EP 5
公爵邸の甘すぎる朝食と、氷の宰相が差し出す『国家の裏帳簿』
ふかふかの、まるで雲の上にいるような寝心地だった。
ルナミス帝国の中心部から少し離れた、静寂に包まれたアバロン公爵邸。その最上階にある最高級の賓客用寝室で、リベラはゆっくりと目を覚ました。
天蓋付きのベッドには、タローマン特製……ではなく、本物の最高級シルクが惜しげもなく使用されており、部屋の温度は魔導空調によって常に完璧な『春の陽だまり』に保たれている。
「……よく寝たわ」
前世で悪人専門の弁護士としてブラックな労働環境に身を置き、今世でもあのバカ皇子の尻拭いのために睡眠時間三時間という激務をこなしていたリベラにとって、これほど完璧な目覚めは久しぶりだった。
(まさか、婚約破棄された翌朝が、人生で一番快適な朝になるなんてね)
リベラは苦笑しながら身支度を整え、案内された豪奢なダイニングルームへと向かった。
全面ガラス張りの温室を兼ねたそのダイニングには、色鮮やかな陽薬草や希少な花々が咲き乱れ、中央の大きなテーブルには、すでに二人の先客がいた。
「おはよう、リベラ。よく眠れたかな?」
朝の光を背に受けて微笑むのは、この屋敷の主であるルーファス・アバロン公爵だ。
昨夜の威圧的な漆黒の軍服とは打って変わり、今朝は上質な白いシャツに身を包んでいる。少しだけ開いた胸元から覗く鎖骨と、朝陽を反射して煌めく銀糸の髪が、暴力的なまでの色気を放っていた。
彼が微笑むだけで、周囲の空気がキラキラと輝いているようにすら錯覚する。
「お、おはようございます、ルーファス様。……昨夜は突然押しかけたにも関わらず、素晴らしいお部屋をご用意いただき、本当にありがとうございました」
「君を迎え入れるのだ、当然だろう。……さあ、座って。君のために朝食を用意させたんだ」
ルーファスに優雅に椅子を引かれ、リベラが着席する。
ふと視線を横に向けると、すでにテーブルの端では、親友のキャルルが凄まじい勢いで食事を進めていた。
「んんっ! これ美味しい! リベラ、この『ハニーかぼちゃと人参の特製ポタージュ』、最高だよ! さすが公爵家のお抱えシェフね!」
「キャルル……相変わらずブレないわね」
兎耳をピコピコと揺らしながら満面の笑みでスープを飲むキャルルを見て、リベラは少しだけ肩の力を抜いた。
だが、リベラの前に運ばれてきた『朝食』を見て、彼女は再び目を見開くことになった。
「こ、これは……?」
テーブルに並べられたのは、一般的なパンや卵料理ではない。
朝摘みの希少なベリーをふんだんに使った艶やかなフルーツタルト。ドワーフの火炎魔石オーブンで完璧に焼き上げられた、サクサクのクロワッサン・ダマンド。そして、最高級のポポロ・コーヒーの香りが漂う、濃厚なティラミス……。
「私の専属パティシエに、徹夜で用意させた。君は甘いものが好きだろう? 疲れた脳には糖分が一番だと、前世の……いや、君の知識にもあるはずだ」
「で、ですが、朝からこんなに豪華なスイーツばかり……」
「君に食べてもらうために作ったのだ。もし君が食べないなら、パティシエは絶望してこの屋敷を去るだろうな」
「そ、そんな脅迫まがいの……っ」
困惑するリベラをよそに、ルーファスは自らタルトを小さく切り分けると、銀のフォークに刺してリベラの口元へと差し出した。
「さあ、あーんして」
「っ!? 昨夜も言いましたが、私は自分で食べられますわ!」
「私のエスコートを拒むのかい? 帝国筆頭公爵の私が、直々に給仕してあげているのに」
意地悪く、しかし甘く蕩けるような眼差しで見つめられ、リベラは完全に逃げ場を失った。
弁護士としての理屈で反論しようにも、相手は帝国最高の権力者であり、何よりこの状況を心底楽しんでいる。
