Ep.11 かの者、その名をデリオラ・ハインケスと云う。
デリオラ・ハインケスは秀才であった。
彼について語るうえで、『魔法と魔導のちがい』は避けては通れない。
魔法とは生物が自身のうちに内在する魔導素子、いわゆる魔素を取り出し放出する術である。
それに対して魔導とは世界に外在する魔素を動かしあたかも魔法のような事象を引き起こす術なのだ。
高名な魔導師いわく、『魔法は芸術であり、魔導は学問である』。
似たような言葉で、『魔法はセンス、魔導は積み重ね』との魔法師の言もある。
いずれにせよ、ふたつは似たような分野ではあるが、その実根本的なところから違うというのが『魔法と魔導』に対する諸氏の認識だった。
「―――」
デリオラは手に持った真っ赤な果実を見下ろし、深い思案に耽っていた。
――師は、彼女はこういったものを好むだろうか、と。
ひとつの分野を極めた偏屈な者たちは一様に人間離れしており、ともすれば霞でも食らって生きているのではと邪推されることもしばしばある。
師もまた魔導の頂を臨む者。少なくともデリオラはそう信じている。
定期的にそのねぐらを訪れ様々なものを差し入れているが、消費されている気配こそすれどのようにしてそれらを糧にしているのか実際に目の当たりにしたことは意外なほどに少ない。
デリオラは幼少のみぎりから彼女に師事しており、そして現在に至るまで、師に対して人間的な生活感とでも言うべきか、そういった気配を感じたことがほとんどなかったのだ。
「すみません、こちらをいくつか包んでいただけますか?」
悩んだすえに、真っ赤に熟れたその果実も含めて、いくつかの新鮮な果実を差し入れることにした。
――デリオラ・ハインケス。
長く艶やかな金の御髪は無造作に広がってしまうことがないようゆるりと束ねられており、一見して優雅な貴人といった風体である。
知性の一端を窺わせる眼鏡はよく手入れされており、髪の色と同じ黄金のグラスチェーンが輝いている。
その面に張り付けたような柔和な微笑み、瞳に宿る怜悧の輝きを覆い隠すように細められた双眸、誰に対しても慇懃で物腰柔らかな態度、どんな時でも落ち着いた穏やかな声音。
彼のことを知らぬ者は皆、その眉目秀麗な出で立ちと優雅な振る舞いに、デリオラ・ハインケスという人物を正しく誤解する。
そして彼をよく知る者ほど、その誤解からの真実とのギャップに、人間不信をわずらうのだ。
綺麗な花には毒がある。温厚な人柄にこそ裏がある。
その薄ら寒い笑みを形容する言葉を、『胡散臭い』としか表現できなくなっていく。
もちろん、彼自身は他人を積極的に騙そうというつもりはなかった。
彼にとってそれはただの処世術に過ぎない。
『悪い人』というのがいるのであれば、デリオラは自身がそれに当て嵌まることは重々理解しているつもりだ。
だが、それをおおっぴらにして生きられる者は往々にして只の悪人でしかない。
進んで露悪的に生きられるほど人間社会は『悪い人』に寛容ではない。
『悪い人』であっても、つつがなく生きていけるように善人の皮を被る。それが『社交性』というものだろう。
当然そういった生き方は息が詰まって仕方がないが、ほんの一握り、自分を取り繕う必要のない止り木のような交友関係さえあればそう苦にはしない。
要は息抜きだ。水に潜るには息を止め、苦しくなれば顔を上げて息を継ぐ。
そうして長い長い道のりを泳いでいくものだと認識しておけばいい。
市場で様々なものを調達し、デリオラが歩いて辿り着いたのはアースグラードの片隅にある寂れた民家であった。
固く施錠された扉は押せど引けども開く様子はなく、またその内部にはまるで人が住んでいる気配もない。
それもそのはず、その扉も民家も、ただそこに在る記号に過ぎない。
それを知る者はアースグラード広しといえども限られている。
そしてデリオラはその限られた人間のひとりだった。
『――神に見えたらば神を解け。祖に見えたらば祖を解け。師に見えたらば師を解け。我に見えたらば我を解け。それすなわち外を識る術となりて、内を識るものなり』
錆びた取っ手を紫檀の杖でコツコツ、と二度撫でるように叩き、魔導の真髄を唱える問答を呟くと、開くはずのないその扉が静かに開いた。
扉の前に佇む者を引き摺り込むような闇がその先に広がる。
招かれるように、デリオラは一歩踏み込んだ。
手を掛けずとも、立ち入るべき者が立ち居れば扉はひとりでに閉じる。
古びた門扉が軋む音と共に、外界を満たす光はあえなく締め出された。
そこからデリオラが一歩、二歩と前へと進み、再び杖をかざして、軽く振るうと、古びた壁掛けのランプに火が灯る。
頼りない灯りに照らされたその室内は――室内ではなく、小さな泉のほとりだった。
少し離れた場所に上質なマホガニーでしつらえた壁がある、サイドテーブルや寝具、散らかった書架もある。
だが視界に広がるのは、ほの暗い緑と静寂に包まれた水辺だ。
「――だれだ? そこにいるのは」
この静寂を支配する主は、ほとりで揺れる安楽椅子のうえに身をゆだねていた。
美しい女性だった。
ほの暗いなかで淡く発光するかのように薄く朱を帯びた艶髪が、安楽椅子が揺れるに合わせてなびく。
そのほっそりとした面立ちは、決して若くはない。しかし不思議と老いてもいない。
幼くも感じるし、老人のようでもある。本来相反する要素が入り混じっていてどうにも捉えどころのない人相だ。
出で立ちはといえばまるで無頓着で、ただ絹をまとっているだけというような装いだ。
総じて、浮世離れした印象が強い女性だ。
「おひさしぶりです。御師様。デリオラです。デリオラ・ハインケスです」
誰何の声にそう応じて、デリオラは青果を詰め込んだ袋をサイドテーブルへと置いた。
所狭しと厚い装丁の本が山積みになり、置き場に窮したために、デリオラの両手には青果と入れ替わりで本の山が積み上がった。
「……デリオラ? おまえか……。さて、私はどれくらい眠っていたかな」
デリオラの魔導の師――アースグラードにおいて魔導の礎を築いた魔導の祖、メアリ・テレジア=アアルトゥルリスは、光をいただくことのない瞳をしばたたかせて、問うた。
デリオラは、その問いの答えを持たない。
ゆえにただ黙して書架の整理を進める。
永遠を生きる彼女にとって、眠りにつくも眠りから覚めるも実態の伴った事象ではない。
そもそもが意味を成す問いではないのだ。
ふとデリオラは振り向き、師を、その姿を眺める。
決して変わることのない、記憶にあるがままの美しき姿。
彼の秘めやかな恋慕を寄せる、女性の姿を。




