが『今日の夕食は米麦草の塩むすびしか出せない』って泣いてましたよぉ……」
白亜のガゼボ(西洋風あずまや)に設えられたティーテーブル。
そこに座るミラ男爵令嬢は、不安げにユリウスの袖を引いた。彼女のテーブルには、本来なら最高級のスイーツが並ぶはずだったが、今日ばかりは干からびた安物のクッキーが数枚転がっているだけである。
「案ずるな、ミラ。あれはリベラの虚勢だ」
ユリウス皇子は、これ見よがしにふんぞり返り、冷めた紅茶をすすりながら鼻で笑った。
「あの女は計算高い。皇室を敵に回して、この帝国で商売が続けられるわけがないことなど百も承知のはずだ。昨夜のあれは、私にお前という『真実の愛』を見せつけられたことによる、女特有のヒステリーに過ぎん」
「ヒステリー、ですかぁ?」
「ああ。莫大な請求書を突きつければ、私が慌てて『すまなかった、お前が必要だ』と縋り付いてくるとでも思ったのだろう。浅知恵め。だが、次期皇帝であるこの私に、そのような安い駆け引きは通用しない」
ユリウスは完全に自分の世界に入り込んでいた。
国庫が空になり、軍部が暴動寸前になっているという物理的な危機を、「リベラの嫉妬と駆け引き」という極めて自己中心的な脳内フィルターで変換してしまっているのだ。
「いいか、ミラ。まもなくあの女がここにやってくる。おそらく、泣き腫らした目で『言い過ぎました』と土下座でもするだろう。そうしたら私が、皇族の特権をもってあのふざけた借金を帳消しにしてやる。さらに、お前の侍女として城に置いてやると温情をかけてやるのだ」
「まぁっ! あの高慢ちきなリベラ様が、ミラの侍女に……?」
「そうだ。そうすれば、お前の仕事もあいつに全部押し付けられるだろう? 奴も私の傍にいられて幸せ、お前も楽ができる。完璧な計画だ」
「すごいですぅ、ユリウス様! さすが次期皇帝陛下ですねっ!」
キャッキャとはしゃぐミラと、満足げに頷くユリウス。
彼らの脳内では、すでにリベラが平伏し、全てが都合よく元通りになるという『お花畑な皮算用』が完全に出来上がっていた。
——ザッ。
庭園の入り口に立つ近衛兵たちが、緊張に顔を強張らせて道を開けた。
コツ、コツ、と大理石の床を叩く、計算された足音。
「……お待たせいたしました、ユリウス殿下」
現れたのは、一着のドレスを見事に着こなしたリベラ・ゴルドだった。
深い真紅——まるでこれから起こる『血祭り(社会的な)』を暗示するかのような、ドワーフメイドの最高級シルクドレス。派手な装飾を一切削ぎ落とし、彼女の洗練された美貌と威厳だけを引き立たせる戦闘服である。
その後ろには、ルーファス公爵邸のお抱えシェフに持たせてもらった『人参マカロン』をモグモグと頬張る、親友のキャルルがピタリと寄り添っている。
「ふん、来たかリベラ。昨夜の勢いはどうした? ずいぶんと青白い顔をしているではないか」
ユリウスは、リベラが(彼にはそう見えるらしい)緊張していると勘違いし、鷹揚に頷いてみせた。
「……青白い? ああ、朝から公爵邸で最高級のスイーツをいただきすぎて、少々胸焼けがしているだけですわ」
「強がるな。ルーファス公爵も、一時的な気まぐれでお前を拾っただけだろう。あのような冷徹な男が、商会の娘を本気で庇うわけがない」
ユリウスはふっと嘲笑し、自分の向かいの席を顎でしゃくった。
「座るがいい。特別に許してやる」
「お気遣いなく。私は『借金の取り立て』という公務で参りましたので、長居はいたしません」
リベラは座ることなく、ユリウスを見下ろす形でスッと立ちふさがった。
その姿勢だけでも、ユリウスは言い知れぬ威圧感を覚えたが、彼は慌てて皇子としてのプライドをかき集めた。
