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それでも僕は許せない (後)

 男は、すでに戦意を喪失していた。

 これ以上の暴行は、リョウ自身の鬱憤を晴らすだけの行為に他ならない。

 そんな友の凶悪な光景を見せられるとあっては、黙っていられないのが恭太郎たちの性質だが……恭太郎と美咲の二人は、悠然たるリョウの歩みを眺めていることしかできなかった。

 すでに二人もリョウの狂気に囚われてしまい、足も口も縫いつけられたように意識のもとでは動かない。

 ともすればリョウの凶行を望まず、止めることができるのは、ただ一人。


「もう、やめなさい」


 その凛とした真っ直ぐな声にリョウは不愉快そうに眉をひそめた。

「なんの真似だ? 俺は邪魔をするなと言ったはずだが」

 行く手を阻むようにして立つ茜に向かって、不快の念を送る。

「お願いだからもうやめて。これ以上、誰かが傷つく意味はないわ」

 どこかで聞いたようなセリフに、リョウはほとほとに呆れ果て、かぶりを振って嘆息する。

「はっ、意味ならあるさ。終わらせるためだ」

「…………」

 ふと、茜は思い出した。


”だったら終わらせればいい。やり返す気も立ち上がる気も残させないように”


 以前にリョウと交わした対話を。

 この手の議論が無意味なことは、すでに証明されている。

 茜が人質にとられたときも、迷うことなくリョウはその安全よりも自分のルールを優先した。

 そんな人間相手に、人には優しく、などといった道徳じみた方便を垂れること自体、馬の耳に念仏も等しい行為だろう。

 だが、そうとわかっても茜は退かない。


「お前こそ、なぜそいつを庇う? 前からの恨みが溜まってるんじゃないのか? まさか、それを忘れたほどマヌケってわけでもないだろ」

 粛然と構える茜の敵愾心をリョウは煽る。

 ひととおりの感情が揃っているならば、溜まった恨みは晴らしたくなるというのが人の業。

 内にもう一人の抑止力がいる限り、強引な茜の突破が困難と見たリョウが、珍しくとった策略である。

 茜はいつぞやのことを思い出したのか、苦々しく顔をしかめながらも答えた。

「文化祭のときのことは、もういいわ」

 それに見合うだけの粛清を彼らは受けさせられた。

「さっきのことは確かに腹が立つけど、こんなところに来て油断していた私にも責任はあるし、なにより『殺れよ』なんて言ったあんたに言われる筋合いはないわ」

 結果的に茜は無傷で解放されたものの、リョウの一言で茜が命の危機にさらされたことも事実。

 それもそうだ、とリョウは悪びれもせずに笑い飛ばした。

「それに私はコイツを庇っているわけじゃない。正直、さっさと牢屋にでも入れられて、地獄に堕ちろって感じよ。私が許せないのは、あんたが……」

 そこまで言って、茜は言葉に詰まってしまう。

 

「もういい。お前が何を考えてようが、俺には関係のないことだ。お前の相手をしてる時間も惜しいんでな」

 そう言い残して、リョウは茜の横を通り過ぎようとする。

 しかし茜の手が、その道を遮った。

「どけ」

「どかない」

「耳か、それとも脳みその方が腐ってるのか? 俺は、どけと言ったんだ」

「嫌よ、どかないわ」

 おそらくは、何度言ってもこれの繰り返しだろう。

 いい加減に、おとなしかったリョウのしびれも苛立ちも沸点に達する。


「──邪魔だっ!!」


 絶叫に近い怒号が、大気を震わせる。

「ッ……」

 さすがにこれは効いたのか、叱咤された子供のように粛然としていた茜の表情も強張った。

 しかして、なお茜はリョウに道を空けることを拒んだ。

 諦めに似たため息をつき、刃のような鋭さで茜を見咎めていたリョウの目が、一変して冷やかなものとなる。

「そうか、これでも俺の邪魔をするつもりか……なら仕方がない」

 低く、邪悪な声色は、まるで忌むべき者にでも向けられたようなものだった。

 このとき涼は察した。

「──お前にも苦痛を味わってもらうしかないようだな」

 リョウが茜を敵と認識し改めていたことに。


(待って! 茜に手を上げることは、ルール違反だ!!)

