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俺が俺であるために (前下)

 暗雲が晴れることのないまま放課後になる。

 リョウは皆の誘いを断り続け、明言どおり一人で家路についていた。

 だが、向かう先はいつもの寮ではない。

 かといって昨日のように寄り道をするわけでもない。

 リョウが向かっているのは、叔父と叔母の住む実家だった。

 というのも昨夜、リョウが美咲と別れ、寮へと帰宅した際、叔父から一本の電話が入っていたことを管理人に聞かされた。

 リョウがまだ帰宅していないと知った叔父が残した伝言。

『今週の休みは、都合がつくなら実家の方に帰ってきてほしい』

 とのことだった。

 当初はリョウも余計な面倒を増やしたくはないと帰るつもりはなかったが、涼に強要され、嫌々ながらに叔父たちの家に帰ることになったのだ。


 暖かな夕日の光をその背に受けながら、孤独に道を進む。

 街から離れた郊外なだけに人の通りも少ない道。

 それは、この夕方という時間帯のせいもあるのだろう。

 今頃の時間ならば、夫は会社の帰宅前、主婦は夕飯の支度を始め、子供もまだ遊びに出ている時間だ。

 住宅の並ぶ道だが、横を見れば、住宅と道路を仕切るための塀が道の先のまで伸びている。

 もし、今ここで何かが起こったとしても大声でも上げない限りは周りの住民にも気づかれにくい状況だ。


 たとえ、誰かに襲われたとしても……


 リョウの道行く先に人影が見えた。

 一人の大柄な男が、まるで何かを待っているかのように道路の真ん中でこちらを向いて立っている。

 その背後には、この住宅の風景には似つかわしくないような大型のバイク。

 おそらく男の乗ってきたものだと推測できる。

 男はパーカーのフードを深くかぶっており、鼻先から上を確認することができない。

 待ち人がなかなか来ずに暇を持て余しているのか、時折、口からフーセンガムを膨らませていた。


 妙な威圧感を放ちながら道路の真ん中に無気味にたたずむ男。

 そんな姿を見たら、関わりたくはないと道を引き返す者の方が多いかもしれない。

 しかしリョウは、何を気にすることもなく男のいる方へと歩を進めていった。

 そして、その横を通り過ぎようとしたとき、男の伸ばした腕によって、通せんぼでもするかのように道を遮られてしまう。


「……俺に何か用か?」

 不自然すぎるほどの静かな口調。

 180cmを超えるであろう男を見上げるように目線だけを移動させ、リョウは尋ねた。

「その制服を着てるってことは、お前もあの学校の生徒だろ?」

 男は、その体つきにたがわず、威圧感を覚えるほどの低い声だった。

「聞きたいことがある」

 拒否を許さぬ男の言葉にリョウは嬉しそうにそっと口元を綻ばせた────




 時間はリョウと男の対峙から少しばかり巻き戻る。

「しっかし、ほんとに涼の奴、一人で帰っちまったな」

 誰にというわけでもなく、愚痴るように恭太郎は文句を垂れた。

 学校が終わるとリョウは消えるように教室を出ていってしまったため、恭太郎は美咲や茜たちと帰路を共にしている。

 茜とは先ほど別れ、今は美咲と二人で、今日提供された新鮮な話題についての会話を交わしながら郊外の道を歩いてたところだ。


「仕方ありませんよ。それに何人で帰ったって、その噂の通り魔に遭うときは遭いますし」

「二人でいても襲われたんだもんな、結局は運しだいってことなのか」

 どんなに気を配っていても、事故に遭うときは事故に遭う。

 それもその人間の運命と言えばそれまでだが、運がなかった、と一言で片づけられるほど人の感情は乏しくはない。


「それでも用心に越したことはありませんけどね。今は犯人が早く捕まることを願いましょう」

 防ぎようのない自然災害は、通り過ぎるのを待つ。

 いつ出会うかわからない危険人物は、捕まるのを待つ。

 それだけが、ただの学生である二人にできることだった。


 ふと、二人は足元に小さな振動を感じる。

「? 地震か?」

「いえ、これは違いますね」

 聞こえてきたのは、この静かな住宅街にはふさわしくない爆音を轟かせているエンジン音。

 この地響きは、それが駆動する振動が地面を伝わってきていたのだ。

 気づけば、対面から大型のバイクが一台、近づいてきていた。

 二人の道を遮るようにバイクは止まり、赤いレザージャケットを着た運転手が降りる。