「ふ、ふん。取り立てだと? まだそんな見え透いた虚勢を張るか。いいだろう、ならば私から慈悲を与えてやる。よく聞け、リベラ」
ユリウスはわざとらしく咳払いをし、高らかに宣言した。
「貴様が突きつけた350万ゴールドの請求。そして、皇室の口座凍結という不敬罪。本来ならば極刑に処すところだが、次期皇帝であるこの私が、特別に『皇族の特権』をもって全てを不問にしてやる! つまり、あの借金は帳消しだ!」
「…………は?」
リベラの口から、純粋な疑問符が漏れた。
前世で幾多の悪徳政治家や半グレを相手にしてきた彼女ですら、ここまで法律と契約を無視した『ジャイアン理論』には一瞬言葉を失った。
「そして、貴様がこれまでの非を認め、ミラの前に土下座をして謝罪するのなら……特別に、ミラの専属侍女として城に戻ることを許可しよう! ゆくゆくは、私の側室の末席に加えてやってもいいぞ。どうだ、ありがたいだろう!」
ユリウスがドヤ顔で言い放ち、隣でミラが「よろしくね、リベラちゃんっ」と勝ち誇った笑みを向けてくる。
数秒の、完全な沈黙。
庭園の風が吹き抜ける音だけが響く。
「……ねぇ、リベラ」
沈黙を破ったのは、キャルルだった。
彼女は手の中の人参マカロンをジップロックに丁寧にしまい込むと、腰のダブルトンファーに手をかけ、瞳に『殺意』という名のハイライトを宿した。
「私、今すぐこのバカ皇子の顎に『月影流・顎砕き』をお見舞いして、その隣のピンク頭と一緒にガレキの山に埋めてきてもいい? 正当防衛だよね? 脳みそが腐敗する病原菌から国を守るための、立派な正当防衛だよね?」
今にも飛び出しそうなキャルルの首根っこを、リベラは片手でスッと掴んで制止した。
「ステイよ、キャルル。気持ちは痛いほどわかるけれど、ここで物理的に壊してしまっては、せっかくの『舞台』が台無しになるわ」
「むぅ……わかった。リベラがそう言うなら、あと三分だけ待つ」
キャルルを宥めた後、リベラは大きく、本当に心底呆れ果てた深呼吸をした。
そして、イブニングバッグから『魔導録音機』を取り出し、カチャリとスイッチを入れる。
「……ユリウス殿下。確認ですが、今の発言は『帝国次期皇帝としての公式な見解』であり、私に対する『正式な減額・和解交渉の提示』ということでよろしいですか?」
「あ、ああ、そうだ! わかったならさっさと平伏し——」
「つまり、殿下は『金貨350万枚の支払い義務を放棄』し、『皇族の権力を濫用して民間企業の債権を一方的に破棄』し、あまつさえ『債権者である私に対し、労働の強要と人権無視の要求』を行った、と。そういう認識で間違いありませんね?」
リベラの声色から、温度が完全に消失した。
まるで氷の刃のような冷たさと、一切の感情を排した法務官特有の『詰問』のトーン。
「な、何を言っている! 私は皇族だぞ! 皇族の決定は絶対であり、帝国の法そのものだ!」
「……ええ。おっしゃる通りですわ。あなたが『真の最高権力者』であれば、ですが」
リベラは冷酷な笑みを浮かべ、バッグの中からもう一つ、分厚い書類の束——今朝、ルーファスから受け取った『裏帳簿』の写し——を取り出し、ティーテーブルの上にドンッ!と音を立てて置いた。
「では、法に基づく『交渉』を開始いたしましょうか。……ユリウス・ルナミス。あなたがどれほど無知で、無能で、帝国の法を汚している泥棒であるか、その空っぽの頭に叩き込んで差し上げますわ」
リベラの瞳に、極妻のごとき獰猛な光が灯る。
慰謝料減額交渉という名目でユリウスが仕掛けたこの茶会は、彼ら自身の首を絞める、凄惨な『論破の処刑場』へと変貌しようとしていた。
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