 こういった事態に備え、あらかじめ定めていた二人の規則。

 今のリョウには、自身の脅威となる”敵”にしか手を出すことはできない。

 だが、急増であるがゆえに、この規則はひどく曖昧であった。

 リョウはその抜け道を示すように、涼だけに聞こえるようそっと応じる。

(いいや、違反じゃねぇよ。なぜなら、この女は、俺の邪魔をし、”敵”であるあの男を庇っている。どんな理由があるにせよ、敵の味方は敵だ)

 ルールとは主観ではなく、客観的に見て定められるもの。

(戦場において中立なんて虫のいい存在は認められない)

 敵か味方か、その二極。

 そしてリョウの味方にならない以上、茜はリョウの敵と映る。

(お前の言っていることは、ただのお前の願望なんだよ)


 規則を盾にした涼の意見は、捻じ曲げらえた見解によって却下される。

 もはや言葉では、リョウを静止することはできない。

 かといって、見過ごすこともできない。

 無理矢理に肉体を奪い取ることも、リョウが意識的に警戒している以上は不可能だ。

 せめてもの抵抗といえば、内からリョウの行動を制限することだけ。

(ふん、無駄な足掻きだぜ)

 涼の抵抗により、思うように肉体を行使できないリョウだったが、そんなことをつゆとも知らぬ茜は、緊張に今にも震えだしそうな面持ちで構えている。

 凛とした強さを持ち合わせていても、リョウにすれば花を踏み潰すのと同様に茜は儚い。

 だが、それを痛いほど理解したうえでも、茜はリョウを止めなければならなかった。


 意を決し、茜は掠れそうな声を絞り出す。

 リョウは、そんな茜の必死さを鼻で笑うかのように、


”やめて……”


 ふと聞こえてきた弱々しい声に、

「強がるなよ。本心が漏れ出てるぜ」

 嘲笑を送った。


「私は、もう──」


「……?」

 どういうことだ────ふと、聞こえてきた声と、茜の発した声に己のなかで認識のズレがあることに気づき、リョウは動揺を覚える。

「──逃げ出したりしない」

 否、幻聴ではない。

 リョウには、二つの声が確かに聞こえていた。

「来るなら、来ればいいじゃない──あんたなんて怖くないわよ!!」

 一つは茜の強い意志の宿った言葉。

 そしてもう一つは、リョウの頭の中だけで再生される、少年が記憶の奥底に封印していた──


”……来ないで”


