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EP 4

失ってから気づく絶望——書類の山と、空っぽの国庫

ルナミス帝国の朝は、皇城の尖塔に朝日が反射する美しい光景から始まる。

しかし、その日の皇太子専用執務室の空気は、地獄の釜の底のように重く、そして物理的な意味で完全に『機能停止』に陥っていた。

「……おい。これは、一体何の冗談だ?」

二日酔いにも似た激しい頭痛を抱えながら執務室の扉を開けたユリウス皇子は、目の前に広がる光景に絶句した。

広大な執務室を埋め尽くすほどの、書類、書類、書類の山。

マホガニー製の巨大な執務デスクの上はもちろんのこと、応接用のソファから床に至るまで、決裁を待つ羊皮紙やバインダーが雪崩を引き起こしている。

さらには、部屋のあちこちに設置された『魔導通信石』が、異常事態を知らせる真っ赤な光を明滅させながら、けたたましい着信音を鳴らし続けていた。

「で、殿下ぁぁっ! お待ちしておりました!」

書類の山から這い出るようにして姿を現したのは、目の下に濃いクマを作った内務長官だった。彼は髪を振り乱し、半泣きの顔でユリウスの足元にすがりついた。

「うるさい! 朝からなんだこの紙屑の山は! なぜさっさと処理しておかない!」

「む、無理でございます! これらは全て、昨日までリベラ様が『殿下の代行』として処理されていた案件です!」

「なんだと……?」

内務長官が震える手で差し出した数枚の書類を、ユリウスは引ったくるようにして目を通した。

そこに書かれていた内容に、ユリウスの顔色が一気に青ざめる。

『アバロン魔皇国との国境緩衝地帯における、魔導防衛フィールドの維持費更新について(※要・高度魔法陣の再計算)』

『ドンガン地下帝国からの魔導戦車および魔導ライフルの部品輸入に関する、関税免除の特例措置の再交渉(※ドワーフ語での直接交渉必須)』

『ポポロ村周辺のタローマートおよびタローソンへの、米麦草と太陽芋の物流ルート再編(※ゴルド商会流通網との調整)』

「な、なんだこれは……。高度魔法陣の計算? ドワーフ語での関税交渉? こんなもの、私がわかるわけないだろう!」

「ですから、これら全て、リベラ様がご自身の持つ法務知識とゴルド商会のネットワークを駆使して、たった一人で完璧に捌いておられたのです! 我々文官では、リベラ様が構築された高度な暗号化魔導帳簿のパスワードすら解除できません!」

ユリウスは愕然とした。

彼にとって、執務とは「リベラが用意した完璧な要約書に、言われるがままサインをするだけ」の簡単な作業だった。

自分がサインをしている裏で、リベラがどれほどの法的知識と実務能力をフル回転させ、帝国の血肉たる経済と外交を回していたのか、この瞬間になって初めて思い知らされたのだ。

「し、しかもそれだけではございません! 昨夜の『口座凍結』により、軍の兵站予算が完全にショートしました! 飛竜騎士団から『ワイバーンの餌が買えない、このままでは餓死する』と暴動寸前のクレームが来ておりますし、街ではゴルド商会の物流停止により、パン一つが銀貨1枚にまで高騰するインフレが起きています!」

「ば、馬鹿な……っ。たった一晩で、帝国が傾くなど……!」

ユリウスはよろめき、書類の山に足をとられて無様に尻餅をついた。

ゴルド商会——いや、リベラ・ゴルドというたった一人の女が抜けただけで、ルナミス帝国という巨大な国家の機能は、わずか半日で完全に麻痺してしまったのだ。

「ユリウス様ぁ……っ」

そこに、甘ったるい、しかし今の状況では酷く場違いな声が響いた。

扉の奥から現れたのは、フリルをふんだんにあしらった部屋着姿のミラ男爵令嬢だった。彼女は銀製のティーセットをおぼつかない手つきで運びながら、ユリウスにすり寄ってきた。

「ユリウス様、朝からお仕事大変ですねぇ。ミラが、ユリウス様のために特別なハーブティーを淹れてきましたよぉ。これを飲んで、元気を出して……きゃあっ!」

自分のドレスの裾を踏んづけたミラが、見事なまでに派手に転んだ。

ガシャンッ! という派手な音と共に、熱いハーブティーが宙を舞い、あろうことか、床に積まれていた『帝国南部の治水工事に関する緊急予算案』の束にぶちまけられた。

「ああっ!? 予算案が! インクが滲んで読めなくなってしまった!」

内務長官が悲鳴を上げる。

「あ、あうぅ……ごめんなさい、ユリウス様ぁ。ミラ、ドジだから……うぅっ、ひぐっ」

床にへたり込み、上目遣いでポロポロと涙をこぼすミラ。

普段のユリウスであれば、「気にするなミラ、君のその純真さが私の癒やしだ」と優しく抱きしめていたはずのシチュエーションである。

だが、現在進行形で国家崩壊の危機に直面し、頭痛とパニックで胃液が逆流しそうになっている今の彼にとって、その涙は全く何の解決にもならないどころか、ただの『邪魔』でしかなかった。

