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それでも僕は許せない (中)

「なっ────?」

 発光したのは一秒。

 触れたのは一瞬。

 それだけで────リョウの意識が飛びかけた。

 何が起こったのかと距離を置いたリョウは自らの胸元に触れ、傷の具合を確認するが、そこに異常は見られなかった。

「ふふ……知っているかい? 動物ってのは火を恐れるんだ。今のキミのように」

 リョウの焦りようを嘲笑いながら、男は口元の血を親指でぬぐう。


「誰が言ったか知らないが、曰く、人間は武器を持って、初めて動物と対等になるらしい。ああ、本当に大誤算だよ。まさかこいつを使わされる羽目になるなんて」

 男の握る機械の棒をリョウは凝視する。

 一見すると、交通整理などに使われる誘導灯にも見えなくはないが、アレの発光はどうみても明かりを求めてのものではない。

「気になるかい? スタンバトンって言うんだったかな。こいつはなかなかに優れものでね。触れれば一秒で意識が飛び、数秒で命も飛ぶ、俺の特別製だ」

 手元のスイッチを押すだけで、くぐもった空に浮かぶ月の淡い輝きよりもまばゆい電流を流し、雷を纏う。

 動物が火を警戒するように、リョウもまた冴えない面持ちで立ちすくんだ。


 刹那の時間とはいえ、リョウはその威力を身に染みて味わった。

 獣と比喩されようが人間である以上、アレに一秒でも触れれば即ゲームオーバー、敗北を喫するだろう。

 あくまでも、触れれば、の話だが。

 そして、たとえ無茶だとしても、その行動を取ることに迷いがないのが、この少年。

「ようするにそいつ触らなきゃいいんだろ? そんなもん他の得物とてんで大差はねぇな」

 リョウには、その無謀を決行するだけの自信があった、能力もあった。

 だが、男はその選択を鼻で笑い飛ばした。

「ほんとうにできるのかな? たった”一度”のミスでキミは死ぬ。その恐怖を前にしても動きが鈍らずにいられるのか……見ものだねぇ」

 他の武器との相違を挙げるのならば、失敗が許されないという点だろう。

 最悪、ナイフで切られたとしても致命傷を負わなければ次がある。

 木刀などに関しても同様だが、今回は違う。

 嫌でも、触れれば終わりという重圧がのしかかる。

 練習でできていたことが、本番ではできなくなることがあるように、プレッシャーという精神の重圧は人間の心身に大きな影響を及ぼすもの。


 死という現実を前にして、果たしてその重圧に押しつぶされない人間が何人いるのだろうか。

 そのプレッシャーに恐れずして、最大限のパフォーマンスを見せる人間がどれほどいるのだろうか。

 まだ少年である彼にそれを期待するのは酷な話だろう。

「はっ、俺が死の恐怖を感じるだと? 笑わせるな」

 しかし、それで少年が委縮することはなかった。

「んなもん、昔に腐るほど味わわされてんだよ、こっちはなぁ!!」

 少年には幾度となく、死を実感させられた『経験』があったのだ。


 緊迫する接戦。

 腹に刺さった初撃は、ダメージが残るものの男の動きを鈍らせるほどではなかった。

 リョウの全力には一歩及ばぬが、十分に非凡の域に達している運動能力。

 それに加え、これ見よがしなスタンバトンの牽制で、リョウを威圧していく。

 対するリョウも、重圧など微塵も感じさせない動きでもって、男の攻撃を捌いている。

 バトンから意識を逸らさない限り、リョウがその一撃を食らうことはおそらくない。

 次に振り下ろされようとしているバトンの一撃もまた見えている。

 それを避けるか、はたまた腕を掴み取ろうか、その一撃の対処を選んでいたとき、

「ッ────!?」

 脇腹に衝撃と激痛が走った。

 硬い一撃だった。

 クリーンヒットした男の足蹴りは、馬のひずめで蹴られたように事実硬い。