 ──嫌忌の声だった。


「ッ────!? ぐ、あ……があああぁぁぁぁっ!!」

 唐突に襲ってきた、軋み、ねじ切れそうな激痛に、リョウはたまらず悲鳴を上げた。

「ぐぅぅ……だ、誰だ……? そこに居る、野郎は…………出ていけ、がぁぁ! 俺の中から……出ていけぇ!」

 人目もはばからず、もがき、苦しみ、頭を押さえながら、痛みの元凶となっているであろうその幻影を必死に追い出そうとしていた。

「ぐぅぅぁ……うっ、あああっ────!」

 周りの誰もが理解の及ばぬ痛みにリョウは晒され続ける。

 だが無力にも、その行く末を見守ることしかできなかったもう一つの存在は、リョウの症状に思い当たる節があった。

 同じような経験に至り、それを乗り越えた涼には……


 それは長年に渡り、リョウが漆黒の闇で、染め上げ、塗りつぶし、覆い隠してきた心的外傷。

 いったい何が引き金となったのか涼にはわからないが、リョウの心は今、取り戻そうとせめぎ合っているのだ。

 今の自分と、過去にあった自分との差異を。

 そして頭の中では、思い出そうとしている。

 思い描けなかった今が、思い描いていた過去を。

 もう永遠に晴れることはないと思われていた黒い少年の心が今、晴らされようとしていた。


「あぁああっ! ち、違う……俺じゃない……あいつら、が……だから、俺は…………ボクハ────がああああっ!!」

 痛みは一向に治まることを知らない。

 リョウは、ただ耐え忍ぶ。

 歯を噛みしめ、どんなに見苦しくのた打ち回りながらも、その痛みに飲み込まれぬように。


 傷ついた体のみならず、心までもがその限界へと近づいていく。

 もはや今のリョウには、自我を全うするだけの力しか残っておらず、場を支配していた狂気は、見る影もなく消え失せていた。

 その中で狂気に覆われ、埋もれていた一つの憎悪が顔を覗かせる。

 窮鼠猫を噛む。

 腰を抜かし、涙を滲ませるほどに恐れ、絶望に沈みかけていた金髪の男の目に小癪な悪魔が再び宿った。

 むごたらしい死を直感させられるほどに追い詰められていた男だったが、リョウの不可解な状況を天からの授けものと見て、醜悪に顔を歪ませる。

 畏怖は憎悪に、憎悪は殺意に変わり、男の体を迷うことなく動かした────


 変わろうとする自分とそれを拒む自分。

 二つの意識のせめぎ合いに苦悶する中で、狂ったネズミのように襲い来る男を視認したリョウは、反射的に茜を押しのけた。

 結果的にそれが茜を庇うことになったのは、本人の意図したことではない。

 男は悪人も真っ青の面構えで、ひとえにリョウを殺すまいと殴りかかる。

 しかし満身創痍のリョウには、それに対抗するだけの力も余裕も、残ってはいなかった。

 津波のように襲いくる痛みに意識を保つだけで精いっぱいだ。

 狂気の支配から解放されたばかりの恭太郎も美咲も、とっさの出来事にリョウを男から守ることが間に合わなかった。


「死ねやぁぁぁあっ!!」

 男が拳を大きく振りぬき、少年の顔が弾けた。

「はは……はっはっは!! どうだ、見たか!? てめぇなんて俺にかかりゃ! へへへ、ひゃはっはっはっはぁっ────!!」

 男は悪魔に取りつかれたようい狂乱し、何度も何度も少年をその手で殴り続ける。

 少年もされるがままの状態だ。

「オラッ、死ね、死ね、死ねぇえ!! ひゃははははっ!」

 しかし男は、直後に地獄の底に叩き落される──


「…………ねよ……」


 ──その手で触れてしまった逆鱗によって。


「お前が────死ねよっ!!」


 殴られていることもお構いなしに、少年はありったけの激情を乗せて、渾身の拳を男へと返した。

(っ……お前……)

 その有様をリョウはいつの間にか、居慣れた己の内の世界から見ていた。

 苦痛に苛まれていたリョウには気づく由もなかったが、男が殴りかかる直前で、涼はリョウを内に避難させていたのだ。

 ともすれば、いま表に出ているのは涼の人格となるわけだが、少年の纏う雰囲気はリョウをもってしても推し量ることのできぬ、異様なものだった。

 怒り、憎しみ、悲しみ……あらゆる負の感情が複雑にブレンドされたそれは、文化祭での暴走を髣髴とさせる。

 しかし涼は、あのときのように怒りに我を忘れてなどいないかった。

 リョウが理想としていたように、自分の感情をコントロールし、そのうえで男に激情を吐き出したのだ。

 茫然自失と男は殴り飛ばされたまま座りこける。

 そしてゆっくりと、少年の立ち姿を足元から見上げていった────




「わ、わわ、悪かった! 今のはただ間がさしただけで……お、俺はもう、お前らに危害を加えるつもりなんてない!」

 男は僕の顔を見上げるなり、必死な形相でそう弁解を繰り返した。

「だから、こ、これ以上はもう殴らないでくれ……警察にだって自首する! なんなら、怪我を負わせた奴ら全員に詫びたっていいっ!」

「……………………」

 どうやら、やっと彼は、自分の非を認めてくれたようだ。

 そうやって自分の犯した罪を認め、償い、更生してくれたら、それはどんなにいいことだろう。

 ……あれ、でもおかしいな?

