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君がいて、僕がいる (前)

「────お前たちをこのまま野放しにしておくわけにはいかない!!」


 叫ぶと同時に、僕は踵を返して駆け出した。

 部屋からの脱出を試みるために扉のない出入り口を塞ぐ男に向かって一直線に走る。

「逃がすなよ」

 背後から銀髪の男の指示が飛んだ。

 出入り口前の男は組んでいた腕を解き、向かう僕をいつでも捕らえられるように構えた。

 それでも、僕は速度を落とさない。


 重要な行動を起こす際は、最悪の事態も想定しておくべきだ。

 たとえ些細な事でも、事前の準備一つで、その後の状況は変えられる。

 念のためにと、あらかじめポケットに忍ばせておいた砂を握り、男の顔に向かって投げつけた。

「なっ! くそ……目が……」

 申し訳程度の目くらまし。

 だが、相手の虚を突ければ、それは大きな武器となる。

 走る速度そのままに無防備になった男へ体をぶつけた。

 ドンッ、という衝撃音と共に僕たちは勢いよく廊下へと転げ出る。

 即座に立ちあがると、僕は再び廊下を駆けだした。


 これで部屋からの脱出は、とりあえず成功だ。

 次は、彼らの目から逃れる。

 そのうえで外まで出られれば、僕の勝ち。

 警察にこの場所も含めて、彼らの事をすべて話せば、それで終わりだ。

 平和な日常が、また戻ってくる。


 先ほど上ってきた階段を素通りし、僕はさらにその奥へと走った。

 僕の記憶が確かなら、この程度の規模の建物には法律上、地上につながる直通階段が二か所は必要なはず。

 さっき僕が連れていかれた部屋は、この建物の端の方だった。

 とすれば、この建物の設計者がよほど捻くれていない限り、位置的に考えて反対側にも同じように階段があるはずだ。

 スタートダッシュを切ったとはいえ、僕の足ではすぐに彼らに追いつかれてしまうだろう。

 たとえ一階にたどり着いて、外へ出たとしても彼らはバイクを持っている。

 馬鹿正直に逃げていては、彼らを振り切ることは絶望的だ。

 だから一度、彼らをかく乱して身を隠す。

 あとは一階の窓からでも脱出できれば、理想的だ。


 僕の予想どおり、走る先に二つ目の階段が見えてきた。

 けれども、今度は予想外の出来事に足を止めることになる。

「もしもーし。あんたの予想どおり、標的はこっちに来たぜ。……はいはい、すぐに連れていきやすよ」

 進行方向からぶらりと現れた男は、仲間と携帯で連絡を取りながら、僕の前に立ちはだかった。

 用意周到と相手を褒めるべきなのか。

 予定外のことも想定して、部屋の外にもしっかりと人員を配置しておくなんて。

 ……迂闊だった。

 勝手にあの部屋に集まって人数で全員だと思い込んでいた僕のミスだ。

 しかも致命的に近い……


 もし山の中で熊に出会ってしまったら、こんな気持ちなのだろうか?

 とにかく、どうにかしてこの場を逃れるしかない。

 時間をかける余裕はないが、捕まらない事を最優先として、男と距離をとるために僕はゆっくりと後退した。

 と、何かにぶつかり、僕の後退が阻まれる。

 通路のど真ん中に壁なんてあるはずがない。

 なら、僕は何にぶつかった?