「〜〜っ……いただきますわよ!」
リベラはヤケクソ気味に口を開け、差し出されたタルトをパクリと頬張った。
その瞬間、極上のカスタードクリームと甘酸っぱいベリーの果汁が口いっぱいに広がり、強靭な元レディース総長のプライドがいとも簡単に陥落した。
「……っ! ん、んん〜〜っ……美味しい……」
「ふふ、良い顔だ。口元にクリームがついているよ」
ルーファスはリベラの唇の端についたクリームを、自らの長い指ですくうと、あろうことかそのまま自分の口へと運んで舐め取った。
「なっ!? ななな、何をして……っ!」
「ん、甘いな。君と同じだ。……さあ、次はクロワッサンだ。口を開けて?」
「もう! 自分で食べますったら!」
顔を真っ赤にして抗議するリベラと、楽しげに彼女を甘やかす氷の公爵。
朝から繰り広げられる糖度200%の光景に、キャルルは「朝から胸焼けしそう……ポポロ茶もらお」と一人呟いていた。
***
極上の(そして心臓に悪い)スイーツ朝食を終えた後。
リベラは公爵邸の執務室へと案内された。そこは壁一面が魔導書と法律の専門書で埋め尽くされた、宰相たるルーファスの聖域だった。
部屋に入った途端、リベラの表情から『甘やかされた令嬢』の甘さが消え、研ぎ澄まされた『法務官』の冷徹な顔へと切り替わる。
「さて、ルーファス様。美味しい朝食で私を餌付けしたのは、単なる趣味ではないでしょう? 宰相閣下ともあろうお方が、私をこの屋敷に保護した真の目的をお伺いしても?」
リベラが鋭い視線を向けると、ルーファスは満足そうに口角を上げた。
「さすがだな。その切り替えの早さと、物事の本質を見抜く眼力。……ますます君を手放したくなくなる」
ルーファスは自身の執務デスクに向かい、引き出しから一つの分厚い『魔導バインダー』を取り出し、リベラの前に置いた。
表紙には、帝国議会の最高機密を示す厳重な封印魔法が施されている。
「これは……?」
「私が長年かけて集めた、ルナミス帝国上層部——特にユリウス皇子とその取り巻きの貴族たちに関する『裏帳簿』と『不正の証拠』だ」
「なっ……!?」
リベラは息を呑んだ。
封印を解除し、中身に目を通した彼女の法務レーダーが、けたたましい警報を鳴らす。
「これは……ユリウス殿下が、違法な魔獣コロシアムの胴元から賄賂を受け取っていた証拠……。さらに、ミラの生家である男爵家が、国からの農業支援金を横領し、闇ルートでポポロ・シガーを密輸していた取引記録……!」
「その通りだ。君が裏で必死に帝国を回している間、あの愚か者どもはこれほどの腐敗を重ねていた。私は宰相として奴らを断罪する機会を窺っていたが、皇帝陛下への配慮もあり、決定打に欠けていた」
ルーファスはリベラの背後に立ち、彼女の華奢な肩にそっと両手を置いた。
「だが、状況は変わった。ユリウスは自らの愚かさにより、帝国の経済を回すゴルド商会——つまり、君を敵に回したのだ。
リベラ。君が奴らに突きつけた『350万ゴールドの請求』。あれを単なる嫌がらせで終わらせるつもりはないのだろう?」
「……ええ、当然です」
リベラの唇に、獰猛な笑みが浮かぶ。それは「悪人専門の弁護士」として、最大の獲物を前にした時の極妻スマイルだった。
「法網を潜り抜け、合法的に全てを搾り取るのが私のやり方です。しかし、相手は特権階級。最終的には皇族の権力を盾に、強引に揉み消しを図る可能性がありました。……ですが、この証拠があれば別です」
リベラはバインダーをパタンと閉じ、ルーファスを見上げた。
「これを法廷、もしくは公開の議会で提出すれば、ユリウス殿下の廃嫡は免れません。ミラの男爵家も、一族郎党お取り潰しでしょう。……なぜ、この『戦術核』とも言える最重要機密を、私に?」