 これが僕の望んていた結末のはずなのに、全然、嬉しく思えない。

 ……ああ、そうか────僕はすぐに理解した。

「ごめんね──」

 だから、彼にそう謝った。


 やっぱり僕は最低な人間だった。

 それが、とってもいけないことなんだっていうのをわかっているのに……

 それが、生産性のない行いで、僕の身勝手な感情であるってわかっているのに……

 僕は今からそれを行おうとしている。

 彼は、自分の過ちを認めてくれた。

 彼は、みんなに謝罪をすると言ってくれている。

 でも、いくら彼が自分の過ちを認めたとしても、いくら彼が迷惑をかけたみんなに謝罪したとしても……


 それでも────それでも僕は許せない。




「──僕は、お前を許さない──」

 男は身を震わせながら見上げていた。

 慈愛とは程遠く、鬼面にも勝る面構えで、憤怒を携えながら男を見下げる涼の顔を。

 涼は尻をついてへたり込む男の前でしゃがんだ。

 左手で男の肩を掴み、狙いが逸れないように、指が男の肉に食い込むほどの力でもって押さえつける。

右手を固く結び、拳に有り余る力を込めて、頭の横へと構えた。

 男の顔が蒼白に変わり、みるみる生気が果てていく。

「あ、あああぁぁっ! た、頼む、許し──」

「──黙れ。お前に許しを請う資格なんてもうないんだ! お前は……お前たちは絶対にやっちゃいけないことをやった。そんなお前たちが、僕は許せないっ!!」


 一発。

 糾弾と共に振り下ろされた拳が、男の頬を穿つ。

 無慈悲なまでに振り下ろされる一撃に男の顔が大きく跳ねた。

「僕たちはただ、平穏に暮らしていたかっただけなんだ」

 二発。

 涼は再び振り上げた拳を穿つ。

 その気迫を前にし縮み上がる男に、抵抗するだけの気力は振り絞れない。

「それをお前たちが壊した!」

 三発。

「卑怯な手を使って、僕の大切な人まで危険にさらして」

 四発。

「でも茜は、それを一度許した。なのにお前は今、その優しさまで利用し、汚したんだ!」

 五発。

「あのときとは違う。僕は何もかもが憎いんじゃない」

 六発。

「人の心を踏みにじって、遊んで、喜んで──」

 七発。

「──ふざけるなっ! 自首したからなんだ? 謝ったからなんだ!?」


 何度殴り、糾弾しようとも、涼はただ一方的な虚しさを感じるだけだった。

 得られるものなんて何一つない。

 むしろ、また失いそうにすらなる。

 それでも、自分がけじめをつけさせなければならないという自責の念に駆られていた。

 法ではなく、国でもなく、個人として、自分が彼らに罰を与えなければいけないと。

 もう二度とこのような悲しい事件を起こさせないために。


「返せよっ、戻せよっ! みんなの日常を、僕たちの思い出を! そんなこともできないくせに、責任もとれないくせに────僕たちの邪魔をするなぁぁぁ!!」


 男は、もう意識の朦朧としたグロッキー状態だった。

 これ以上の攻撃は本当に男の命さえ奪いかねない。

 だが、涼はその手を止めようとはしない。

 無情にも振り上げ、無慈悲にも振り下ろされようとした拳。

 しかし涼の意思に反して、拳は振り上げられたまま動かない。


「……どうして……止めるの?」

 涼は問う、意識の中から涼の腕を掴み止めていたもう一人の自分に。

 リョウは答えた。

(それは、お前の役目じゃない)

「なんで……?」

 再度の問いに、リョウは鼻を鳴らして呆れるように言った。

(そいつをぶん殴って、少しは気分がすっきりしたかよ?)