 身長と体格からして、おそらく男。

 顔は黒いフルフェイスのヘルメットを着けてたのでわからない。


 そして二人は男が無造作に取り出した木刀を見て、自分たちの置かれた状況をすぐに察した。

「……まさかこれって、俺たちかなりついてないんじゃないか……?」

「きっと、今日の運勢は最悪ですね」

「冗談じゃねー、引き返すぞ!」

「は、はい」

 本能のレベルで自分たちの身の危険を感じた二人は、来た道を走って引き返そうとする。

 しかし、二人の足は地面に縫いつけられるようにして止まった。

 すでに背後にも、おそらく仲間であろう別の男がゆらゆらとおぼつかない足取りで歩いてきており、二人は完全に退路を断たれてしまった。

 揺らついていた男は、黒いニット、黒いサングラス、黒いジャケット、黒い皮手袋、黒いズボン。

 僅かにのぞく、顔の白い肌以外がすべてが黒で覆われている。


 いきなり木刀なんて物騒なものを取り出す男、まるで自分の素顔を隠すような恰好に二人は同じものを連想していた。

 もちろん、今まで話題の中心にいたであろう噂の通り魔を……

 二人でいることも、複数人の可能性もある、という予想と一致する。

 赤と黒、二人の男に挟まれ、恭太郎たちは逃げ道を失った。

 

 問答無用で他人を傷つけるような奴がまともであるはずがない。

 そんな思いを抱きながら、二人はいつ襲いかかられるのかと、身体を強張らせた。

「おい、お前らに聞きてーことがある」

 若い男の声と乱暴な言葉づかい。

 足を止めた恭太郎たちに向かってメットの男が声を投げた。

 それに応じるように二人が後ろを振り返ったとき……


 カランッ……と二人の足元に何かが落ちる音がした。

「痛ッ……!?」

 間をおかずして、恭太郎は突如感じた痛みに顔を歪める。

 足に感じる違和感。

 涼しい……いや、冷たい……

 真冬の外でそんな寒さを感じるのはおかしいことではない。

 だが、風が吹いたわけでもないのにやけに片足だけがスースーするのはなぜなのか?

 恐る恐る、恭太郎は自分の足を確認した。

 それに釣られるように美咲も恭太郎の足元に目を向ける。


 そして二人は声を失った。

 まるでかまいたちにでも遭ったように、恭太郎の左足のズボンの外側の裾がパックリと文字どおり切れていた。

 その裾の切れ目からは、男のジャケットよりも赤く……この赤く照らされた中でも薄れることのない深紅の血液が流れでいる。

 信じられないとばかりに目を疑う二人のすぐ前には、恭太郎の足を切り通ったであろう一本のナイフが転がっている。

 その片側の刃を赤く汚して……

 これは刃の部分を押せば引っ込むなどという玩具などでないのは一目瞭然だ。

 淡い夕日を反射するほどの光沢がその切れ味をものがたっている。


「いきなり動くなよ。外れちゃったじゃねーか」

 ボソリとつぶやくようなセリフに二人の背筋に悪寒が走る。

 ナイフの飛んできた方向を考えれば、それを実行したのは他でもない。

 振り返る前まで二人と対面していた黒ずくめの男の仕業だ。

 今の声もちょうど背後から聞こえてきたので間違いはない。


 当たり所を違えれば、命にだって関わる。

 たとえ腱一本でも冗談では済まない。

 なのに男は悔しがる。

 軽い苛立ちを見せながら。

 それはさながら、射的で景品を外した子供のように……


 自分の足を切られた、という事実を目で確認し、頭で理解してしまった恭太郎の足には鋭い痛みがほとばしっていた。

 しかし切るには切られたが、恭太郎は偶然に助けられたことに感謝しなければならない。

 もし振り返るために足を動かしていなければ、ナイフは確実に恭太郎の足を貫いていた。

 今までも何度か危険なことに巻き込まれたことはあった。

 しかしこれほど容易く命の危機を感じたことはあっただろうか……

 まさかの生きるか死ぬかの瀬戸際に、額には冷や汗がにじみ、恐怖に体が震えた。


「おいっ、一人で勝手に先走ってんじゃねぇよ。やることやってからにしろや!」

 メットの男が黒ずくめの男を怒鳴りつける。

「一人くらい、いいじゃん。俺もう、体がうずいてうずいて我慢できねぇーんだ」

 こいつらは狂っていると、恭太郎たちにそう思わせるのに今の一言は十分すぎた。


「……ケッ、だからお前と組むのは嫌だったんだ。順番が逆になるが、まあいいだろ。ただし、そっちの女は俺がもらう。久しぶりの当たりだ。いろいろ楽しませてもらうぜぇ、へへっ」