 緊張に高鳴る鼓動を抑え、後ろを振り返る。


「へっ。残念だが、こっちも行き止まりだぜ、小僧」

 僕の背後には、いつの間にか追いついたフードの男が立っていた。

 最悪だ。

 まさしく前門の虎、後門の狼と言ったところか。

「あれ、お前も来たの? こんなガキ一人くらい俺だけで十分っしょ」

「まあ、そう言うな。それより気をつけろよ、小癪にも砂を隠し持ってやがるからな」

 小細工はネタが割れてしまえば、その効力を失う。

 逆のポケットには掌大の石も拾っておいたが、ただ投げつけるだけでは、大した役には立たないだろう。


「いちいち言わなくても、くらわねぇよそんなもん」

 完全な挟み撃ちのこの形。

 前に進もうが、後ろに退がろうが、どちらかと少なからず交戦することになってしまう。

 しかし舐められているのか、二人がかりで僕を捕らえに来る様子は今のところはない。

 チャンスがあるとすれば油断している今だ。


「どうするんだ、小僧。まだ鬼ごっこを続けるのか、それともこのあいだみたく俺たちとやりあうのか? タイマンなら望むところだぜ」

 彼はどうにも、このあいだから君と戦いたくてうずうずしているようだ。

 たしかに『君』の力があれば、この状況すらも簡単に覆せてしまうのかもしれない。

「…………」

 でも、その期待に添えるわけにはいかない

 その方法を取るわけにはいかないんだ。

 ここは、僕だけの力で乗り切る。


 前か後ろか、選ぶべき道はとっくに決まっている。

 当然、”前”に進む。

 作戦を改め、僕は勢いよく地面を蹴りだした。

 情けないことだが、今の僕にできるのは小細工を弄して、隙を作らせることだけ。

「あ、結局こっちに向かってくんのな」

 男は、いかにも気だるそうな態度で突っこむ僕を迎え撃とうとする。

 見下すのなら、好きなだけ見下せばいい。

 その分、僕が有利になるだけだ。


 男との距離が縮まったところで、左手に握り込んだ砂を顔に投げつけた。

 首を横に動かし男は砂を躱す。

 このくらいは難なくやってくるだろう。

 すでに僕の右手には、第二射が装填されている。

 今度は、砂ではなく石を投げつけた。


 小さな舌打ちと共に男は投石を腕で弾く。

 しかし石に驚いた拍子か、体制はやや崩れぎみ。

 そして次が、僕の本当の狙い。

 投げる物は、もうない。

 でも、この至近距離、このスピードなら────僕の攻撃も通るはず!

 ギュッと右手を握り締め、男に向かって拳を放った。


「──えっ?」

 拳はむなしくも空を切る。

 それに気づいたころには、僕の体は宙は舞っていた。

 何をされた?