 見た目にはわからないが、男の靴もまた、つま先周りが金属で加工された特別性。

 この靴にかかれば、ただの蹴りでさえ必殺の威力になる。


 苦しそうに片目をつむり、奥歯を噛みしめる。

 転がった体を止めてもなお、リョウは立ち上がることに時間を要していた。

「ダメじゃないか、カミヤ君。コイツばかりに気を取られてちゃさ」

 状況を理解していながら、男は茶化すように促す。

 リョウが最も避けなければならないのは、スタンバトンによる一撃だ。

 その一撃がまさしく命取りになってしまうのだから、どうしても意識の大半はそちらの警戒に向けられてしまう。

 だからといって、意識をそれのみに集中すれば、今のようにそれ以外の攻撃が飛んでくる。

 一番警戒ししなければならないバトンへの警戒を強めることが、男の手のひらの上でもがくも同然の行為となってしまう。

 まさしく相手の心理を巧みに誘導する、いやらしくも巧妙な戦法だった。


 勝利に執着する男の戦い方には、正々堂々なんてスポーツマン精神は欠片ほどもない。

 どんな汚い戦法だろうと、必要と判断したのならば、躊躇なく実行に移すことができる。

 この男の一番の恐ろしさは、その徹底にあった。

 常人ならざる恵まれた身体能力を持ちながら、それを鼻にかけるようなことはしない。

 むしろ、それを強化するために周到な用意を施す。

 速さを生かした隠しナイフ、威力を上げるための靴の加工、そして一撃必殺のスタンバトン。

 それ以外にも男は全身に凶器の仕掛けを施し、歩く隠し武器庫と化していた。

 たとえ一撃必殺でなくとも、男からの直撃は、それ相応のダメージが伴う。


 立ち上がるさなか、リョウは脇腹の具合を確認する。

 幸運にもダメージは、骨にまで達していないようだった。

 あえて受け止めようとせず、蹴りの攻撃方向に体を流した判断が当たりを引いたのだろう。

 だが、警戒を怠っていた意識の外からの一撃。

 回復には。少々時間がかかる。

 いくら誤魔化そうとしても体は正直だ。

 ズキズキと痛覚が疼いている以上、『運動』面においての一時的な機能の低下は否めない。


 リョウの苦しむ様を男は、さも愉快そうに眺めていた。

 そんな男にリョウは調子に乗るなと、歯噛みしながら、射殺すような視線を向けた。

 痛みが、過去の記憶を刺激する。

 無性に苛立ちが募る。

 冷静さを失う。

 沸き上がる感情に身を任せ、沸き立つ衝動を抑えたい。

 と、少し前までのリョウなら、ここですでにバーサーカーと化していただろう。

 しかし今は、それを防ぐための、もう一人の抑止力がいる。

 ソイツに頼るのは、気に入らない。

 ──だが、それ以上にこの男に負けるのはもっと気に食わない。


 頭に上りかけた血が、潮のように引いていく。

 呼吸が、落ち着きを取り戻す。

 高まる集中力に目が、耳が、全身の感覚が研ぎ澄まされ、体の痛みも紛れていく。

 状況は危機的に不利。

 一度は圧倒した近距離戦においてさえ、今はただの死地となる。

 だが、遠距離戦は論外。

「……行くぜ」

 リョウは、あえて男へと肉薄する──近づかなければ、奴をこの拳で屠れない。


 死地に赴き、リョウは『視る』。

 男の動きの何もかもを。

 その先に活路を見出すために。

「──!?」

 しかし、視えない。

 男の迎撃に殴り返される顔。

 切れる唇。

 流れる血。

「ぐぅ──」

 悔しさからか、痛みからか、リョウの喉の奥から、うめきがせり上がる。


「ふふ、良い顔だ。それでこそ、なぶりがいがある」

 やはりにして、リョウを苦しめていたのが、男の仕込みだ。

 いつ、どのタイミング、どの攻撃の後で、虚を突いた仕掛けを披露するのか、それが涼の予測を阻害していた。