 狂気の混じる笑いを上げ、黒ずくめの男に同意の意思を示す。

 美咲へと顔を向けるメットの男の表情をうかがい知ることはできない。

 しかし、美咲は全身を舐められたような不快感に襲われ、一歩たじろいだ。


「……お、お前らの目的が何かは知らねーけど、津山には指一本触れさせないぞ」

 脅える美咲を庇うように恭太郎は前に出る。

 自分を奮い立たせ、二人の男を威嚇するように構えた。

 男たちからすれば、野良犬に吠えられた程度のモノだが、恭太郎の正義感は男の神経を逆なでするのには十分だった。


「粋がってんじゃねーよ、クソが! 雑魚は雑魚らしく地面でも舐めてろや!」

 頭に上った血が沸き立つと同時にメットの男は恭太郎に襲いかかる。

 片手で乱暴に振り上げられた木刀は、的確に恭太郎の脳天を狙っていた。

 

 避けるか……でも、どっち……右、左……?

 とっさの出来事に恭太郎の頭は混乱し、体が動揺で石のように硬直する。

 脳裏に頭を割られ倒れる自分の光景が浮かんだ瞬間、反射的に恭太郎の体は動きだしていた。

 手に持っていたカバンをとっさに前へと押し出す。

 掲げられるように上げられたカバンは盾となり、木刀の一撃を吸収した。

 どうにか尻餅をついただけで済んだものの、安心するのはまだ早い。

 すぐに二撃目の追撃が恭太郎に迫っていた。

 今度はしっかりと両手で持ち、カバンごと叩き伏せる勢いだ。


 だが、傍らの少女もいつまでも守られているだけの、お嬢様ではない。

 お転婆なやんちゃ娘は、えいっ、と手に持つカバンを投げ、見事に男の頭に直撃させた。

 気の逸れた男の追撃を恭太郎は間一髪で転がり避ける。

「うざってぇ! メガネの前にまずはお前から躾けてやるよ」

 メットの男は恭太郎から標的を移し、逃げ場のない美咲の肩を掴んだ。


「津山に気安く触るんじゃねーよ!!」

 恭太郎は怒りに声を上げ、自分の足を裂いたナイフを拾い、とっさに男のメットに目がけて放った。

 短く響く音を立てて、ナイフはメットに弾かれる。

 しかしその音は、僅かな時間だが男を怯ませることに成功した。

 驚きに美咲の肩を離した男に向かって、恭太郎は背後から自らの体を突進させる。

 押し倒されるように男は膝をつき、逆に地面にひれ伏した。


 背中はがら空き、まるで隙だらけな状態。

 今ならどんな一撃でも無条件で入るだろう。

 だが、恭太郎は追撃を加えるような真似をしなかった。

 美咲の腕を掴み、一目散にこの場から逃げるように走り出す。


 逃がすまいとする黒ずくめのナイフによる投擲。

 無我夢中に走る恭太郎はそれに気づかない。

 今日は運がないと嘆いていた恭太郎だったが、幸運はなくとも悪運だけはあった。

 往生際の悪いがむしゃらな走りが、恭太郎という的を大きくズラす。

 ナイフは恭太郎の髪を数本と、頬を僅かにかすめ、的を見失った。


 何が飛んできて、どうなったのかは気になるが、後ろは振り返らない。

 振り返る暇があるのなら、一歩でも足を踏み出す。

 今重要なのは、奴らを捕まえることでも倒すことでもない。

 傍らの少女を守り抜く。

 それが”男”菅恭太郎に課せられた使命だった。


 白い息を絶えず吐き出しながら二人は必死で走る。

 過去にこれほど早く走ったことがあるだろうかと言わんばかりの速度で景色が通り過ぎていく。

 痛みを訴える右足に鞭を打ち続ける。

 ここで止まれば、もっと痛い思いを味わうことになるのだ。

 体も心も……あの文化祭の時のように……

 また、大切な人間が血を流す。

 そんなことを容認できるほど、恭太郎も素直な性格ではない。


 今ならわかる。

 挑むだけが勇気ではない。

 時には逃げることも勇気なのだと。

 自分がいなければ、守れるものも守れないのだから……


 運命は常に分岐している。

 恭太郎のこの決死の行動も、数奇な運命を導く糧となっていた────

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