Ep.12 変わらないもの。
「懐かしい味がする」
師はおもむろにそう呟いた。
「味、ですか?」
「ああ。甘く、そしてすっぱい。りんご、か。おまえが持ってきてくれたのだな」
師の言葉に、デリオラの脳裏にはすぐに赤く熟れた果実が想起された。
「ふふ。りんごを好む子どもたちは多かった。二コラ、エルメェス、クリストフ、マグニートゥス、ルヴィア、アナスタシア、デリオラ……。皆、元気でやっているだろうか」
昔を懐かしむその顔は、なんということはないただの平凡な女性のようだった。
「……他愛もない愚痴を聞いてくれるか、我が愛弟子よ」
「御師様の望むままに」
「私は、非才なるこの身がなんとももどかしく、そして厭わしかった……。幾人もの才覚溢れる前途を嘱望されていた若者たちが私を師事し、そうして求められるままに教えを与えてきた。そのたびに思い知らされるのだ。ああ、彼らの生来持つ、魂の輝きのなんと眩きこと……」
その瞳はなにを捉えているのか。
焦点を結ばぬその視線の先を追ったところで、師の見据えるものを共に見ることは決して叶わない。
「かつて私は、魔法の放つ輝きにあてられて人生の多くを費やしてきた。小手先の技術を突き詰め、真似事を磨き上げて、紛い物を手にして得たものは……はあ。私はいったいなにを得たといえるだろうか。終ぞ、あの輝きを得ることは叶わなんだ」
魔導師は、魔法師に焦がれて魔法師に成ろうとした紛い物。
それは魔導師であるのならば避けられぬ事実だった。
魔導師として積み上げてきたものが多く、そして高いほどに、その認識は如実になっていく。
生まれながらに魔素の扱いに長け、指先ひとつで、どのようにも魔法を操れる魔法師は正しく天才だ。
それが叶わず、杖によって魔導式を組み上げ魔素を借り上げ、そうしてようやっと魔法の真似事に至る魔導士という存在は、なべて才無き者の悲嘆の足掻きでしかないといえた。
それはすべての魔導師の祖にして、魔導の開祖である彼女とて逃れることはできない。
「脈々と受け継がれていく魔導の術が、果たして魔法の足許を舐める日は来るだろうか。判っている、栓無きことだ。ゆくゆくはその大業が為されるにしても、それを為すのはこの私ではない。私の知り得ぬ誰かなのだろう。私がそこに関わることが叶わないことがなによりも口惜しい。私は、なぜ……なぜ……」
「御師様」
推し量ることのできない感情が溢れて滲んだ言葉を遮る。
デリオラにとって、その言葉は到底許容しえない。紡がれることを許せなかった。
「急に押しかけてしまいましたのでお疲れでしょう。すこしお休みになられては?」
「……そう、だな。言葉に甘えるとしよう」
か細い声はすぐに静寂に呑まれて消える。
そう長く待つこともなく、穏やかな寝息がほとりに揺らぐ。
『永劫の庭』。
晩年、師メアリ・テレジア=アアルトゥルリスがその知識と技術の粋を結集して築き上げた究極の魔導術。
小さな『世界』を世界の内に創り上げる偉業だ。
再び眠りについた師の横顔から視線を外し、目の前の古びた書架に指を這わせる。
デリオラは眼鏡を外すと、その碧眼に魔導式で組み上げたフィルターをかけて『世界』を見据えた。
(――魔素の無限増幅循環式――緻密に組み上げられた世界式――そしてそれらを世界に馴染ませる遮蔽覆蓋式……。何度見ても、瑕疵ひとつない……)
あまりに膨大な情報量、あまりに無駄のない魔導式、あまりに複雑な高次構造。
何十、何百、何千、何万――果てしない数の糸で規則的に絡めて編み上げた巨大な建造物を前にするような、そんな感覚を覚える。
ないまぜとなっていくあらゆる感情、それは賛美、感嘆、茫然、絶望。
見て、触れて、そして感じる。
メアリ・テレジア=アアルトゥルリスという、魔導師としての到達点のその高みを。
意識がその完成された術式を理解しようとするたび、果てしない情報量にただただめまいがした。
デリオラ・ハインケスもまた己を知る。
師の教えをすべて吸収し、たゆまぬ修練をいまなお絶やさず、はるか高みを見上げ続ける。
そうして、無慈悲にも理解させられる。自身の非才さを。
魔導師として積み上げてきたものが多く、そして高いほどに、現実を知る。