 突然の出来事に理解も思考も追いつかない。

 受け身を取ることもできずに僕の体は固い床の上へと叩きつけられる。

 がはっ、と僕は痛みに声を上げた。

「……あ……あ、あ……」

 背中を強打した影響か、うまく呼吸ができない。

 叩きつけられた痛みよりも、呼吸困難の苦しみに僕はすぐに立ち上がることができず、床の上でうめいていた。


「動きも遅い、受け身も取れない。本当にコイツ一人で二十人もやったのかよ? どう見てもただの子リスちゃんだぜ」

「……おいおい、いつまでふざけてるんだ。早くあのときのお前を見せてくれよ」

 意識が朦朧とする中、僕はフードの男に服を掴まれ、強制的に立たされる。

 受け答えのハッキリしない僕の頬に気つけ代わりの平手を二、三発与える。

「これ以上、俺をガッカリさせんな」

 掴まれていた服を離され、後ろによろめく僕に、

「頼むから、本気を見せてくれよ!」

 石のように固い拳をぶつけられた。

 どうにか倒れることは防いだが、

「おい、聞いてんのかよっ!?」

 続く前蹴りをまともに受けた結果、僕の体はあまりにもあっけなく崩れ落ちた────




 床にうずくまる涼の姿を見て、男は失望したようにため息をついた。

「……もういい、さっさとコイツを連れていくぞ」

 フードの男は振り向き、後ろにいた男にそう声をかける。

 そしてもう一度前を向いたとき、男の目に映ったのはおぼつかない足取りで立ち上がる涼の姿だった。

 まだダメージが回復しないのか、足が小鹿のようにガクガクと震えている。

「お前がその程度だってことは十分に理解できた。あのときの姿はきっと夢だったんだろうよ」

 すでに男の興味は涼から消えていた。

 あとは指示されたとおりに涼を連れ戻すだけ。

 そのために男は、あまりにも無防備に涼へと近づいた。


 男が異様な雰囲気を感じたのは、足を踏み出した直後。

 言い知れぬ奇妙な感覚に涼の手前で足を止めた。

 そして気づく。

 いつの間にか涼の足の震えが、止まっていたことに────


「──調子に乗るなよ。クソ野郎」


 怒気を孕んだ声。

 男の背筋に突き抜けるような恐ろしい戦慄が走った。

 それが目の前の少年が放つ殺気のせいだったと理解をするのに時間はいらず。

 危険が迫っている、という本能的なアラートに男は反射的に両腕で頭部を覆った。

「ぐっ……!?」

 直後、腕に受けた一撃、骨の奥まで響くような衝撃に男の巨体が後ろへ弾け飛ぶ。


 フードの男と入れ替わるように、瞬時にもう一人の男が蹴り上げた足を降ろすリョウの下へと走りだす。

 それを見て、迷うことなく男の迎撃を選択するリョウ。

 正面から突っ込んでくる男に合わせて、握りしめた拳を振りぬいた。

 読んでいた、とばかりにリョウの拳を躱した男は、先ほど涼を投げ飛ばしたのと同様にリョウの袖と襟を素早く掴み、背負い投げの体制に入る。

 今度は投げ飛ばすことはしない。

 すぐさま床に叩きつけ、リョウの無力化を目的とした。

 男がリョウを掴んでから投げるまでの動作は非常に滑らかであり、リョウに投げから抜ける隙を与えない。

 だがリョウは、足が浮く直前に自ら床を蹴り、勢いをつけることで、綺麗に一回転をして両足での着地を可能とさせた。

 掴んだ服を離すことも忘れ、不可解な出来事に投げた本人は何が起きたのかと僅かな困惑を見せた。

 致命的な一瞬の隙。

 リョウはそれを見逃さず、背後の男の胸部へと肘を打ち込んだ。

 続けて打ち込んだ水平の腕を振り上げ、顔面へ裏拳を叩きこむ。


「ぐあっ!!」

 声を上げて、仰け反る男。

 男の手から逃れ、自由になったリョウはすぐさま振り向き、仰け反った男の袖と襟を掴んだ。

 そしてお返しだ、とでも見せつけるように同様に男を背負い上げ、

「うぉらああ!」

 後頭部から地面へ男をたたき落とし、すかさず鞭のようにしなる蹴りを顔面に見舞った。

 血の赤を撒き散らしながらゴロゴロと転がる男の体は階段を転げ落ち、二人の前から消えていった。


 漠然と一連の光景を見ていたフードの男は、仲間の敗北を前にして小さく震えていた。

 恐怖からではなく、喜びから来る震え。

「は……ははは……あっはっはっはっはっは!!」

 額に手を当て嬉しそうに高笑いを上げだす。

 何がそんなに嬉しいのかと、雑音を発し続ける男にリョウは冷めた視線を向けた。

「ははは! 待ちかねたぜ、小僧。そうだ、俺が会いたかったのはお前だよ!」

 リョウと再び出会えたことに声を震わし、プレゼントをもらった子供のように男は歓喜する。

「はっ、いちいちうるせぇんだよ。今の俺は機嫌が悪いんだ。テメェもただで済むと思うな!」

 今のリョウにとって男の好意は不快でしかない。


「嬉しいことを言ってくれるねぇ。だが、そう簡単にいくと思うなよ」

 男は着ていたパーカーを脱ぎ捨て、黒いタンクトップ姿をさらけ出した。

 隠されていたフードの下は、毛髪の一本もないスキンヘッド。

 見るものを威圧するような鋭い目つきに焼けたような浅黒い肌をしていた。

 しかし何よりも目を奪われるであろうものは、その肉体だろう。

 服の上からでも隠しきれていなかった鍛え上げられ、隆起した筋肉。

 明らかに一般人の体つきとは一線を画していた。

 リョウは先ほど蹴り飛ばした男が転がっている階段の方にチラリと目線を向けた。

 実際に叩き、投げた肉体の強度が、今までの不良たちとは違うことにもとっくに気づいている。

 だからと言って、リョウのすることになんら変わりはないが。


 本気であることの表れか、男はファイティングポーズをとった。

 左足を前に出し、脇を締めた両拳を顔の高さまで上げる。

 右手は頬の横に左手は目先二十センチほどの位置に構える。

