EP 12
氷の公爵からの求婚と、完璧令嬢の塩対応――「婚姻という契約の事前協議が済んでおりませんが?」
ユリウスとミラが近衛兵に引きずられて退場し、彼らの絶望の叫びが完全に遠ざかった後。
マルクス皇帝は、スッと居住まいを正し、ルーファスとリベラに向かって深く頷いた。
「……見苦しいものを見せたな。後の手続きは法務省とゴルド商会で進めてくれ。ルーファス公爵、リベラ殿を頼んだぞ」
「御意に、陛下」
皇帝が数名の側近と共に空中庭園を去り、その場に残されたのは、リベラ、ルーファス、そして相変わらず魔導コンロの前でポポロ・コーヒーを淹れているキャルルの三人だけとなった。
爽やかな風が吹き抜け、完璧な静寂が戻る。
先ほどまでの血みどろ(社会的な)の処刑劇が嘘のような、平和な昼下がりだ。
「さて」
ルーファスは満足げな笑みを浮かべ、自身の腕の中に収まっているリベラの華奢な肩を、さらに強く抱き寄せようとした。
「邪魔者も消えたことだし、私たちの輝かしい未来について、甘いお茶でも飲みながら語り合おうか。私の愛しい婚約者」
「…………」
甘く、鼓膜を直接撫でるようなテノールボイス。
帝国中の令嬢が聞けば、一瞬で腰から砕け落ちて失神するであろう極上の囁きである。
しかし。
リベラは無表情のまま、スッ……と両手をルーファスの胸板に当て、物理的に、かつ極めて事務的な動作で彼を押し返した。
「……ルーファス様。距離が近すぎます。パーソナルスペースの侵害として接近禁止命令を出しますよ?」
「おや?」
腕の中からスルリと抜け出たリベラに対し、ルーファスは目を瞬かせた。
「あのバカ皇子を追い詰めるための『法廷戦術』として、殿方の腕の中に収まる演技には喜んで協力いたしました。……ですが、事後処理が終わった今、これ以上のスキンシップは契約外ですわ」
リベラは純金製の煙管(無臭タイプ)をイブニングバッグにしまい、完璧な淑女の姿勢——そして、冷徹な法務官の顔——を取り戻してルーファスをジト目で睨みつけた。
「先ほどの『求婚』とやら。あれはユリウスの逃げ道を塞ぎ、賠償額を跳ね上げるためのブラフですよね? 事前に何の協議もなく、あのような爆弾発言をされると、代理人としては少々対応に困るのですが」
「ブラフ? とんでもない」
ルーファスは一切悪びれることなく、むしろ嬉しそうに目を細めた。
「私は常に本気だ。君のその有能さ、法廷で敵を完膚なきまでに叩き潰す獰猛さ、そして朝食のタルトを頬張る時の愛らしさ。……その全てを私のものにしたい。あの言葉に嘘偽りは一切ないよ」
「……」
直球すぎる愛の告白。
普通の令嬢なら顔を真っ赤にして照れるか、喜びに打ち震える場面だ。
だが、前世で悪人専門の弁護士として酸いも甘いも噛み分けてきたリベラは、冷静に『事実関係』の整理から入った。
「お言葉ですが、ルーファス様。『婚姻』とは感情論で成立するものではなく、両家の資産、権利、そして義務を明確に定めた『契約』です。
資産分与の割合は? 相互不可侵条約の締結は? 何より、ゴルド商会最高法務顧問である私の労働条件と裁量権はどうなるのですか? ……事前の根回しも、草案の提出もない状態で『はい、そうですか』と頷くほど、私は安い弁護士ではありませんわ」
徹底した塩対応。
甘い雰囲気を、六法全書の角で物理的に殴り飛ばすような容赦のないビジネスライクな返答である。
傍でコーヒーをカップに注いでいたキャルルが、「あーあ。公爵サマ、ドンマイ。リベラにその手のお花畑な口説き文句は通用しないよ」と肩をすくめた。
しかし。
突き放されたルーファス・アバロン公爵の反応は、キャルルの予想を遥かに超えて『変態的』だった。
「……っ、ふ、くくくっ、あはははははっ!」
ルーファスは顔を覆い、腹の底から愉快そうに笑い出したのだ。
「ああ、素晴らしい! やはり君は最高だ、リベラ! 私がこれほど情熱的に求婚しているのに、資産分与と契約書の不備を突いてくるとは! 帝国広しといえど、私を相手にこれほどの塩対応ができる女は君しかいない!」
「……あの。公爵様、頭は正常ですか?」
ドン引きするリベラをよそに、ルーファスは熱っぽい瞳で彼女を見つめ返した。
「私にとって、女の従順さなど何の価値もない。君のように、自らの知性と法理で私を斬り捨ててくれる存在こそが、たまらなく愛おしいのだ。
……安心しろ、リベラ。君を『公爵家の飾り物』などという退屈なポジションに閉じ込めるつもりはない」