上を見上げるほどに遠く、手を伸ばせど辿りつけぬはるか高みを。
「――そろそろお暇いたします。また、いずれ」
デリオラは師へと声をかける。
一度眠りについたのならばすぐに目を覚ますことはない。
それを知っていながら、なお欠かすことなどデリオラにはできなかった。
師を想うことの幸福こそが魔導の道を往く原動力なのだから。
「またここへ来ていたのね」
外の空気を吸い込み、陽光の眩しさに手をかざしていると、横合いから声をかける者があった。
視線だけを向けると、そこには見慣れた姿が古びた石壁にもたれてこちらを見つめていた。
「ナシャ……いえ、姉弟子ではないですか。奇遇ですね」
デリオラにとって、メアリ・テレジア=アアルトゥルリスを師と仰いでいた同門の女性。
アナスタシア・ヴィーテその人であった。
「そうね、ちょうどいいわ。ちょっと付き合いなさい」
端正な面立ちは含みを持たせて顎をしゃくる。
指し示した方向には、昔よく訪れた喫茶店があった。
「拒否権は……なさそうですね」
昔ながらのその喫茶店は、ノスタルジックな雰囲気を残していてどこか『黄昏のひさし亭』に通ずる空気を感じさせた。
「いつ以来かしらね」
お茶で満たされたカップにミルクを注ぎながら、アナスタシアは言う。
言葉を選んでいるような様子が見て取れた。
「しばらくになりますかね。姉弟子が魔神狩りに同行するようになってからはご多忙なようで、落ち着いて話をする機会もありませんでしたから」
「そうね……。アースグラードの空気も、変わらないと思っていたけれど様変わりしているところもあって、戸惑うことも多いわ」
アナスタシアの目線が窓の外へと流れて、つられて外の風景を見やる。
この辺りは古めかしい民家も多く、都市の中枢よりも目新しいものの流入は珍しい。
とはいえまったく変わらないものというのはない。
住む場所、住む人が変わらずとも時を経れば家は風化し、風化に抗うために様々な補修が行われる。
時間が削りゆく摩耗はなにものにも平等にその残酷さを刻んでいく。
デリオラとアナスタシアを隔てるテーブルに、りんごのタルトが運ばれてくる。
皿はアナスタシアの前に置かれ、甘い香りが周囲に満たされた。
「姉弟子は変わりませんね」
くす、と笑うと、アナスタシアは心なしか頬を紅潮させた。
「旅が長いと無性に食べたくなるのよ。好物だもの、すこしくらい自分を甘やかしてもいいでしょう?」
フォークを入れると焼きたてのタルトから小気味よい音が鳴り、小さく取り分けられた切れ端が形のよい口へと運ばれていく。
咀嚼するたびに喜びを噛みしめるような声が喉から聞こえ、デリオラは再びくすりと微笑んだ。
「……あげないわよ?」
「心配しなくても取ったりしませんよ」
あたたかな内装、まばらな客のささやかな歓談、おいしいお茶。
居心地のよい空間というのは様々な要素の組み合わせだ。
しばらく。
お茶も熱さに落ち着きをみせ、カップも半分ほど空いたところで、アナスタシアはやにわに語りだした。
「『神鎗』様の話は、聞いたんでしょう?」
「ええ。ついこの間、小耳に挟みました」
「とぼけなくてもいいわ。あなたが入り浸っている例の酒場にマレフィセレナ様とグランデール様がお見えになったでしょう。あなたも同席していたと聞いたわ」
「はは、参りましたね」
「念のため確認しておくけれど……あなた、変な気を起こしたりしてないわよね?」
「変な気……とは?」
「それは……魔神狩りに参加しよう、とか」
「安心してください。そんなつもりは毛頭ありませんから」
「そう。それならいいのよ」
カップのなかへと目線を落とすアナスタシアの心中には、どのような感情が渦巻いているのだろうか。
幼い頃は表情をころころと変える感情豊かな人だったとデリオラは記憶していたが、いまは微動だにしない無表情の奥に感情を隠していて、そのうちを窺い知ることはできない。
「まだ、あの場所のことを引きずっているの?」
唐突に切り出された話題は非常に抽象的な物言いであったが、『あの場所』が差す意味に迷うほどデリオラも鈍くはない。
デリオラとアナスタシアにとって、共に魔導を学び研鑽した師メアリの隠れ家。