 いくら『視た』としても、それ以上のことは予測ができず、予想もできない常識の外にある攻撃に対しては、その場その場で対処せざるを得ない。

 意を決して、死地に飛び込んだものの、防戦を強いられるジリ貧に陥った。

 スタンバトンにより動きが制限され、硬い拳、硬い足、防いでも防ぎきれないダメージが、リョウの体に蓄積していく。


「────!?」

 不意にリョウの足がもつれた。

 ガクッ、とバランスを失い、倒壊していくリョウに、男は渾身となるバトンの一撃を突き出す。

 もはやリョウが、この一撃を躱すことは叶わない。

 せめてもの抵抗なのか、バトンの先端を手のひらで受け止めた。

 男の目が、唇が、下卑た笑みを形作る。

 ついにバトンがリョウの肉体に触れてしまった。

 ひとたび触れれば、バトンの纏う電流が、リョウの全身を駆け巡る。

 そして、耳を澄ませば聞こえてくる、

「がああああッ────!!」

 男を絶頂へと導く、心地よい少年の断末魔の声が────


 二人の戦いを傍らで見守っていた三人、いや四人は、それぞれに言葉を失っていた。

 一人の男は歓喜に顔を綻ばせながらも、いまだその実感が得られず、続く結末を固唾を飲んで待ち望む。

 他の三人の少年、少女たちは、迫りくる絶望に唖然とするばかり。

「嘘、だろ…………」

 脳裏によぎった不吉をかぶりを振って払いのける。

 断じて信じるわけにはいかなかった。

 ただの敗北ならまだしも、友の”死”など──

「返事をしろよ、涼ッ!!」

「神谷君ッ!」

 そんな苦し紛れの呼びかけに応えるように、バトンを受け止めたリョウの腕が、だらりと垂れ下がる。


「無駄だよ。意識なんてもうとっくに──」

 言いかけて、男は己の耳を疑った。

「っ……ぁ……」

 風に流されてしまいそうなほどか細く、蚊の鳴くような声ではあったが、リョウの口から言葉が発された。

「驚いた……まさか、まだ意識があるなんて──」

 男は緩んだ表情を強張らせ、リョウを見下げた。

「やっぱりキミの存在は危険だ。脅威の芽はここで確実に摘み取っておく」

 そっと男はリョウの首筋に殺意の棒を添える。

「さようなら、カミヤ君」

 別れを告げた男が、スイッチに手をかけ、

「や、やめろぉぉぉっ──!」

 恭太郎の絶叫が響き渡った、そのとき────


「──なんてなぁ」


 絶叫の中につぶやきが交じる。

 力なく垂れ下がっていたリョウの腕が、男の手首を素早く掴んだ。

 驚愕に男が目を見開く。

「バカ──」

「オラァ!」

「──な、がぁっ!!?」

 とっさの出来事に男は防御もままならず、声を荒げながらリョウに殴り飛ばされた。

 うっかり手放してしまったスタンバトンが宙を舞い、胸壁を超えて六階の高さを落下していった。


「な、なぜだッ!? どうして──どうして動ける!?」

 殴られた痛みも立ち上がることも忘れ、男は再三リョウへ問い続ける。

 断じてありえない、と。

 電圧、電流共に特注の改造を加え、運が悪ければ一度の接触ですら死に至る電撃を食らい、なぜ平然と動くことができるのか。

 たとえ意識が残っていたとしても、筋肉が麻痺し、まともに動くことなどできないはず。

 デタラメにもほどがある。


「はっ、用意周到で悪知恵が働くのは、テメェだけじゃねぇってことさ」

 うろたえる男に、このままでは本当に化け物呼ばわりされかねないと、リョウは答えを示してやった。

 男の前へと、あるモノを放る。

 それはどこにでも当たり前のようにある、透明な物質の破片だった。

「ガラ、ス……だと…………ッ!」

 このガラスの破片に、男はすぐに疑問の解答へとたどり着いた。


 ガラスとは、絶縁体の物質である。

 ゆえに男自慢のスタンバトンの電流であろうと通すことはない。

