第六話 あと一歩が、届かない
八十万円。
翌日の昼、俺は携帯を机に置き、腕を組んでいた。
画面には、小田さんからの入金連絡。それから、
【入金 八〇〇、〇〇〇円】
銀行の通知が並んでいる。
下見の費用と立て替えた部品代は、別に精算してもらった。これは搬送装置を直した報酬だ。
昨日、あの荷台が動いたときには、ちゃんと仕事を終えた気になっていた。
だが、こうして数字を見ると、どういうわけか落ち着かない気分になってしまう。
「……」
画面を閉じ、少ししてから……もう一度開いた。
やはり、八十万円だった。
「……ふう」
俺は小さく嘆息した。銀行の表示が間違っていないか確かめても仕方ない。先にやることがある。
澪に教えてもらった口座へ八万円を振り込み、
『報酬、入りました。澪さんの分も送っています』
完了画面を送った──すぐに既読がついた。早い。
続けて、電話がかかってくる。
「……もしもし」
『確認しました。ありがとうございます!』
明るい声が耳に届き、俺は椅子へ座り直した。人と話すのが苦手なところは相変わらずだ。多少はマシになったが。
「こちらこそ。ありがとうございました」
『無事に終わりましたね。小田さんからも連絡ありましたよ。昨日は皆さん、定時で帰れたそうです』
「そうですか」
荷台の前で腰を押さえていた作業員を思い出した。あの人も、今日は少し楽になっているだろうか。
『律さんは、何か買いました?』
「まだです」
『欲しいもの、あるんじゃないですか?』
俺は携帯を耳から離し、昨夜見ていた商品ページを開いた。
写真に写っているのは、手のひらに載るほどのランタンだった。
銀色の枠に、青い硝子。持ち手の部分には、小さな翼のような飾りがついている。
【[追従灯]/動作不良】
【価格:三千円】
「これが、ちょっと気になってます」
通話へ戻り、澪にページを送った。
『ああ。浮いて、持ち主についてくるやつですね』
「はい。両手が空くので」
『便利ですよ。私の配信仲間も使ってます。……って、これ故障品じゃないですか』
「だから三千円なんでしょうね」
魔物が落とす道具の中には、こうした不思議な働きをするものがある。
普通に動く同じ品を探したら、六万円で売られていた。
六万円と三千円。
差額、五万七千円。
昨夜から、その数字が頭を離れない。
『直せそうなんですか?』
「写真だけじゃ分かりません。触ってみないと」
『直らなかったら?』
「三千円、損します」
口にすると、急に惜しくなってきた。
だが、ちゃんと浮くようになれば、暗い場所で作業灯を置く場所を探さずに済む。棚の裏を覗き込むたび、片手で明かりを持つ必要もなくなる。
「……便利だと思うんですよ。直れば」
『今、ちょっと声が楽しそうでした』
「そうですか?」
『道具の話になると、よく喋りますよね』
どういう返事をしたらいいのか分からなかった俺は、とりあえずもう一度商品写真へ目を戻した。
硝子には傷があるが、割れてはいない。明かりはつくものの、浮かなくなったらしい。
どこが壊れているんだろう。
底の蓋を外せば、中を見られるだろうか。
『律さん?』
「……聞いてます」
『今、絶対に写真を拡大してましたよね』
俺は画面に置いていた二本の指を離した。
何なんだ、この人は。
『買うなら、お店で見せてもらったらどうですか? それ、駅前の探索者用品店ですよ』
「現物、あるんですか」
『下のほうに書いてあります。店頭販売もしています、って』
言われるがままにページを下へスクロールする。
本当だ。営業時間は……うん。この後寄れそうだ。
営業時間まで確認したところで、澪が小さく笑った。
『帰りに、ちゃんとご飯も買ってくださいね』
「……はい」
俺は机の端にあった財布を手にとると、玄関ドアまで大股で足を運んだ。
*
同じ頃。
市街地から電車で四十分ほど離れた迷宮の地下で、爪が石壁を削った。
桐谷紗月は身を屈め、頭上を通り過ぎる前脚をかわした。
目の前にいるのは、大型の四足獣だった。灰色の鱗に覆われた胴体と、額から突き出した一本の角。背の高さだけで、紗月の胸ほどもある。
「……そろそろ倒れてくれない?」
魔物が牙を剥いた。
紗月は剣を構え直し、左手側に横たわる石柱へ目を走らせた。
「……ウウッッ!」
突進してきたところを、
「……! おっと!」
横へかわす。
相手は紗月を追って向きを変えようとした。その時、
「……ッ!?」
その前脚が、折れた石柱に引っかかる。
狙っていた隙だった。
紗月は踏み込み、剣の鍔にある突起を親指で押した。
柄に蓄えた魔力で刃を振動させ、硬い鱗を断ち切る。その機能を使えば、前脚の付け根から斬り込める……はずだった。
手首に返ってきたのは、硬いものに弾かれる衝撃。
「えっ?」
剣の根元に灯った青い光が、一瞬途切れた。
機構から遅れて振動が伝わってきたときには、すでに魔物がこちらへ首を向けていた。
「……っ!」
紗月は剣を引き、床へ転がった。
顔のすぐ横を爪が通る。
片膝をついて起き上がり、石柱の向こうへ逃れると、痺れた手で柄を握り直した。
押すのが浅かった?