「……泣いている暇があるなら、さっさとその書類を拭け! お前が駄目にしたその紙束は、数万人の領民の命が懸かっているものなんだぞ!」

「えっ……? ユ、ユリウス様……?」

初めてユリウスから怒鳴りつけられたミラは、信じられないものを見るように目を丸くし、さらに大声で泣き出してしまった。

その泣き声が、ユリウスの神経をヤスリで削るように逆撫でする。

(……リベラなら)

ユリウスの脳裏に、憎き元婚約者の姿がよぎった。

リベラは絶対に転ばなかった。

ユリウスが疲れていると見れば、何も言わずに最高級のポポロ・コーヒーを完璧な温度で差し出し、分厚い資料をたった3行の箇条書きにまとめて提出してきた。

彼女が隣にいれば、どんな絶望的なトラブルも、気がつけば全て「合法的に、かつ帝国に有利な形で」片付いていたのだ。

(くそっ……! なぜだ、なぜあの女はあんなにも有能なんだ! なぜ私に、その有能さを黙って捧げ続けない!)

ユリウスはギリッと歯を食いしばり、執務デスクの上にドンッと置かれたままになっている、厚さ15センチの『請求書』を睨みつけた。

金貨350万枚。

改めて見ても、狂気の沙汰としか思えない金額だ。

パラリとページをめくると、そこには血も涙もない、完璧な法的根拠に基づいた請求項目が並んでいた。

『○月×日:ユリウス殿下がお忍びで出向かれたキャバクラでのぼったくり被害を、当商会の法務部が裏から手を回して揉み消した件に関する、示談金および弁護士費用。金貨5万枚』

『△月□日:殿下がアバロン魔皇国の使者に対して行った無礼な発言により勃発しかけた戦争を、当方が外交特例法を駆使して回避した際のコンサルティング費用。金貨20万枚』

「……っ、あの女、こんなことまで事細かに記録していたというのか……!」

ユリウスは怒りで書類を握り潰した。

彼には到底支払えない金額だ。国庫の鍵すら、実質的にゴルド商会に握られている今、彼に残された道は破滅しかないように思えた。

……いや、普通の人間であれば、ここで己の愚かさを悟り、土下座をしてでもリベラに許しを乞うだろう。

しかし、ユリウスはルナミス帝国の皇族である。

甘やかされ、権力こそが全てを解決すると信じて疑わずに生きてきた、究極の温室育ちのナルシストであった。

「……ふ、ふふっ。そうだ、簡単なことだ」

極限のストレスの中、ユリウスの脳内で都合の良い自己解釈の回路が繋がった。

「あの女、本気で私からこの金をふんだくれると思っているわけがない。これは私に対する『当てつけ』だ。自分を捨ててミラを選んだ私への嫉妬に狂い、気を引くためにこんな暴挙に出ているに違いない!」

「で、殿下……? 何をおっしゃって……」

「内務長官! 今すぐリベラを呼び出せ! 『話し合いの場を設けてやる』と伝えろ!」

ユリウスは不敵な笑みを浮かべ、バサァッ!とマントを翻した。

「相手はたかが商会の娘。私は帝国の次期皇帝だ。皇族の特権を使い、この請求を『不当な恐喝』として糾弾し、借金を全て帳消しにしてやる。その上で、側室としてなら戻してやると温情をかけてやれば、あの女も泣いて喜んで私の足元にひれ伏すだろう!」

「で、ですが殿下、リベラ様は現在、あのルーファス公爵様の庇護下に……」

「ルーファス公爵だと? 奴も所詮は臣下の一人! 次期皇帝である私が本気で『皇族の特権』を振りかざせば、奴とて黙って引き下がるしかないのだ! 早く行け!」

完全に狂った思い込みと、根拠のないプライドに支配されたユリウスの命令に、内務長官は絶望の表情で崩れ落ちた。

これが、自ら進んで地雷原(悪人専門の天才弁護士)へとダイブしていく、帝国史上最大の自爆へのカウントダウンであることに、ユリウス自身は全く気づいていなかった。

読んでいただきありがとうございます。

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