 リョウは手のひらでなく、そのガラスの破片でバトンの先端を受け止めていたのだ。

 ガラスが透明であり、暗かったことも相まって非常に見えにくく、男からでは、そこにあると知っていなければ、おそらくは気づけなかったものだろう。

「まさか、アイツに拾わされたもんがこんなところで役に立つなんてな」

 もともとは対刃物用に使えないかと涼に拾わされた窓ガラスの破片。

 勉強嫌いのリョウがガラスの性質を知っているわけもなく、スタンバトンに苦しめられていたリョウを助けるために涼が機転を利かせたのだ。


 スタンバトンは勝利に執着する男が、勿体ぶりながら出した逸品。

 その一撃の威力を囮に使いながら、巧みにリョウたちを翻弄し、蹴りや拳で散々痛めつけてはいたが、好機と見れば必ず使用してくると踏んでいた。

 男が何をしてくるのか予測できず、選択肢が多すぎるというのなら、状況を限定して狭めてしまえばいい。

 スタンバトンの一撃にのみ狙いを定めてしまえば……

 そうなるように戦況を整えさえすれば、ガラスで受けるタイミングを計ることも容易い。

 あとは機に乗じて反撃の隙を待つだけだ。

 これらはすべて、涼が考え、授けたものだった。

 『運動』のみで及ばぬのならば『思考』で補う。

 今の『神谷 涼』ならでは可能なことだ。


 勝敗は決した。

 唯一の勝算であったスタンバトンを手放した以上、男がリョウに勝つ術はない。

 誰もがそう感じた空気の中で、ただ一人、銀髪の男本人だけが────それはまだ早計だと動いた。

 勢いよく立ち上がった男は、無謀にもリョウへと肉薄した。

 猪突猛進とも思える無防備な突進は、リョウには恰好の的。

 しかし、リョウがいくら拳を打ち込んでも男はひるまなかった。

 勢いそのままにリョウに組みつき、胸壁の方へと押し込んでいく。

 単純な力比べでは、体格の劣るリョウに勝ち目はない。

 しかもこのゼロ距離では、攻撃に勢いを乗せることができず、強引に男を引き剥がすこともままならなかった。

「痛いほど理解したよ。俺じゃキミは殺せない。キミを殺すには俺以外の力が必要だ。キミでも抗えないほどの脅威が」

 不気味に男はリョウの耳元でささやいた。

「今ほど、このボロビルに感謝したことはない──」


 このオフィスビルが放棄されたのは、不景気の煽りを受けた企業の業績の悪化による事業の撤退も一つではあるが、真の理由は、このビルの異常な脆さにあった。

 当時、とある建設会社は他会社との競争に勝ち残るため、工期の短縮を売り文句に、設計から施工までの仕事を請け負っていた。

 しかし、理想だけでできたような工程表のとおりに作業が進むわけもなく、その実態は切りに切り詰めた昼夜問わずの施工作業。

 現場の作業員たちは、無茶な工期に追われ、満足な施工や検査をすることもままならず、必然と作業に手抜きが見られるようになり、突貫工事も黙認する破滅の現場と化した。

 そしてさらに重なった不運。

 後に明らかになった、設計段階のミスによる耐震強度の不足。

 まるで一夜城の如き工期で建てられたこのビルの綻びの数々は、藁の家も同然。

 タイミングが良かったと言うべきか、その後の景気が落ち込みで、急速な業績の悪化に伴う事業の撤退により、このビルも形をそのままに何の未練も残さず早々に退去された。

 これが約二十年前の話。

 過去にとある建築会社が発端となった悪質で悲しい事件として、その歴史の中に細々と書き連ねられることとなった。

 その後、主を失い、その強度の脆さから、取り壊しも、補強作業もままならず、こうしてどうこうされることもなく、放置され続けたのだ。


 長年このビルを拠点として使っている銀髪の男は、この建物の素性も知っており、知的好奇心からか、このビルの壁や床に至るまで、どこが特に脆いのかなど、暇つぶしに調べては、記憶していた。