いまはメアリが施した超高等魔導式によって内部は独立した世界と化しており、アナスタシアはそのことを知らない。
彼女の言う『あの場所』というのは、言葉通り場所だけを指し示していると思われた。
「往日のなかに囚われるのはいい加減やめなさい。あの人は……アアルトゥルリス様は、もういないのよ」
「……そう、かもしれませんね」
「もしあなたにそのつもりがあるのなら、グランデール様にかけあって魔術研究院に席を空けてもらえるようにしてあげるわ」
「魔術研究院、ですか」
「あなた、昔から実践よりも座学の方が得意だったじゃない。向いてるわよ、きっと」
「ありがたいお話ですが、いまの居場所も存外気に入っておりましてね。学問に骨を埋めるつもりはいまのところないんですよ」
「危険で実りの少ない使い潰されるだけの仕事に執着するというの?」
「………」
『危険で実りの少ない使い潰されるだけの仕事』。
傭兵というのは一般的にはそういった認識で、それを否定するつもりも、否定しうる根拠もない。
魔神狩りという名誉も、研究職という安定性もないのは確かだ。
理屈だけでいえばこの仕事にこだわる理由はひとつもない。
「性分、ですかね。楽なんですよ。これくらいいい加減な方がね」
「……あなた、変わったわね」
「そうですか? ――まあ、街と同じように人も変わるもの。変わらぬものなどなにひとつないのですから」
「そう。でも、気が変わったらいつでも教えてちょうだい。しばらくは私もアースグラードにいるから」
「はい。今日はひさしぶりに会えて良かったです。姉弟子も壮健そうでなにより」
「あなたもね」
カップがからになってもしばらく他愛もない話に花を咲かせ(といってもデリオラはもっぱらアナスタシアが旅で苦労した話や”勇者様”にまつわる話を一方的に聞く役割であったが)、気付けば高かった陽も随分と傾いてきていた。
店を後にしたデリオラはどこか惜しむような表情のアナスタシアと別れ、通りを歩いていた。
陽は傾き、夕日に照らされ影が長く伸びる。
街を往く人々の話し声がどこか遠くの世界での出来事のように感じられた。
デリオラの胸裏を巡っていたのは、どこか冷たい感情の一部分。
――すべて、嘘だ。
唾棄すべき欺瞞だ。
うそ寒い美辞麗句などまっぴらだ。
本質的な美しさは、変わりえない。
この想いだけは、未来永劫変わることがないと誓える。
懐かしい顔に会ったからだろうか。
酷くむしゃくしゃした気分に吐き気さえした。
「御師様……待っていてください。いつか必ず、私がこの手で」
『永劫の庭』の魔導式のそのすべてをつまびらかにし、解いてみせる。
隣に並び立ち、師の見ていた世界を共に解き明かすまで。
「デリオラ? なにやってンだ、こんなとこで」
「―――」
「随分と怖ェ顔してどうしたんだ?」
「……カイさん、奇遇ですねぇ。これから『黄昏にひさし亭』に向かうところだったんですよ」
「?」
「せっかくですから、共に参りましょうか」
「おまえ……だいじょうぶか?」
「え? なにがです?」
「いや。なにか悩み事なら話くらいは聞くぜ?」
「……悩み? そうですねぇ……」
変わらないもの、そのようなものはデリオラにとって自身の胸のうちにしかない。
それを判っているはず、なのに、どうしてか心は揺れ動く。
「……いや実はですね? 本日封を切られた新弾のカードパックを漁っていたのですよ。ぜひとも【イースターン・ゲール】を四枚揃えたかったのですが、いやはや惨敗です」
「ンだよ、そりゃ。あんなモンは禁止だ禁止。ま、金の話ならヴル……は無理か、リルにでもするんだな」
「カイさんはご協力いただけないのですか?」
「バーカ。敵に塩を送るヤツがどこにいンだよ」
「それもそうですね」
――いまは、これで良い。変えたくないものがあってもいいでしょう?
言い訳がましいその気持ちに苦笑いをしてしまったが、デリオラにとってその程度押し隠すのには慣れていた。
「こうなったら割の良い仕事を探すしかありませんね。魔神狩りとか」
「そりゃいい、行け行け。青二才のケツでも持ってやれ」
「ツレませんねぇ……一緒にどうです?」
「寝言は寝て言え。気色悪ィな、ひっつくな」
「フフフ、ヒドイ言われようだ」