 対するリョウに構えはない。

 近づくことも拒まれる、ピリピリと張りつめた空気。

 三メートルほどの距離で、二人は対峙する。


 先に動いたのはリョウ。

 迷うことなく、飛び込むようにして男との間合いを詰めに走った。

 男の構えからどんな攻撃が繰り出されようがリョウにはどうでもよいこと。

 何が来ようが、見てからでも十分に対応できるだけの自信があったからだ。

「シッ!」

 狙い澄ましたような男の左拳がリョウの前進を妨げる。

 驚異の反応速度で間一髪ブレーキをかけ、拳を目前にしてリョウは止まった。


「…………」

 リョウの表情に滲み出ていたのは余裕ではなく驚きの感情。

 当たりはしなかったものの、止まらざるを得なかった一撃。

 拳のスピードに限れば、今までリョウが体験してきた中でも群を抜いていた。

「良い反応だ。これぐらいはやってもらわなきゃ張り合いがねぇ」

 聞こえているのかいないのか、リョウは忌々しげに眉を寄せる。

 表情には少し力が入っているようで、いつものような薄笑いも見られない。


「どうしたよ、今のでブルっちまったか?」

「ざけんな。テメェをどう料理しようか考えてんだよ」

 珍しく、リョウが無警戒に飛び込むことをためらった。

 二メートルにも満たないこの通路幅では、男の手が届かない範囲から回り込むというようなことはまず不可能。

 向かうなら正面。

 だが、男の構えには隙がない。

 構えとは即座に有効な対応が取れるよう理に適い作り上げられたもの。

 それこそ、男はリョウが動くのを待ち構えているかのようにも思える。


「そっちが来ないのなら、こっちから行くぜっ!」

 構えを崩さぬまま、男は目にも止まらぬ足運びで、リョウを射程圏内に収めた。

 大柄な体に似合わぬ男のスピードに意識を散らす暇はない。

 視界を覆ってしまうほど迫った男の左拳をリョウは紙一重で躱す。

 詰められた距離を取り戻すように後退気味に足を運ぶリョウに男はさらに追撃を加えた。

 男の高速の連打をリョウは躱すのがやっとという状況だが……


 刹那。

 リョウは後退する足を止め、逆に前へと踏み込んだ。

 何度も見せられた速さに目が慣れてきたのか、男の左を上手くかい潜り、きっちりと男の横っ面に拳を打ち込めるように位置をとった。

 絶好のポジション。

 今日初めて、リョウの口元が緩む。

 が、それもつかの間の出来事。

 リョウの位置からは男の横顔が見えるはずだが、男はすでにリョウと対面できるように体制を変えていた。

 攻撃態勢に入っているリョウよりも早く、男の左は打ち出される。

「ッ────!」

 瞬時に体をねじり、リョウは体を反らした。

 顔面に直撃するはずだった拳は、かすかにリョウの頬を掠るだけにとどまる。

 リョウはその勢いのまま、男とすれ違うように距離を取った。

 否、この場合は取らされた、と言う方が正しいだろう。


 思うように攻めに転じることができず、リョウは苛立ちを募らせる。

 おそらくは、初めての苦戦。

 しかも、相手はたったの一人。

 だが、このときリョウの頭の中にあったのは、どうして自分がこんな苦戦を強いられているのか、ではなく、どうすれば目の前の男を地に伏せられるのか、であった。

「いいよお前、最高だ。こんなに胸が躍るタイマンは久しぶりだぜ」

 逆に男は好機嫌。

 リョウの強さに感服し、賛辞を贈る。

「胸が躍るだと? はっ、すぐにそいつを絶望に変えてやるよ」

「その意気も結構。だがな最後に立ってるのは俺だ。悪いな小僧、この勝負勝たせてもらうぜっ!」

「上等だぁ!」


 二人は同時に飛び出した。

 勝利を勝ち取るためのいたってシンプルな戦い。

 正面からの殴り合いだ。

 小細工なしで、互いに激しい拳の応酬を繰り広げる。

 一メートルもない近距離で打ち合っているのにもかかわらず、どちらにも直撃が生まれない。

 が、次第に二人のあいだには、明確な差が出始めた。

 リョウの雑で大ぶりな攻撃をうまく防ぐ男に対し、リョウは男の鋭く速い拳の連打を捌ききれなくなっていた。

 180センチを超える男と170センチにも満たないリョウでは十センチ以上の身長差がある。

 その分、男の方が腕も長く、リーチの差は歴然。

 しかし、今までリョウが倒してきた相手は大抵の人間が自分より身長が高く、ナイフや木刀、バットで武装していることが多々あった。

 そんなリョウにとって、リーチの差など大したハンデにはなり得ない。

 懐にさえ潜り込んでしまえば、リーチのハンデは皆無。

 むしろ近づくほどに腕の長さが仇となる。

 そのことを十二分に理解している男は、左の牽制で上手く自分の距離を保っていた。


 リョウに煩わしさを与えている男の左は、いわゆる『ジャブ』と呼ばれるものだ。

 主に相手との距離を測り、牽制などにも使われる。

 速さに特化した攻撃手段であり、一撃の威力が低いのも特徴だが、男の剛腕から放たれるそれは、並のパンチ力の比ではなかった。

 直撃すればダメージは免れない。

 顔の横を通り過ぎるたびに、風を切る音がリョウの耳にも届いている。

 それだけならばリョウにとって大した障害ではない。

 リョウが何よりも厄介に感じていたのは、その連射性の高さだ。

 雑な体勢から放たれるリョウの拳とは違い、脇を締め、基本に忠実に放たれる男の拳。

 リョウが一撃を打つあいだに、男は最低でも三発は打ち込んでくる。

 一撃の威力と優れた連射性は、機関銃を彷彿とさせた。


「うざってぇ……なら────」

 短絡的なリョウの思考が導いた結論は飛んでくる左を掴み取ること。

 目障りならば、止めてしまえばいい。

 リョウの考えは間違いではない。

 それができれば、の話だが。


 ──パァン!