 この屋上にも、その綻びは当然のように存在した。

 外周部の先端に設けられたコンクリート製の胸壁。

 そのコンクリートの壁も箇所によっては強度に大きな難がある。

 いい加減な手法で作られたコンクリートは、その過程で大量の空気を含み、強度の大きな低下を招く。

 そして空洞ができるほどの粗悪な造りとなれば、二人合わせて百キロを超える男たちの突進の衝撃でも一大事だ。

 経年劣化も合わさり、リョウの背中から衝突された胸壁部分は、まるでビスケットのような脆さで壊れ、砕けた。


 男はすんでのところで組みつきを解き、リョウの体だけが、屋上の境を越えて地上二十メートルの高さへと投げ出される。

「────ッ」

 いくらリョウであっても自然現象には抗えない。

 自然の摂理にのっとり、重力によるリョウの自由落下は────胸壁が壊れた拍子にむき出しになった鉄筋を掴むことによって、からくも防がれた。

「ふふ、往生際が悪いね、キミはさぁ!」

 宙ぶらりんになったリョウの命を繋ぎとめているのは、鉄筋を掴む左手だけ。

 男は、そんなリョウの左手をぐじぐじと踏みつける。

 寒さでキンキンに冷えた鉄筋と踏まれる痛みで徐々に左手の感覚が麻痺していく。

 無様と嘲るように笑い、男はリョウの手から足をどけて屈み、懐から小型のスタンガンを取り出した。

 バチバチッ、と先端に光る小さなプラズマをリョウの目に焼きつける。


「運が良ければ、地面に落下する前にキミの意識はなくなるよ。感電死か、落下死か好きな方を選ぶがいいさ」

 男がリョウの左手へとスタンガンを近づけ、絶体絶命の時が迫る。

 だがそれが、期せずして得た、最後の僥倖。

 あのまま左手を踏み続けていれば、あと十秒もせぬうちにリョウは手を離していただろう。

 男は最後まで飼い慣らすことができなかったのだ。

 己の嗜虐心、その内に巣食う”狂気”という名の衝動に。


「はっ、そんなに電気が好きなら、テメェが浴びなっ────!!」


 瞬間、男の両目に砂が浴びせられた。

 リョウが右手で放ったそれは、涼が拾い、ずっとポケットの中に入っていたものだ。

「なっ!!?」

 男は怯み、視界を閉ざす。

 その一瞬を見逃さず、リョウは全身の力を振り絞り、右足を高々と振り上げた。

 右足のひざ関節をフックのように男の首に回し、前へ引き倒す。

 男の顎が迫る先には、自らの手に構えたスタンガン。

 顎先に触れた電気の衝撃に、男は擦り切れるような絶叫を上げて、飛び退いた。

 なんとか意識を繋ぎ止めたその判断が幸か不幸なのかは、この後に起こる展開に己で決めること。

 男にゆっくりと足音が迫る。

 見上げれば、ぜぇぜぇと白い息を切らしながら、リョウが見下ろすように立っていた。

 交わす言葉も投げる罵倒も、すでに二人にはなかった。


 ──男が動く。

 ──リョウが動く。


 互いに迫り、弾けたのは────男の顔。

「うおぉらぁぁっ!!」

 怒号に声を荒げたのはリョウ。

 拳を握る。

 足を踏みしめる。

 残る僅かな体力のすべてをつぎ込み、最後の猛追を食らわせる。

 飛び散る赤が銀色を汚す。

 飽くことなく叩きつけられるリョウの猛攻に男は生まれてから一度も感じることのなかった種類の恐怖を覚えた。

 白濁とする意識の色が、塗り替えられていく。

 すぐそこまで迫っている。

 味あわせるばかりで、味わったことのない────死の絶望が。

 男の意識が黒一色に染め上げられたとき、少年の体力もまた尽き果てた。


 トドメのつもりで打ち込んだ左拳は、もはやパンチと呼べないほどに弱々しい。

 まだ二本の足で立っていた男は、震える腕をリョウへと伸ばす。

 まるで救いを求めるようにゆっくりと伸ばされた腕が、何を掴めることもなく、

「──ごふっ」

 男は、リョウとすれ違うようにして力尽きた。


 勝敗は今度こそ決した。

「はぁ……はぁ……っ」

 満身創痍になりながらも、リョウは暴行犯グループ最大の戦力をその手で下した。

 事件の首謀者は無力化され、多くの生徒たちの心身を脅かし、傷つけた、悪しき暴行事件はこれで解決へと向かっていけるだろう。

 しかし、もう一つの復讐の念は断たれてはいなかった。

 摘みそびれた悪行の連鎖は、まだ止まらない。


「──動くんじゃねぇ!!」


 静寂が支配する屋上に轟いた恫喝声。

 このときまで、リョウですら忘れていた最初にして最後の金髪の男が抵抗を見せた。

「全員動くなよ。少しでも変な動きをすれば、この女をぶっ殺す!」

 男は茜を捕え、その顔にナイフを突きつけている。

 予想外にも度を超えた男の蛮行に、恭太郎や美咲はおろか、内心の涼でさえ、この切迫した状況をどう打破すればいいのか思いつかない。

 誰も、動かない……否、動けない。

 男を逆上させる行為は、人質を取られている以上、逆効果だ。


 場を支配したというこの状況。

 男はこの上ない優越感に浸り、満悦至極の笑みを浮かべる。

 敗れた兄に代わり『神谷 涼』をどのように断罪してやろうか、それを考えるだけでも、つけられた顔の傷の恨みが晴らされていく。