ルーファスは一歩前へ出て、リベラの耳元で悪魔のように魅力的な声で囁いた。
「君を、アバロン公爵領の『特命最高法務執行官』に任命しよう。私の領地において、君の法解釈は全てにおいて優先される。悪徳貴族がいれば好きに裁け。事業を立ち上げたければ国庫から無制限に投資しよう。……君が望む『法治国家の理想』を、私の権力でいくらでも実現させてやる」
「なっ……」
それは、法を司る者にとって、あまりにも甘美で、あまりにも絶大な『権力の譲渡』だった。
リベラの弁護士としての理性が、その提案のメリットを高速で弾き出す。
(……アバロン公爵家の絶対的な後ろ盾があれば、これまで法網の隙間に逃げ込んでいた半グレ貴族たちも、根こそぎ合法的に駆除できる。それに、商会の事業拡大においても、この男の政治力は完璧だわ)
「……ルーファス様。あなたのその政治力と、合理的な判断能力の高さは認めます。ビジネスパートナーとして、あるいは『盾』として、あなたは帝国で最も信頼できる方です」
「そうだろう? 私は有能だからね」
「ええ。ですから、私の本心のうち、約三割はあなたを深く信頼しております」
「……三割? 残りの七割は?」
ルーファスが面白そうに眉を上げる。
リベラはツンと澄ました顔で、容赦なく言い放った。
「五割は『公私混同が激しすぎる上司に対する警戒(塩対応)』です。……職権濫用も甚だしいですわ」
「手厳しいな。では、最後の二割は?」
ふわりと、ルーファスが距離を詰める。
彼の大きな手がリベラの腰に添えられ、極上のシトラスと冷気、そして男性的な香りがリベラの鼻腔をくすぐった。
「その二割に、私への『愛』は含まれているのかな?」
「っ……」
その瞬間。
常に鉄壁を誇るリベラの完璧なポーカーフェイスに、ほんの一瞬だけ、さざ波のような動揺が走った。
彼女の白い頬が、ほんのりと淡い桜色に染まる。
(……ずるい。顔が良すぎるし、声も良すぎるのよ、この人)
前世からの強靭な精神力を持っているとはいえ、リベラも人の子である。
絶体絶命のピンチ(物理的にはキャルルがいたので余裕だったが、政治的には危うかった場面)に、誰よりも早く駆けつけてくれ、自分を全面的に肯定し、甘やかしてくれるこの規格外のハイスペック男子に対し、心が全く揺れないわけがない。
しかし、それを素直に認めるのは、彼女の弁護士としての矜持が許さなかった。
「……そ、それは……現在、審議中です。評価期間は厳密に適用させていただきますので、軽々しい接触はお控えくださいっ」
リベラは顔をぷいっと背け、ルーファスの胸を小さな手で押し返した。
その反応を見たルーファスは、「愛い奴め」と言わんばかりに目を細め、空間魔法を展開した。
彼の虚空から取り出されたのは、美しいクリスタルガラスの箱。
その中には、朝食のタルトに勝るとも劣らない、宝石のように輝く『エトワールの季節限定・特製フルーツパフェ(魔法保冷付き)』が鎮座していた。
「なっ……! そ、それは……っ!」
リベラの目が、釘付けになる。
二割の恋愛感情を隠そうとしていた彼女の鉄壁のガードが、極上スイーツの登場によってガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
「さて、特命最高法務執行官殿。君の貴重な時間を奪うわけにはいかないが……このパフェの氷魔法が溶けるまでの三十分間だけ、私との『雇用条件のすり合わせ』にお付き合い願えないだろうか?」
ルーファスは悪魔的な笑みを浮かべ、銀の匙をリベラへと差し出した。
「ただし、会議室は私の膝の上だ。……判事殿への『賄賂』としては、悪くない条件だと思うが?」
賄賂。公私混同。セクシャルハラスメント。
法務官としてツッコミどころ満載の提案である。
だが。
「〜〜っ! ……仕方ありませんわね! 優秀な弁護士たるもの、クライアントの要望には耳を傾けなければなりませんから!」
リベラは顔を真っ赤にして言い訳を叫びながら、銀の匙をひったくった。
「あーあ。リベラ、公爵サマの『餌付け』に完全に絆されてるじゃん。……まぁ、バカ皇子と一緒にいるよりは百万倍マシだけどね」
淹れたてのポポロ・コーヒーを二つのカップに注ぎながら、キャルルが呆れたように笑う。
空になった国庫と、破滅した愚か者たちの叫びが嘘のように。
ルナミス皇城の空中庭園では、悪人専門の天才弁護士と、底知れぬ執着を抱える氷の公爵による、極甘で塩っぱい『新たな契約交渉』が、穏やかに始まろうとしていた。