「言ったはずだ。私の権力も、財力も、全て君に預けると」
ルーファスは身を屈め、リベラの耳元で甘く、しかし獲物を追い詰める捕食者のような低い声で囁いた。
「君の有能さを愛している。君が法を駆使して、愚か者どもを完膚なきまでに叩き潰すその美しい姿を、私は特等席で見たいのだ。……この帝国全土を盤上に見立て、君の好きに踊らせてやればいい。君の背後は、この私が完全に守る」
あまりにもスケールの大きい、そして歪なほどの『溺愛』。
普通の令嬢なら恐怖で後ずさるかもしれない。だが、リベラの魂は元・レディース総長にして最強の弁護士である。
最強のカードを渡され、最高の後ろ盾を得た彼女の血は、熱く沸き立っていた。
「……ルーファス様。私をそこまで甘やかすと、後悔なさいますよ? 私は一度噛み付いたら、相手の骨の髄まで啜り尽くすまで離れない女ですから」
「望むところだ。君のその毒牙になら、喜んで噛み殺されよう」
二人が不敵な笑みを交わした、まさにその時。
リベラのバッグに入っていた『魔導通信石』が、けたたましい着信音を鳴らした。
『——リベラ様! 皇城からの緊急通信です!』
「私です。繋いでちょうだい」
ゴルド商会のオペレーターから切り替わった通信の先から聞こえてきたのは、ひどく高圧的で、耳障りな声だった。
『ゴホン。……リベラ・ゴルドか。私はユリウス殿下の内務長官である!』
「これはこれは。ずいぶんと焦ったお声ですね。国庫は無事に空っぽになりましたか?」
『き、貴様ッ……! どこまで不敬な! ええい、殿下からの慈悲深いお言葉を伝える! 本日午後三時、皇城の空中庭園にて「話し合いの茶会」を設けてやるとのことだ!』
「……話し合い、ですか?」
『そうだ! 殿下は、貴様の狂ったような請求書を「女の嫉妬による暴走」と断じられた! だが、もしこの場に跪き、全ての借金を帳消しにして謝罪するなら……ミラの侍女、あるいは側室の末席として城に戻ることを許してやると仰っている! 光栄に思え!』
ブチッ。
一方的に通信が切れた。
しんと静まり返る執務室。
数秒の沈黙の後。
「…………ぷっ、くくっ、あはははははっ!!」
リベラは堪えきれずに、大声を上げて笑い出した。
国庫が空になり、首元に死神の鎌が突きつけられているというのに、まだ自分が絶対的な強者だと勘違いしているバカ皇子。
あまりの滑稽さに、涙すら滲んでくる。
「どうやら、ユリウスの脳は魔導戦車にでも轢かれてしまったようだな。……この場で近衛を動かし、首を刎ねてやろうか?」
ルーファスが本気とも冗談ともつかない冷酷な声で殺気を放つが、リベラは笑いを収め、すっと目を細めた。
「いいえ。そんなことをしては、せっかくの『ご招待』が台無しですわ。……受けて立ちましょう、そのお茶会とやらを」
リベラは懐から、スッと一つのアイテムを取り出した。
美しい装飾が施された、純金製の煙管(無臭タイプ)だ。
「慰謝料の減額交渉? 側室扱い? ……上等ですわ。法というものがどれほど恐ろしいか、底辺の底まで叩き落として、たっぷりと教育して差し上げます」
彼女の口調から、完璧な令嬢の仮面が完全に剥がれ落ちた。
現れたのは、修羅場をくぐり抜けてきた極妻のごとき迫力と、一切の隙を持たない法務官の冷気。
「——さあ、お茶会の準備をしましょうか。手土産はそうね……『破滅の通知書』なんていかがかしら?」
背後でルーファスが「素晴らしい」と甘い吐息を漏らす中。
リベラの『完全包囲網ざまぁ』の第二幕が、今まさに切って落とされようとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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