 掴む間もなく、弾けるような炸裂音と共にリョウの右手は弾かれた。

 男の左は連射が可能。

 つまりそれだけの瞬発力があるということ。

 その一撃にスピードと捻りが加わったソフトボール大の拳を掴み取る。

 その行為はあまりにも悪条件の重なった愚行だった。


 安易な行動のリスクは高くつき、同時に大きな隙を晒す結果を生んだ。

 この瞬間を待っていた。

 絶好の好機に男は右手に力を蓄える。

 渾身の力を込めた、利き腕による一撃。

 石を叩きつけるようなその一撃は、まともに顔面に当たれば、鼻の骨が折れる程度では済まされない。

「これで、終わりだ! 小僧ッ!!」

 回避はもう間に合わない。

 迫る男の渾身の一撃をリョウは……


「誰が、こんなところで終わるかよ!!」


 下から振り上げた拳を男の腕に当てることで、拳そのものの軌道を逸らさせた。

 己の敗北を信じないリョウだからこそ、奪い取ることのできた好機。

 ニヤリとリョウの顔が邪悪に歪む。

 体勢を立て直す暇なぞ与えない。

 繰り出されたリョウの渾身の左。

 躱すことは不可。

 防御も不能。

 命中は必須。

 リョウの拳は男の頬を捉え、その威力を表すかのように男の顔が大きく弾けた────


 違和感に気づいたのは、その直後だった。

 確実に拳は命中した。

 命中したはずなのに……

 軽い。

 まるで、いつもの手ごたえを感じない。

 相手の何かを砕いたような、重みのある手ごたえを……


「……ヤロウ」

 男が何をしたのかを察し、苦々しくつぶやく。

 血の一滴すらも飛び散ることなく、あまりにも大げさに回転した首。

 男はリョウの拳が当たった瞬間に、自分で首を捻り、リョウの拳の衝撃を受け流したのだ。

 ギリッとリョウが歯を鳴らす。

 思うことは多々あった、が今はそれどころではない。

 男からの反撃を避けるために一度距離を取らなければならない。


「痛ッ──!?」

 突如、リョウの頭の中に電流が流れたような激痛が走った。

 時間にして一秒にも満たない一瞬。

 勝利の女神にでも見放されたのか、その一瞬の凶事がリョウの動きを僅かながらも鈍らせた。


「が────は」

 強く握られた拳が、リョウの腹へと突き刺さる。

 体の奥底まで響く鈍痛にリョウの顔が歪んだ。

 腹の筋肉が収縮し、横隔膜が痙攣する。

 肺が酸素を求めて、呼吸を荒げさせるが上手く息を吸い込むことができない。

 足は鉛のように重く、かろうじて立っているのが精一杯。

 リョウは無意識のうちに腹を手で押さえ、痛みをこらえている。

 男の狙いは、そこにあった。

 ボディブローのもう一つの役割。

 腹に意識を集中させることで、顔への防御の意識を薄くさせる。

 リョウには、そんな男の狙いを見抜く余裕はない。


 痛い、痛い、痛い……

 何年ぶりかに味わった、直に体を殴られる痛みに思考を奪われる。

 脳裏に焼きつき、忘れることのできない過去を思い出し、沸々とリョウの中に怒りがわき上がった。


 男の右拳が、自分に迫っているのが見えた。

 腕は腹の痛みを押さえ、足はいまだ言うことを聞かず。

 意識だけが、はっきりとしていた。

 鮮明に痛みを感じるたびにリョウの生への渇望は強くなる。

 己の敗北、生命の危機に直面し、リョウの集中力は極限にまで研ぎ澄まされた。


 男の拳が頬に触れた瞬間、リョウの体は寸分の狂いもなく、これ以上ないタイミングで稼働した。

 拳がぶつかった衝撃に逆らうことなく首を捻り、衝撃をすべて受け流す。

 リョウは男にされたことをそれ以上の精度で模倣した。

 一度見ただけでできることなど到底不可能な高等技術。

 だがリョウは、この土壇場でそれをやり遂げた。

 リョウの生への執着が、男を上回ったのだ。

 しかして依然、リョウが不利である状況は変わらない。


「はぁ……はぁ……」

 男との間を置き、乱れた息を整える。