 返された問いに、涼はうつむいたまま首だけを横に振った。

(だろうな。だが、お前はそれでいい。いくら頑張ったってお前は俺のようにはなれねぇし、そんな姿も似合わねぇ。それに、また壊れたお前を直すなんて作業は勘弁だからな。だから、ここから先は俺の役目だ──)

 そう言って涼をなだめ、納得させたリョウは、二人の合意のもとに表と裏の人格を交代した。


「はっ、少しは男前になったじゃねぇか」

 涼に殴られ続け、腫れ上がった男の顔を見てリョウは開口一番に嘲笑するが、その顔の緩みはすぐに冷めた面持ちへと変わった。

 虚空を眺める男の髪を掴み、無理矢理、自分に顔を向けさせる。

「俺の目を見ろ」

 有無を言わさぬ口調で命令すると、虚ろだった男の瞳にリョウの顔が映りこんだ。

「アイツに感謝するんだな。もしアイツがお前をブッ飛ばしてなかったら、貴様は今頃、死んでいた」

 纏わりつくように濃厚でありながら、囁きかけるような声だった。

 その声は、どんな爆音よりも耳の奥に響き、どんな轟きよりも印象に残る。

「──ただし、次はない」

 まるで、記憶の奥底に禍々しく刻み込まれるかのよう。

「もし仮に貴様らの誰かが、この俺の目に、耳に、学校に、街に、世界に、入り込むようなことがあってみろ。そのときは、もう遊びも加減もしない。その瞬間に貴様らを一人残らず────殺す」