 誰もが、どこかで予感をしていた。

 この男が茜と引き換えに要求をするのは、『神谷 涼』の命に関わる何かだろうと。

 そして、どうにかして茜を助け出さなければ、涼がどんな無茶な要求でも飲んでしまうということも。

 自分より他人を慈しむ涼が、茜を見捨てることなどできるはずもない。

 たとえ男が、茜を解放するなどという嘘を述べてることに気づいたとしても、涼は男の提案を飲むだろう。


「はっ……本当に救いようのないバカ共だ。テメェからのこのことこんなところまで来ておいて、人質なんて間抜けな醜態を晒すんだからなぁ」

 だが、リョウは違った。

「おいっ、誰が喋っていいなんて言った!? 立場をわきまえろ!」

「やれやれ…………」

 苦笑しながらもリョウはその口を一度閉ざす。

「わかればいい。なら、今の詫びに土下座しながら俺の靴でも舐めてもらおうか」

 どんどんと調子づく男の命令に、リョウは動かない。

「どうした? 早くしろ」

「はっ、誰がテメェの指図なんて受けるかよ。身の程を知りな、ゴミ野郎が」

 男の要求を断固として拒否し、逆に罵声を浴びせる。


「お、おい、涼……」

 要求の拒否だけならまだしも、その後の挑発行為はさすがにまずいだろうと、恭太郎がリョウをいさめるが、神経を逆なでされた男の怒りは収まらない。

「図に乗るなよチビが! お前には、この女の姿が見えないのか? それとも今すぐこいつの顔にナイフを突き立ててほしいのか、ああ!? わかったら──」


「──殺れよ」


 表情一つ変えずにうそぶくリョウに男は唖然とする。

 恭太郎と美咲が、どうしてしまったのかと発言に戸惑いを見せる。

 しかしリョウの言葉に裏も表もなかった。

 意味はその言葉どおり、人質である茜の身を傷つけろという促しだ。

 そう、少年には依然として欠け落ちていた。

 他人を慈しみ、他者を思いやる感情が。

 自分以外に向ける情など、幼き頃に捨て去った。

 それは、涼が与えたこの一週間をもってしても取り戻すことが叶わず、リョウの心に変化が訪れなかったことを明瞭に表していた。


「へ、へへへ……やっぱイカれてるぜお前。なら、よく見ておけよ。この女が、てめぇのせいで無残に死んでいく様をな!!」

 もう引くに引けなくなった男の理性のブレーキは壊れている。

 促されるままに、茜の顔に刃を突き立てんとしたとき、


「ただし──その後の覚悟はできてんだろうな?」


 その男を制したのもまたリョウの声だった。

 リョウは男の双眸をまっすぐに捉えたまま、言葉を紡ぐ。

 昂った精神状態の男でも理解できるように、ゆっくりとわかりやすく────狂気をその声に含ませながら。


「運よく拾ったその命、その幸運を噛みしめながら、おとなしく生きていればいいものを二度もこの俺に楯突いたんだ。ここまで俺の気分を害しておいて、まさか、ただで済むなんて思っちゃいないだろ?」

「あ……ああ…………」

「そんな顔の傷程度じゃ生ぬるいぜ。今度は真綿で首を絞めるように、じっくりと、ゆっくりと……テメェの体に苦痛という苦痛を刻み込んで、生きていることすら後悔させてやるよ。くく……」

 男は顔に冷や汗を滲ませながら、恐怖に身をすくませる。

 聞いているだけで、胃の中身が逆流しそうになり、淀みのない殺意の視線に目を合わせているだけでも、精神がすり減らされていく。

 ここに居たら俺は死ぬ────屈辱に怒りを感じる余裕もなく、男は己の死期を悟る。

「まずは逃げられねぇように足からだな。その次は腕だ。軽く爪を剥いで、指の骨を一本ずつ砕いてやる。さて、そしたら次はどこを壊してやろうか。おっと、間違って気絶させねぇように気をつけないとなぁ──くははっ!」

 瞬間、敵味方を問わず、皆が死の旋律を覚えた。

 リョウの浮かべた、狂気を被ったようなその『嗤い顔』に────


「う、ひ────あ、あああああぁぁ!!」

 恐怖が限界に達し、精神の破綻を招きかけていた男は、茜を手放し、本能に従うままに逃走を図る。

 が、ただの逃走が、リョウの前で成功したためしはない。

「馬鹿が、逃げられると思うのかっ!」

 銀髪の男が手放したナイフを拾い上げ、リョウはその身の創痍を感じさせない洗練された投擲を見せる。

 まさしく前回の再現だ。

 狙い澄ましたように男のふくらはぎに刺さったナイフは、男の逃走を阻み、身を転ばせた。

「毎度、不思議に思うことがある。なぜテメェらは自分からちょっかいをかけておいて、いざやり返される番になるとそんなにも怯えるのか。やったらやり返されるのは当然のことだろうにな。まあ、それすらも理解できていないことが、愚かってことの証なんだろう。さあ、始めようか。悲鳴と苦痛に満ちたとっておきの番外シナリオだ。いいリアクションを期待してるぜ──くくっ」

 一歩、また一歩と、惜しげもなくさらけ出した狂気と共にリョウは男へと歩み寄っていく────

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