 ダメージの回復に努めるリョウに攻めかかることを忘れ、男はただ立ち尽くす。

 通常ならば、男の勝利で幕を閉じる瞬間は何度もあった。

 しかし、リョウはその瞬間をことごとく乗り越える。

 確実に勝利を確信していた今の一撃でさえ、己の力のみで乗り切った。

 男は、リョウの底知れぬ実力に尊敬の念すら抱いていた。


 ふぅ、と息をつくと男は腕を下ろす。

「相手の動きを見てから動けるその反射神経。俺との体格差をものともしない瞬発力。どっちも大したもんだ。この先、お前ほどの奴とは二度と巡り合えないかもしれねぇ。それだけに惜しいな」

「なに偉そうに上から目線で語ってんだ? マグレで一発入れた程度でいい気になってるんじゃねぇ!」

「結果は見えてる。お前がどう足掻こうが、勝つのはこの俺だ」

 男の言葉はおごりから来るものではなかった。

 数分足らずの時間だが、この廊下という狭い環境でリョウと実際に手合わせをして導き出した結論。

「その粗削りな戦い方を見てればよくわかる。お前がズブの素人だってことがな」


 こと運動能力に関して言えば、リョウが男に後れを取る余地はない。

 むしろそれに限ればリョウの方が上。

 だが、逆を言えば勝っているものがそれだけとも言える。

 リョウには、勝負の場において唯一と言っていいほどの大きな欠点があった。


 『経験』


 それがリョウに大きく欠けているもの。

 十年余りの時を”寝て”過ごしていたリョウは、自分自身で体験する経験値が周りの人間よりも遥かに低い。

 今までのリョウはその身体能力にものを言わせ、向かい来る不良たちを蹴散らしていたにすぎない。

 それが容易にできたのも、同じ素人という土俵の上で戦い、そのうえで喧嘩に必要なすべての面においてリョウが相手を上回っていたからこそ。

 しかし男は、リョウとの身体能力の差を埋めるだけの技術を持ち、経験も豊富に積んでいる。

 そのような巧みな相手との戦闘経験はリョウにはないに等しい。


「動きに無駄も多い。それじゃあ宝の持ち腐れだな。戦いってのは身体だけじゃない。ここも必要なんだよ」

 とんとん、と男は自分の頭を指でつつく。

 敵だから戦う、来たから迎え撃つ、やられたからやり返す。

 男が指摘するとおり、リョウの思考はとても動物的であり────子供のような考えだった。


「はっ、テメェの御託なんぞ関係ねぇ。生き残るのは俺の方だ」

 状況が悪かろうが、リョウは己の敗北を微塵も信じてなどいない。

 負ければそこですべてが終わる。

 まだ成すべきことがあるリョウにとって、それだけはさせるものかと、半ば意固地になって実現しうる未来を拒絶した。


「もし次があるのなら……いや、ありえないことを考えても無駄か」

 憐れむような目でリョウを一瞥すると、男は腕を上げ、再び構えた。

「残念だが、そろそろ時間だ。仕留めさせてもらうぜ」

 リョウもまた、男を仕留めるために体制を整える。

 万全の構えで待つ男に対し、リョウは恐れることなく無謀にも飛び込んだ。

 リョウの行動を予測し、男は拳を放つ。

 飛び込んできたリョウの勢いを利用したカウンター。

 拳の威力はさらに上がり、これが決まれば意識を刈り取られることは間違いない。


 不意にリョウの勢いが弱まった。

 男の狙いを読んでのことではない。

 まるでスイッチが切れたようにピタリと立ち止まったかと思うと、次の瞬間、男に背中を向けて走り出す。

 それはまさしく敵前逃亡だ。

 意図の読めない行動に、男は唖然とした表情で固まっていた。

「最後の悪あがきのつもりか……? 思ったより往生際が悪いじゃねぇか。だが、その先は行き止まりだぜぇ!」

 走り去る背中に向かって、男は叫ぶ。

 意図はわからぬが、所詮はただの時間稼ぎ。

 子供の児戯につき合う程度の気持ちで、男は緩慢な動作で歩を進めた。

 この先に待つ少年を生け捕るために────

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