 意識が朦朧とするなか、強制的に意識を繋ぎ止められていた男の視界には、目の前にいるリョウの姿でさえ、霞のようにぼやけていた。

 だが、いくら視界がぼやけても、しっかりと輪郭を残した瞳の奥の漆黒だけが、男を捉えて離さない。

 そして男は理解させられた。

 自分は命を拾った代わりに、自由を失ったのだと。

 男はこの先も永遠にこの眼に監視されて生きていくのだと。


「これは脅しでもなんでもない。そのあとに俺がどうなろうが、確実に貴様らの命を絶つ。このことを貴様の仲間ども全員に伝えておけ、わかったか?」

 リョウの確認に放心とした男は応えない。

「わかったのかって聞いてんだよ!? ゴミ虫がっ!」

 地団太を踏んだ子供さながら、リョウが拳を男の脚に叩きつけると、脚の骨は鉛筆のように脆く砕けた。

 衝撃に絶叫を上げた男は、呂律も回らず言葉にならない声を出して、壊れたロボットのように首を何度も縦に振る。

 リョウはその姿を見届け、一度だけうなずいた。


「それでいい。忘れるなよ、今のが忠告じゃなく警告だってことをな──」


 実質的な最終通告を終えると、リョウは立ち上がり、踵を返す。

 重傷にまでは至らしめたものの、少年は誰一人として、その命を奪うことをしなかった。

 しかし結果としてその選択が、皆の日常を再び取り戻させるための近道となることを少年はよく知っていた。

 真の恐怖とは、肉体ではなく本能に刻まれる痛み。

 その治癒には計り知れない覚悟と勇気が必要となる。

 そして恐怖で縛りつけ、抑圧し、圧制することが、ときには平和を維持するためのとんでもない抑止力となることを。


 かくして十三人の暴行犯たちは、たった一人の少年”たち”に壊滅させられたのだった。

 自分の役目を終え、リョウはこの場を後にしようとする。

 体はボロボロ、呼吸は荒く、歩くことでさえ億劫なのか足取りも重い。

 肌は血の気が失せて青白く、制服は数々の戦いの悲惨さを物語るように赤黒いシミに汚れきっている。

 冬夜の寒気に見舞われた空の下を歩く少年は、とても勝利者の姿には見えなかった。


 心配になり、リョウを呼び止めようとした恭太郎を美咲が手で制止する。

「…………」

 不満そうな目をする恭太郎に美咲はかぶりを振った。

「ここまできたのなら、あとは好きにさせてあげましょう」

「……大丈夫なのかよ?」

「大丈夫ですよ。彼らが今後、神谷君に関わることはないでしょうし」

「いや、それもあるけど、俺が大丈夫かって聞いたのはさ……」

「菅君が言わんとしていることはわかります。けど、私たちの出番はとっくに終わっているんです。あとは黙って、”二人”を見守りましょう」

「……俺って、今回あまり役に立ってない気がするんだけど……」

「まあまあ、そういうときもありますよ」

 肩を落とす恭太郎の背中を美咲はポンポンと優しく叩いた。


 どうやら消耗はリョウの予想以上に激しいようだった。

 屋上から出る扉までの距離すら、まだ遠く感じてしまう。

 しかしそれでも、リョウは一人で歩き続ける。

 誰にも頼ろうとはしない、誰かに頼ることを知らない、誰も頼れる人間がいない。

 居場所なんてどこにもない、仲間なんてどこにもいない────少年は自分が一人ぼっちであるのだと信じて疑わない。


 ふと目指す扉との間に、茜が待ち構えていることにリョウは気づいた。

 気づいたが、それだけだった。

 見えていないかのように無言で茜の横を通り過ぎる。

 けれども、どうしてか……

「待って」

 背中越しの声に足を止めてしまった。

 だからなのかリョウは、待ち続けた。

 気まずい沈黙の中で、茜が次に言葉を発するのを振り返ることもせず。


「あんた……明日の終業式にはちゃんと出席するんでしょうね……?」

 脈絡もなく、意味もわからぬ問いに少年は淡々と答えた。

「さあな、ただお前とこうして話すのはこれで最後だ。お互いにせいせいするだろ? お前らが返してほしがってた『神谷 涼』君もちゃんと返してやるさ──ッ」

 頭の中がズキズキと痛む。

 胸の奥がギリギリと軋む。

 リョウの中で、また痛みがぶり返してきた。

 でも、もうそんなことすらどうでもよかった。


 明日が『賭け』の期限。

 勝利は確実だ。

 煩わしかった時間もやっと終わる。

 求めた安息の時が訪れる。

 リョウという個の存在は、世間から切り離され、人格という概念だけが残るが、あとは思い描いた理想の『神谷 涼』が人生をまっとうするだろう。

 『神谷 涼』がいる限り、誰もリョウという個がいたことを思い出せない、いなくなっても気づけない。

 自分がいなくなっても、世界は、日常は、なに狂うことなくまわり続ける────と、ずっと少年は勘違いをしていた。


「……待ってるから」


「……?」

 何を待つ?

 誰を待つ?

 こいつは今から何を言おうとしている?


「なんのことかわからないかもしれない、なんで言うのかもわからないかもしれない……」

 ふと、リョウの中である疑惑が生まれた。

「けど、私はあなたにちゃんと伝えなきゃいけないことがある。伝えて、謝らなきゃいけないことがあるの……」

「…………っ」

 まさか、こいつは────疑惑を確信に変えるかのような、急激に強まった痛みに額を押さえてうめく。

「私は、”あのとき”からずっと──」

「ッ!? 黙れ、やめろっ……もうこれ以上、思い出させるな……俺の中に触れようとするなっ!」

 リョウは恐れ、うろたえた。

 ゴールを目前にして、長年をかけた自身の計画が無に帰すことに。

 そして過去の自分と向き合うことを。


 意を決して茜は振り返り、伝える。

 自分の罪を、ため込んできた思いの丈を、そのすべてを言葉に乗せて。


「──私はずっと、涼が帰ってくるのを待ってるからっ!!」

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