確かめる暇もなく、灰色の頭が石柱を回り込んでくる。
紗月は壁際へ下がり、剣先で鼻先を牽制した。
「……ッ!」
魔物が苛立ったように角を下げる。
今度は、あの機構に頼らない。
突進を引きつけ、横へ跳ぶ。
背後で角が壁を打ち、石の破片が降ってきた。
魔物が首を振る。その拍子に、
「づああ!」
露わになった喉の下へ、紗月は両手で剣を突き上げた。
鱗のない箇所へ、刃が深く入る。
すぐに引き抜いて距離を取った。
魔物は二歩進み、前脚から崩れ落ちた。
紗月は構えたまま動きが止まるのを待ち、ようやく息を吐いた。
「……はあ。やっと」
額から汗が落ちた。
左の袖を払うと、肘が少し痛んだ。転がったときに打ったらしい。
そのとき、倒れた魔物の体が淡く光り始めた。
灰色の鱗が端から崩れ、細かな光になって消えていく。
最後に、石床へ硬いものが落ちた。
一つは、親指ほどの[魔石]。
もう一つは、小さな銀色の輪だった。
「……あれ?」
紗月は近づき、しゃがみ込んだ。
指輪だ。
表面の砂を払うと、内側に刻まれた三日月の模様が見えた。探索者用品店の硝子ケースで、同じものを見た覚えがある。
「[蓄魔の指輪]……?」
名前のとおり、魔力をためて持ち歩ける道具だった。
実は一度買おうとしたことがある。もっとも値札を見た瞬間──そっと棚に戻し、その日は店を出たのだが。
紗月は手袋を外し、指輪を右手の人差し指にはめた。
目を閉じて丹田のあたりに意識を集中させた。魔力を流すためだ。
右手の人差し指にはめられた指輪の三日月の模様に、薄い青色が灯った。
「……やった」
思わず頬が緩んだ。
武器に使う魔力を余分に持っていければ、その分だけ長く探索できる。予備があると思うだけでも、気持ちはだいぶ楽になる。
紗月は指輪を目の高さへ持ち上げた。手首を小さく返しながら様々な角度で眺めてみる。装飾品としても申し分ない美しさだ。
「売らない。これは私の」
誰もいない通路でそう宣言。うっかり取り忘れそうになったが、[魔石]もちゃんと拾い腰の袋へ入れた。
今日は、いい収穫があった。
しかし、
「……! つつっ……」
袖についた砂を払おうとして、また肘が痛んだ。
さっきの一撃が通っていれば、床を転がる必要はなかったはずだ。
紗月は水筒から二口飲み、端末を確かめた。
【桐谷 紗月/探索者ランクB】
見慣れた表示だった。
Bに上がった日は、何度も画面を開いては頬を緩めていた。帰りに寄った店で、一人であったにも関わらず大きなパフェを頼んだことも覚えている。
あの頃は、次もすぐだと思っていたのだが。
「……いつまでも、Bランクどまりは嫌なんだけどなあ」
指先で、画面のBをつついた。
もちろん、変わらない。
「そろそろAに上がりたいよ、私も」
通路の先は、さらに下の階へ続いていた。
予定では、その先へ進むつもりだった。
紗月は端末をしまい、剣を持ち上げた。
周りに魔物の気配がないことを確かめ、鍔の突起を押す。
青い光が走った。
今度は、押すと同時に振動が伝わってきた。
「……動くじゃん」
一度止めて、もう一度。
やはり、遅れはなかった。
さっきは自分の押し方が悪かったのだろうか。
紗月は通路の奥を見たあと、魔物が削った壁へ視線を戻した。
爪痕は、ちょうど顔の高さに残っていた。
「……今日は帰ろ」
納得はしていない。けれど、もう一度同じことが起きるかどうかを、魔物の前で試したくはなかった。
剣の汚れを拭い、刃を鞘へ収める。
鍔の近くには、使い込んで艶の出た金属の継ぎ目がある。外から眺めても、その内側は分からない。
「買い替えろ、って言われるかな……」
初めて自分の金で買った剣だった。柄の太さも、重さも、ようやく手に馴染んできたところなのだ。
紗月は右手の指輪を見た。
せっかく手に入れた戦利品。これを売って買い替えるというのは、できれば避けたい。
「……これは売らない」
今度は自分に言い聞かせ、手袋をはめ直した。
明日は、この剣を見てもらえるところを探そう。
鞘を腰へ留め直し、紗月は出口へ向かって歩き始めた。




